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カテゴリー: travel

  • 印鉄時刻表 2010年7月版

    今年もまた7月1日のダイヤ更新に合わせて、インド国鉄の時刻表TRAINS AT A GLANCEが版を改めた。数年前からは、インターネットでも公開されており、インド国鉄のウェブサイトからタイムテーブル番号ごとに閲覧・ダウンロードできる。

    内容は大きく変わらないとはいえ、多少前もって用意してもいいように思うが、ウェブ公開されたのは7月3日からであったり、通常ならばインド国鉄のヒンディー版サイトからヒンディー版の時刻表がダウンロードできるはずが、今回は英語版がそのまま掲載されていたり、毎度のことながらいくつかリンク切れがあり、アクセスできないタイムテーブル番号があったりする鷹揚さはインドらしいところだろうか。

    南アジアの他国とはネットワークや輸送量も比較にならないほど巨大な鉄道大国インドだが、サービスの電子化にも積極的な姿勢はありがたい。

    『印鉄』ファンならずとも、インド鉄道旅行の必須アイテムである。必要となりそうな部分だけでもプリントアウトして、旅行荷物に入れておいてはいかがだろうか。

  • タメルの憂鬱

    ネパールのカトマンズの旅行者ゾーン、タメルといえば同国を訪れる人たちの多くが一度は宿泊や買い物などで利用するエリア。

    Nepalopediaで、街中の様子を見ることができるが、かつてはのんびりした風情であったこの一角は、今や賑やかな繁華街となっている。

    そのNepalopediaのウェブサイト左上部で、英語・日本語・中国語に切り替えることができるようになっているのを見てもわかるとおり、近年は中国からの観光客が急増している。漢字の看板を掲げた中国人専門のようになっている宿、彼らが多く利用する中国人経営のレストランなども見かけられるなど、客層にも大きな変化が生じているようだ。 (さらに…)

  • ボーヂョー・アウンサン博物館

    ボーヂョー・アウンサン博物館は閉鎖中

    ヤンゴンでボーヂョー・アウンサン博物館に行ってみた。ダウンタウンの北側のカンドーヂー湖の北側にある。

    建国の父アウンサン将軍が1947年に暗殺される前に居宅としていた屋敷という歴史的な価値からヤンゴン市の文化遺産に登録されている。

    父親が亡くなったとき、まだ2歳だったアウンサンスーチーさんは、幼少時をしばらくここで過ごしている。

    2009年に訪れたときには閉まっており、改装工事でもしているのかと思ったが、残念ながら今回もそうであった。付近の住民に尋ねてみると「なんだかずっと閉まってますねぇ」とのことであまり多くを語らないが、どうやら政治的な理由であるらしい。

    政権にとって長年の懸案となっているスーチーさんの存在があるため、彼女の父親ゆかりの場所というのは、国内政治的に憂いをはらむものなのだろう。

    そういえば昔のミャンマーの紙幣にはアウンサン将軍の肖像画があしらわれていたものだが現在はまったく見当たらなくなっている。 (さらに…)

  • 中国の裏庭

    以下、土曜日にヤンゴンの国際空港から出発する便である。

    航空会社 目的地 便数
    エア・アジア バンコク 1便
    バンコク・エアウェイズ バンコク 2便
    タイ国際航空 バンコク 2便
    ミャンマー国際航空 クアラルンプル 1便
    ミャンマー国際航空&マレーシア航空共同運航 クアラルンプル 1便
    ミャンマー航空&ジェットスター共同運航 シンガポール 1便
    シルク・エア シンガポール 2便
    ベトナム航空 ハノイ 1便
    中国東方航空 昆明 1便
    中国南方航空 広州 1便
    中国国際航空 昆明経由北京 1便

    曜日によってはエア・インディア(コールカーターから週2便)が就航していたり、中国東方航空(昆明から週4便)といった具合にバラつきはあるものの、日々の就航状況はだいたいこのくらいと考えてよいだろう。

    特徴的なこととしては、同国が後発発展途上国であることに加えて、先進国等による経済制裁、周辺国からのフライトしかないとことである。

    そうした中でも中国からは3社が乗り入れており、中国の3都市と結んでいることが注目される。中国東方航空はマンダレー空港と昆明間にも週5便就航させている。

    特に中国の休暇シーズンともなると多数の観光客を乗せてやってくるようだが、年間を通じて商用で訪れる中国人たちが多い。とりわけ資源開発等の関係で中国系企業が多数進出しており、経済制裁下にあってもマーケットに多数溢れる家電製品の多くは、近年品質向上著しい中国製品である。

