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カテゴリー: travel

  • redbus.in

    redbus.in

    すでにcleartrip.comなどの旅行予約サイトで、インドのバスの予約も可能になっているが、飛行機や列車と較べると、長距離バスは民間会社が乱立しているので、どこの路線のバスがどれくらいの頻度で、どの発着時刻で運行しているかは現地に行かないとわからず、とりあえず出発地に着くまでは、前もって予約しておくことも容易ではなかった。もっとも人の行き来が盛んな場所では運行している会社も本数も多いので、そう困ることはないのだが。

    すでにご存知の方も多いかと思うが、インド国内のバス予約を専門に取り扱うredbus.inというサイトがある。地域間の移動はもとより、大都市の一日観光ツアーなどの予約も出来るようである。

    だがやはりこれで予約できるのはメジャーな路線ということになり、事前にスケジュールを知りたかったり、本数が少ないので予約しておきたかったりするようなルートは、これまでどおりその場所に着いてみないと判らない、というのが結論となるが、田舎のインフラ事情を考えるまでもなく、こればかりは仕方ない。

    だがこのサイトで取り扱う路線を利用する限りでは、発着時刻や所要時間等を調べて旅程を立てたり、前もって予約しておいたりということが出来るため、「とても助かる」ということも多々あるのではないだろうか。

    運転マナーや安全対策という部分に比べて、こうしたチケット手配のフィールドはやけに進んでいる感じがするインド。民間の豊かな創意工夫と旺盛な活力を象徴しているかのようで頼もしい思いもする。

  • 今年秋からミャンマー国際航空がヤンゴン・関空便を運航開始

    先日、ミャンマー国際航空が関空に就航予定と題して取り上げてみた、ミャンマー国際航空(MAI)の関空への乗り入れだが、以下の記事のとおりの内容で決定したようだ。

    関西国際空港:ミャンマー・ヤンゴンへ週3便 今秋就航 (毎日新聞)

    ところで好景気に沸くミャンマーの様子を垣間見るようなこんな記事もある。

    Myanmar citizens flying abroad this Thingyan (THE NATION)

    近隣国のタイ、マレーシア、中国などから休暇でミャンマーを訪れる人々は増えているが、同様にミャンマーの富裕層やこのところ拡大しつつあるミドルクラスの人々が周辺国に観光に出かける例も増えているようだ。

    本日からミャンマーは同国の正月休暇となっているが、来年のこの時期にはヤンゴンからの直行便を利用して関空に降り立つミャンマー人観光客の姿も少なからずあることだろう。

    バンコクやクアラルンプルに較べると距離感があったヤンゴンの街が、ANAに続いてMAI直行便を就航(前者は成田便、後者は関空便)させることにより、ずいぶん近くなるのは喜ばしいことである。

    予断となるが、ミャンマー国際航空関係で、こういうニュースもある。

    香川)ウー投手、祖国のミャンマー国際航空と契約 (朝日新聞)

    四国アイランドリーグplusでプレーしているゾー・ゾー・ウー投手は、ミャンマー代表チームのエースだそうだが、上記リンク先記事には野球人口50人とある。ミャンマーの野球界発展のために今後ますますの活躍を期待したい。

  • PENTAX Q7 & Q10

    PENTAX Q7 & Q10

    外観はPENTAX Q10と同一のPENTAX Q7
    Q7と2台持ちすると画角の違いでも重宝するQ10

    以前、PENTAX Q7と題して取り上げてみた「世界最小デジタル一眼」を謳うこのカメラ、昨年7月の発売日に購入して以来、愛用している。

    先代のQ10に比べて、センサーのサイズが1/2.3から1/1.7型へと大型化したといっても、画質そのものが劇的に向上するというものではなく、コンパクトデジカメと同等の大きさであることから、画質云々にこだわるほどのものではないとはいえ、それでも思いのほか写りが良いことと、レンズ交換式でまさに一眼感覚で楽しむことができるのが、Qシリーズの人気の理由だろう。

    「トイレンズ」と名付けられたチープなレンズも加えて8点のレンズを持ち歩くとしても、カバンの片隅にこじんまりと収まってしまうのがいい。冬ならば上着のポケットに全て収まってしまうという機動性も頼もしい。

    そんなわけで、ボディをもう一台買い増ししたいと思っていたので、このたび中古で購入することにした。同じQ7にするか、それともひとつ前のモデルであるQ10にするか、少々迷ったが、センサーサイズの違いから同じレンズを装着しても画角が少し異なるQ10を入手することにした。

    Q7の発売後もしばらく平行して販売されていたQ10だが、昨年秋くらいには生産終了となっており、現在は1万円強程度で購入することができる。ちなみにQ7はその倍程度の価格である。(2014年4月現在)

    ボディのデザインや重量は両者とも同一で、操作メニューもほぼ同じである。どちらもボディの色は黒を選んだので、軍艦部に刻印されているモデル名以外の外見はまったく区別がつかない。2台持ちしてもまったく苦になることのないコンパクトさがありがたい。

    私にとって最も使用頻度の高い広角ズームをQ7で常用して、その他のレンズをQ10で使いまわすか、それともQ10はトイレンズの専用機にするかは、そのとき次第である。

    写真を撮るのが趣味とはいえ、重くてかさばるカメラは億劫なので、ハイエンドなコンデジを創意工夫とともに思い切り使い倒すことを身上としている(?)私だが、やはりコンデジ単体での限界値は低い。レンズ交換して楽しむことができる「一眼式コンデジ」の存在意義は大きい。

    「インドでどうだろう?この一台!」というところで、やはりPENTAXのQシリーズはイチオシだと私は考えている。

  • 地球の歩き方 南インド 2014年~2015年版

    地球の歩き方 南インド 2014年~2015年版

    地球の歩き方の南インド編が発売されている。

    地球の歩き方 南インド 2014年~2015年版 (ダイヤモンド社)

    ISBN978-4-478-04546-6

    これまでの同シリーズのインド編から南インド紹介の部分を切り離したうえで、内容を充実させたのが本編である。

    豊富な図版とヴィジュアルな構成で、パッと見て感覚的に把握できるようになっているのはこのシリーズの他地域のガイドブックと同様だ。個人旅行向けのガイドブックということになっているが、私自身は、地球の歩き方は「るるぶ」的なガイドブックだと思っている。

    しかしながら、大まかに「南インド」という場合に当然含まれるはずのアーンドラ・プラデーシュ州(近いうちに同州から分離することになっているテーランガーナー地域も含む)が除外されてしまっていることが大変残念である。

    ヴィジュアルな構成であるがゆえに、全330ページというページ数の割には情報量が少ないことも気になる。写真が多く掲載されていると分りやすいという点は否定しないが、今の時代、インド各地の街中や史跡等の画像はネット検索するといくらでも出てくる。また「今の時代」といえば、電子版も用意したほうが良いようにも思う。

    地図以外の図版等を削除して、ほぼ文章だけにまとめた極薄のコンパクト版があったらいいようにも思うのだが、それにしてもロンリー・プラネットの豊かな情報量には遠く及ばない。

    英語が苦手な人が多いという文化的な障壁があるため売れ行きはいいのかもしれないが、過剰に図版が多いがゆえに、情報量の割には厚いというこのスタイルは、ちょっと見直したほうが良いのではないだろうか。もちろん人それぞれ、様々な意見はあることとは思うのだが。

  • ミャンマー国際航空が関空に就航予定

    ミャンマー国際航空(MAI)が関西国際空港へ年内に就航する方向で調整中との報道があった。

    関空―ヤンゴンに定期便就航へ ミャンマー国際航空(日本経済新聞)