    幾多の経済開発援助プロジェクトも中国の手により実施され、国営メディアが流す国際ニュースの大部分は新華社通信からの配信を受けたものである。

    先進諸国が経済制裁を課して孤立を深めたミャンマーに対して、ちょっと距離を置いて中立的な立場にあるのがアセアン諸国ならば、ここぞチャンスとばかりに積極的に進出を続けてきたのが中国。

    いまや中国という強力な後ろ盾を得て、近年順調な経済成長を推し進める現在の支配システムが、年内に予定されている『総選挙』により国民の信任というお墨付きを得て継続することは間違いないだろう。

    『経済制裁』という、いわば思考停止した状態のまま、ミャンマーが『中国の裏庭化』してゆく現状を座視していてよいものかどうか疑問に思う。

  • スィッキム州が近くなる

    パキョン空港、聞きなれない名前だが、2011年に開港予定のスィッキム州初の旅客機が離着陸する空港となる。
    すでに西ベンガルのバグドグラーからスィッキム州都ガントクへのヘリコプターの定期便があり、その他スィッキム各地やカンチェンジュンガ峰方面などへの遊覧フライトはあるが、これまで地元等からの要望の高かった航空機の乗り入れがついに実現する。
    これまで鉄道ならば西ベンガル州のシリーグリー、飛行機ならばその隣町のバグドグラーまで行き、そこからミニバスや乗り合いジープなどでアクセスという具合であったスィッキム州だが、空港がオープンすることにより、直接州都に降り立つことができるようになる。
    おそらくマナーリー近郊のブンタール空港くらいの規模で、小型機のみが乗り入れることができることになるのだろう。それでもおそらくデリーからヒマーチャル・プラデーシュ州のマナーリー、シムラー、ダラムサラへの便を運行しているキングフィッシャー航空が、コールカーターからの便を飛ばすことになるのではないかと予想している。
    スィッキムはモンスーン季節には多雨の地域であるため、運行はあまりアテにならないことと思われるが、ハイシーズンにはかなりの需要が見込まれるはずだ。
    鉄道も2015年にはスィッキムに乗り入れる予定だ。西ベンガルからスィッキム州に入ったところの町ランポーが終着駅となる。そこから州都ガントクまではさらに40kmほどあるが、それでもインド国内の主要都市から州境まで直接アクセスできるとなれば、観光業促進のための大きな力となることだろう。
    工期は未定で、実現したところでいつの話になるかもわからないが、インド国鉄はランポーからガントクまで更に延伸する計画も描いている。
    スィッキム州がグンと近くなる。