    昨年から全日空が成田・ヤンゴンの直行便を就航させているが、同じくミャンマー国際航空も成田便就航を模索してみたり、茨城空港にチャーター便を飛ばしてみたりと、いろいろ検討を続けていたようだ。また本日時点ではまだ、ミャンマー国際航空の本社サイトの「Route Map」には「Future Route」として日本の就航予定先は東京であることが示されているものの、最終的には先行した全日空のルートと重複せず、日本の空のもうひとつの表玄関である関空に就航という形で落ち着くようだ。

    途中で乗り換えることになく、ヤンゴンまでそのまま移動できることについてのメリットは大きい。ミャンマー・ブームが過熱していく中で、西日本方面からのビジネス、観光等による需要を手中にすることとなる。

    現在までのところ、成田からヤンゴンへのフライトの需要については、提携航空会社(全日空・タイ航空・日本航空)のフライトによる成田・バンコク間の移動、そしてバンコク・ヤンゴン間はミャンマー国際航空によるフライトという組み合わせでの発券を実施しており、当面はこの形で対応していくということになるのだろう。

    今後、ミャンマー国際航空は、ヤンゴンからデリー便、ドバイ便、ソウル便を計画している。ヤンゴン国際空港のウェブサイトを眺めてみると判るとおり、現時点では同空港に乗り入れている航空会社は自国の国内線キャリアを除いた国際線ルートでは、アセアン諸国や中国といった周辺国が主体で、その他の国々から乗り入れている航空会社といえば、全日空(日本)、大韓航空、アシアナ航空(韓国)、カタール航空(カタール)、エア・インディア(インド)、ビスミッラー航空(バーングラーデーシュ)くらいのものだ。フライトの所要時間にして1時間20分程度のところに、シンガポールと並ぶ東南アジアのハブ空港のひとつであるバンコクのスワンナプーム空港があるため、欧米からの直行便が乗り入れるような状況にはなっていない。

    しかしながら、軍政末期のヤンゴン国際空港の寂しい状況とは打って変わって、近隣国との間を結ぶフライトが急増している昨今であり、空港施設の拡張が早急に求められる状況になっている。ちなみに、すでにパンク状態にあった国内線ターミナルビルをはじめとする国内線関係の施設のアップグレードは、つい先日完了したばかりだ。

    昨年11月にお伝えしたとおり、ミャンマーの国内線キャリアがネットによる予約とクレジットカードによる支払いが可能となったことと同様に、当然ながらミャンマー国際航空についてもウェブ上でのブッキングと支払いができるようになっている。

    個人的にミャンマーに強い関心を抱いているものの、当のミャンマーの方々には申し訳ないのだが、私自身の興味の対象は英領期のミャンマー、つまり英領であった当時のインドのそのまた植民地であった国におけるインド人入植者たちの動向、そうした人々の子孫である現在ミャンマーに居住しているインド系コミュニティのありかたである。

    そのあたりについては、また別の機会を設けることにしたいと思う。

  • ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッドのエントランス

    アーグラー郊外のスィカンドラーにあるアクバルの廟を模しているとされる、コールカーターのナコーダー・マスジッド。現在のグジャラート州西部のカッチ地方を起源とする商業コミュニティにより建造されたスンニー派のモスクで、1926年に完成している。

    この街のモスクを代表する存在であるといえるが、地元のコミュニティではなく、国内とはいえ現在のインドの西端からやってきたムスリムたちにより建造されたというのは、いかにもコスモポリタンなコールカーターらしい。同時にこのあたりにはグジャラート州などインド西部起源のムスリム住民が多いのではないかという推測もできるだろう。

    この地域は旧中華街、旧ユダヤ人地区等と交わる昔からの繁華街。元々、欧州人でも地元ベンガル人でもない外来の人々が多く定住したエリアなので、前述のグジャラートから移住したムスリムたちにも都合が良かったのかもしれない。