  • やはりバーングラデーシュが旬

    いわゆる『NEXT11』のひとつに挙げられているバーングラーデーシュがやはり旬のようだ。こんな記事を見かけた。
    世界のアパレルが“バングラ詣で”ユニクロ進出で脱・中国加速 (産経ニュース)
    要は中国で頻発する労働者のストライキ、賃上げ圧力に加えて人民元の切り上げが、もはや「あるのかないのか?」ではなく「いつになるのか?」という差し迫ったところまできているため、これまで生産の拠点としてきた中国以外にどこか候補地を見つけなくてはならなくなったわけである。
    つまり中国での状況の変化という大きなファクターがあり、これに対応できる世界の工場としてのポテンシャルを秘めた国ということで注目されているのだ。
    まずは人口規模。人口1億6千万を数える世界第7位の大国(ちなみに第6位は1億8千万のパーキスターン、第8位は1億5千万のナイジェリア)である。労働力大国ともいえる同国だが、それに対する就業機会は少なく、賃金の水準も低いため毎年大勢が国外に流出する傾向がある。
    湾岸産油諸国はもとより、東南アジアとりわけマレーシアでは非合法な就労目的で渡ってきた移民の存在に当局は手を焼いている。もちろん国境を接するインドでは、デリーやムンバイーその他の主要都市に不法に住み着いているバーングラーデーシュ移民は多く、ときおり大がかりな摘発がなされていることがメディアで伝えられている。
    都市部のみならず、とりわけ国境を接するアッサムや西ベンガルなどでは農業に従事している人々も多いなど、経済的な理由における移民圧力がバーングラーデーシュでは高い。
    同国にとって、大量の海外移民は外貨獲得の貴重な手段であるいっぽう、多くの人々が国外に活路を求めざるを得ない状況は、社会の安定と発展、ひいては治安面における不安を引き起こすことから座視するわけにはいかず、従前から国外からの投資を歓迎する姿勢を見せていた。
    しかし不安定な政治、頻発するハルタール、労働力の質、隣国インドと比較しても格段に貧弱なインフラ、モンスーン期の洪水による操業の不安と交通の途絶などといった懸念等から中国やインドほどの注目を集めることはなかった。
    そのバーングラーデーシュ自体の情勢は変わらないのだが、先述のとおり近年中国の状況に変化が起きているため投資先のオプションとして浮上することになったようだ。当面はバーングラーデーシュで従前から盛んで実績もあるアパレル関係が大半のようで、中国のように「なんでもかんでも」というわけではない。
    そもそも同国自体が魅力を増したわけではなく、近年外国企業にとって中国における操業に不安や不満が出てきたがゆえ、代替地のオプションとして浮上してきたに過ぎない。
    だがバーングラーデーシュとしては、今後の大きな成長の手がかりとする好機が到来したといえる。国外から眺めてみても、世界の工場としての魅力はもとより、そう遠くない将来には人口2億に届く同国は大きな市場になり得る。
    所得水準、平均的な教育水準、インフラ事情等、どこを眺めても現状があまりに貧弱であるだけに成長が軌道に乗れば、その伸びしろも大きなものとなることは言うまでもない。
    バーングラーデーシュの首相オフィス直属の投資委員会が設置されており、同国政府の意気込みと投資呼び込みへの期待の大きさがうかがわれる。
    Board of Investment, Prime Minister’s Office (投資委員会)
    やはりバーングラーデーシュが旬のようだ。以前『バーングラーデーシュが旬』と題して、大手旅行代理店H.I.S.のダッカ進出について取り上げてみたが、こうした『ブーム』もその背景にあったのだろう。

  • マハーガンダーヨン僧院

    ミャンマーのマレダレー近郊、アマラプラのウー・ベイン橋を後にして、近くのマハーガンダーヨン僧院へ。かなり格の高い寺院のようで、修行する僧侶集団の数もとりわけ多いところとされているようだ。ここでは朝10時半過ぎから僧侶たちの食事が行われる。
    僧院敷地内の広々としたキッチンで食事の準備が完了したところだった。1,000人分というだけに大変な量である。調理する人たちは近くに住む人々でみんなボランティアであるとのこと。
    キッチン
    一度の食事で炊く米は400kgに及ぶという。非常に大きなジャーの中に大量の米飯。あまりに大量であるため、茹でこぼし法ではなく蒸し上げて炊くのである。しゃもじの代わりに園芸用の大きなシャベルを使っている。
    副菜を調理する鍋もこれまた巨大で、風呂桶くらいありそうだ。鶏肉の煮物、野菜の煮物、ちょっとした付け合せといったものが用意されている。どれもおいしそうだった。デザートにバナナが付く。
    大きな看板に今日の食事を寄付した人たちの名前が書かれているが、その脇では寄進者と思しき人物が合掌したまま、幹部クラスと思われる僧侶と話をしている。
    食事の時間を伝える鐘の音が鳴り響き、僧侶たちが列をなして集まってくる。あまりに大勢の僧侶たちがいるのに誰一人として私語はなく、一糸乱れぬ行列の続く中で『静謐』な空間という不思議な気がした。列を成すにも何か順番があるのかもしれない。
    行列する僧侶たち
    僧侶たちの行列に対して大きなお椀でひとりひとりにサービスする役目は観光客でもできるとのことで、タイから来たツアーグループの人たちがそうした世話を買って出ていた。僧侶たちは手にした托鉢用の鉢にご飯を入れてもらっている。洗面器くらいのサイズだけに相当な量になる。テーラワーダ仏教の僧侶たちは、午後になると食べ物を摂取することが許されないため、この時間帯までにその日の食事を済ませなくてはならない。
    食事が始まる
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    全員が席に着いてから、一斉に食事を始める。食事の際にも会話する者はなく、みな黙々と食べている。あっという間に食事が終わり、僧侶たちは立ち去っていく。まだ食べているのは幼い尼たちだけだ。多くの僧侶たちはバナナをそのまま持ち帰っている。僧坊でゆっくり食べるのだろうか。
    どこからか鉄道の汽笛が聞こえてくる。インド国鉄でおなじみのあの音が耳に心地よい。ミャンマーで使用されている機関車と車両はインド製なのである。