    1万人の礼拝者を収容できる大型モスクなのだが、狭小地に建てられているがゆえに、伝統的なムガル様式を踏襲した建物ながらも、礼拝堂が多層構造になっているのが特徴だ。

    エントランスのあるザカリア・ストリートからよりも、ラビンドラ・サラニからの側面の姿のほうが見事な造形を楽しむことができる。モスクが面している道路とキブラの方向とのズレを、建物が捻じれた構造にすることによって解決してあるため、ちょっとだまし絵のような印象も受ける。

    ラビンドラ・サラニから眺めるとこんな具合

    ユナーニー医学の腹薬

    周囲は門前町となっており、様々なイスラーム関係のグッズやその他の日用品などを商うイスラーム教徒の商売人たちの店や露店が所狭しと賑やかに並んでいる。モスクのエントランス正面にあるAMINIA HOTELという食堂は、このバーザールで最も早い時間帯から開く店のひとつのようだが、まだ辺りが薄暗いうちから店のスタッフたちが準備を開始して、通りを行き交う人々の姿が多少目に付くあたりには営業を開始している。ここのネハーリーは絶品なので、朝の時間帯にここを訪れる際にはぜひ味わっていただきたい。

    AMINIA HOTELでは、もちろんそれ以外の時間帯にも各種ケバーブ類その他、おいしいイスラーム系料理が沢山用意されている。いかにも下町の大衆的な料理屋さんといった風情で、エコノミーながらも味わいは本格的で、ナコーダー・マスジッドの向かいというロケーションも最高だ。夕方遅い時間帯になっても営業しているので、ぜひともナコーダー・マスジッド詣でとセットで訪れたい。

  • 久美子ハウス

    四半世紀以上も前のことになるが、バナーラスの久美子ハウスに宿泊したことがある。日本人宿というものに特段の興味や関心があるわけではないのだが、当時は泊めてもらう前に「面接がある」だの、その面接で「落とされる人がいる」だのといった噂を耳にしていた。落とされた人というのは、当然そこに宿泊させてもらえず、他の宿を当たらなくてはならない。観光客の多い街で、界隈には他の宿泊施設も多いので困ることはないのだが、お客に対してそんなに居丈高な宿が本当にあるのかと不思議であった。

    当時大学生であった私は、友人と初めての海外旅行で訪れたインドであり、目にするものすべてが物珍しく、迷路のようなバナーラスの街はどこか異次元の世界のようでもあった、昼間はどこまでも人々でごった返している小路を進んでいき、ようやくたどり着いた先に「久美子ハウス」と日本語で書かれた看板が目に入るにあたり、ホッとした気分になった。

    「面接」といっても何を聞かれたのかは今となってはまったく記憶していないが、確かにそれらしきものはあった。久美子さんの夫でヒゲ面のシャーンティさんが流暢な日本語でいろいろと質問、といった具合であったのではないかと思う。

    料金はいくらであったかも記憶していないが、ドミトリーで朝晩の食事が付いていて、バックパッカーが利用する宿としても最安クラスであったはずだ。食事というのは、かすかに醤油の味がするようなしないような汁の中にブツ切りの人参と大根がプカプカ浮かんでいる鍋のようなもの?と大きな器にドカ盛りされたご飯を各自好きなだけ取り分けて食べるといった具合。

    思えばちょうどホーリーの時期であった。着替えが一揃いしかないので、衣服をダメにすると、なけなしの旅行資金から捻出して新しい服を買い求めなくてはならなくなるので、屋上から通りの下を眺めているだけであった。そういう日とは知らずにバナーラスの鉄道駅に降り立ったという人たちは、全身物凄い色になって宿に転がり込んできていた。

    安旅行者を相手にしている宿であるだけに、面倒な問題を起こす旅行者が少なくなく、中には警察沙汰になったり、時には行方不明になったりしてしまう滞在者もいるなど、なかなか大変であったようだ。それに加えて宿が多くて過当競争になっている地域にありながらも、客引きに頼むこともなくしじゅう宿泊客の日本人たちが出入りする、経営環境としては非常に恵まれた立場にあるだけに、周囲の同業者から妬まれるということも耳にしていた。そういう事情があったため、宿泊者への「面接」というのが行われていたのだろうと思う。