  • U Bein Bridge

    THE GLASS PALACE by Amitav Ghosh
    ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。
    U Bein's Bridge
    グーグルでの遠景

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    グーグルでの拡大図

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    下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。
    U Bein's Bridge
    河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。
    背後に東屋
    20100612-cow.jpg
    20100612-water.jpg
    だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
    ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。
    茹でたカニ
    サーモーサーと小エビのかきあげ
    橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
    近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。
    子供たち

  • ワガー国境

    夕方、ワガー国境が閉まる時刻、インド側では国境警備隊、パーキスターン側からはパーキスターン警備隊の見事なヒゲをたくわえた立派な体躯の巨漢たちが威風堂々たる行進と儀礼を行なう。
    互いへの敵意とも感じられる動きや表情とは裏腹に、国境を挟んだ双方の息の合った動きから両者の協調ぶりも感じられるのは興味深い。もちろんこのセレモニーで行進する双方の隊員たちの動作、時間、内容等は、インド・パーキスターン両当局の間で打ち合わせした上で実施される、いわば政治ショーである。
    印・パ分離前、アムリトサルとラーホールの間に位置するごく普通の農村であったワガーは東西に分かれて現在に至る。日々、インド側だけでも8,000人のもの人々が見物に訪れるという人気の観光スポットになっているこの国境。
    デリーを起点に、国道一号線はパーニーパト、クルクシェートラ、ルディヤーナー、ジャランダル、アムリトサル等を経てこの国境に至る。本来国道一号線の終点であったラーホールまではワガーから西へ20kmほど。
    東西に分かれたパンジャーブ地方が再びひとつになることもなければ、同じくふたつに分かれたワガー村がひとつになることも決してなく、今後もずっと両国の境目であることは変わらないだろう。
    しかしこの国境が対立する二国間関係を象徴し、互いに虚勢を張って大上段に構えた雰囲気から、いつの日か誰もが必要に応じて行き来する、単なる行政の区分にしか過ぎないものとなることを願わずにはいられない。仰々しいセレモニーもなく、ここを通過する人々あるいはここを職場とする人以外は訪れることもない、ごくごく普通の国境となる日を。

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  • ああドリアン

    ミャンマー産ドリアン
    フルーツというよりも熟練した生菓子の職人が丹精込めて鶏卵に生クリームを加えて、しっとりとした薄い外皮で包んで仕上げたかのよう。ドリアンという果物はなぜこれほどまでに人工的かつ動物性の味わいなのか?
    口の中に含むと広がるキャラメルソースのような香り。濃厚でしっとりとした陶酔感のある甘み。これほど上質で高級感のある食感の果物を他に知らない。
    だが当たりとハズレで旨さの差異も大きい。充分熟しているかどうかというだけでなく、たとえ完熟であってもちょっと水っぽかったり、逆にコテコテなのに香りも甘みもいまひとつで、レシチンを舐めているような期待外れの個体もある。
    それだけにいいモノに当たったときの幸福感といったらない。
    マレーシア産ドリアン
    ヤンゴンの街角で見かけたドリアン売り。種類の異なる地元ミャンマー産、マレーシア産、タイ産を並べていた。価格はミャンマー産から順に高くなっていくが、その分重量も同様に大きくなっていく。
    ちょっと立ち止まって店先で品定めする人たち。持ち帰って家族と楽しむ様子が目に浮かぶようだ。ゴツゴツとした姿のドリアンの数だけ、幸せな団欒のひとときがあるようでちょっと微笑ましい。
    南インドにも野生のドリアンが自生しているところはあるようだが、普通食用にはされないようで、人知れず朽ちていくのは残念。何かちょっとしたきっかけがあればブレークするのではないかと想像している。
    果肉のちょっとした『ガス臭さ』では、インドの街角で普遍的に見かけるジャックフルーツにも通じるところがあるだけに、彼らもドリアンを愛でる素養は充分持ち合わせていると思うのだが。
    タイ産ドリアン

  • 彼方のインド 5

    ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
    また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
    ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
    モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
    ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
    すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
    仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
    ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
    各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
    インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。

  • 彼方のインド 4

    ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
    町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
    そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。
    墓地入口
    自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。
    古い墓標で今でもちゃんと読めるものは数少ない
    その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
    しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
    墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。
    寂寞とした墓地敷地内