    こうした環境でもまれてきたからなのだろうが、久美子さんといえば、やたらと眼ヂカラのある豪放磊落な感じがする女性、肝っ玉母さんという印象がある。元来世話好きでもあるようで、ときには「口うるさいオバハン」と疎まれたりすることもありながらも、朝夕の料理のときには長期滞在者の誰かしらが手伝っていることが多かった記憶があるし、久美子さんもそうした人たちを気軽に「使い走り」に駆り出していたりもしていた。なかなか普通の宿ではありえないことだろう。

    数か月単位の長期で滞在している人たちも少なくなく、安ホテルというよりも、賑やかな下宿屋といった風情の久美子ハウスであった。ガートに面した建物の屋上からのガンジス河の景色は良かったし、月夜に照らし出された河面の眺めも最高だった。当時はまだ幼かった可愛い子供さんたちも、とうの昔に成人してコテコテのインド人になっていることだろう。

    その後、久美子ハウスに逗留したことはないのだが、幾度かバナーラスを訪れてガートを散歩中にこの宿のあたりを通りかかると、当時のことを思い出したものである。

    そうした記憶もすっかり遠くなってしまった今、FB上で複数の方々が久美子ハウスについての記事を取り上げられていて、とても懐かしい思いがする。久美子さんもお元気そうで何よりである。なんでも今では久美子ハウス2号館というのもあるとかで、商売繁盛のようである。

    -次期経営者募集?!-久美子さん(ウッタル・プラデーシュ州バラナシ在住)(LIVE INDIA)

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

  • コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

    コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

    コールカーターの宿で出会った日本人旅行者と食事に出かけた。アテにしていたこの街の一番古くからある中華レストランの「欧州飯店」に電話をかけてみたが、誰も出ないのでどうやら休みらしい。

    街の東郊外にある華人地区のテーングラーまで出るのは面倒なので、ラール・バーザール近くの旧中華街に行くことにした。カルカッタ警察本部のあたりでタクシーを降りる。このあたりから先はムスリム地区になっている。

    道沿いにあるモスクのスピーカーからは、怒りをぶちまけるかのような過激な調子で、ウルドゥー語による内容も扇情的な説法が大きな音で流れている。こういうタイプのモスクがあると、ムスリム住民でもこれに同調しない人も多いだろうし、近所に住んでいたり、たまたま通りかかったりする非ムスリムのたちは、不安をおぼえるのではないかとさえ思う。

    さて、チャターワーラー・ガリーを進んでいくと、暗い夜道ながらも漢字で書かれた赤いお札が貼られた家屋がいくつもあるので、今も華人たちがかなり暮らしていることが感じられる。

    小さな店で商っている華人たちは、混血しているので一見ネパール人?と思うような風貌の人たちが多い。中国大陸からの移民は19世紀後半から20世紀初頭にかけての清朝末期、その後の国共内戦にかけて、中国の政情が混乱していた時期にインドに流入してきたわけだが、とりわけ初期の移民の大半は男性であった。当然の帰結として伴侶に現地女性を求めたケースが多かったがゆえに、現在コールカーターに居住している華人の間では、やはりどこかでインド人の血が入っていることは往々にしてある。

    さて、小路を進んでいくと、チャターワーラー・ガリーとスンヤートセーン・ロードが交差するあたりにあるのが、この旧中華街に今も残る中華レストラン「トゥン・ナム」である。ちなみにスンヤートセーン・ロード(Sun Yat Sen Rd.)とは、中国や台湾で言うところの「中山路」に当たる。Sun Yat Senとは、孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことであるからだ。

    平行している道路はLu Shun Sarani、つまり「魯迅路」であり、まさに中華街らしいロケーションである。しかしながらこの界隈からの華人人口の流出は著しく、隣接するムスリム地区に呑み込まれてしまっているのだが、かつて華人の屋敷であったと思しき建物は今もそのような雰囲気を残しているし、いくつかの中国寺院や華人たちの同郷会館なども見かける。

    さて、レストラン「トゥン・ナム」で席に着いて料理を注文する。経営者は客家人家族。「トゥン・ナム」とは、客家語で「東南」かな?などと想像してみたりもする。二人で訪れると、いろいろ注文できていいものだ。ご飯の豚肉あんかけ、魚と豆腐の炒め物、チョプスィー、ワンタンスープその他を注文した。どれも美味であった。インドの中華は炒め物でも最後はグレイビーに仕上げるのが特徴。やはり乾いたご飯と乾いたおかずでは食べないようになっている。

    店内のお客たちの多くは中華系の人たちであった。豚肉を出す店であるがゆえに、この地域と隣接するムスリム住民たちをまったく相手にしていないということになるが、それでもかなり繁盛しているようである。

    経営者家族は華人。注文聞きはインド人で、トイレを借りると途中で見えるキッチンの様子から、料理しているのもインド人であることがわかった。それでも味はちゃんとした中華なので、みっちりと教え込んであるのだろう。

    先述の欧州飯店では家族以外の料理人を雇うことなく、門外不出のレシピとで調理をしているとかで大変美味しいのだが、トゥン・ナムも負けず劣らずいい料理を出してくれる。やはりインドにおける中華料理の本場コールカーターの旧中華街に店を構えているだけのことはある。

    Chinese Restaurant 「Tung Nam」(火曜定休)

    24 Chattawala Gully, Kolkata 700012

    Phone.22374434 / 9831635767

     

  • A JOURNEY ACROSS INDIA by Google Cultural Institute

    A JOURNEY ACROSS INDIA by Google Cultural Institute

    Googleによる各国の美術館、文化施設等との協力により、世界の文化遺産をオンラインに公開するGoogle Cultural Instituteのプロジェクトにおいて、インドの史跡もA JOURNEY ACROSS INDIAと題して紹介されている。

    さりとて、これらの画像がアップロードされているだけでは特に面白味はないのだが、「Street View」の機能を利用して、史跡内を移動して見学できるようになっているのが楽しい。建造物に接近して細部を観察できること、同様にこれを多方面から眺めることができること、敷地内のベンチや植栽などから実物の規模が容易に理解できること、そして周囲の景観や地図で示されたロケーションを含めて、非常に臨場感があるのもいい。

    ムガル建築最盛期のタージ・マハルをはじめとする珠玉の建築物の数々を鑑賞できるU.P.州のアーグラーにある傑作イティマード・ウッダウラー廟もこの形で閲覧することができるので、ぜひアクセスしていただきたい。

    その他、インド各地の史跡も取り上げられており、目下その内容はさほど充実しているとは言えないとはいえ、今後の発展が期待されるところだ。

  • フェアローン・ホテル 2

    フェアローン・ホテル 2

    壁に掲げられた家族写真や新聞の切り抜き

    壁に飾られている家族の写真などを見ても、ここに植民地時代から続く白人系のファミリーの生活の様子を想像することができて、いかにもコールカーターらしい宿であるといえよう。壁には英国王室の安っぽいポスター的なものが飾られていたり、ここの宿について書かれた古い新聞記事の切り抜きが飾られていたりするのは俗っぽいのだが、それでもここの宿がどういう具合にメディアに取り上げられているかを見ることができて楽しい。

    一応は「ヘリテージ・ホテル」ながらもゴチャゴチャと俗っぽい

    部屋のクオリティから考えると、ちょっと割高な宿ではあるのだが、建物そのものの雰囲気は良く、植民地時代の白人の屋敷の雰囲気を感じられるのはいいと思う。

    フェアローン・ホテルの一日は、すでに90歳を超えている女主人、ヴァイオレット・スミスさんの登場から始まる。やや朝寝坊の宿泊客たちが朝食を摂り始めるあたりで、宿のスタッフ(雇用されているのは、もちろんすべてインド人)に両脇を抱えられて、グラウンド・フロアーのテラスに置かれた専用チェアーに着席する。

    足腰は弱っているものの、艶やかにメイクをした彼女は、宿泊客たちに実にしっかりと、そして堂々と応対しており風格がある。中高年の西洋人の滞在者が多いこともあり、彼女はすぐさま彼らに取り囲まれて、和やかな会話が始まる。こんなところが、この宿の人気が長く続いている理由のひとつだろう。今のインドにおいては存在しない、旧植民地の「欧州人クラブ」のような雰囲気があり、しかしながら欧州系ではなくても宿泊客は何の遠慮もなくその会話に加わることができるのは、現在の社会において当然のことであり、私たち日本人ももちろんその雰囲気を楽しむことができる。

    非常に社交的ながらも下世話なトピックにも長けて、「下宿屋のおばさん」的な風情も漂わせるヴァイオレットさんがだが、家族経営ながらもこのホテルのスタッフがキビキビと宿泊客にスキのない対応をしているのは、人の出入りが多いこの時間帯に目を光らせているからであることは言うまでもない。

    まさにそれがゆえに、そう遠くない将来に彼女がこのように存在感を示すことができなくなったときに、このホテルのありかたが大きく変わるのではないかという危惧を抱かせるものがある。やはりここに宿泊するならば、女主人のヴァイオレットさんが元気なうちに、ということになるだろう。

    〈完〉

  • フェアローン・ホテル 1

    フェアローン・ホテル 1

    外観は凡庸

    コールカーターでフェアローン・ホテルを利用してみた。

    幾度か朝食を摂りに行ったことはあるものの、宿泊してみたことはなかった。フロントで訪ねてみると満室であったりしたためということもあるが、「ヘリテージ・ホテル」と呼ぶには、ちょっと乱雑で俗っぽい感じがしたということもあるし、他の大都市で景気の良い街に比較して宿泊費が総体的に安めのコールカーターでは、同じ程度かそれよりも安い料金で、もっと快適なホテルがあるためでもある。

    それでもやっぱり一度は泊まってみたいという思いもあった。建物自体は18世紀に建てられた植民地建築そのものであり、南パークストリート墓地とサー・スチュワート・ホッグ・マーケット(現ニューマーケット)の間に位置するエリアは現在でこそ下町化しているものの、英領期には白人地区であったことは、この地域に古くからある建築物の佇まいや政府関連施設等の存在からも容易に察することができるだろう。

    19世紀から20世紀はじめにかけては、周辺地域を含めて商業地化したため、ユダヤ人が多く住むエリアとなるとともに、サダル・ストリートからフリースクール・ストリートに入ったあたりに現在もアルメニア人学校があることからも判るとおり、アルメニア人たちも多く居住する地域となった。

    そんな時代の終わり近く、1936年にアルメニア人家族が取得したのがこの建物で、以来ホテルとしての営業がなされているとのことだ。

    アットホームな雰囲気の共用スペース

    ユダヤ人、アルメニア人ともに、植民地期には、往々にして当時の行政機構や支配層側との取引で財を成した例が多かったことから、独立運動盛んな時期には買弁とみなされ、独立達成後には、なおさらのこと不利な立場に置かれたことから、国外に活路を求めた例が多い。

    現在においても、施設の所有ならびに経営自体が、植民地期と同じ外来のファミリーによるものであるという点で、特筆すべき存在である。「ヘリテージ・ホテル」が非常に多いインドであるが、そうした形で知られているものの多くは、由緒ある建物を宿泊施設として運営する企業(民間ならびに政府系企業)が取得あるいはリースにより運営しているもの、地元の旧領主による所有で経営はそうした企業に委託しているものが大半であるからだ。

    〈続く〉