ドリアンを読む

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 日印間の往復途中に東南アジアを経由する便は多い。バンコク、クアラルンプル、シンガポールといった街にもちょっと立ち寄るといった人は多いだろう。
 インドでは見かけないのにこれらの土地には豊富にあるもの、またそれがあるゆえに東南アジアらしいムード醸し出しているものがある。それはドリアンだ。もちろんドリアンにはシーズンがあるものの、インドネシアとタイというドリアンの二大産地に挟まれたマレーシアやシンガポールあたりは収穫時期が異なる両国からふんだんに輸入されているため、この『果物の王様』を楽しめる時期もずいぶん長くなるという、非常に恵まれたドリアン天国だ。
 ドリアンの食感は植物の実ではなく人造物だと常々思う。熟練したシェフが腕によりをかけて仕上げた高級デザートとしか思えない。なぜならあまりに深くて複雑な味わいを持つ『生の植物』を他に知らないし、舌触りも香りも限りなく動物性に感じられる。卵黄やバターが入らずしてあれほどふくよかな味になるものなのか、アルコール分の高い料理酒を使わずしてあれほどかぐわしい香りを出せるものなのかといつも不思議に感じている。あれが自然と木に成るものであるということは、現場を目にしても信じられない。
 今年10月、中公新書から『ドリアン ― 果物の王』(塚谷裕一著)という本が出た。自らマンゴー・フリークの植物学者による、まるごと一冊ドリアンの解説本である。ドリアンの香り、選び方、果物としての特殊性、栽培方法といった事柄に始まり、同じく美味な近縁種の数々、ドリアンを原料とした加工食品等、栄養素、脂肪分の考察、香り成分の分析等々をわかりやすく説明するとともに、その他トロピカルフルーツの代表格として知られるバナナ、マンゴー、マスゴスチン等をも含めた、日本における熱帯果実消費の歴史などについても記されている。実は日本における東南アジアからの果実輸入は戦後から始まるものではなく、実は戦前から相当量のフルーツが日本の食卓に押し寄せていたという記述などもとても興味深い。

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名は体を表す?

 私たち日本人と違い多くの場合インド人の名は信仰、カースト、地域などといった個々の出自を色濃くあらわす。そのため『名前』の持つ重みは相当なものである。
Indian Names』や『BOOK OF HINDU NAMES』といったインド人の名前の綴りや意味などについて書かれた本はいろいろ出回っているが、ここのところウェブ上でそうしたサイトをよく見かけるようになってきているし、インターネット上の百科事典Wikipediaでもインド人の名前に関する記事を閲覧することができる。
Indian names』というエントリーでは、インドの人々の名前のありかたや地域ごとの特徴などについての概説がなされてお
り、『Indian given names』   においては各個人につけられた名前の意味のリストが掲載されている。そして『Indian family names』 では姓についての解説だ。最後のファミリー・ネームの記事中で、たとえば『Agarwal』をクリックしてみよう。すると同姓についての詳しい記述が出てくる。Agarwal姓の起源や歴史といった背景、この苗字を名乗る著名人、同じコミュニティに属するさまざまなゴトラの苗字のリストなどが出てくる。
 後者のふたつ(Indian given namesとIndian family names)については、ともに一応の骨格はできあがっているようだが完成までの道のりは遠いようだ。名前のエントリー数が少ないことや土地の言葉での綴りが書かれていないことはもちろんのこと、それ以上に目下未記載で空白になっている部分、ほとんど記述がなされていない項目などがあまりに多く実用にならないのが残念。
 それでも広く世間の人々の好意と貢献に支えられて日々絶えず進化を続けているオンライン百科事典だけに、インド人の名前に関する記事群が突如目覚しい発展を遂げて『とっても充実していてびっくり!』することが近い将来あるかもしれない。
 インドと重なる部分が多く密接な関係にある『Pakistani family names』 の記事では地域ごとの固有のもの、アラビア起源、ペルシャ起源、トルコ起源といったさまざまな氏族名の解説がなされており興味深い。こちらもあわせて今後さらなる発展を期待したいところだ

カンパニー(東インド会社)の傭兵生活

 その当時に生きた人たちがこの世から消え去ってしまうと、後世の人々は書き残されたものでその時代の世相を知るしかない。だがそうしたものを後々の人間のために記しておいてくれるのは行政官、文化人、歴史家くらいのものだろう。その他著名人の手記などは何かに掲載されたり、あるいは本となって出版されることもある。
 しかしいつの時代も絶対的多数である市井の人々となると、日々どんな暮らしをしていたのか、何を考えて生きていたのか、なかなかその姿に触れることは容易でなかったりする。世界の長い歴史の中で、庶民の間にあまねく『読み書き』が普及したのは、20世紀になってから(もちろん地域により相当なバラつきがある)であることを思えば、仕方のないことである。
 一般市民というのにはちょっと抵抗があるが、東インド会社が統治下のインドで、ベンガル歩兵連隊に勤務したネイティヴ将校の人生が描かれた本がある。著者にして主人公のスィーター・ラーム・パンデイは、1812年にベンガル歩兵連隊に一兵卒として入隊。48年間という長い軍人生活の中で最後は大尉にまで昇進し、1860年に引退して恩給生活に入る。
 彼は現役時代にグルカ戦争ピンダーリー戦争、バラトプル強襲、アフガン戦争シク戦争へと出征し、クライマックスは1857年の大反乱、とまさにインド近代史を代表する大戦争を次々と経験したことになっている。
 こうした戦闘行為以外にも、当時の世相を示すものがいろいろ描いてあって興味深い。それは街道に出没していたタグの話であったり、威厳に満ちているがインド人兵士たちからしてみると不可解なメンタリティーを持つイギリス人上官たちであったり、怪我による傷病休暇で帰郷した故郷の村の話であったりする。
 この作品は、隠居後に元上官であったJ.T.ノーゲイト中佐に軍隊生活について回想記をしたためるよう勧められたことがきっかけで出来たものだという。パンデイは除隊の翌年に原稿を書き上げ、ノーゲイトはそれを英語に翻訳して当時インド国内で発行されていたある雑誌に連載して好評を得た。その後、新聞に転載されたり本として出版されたりして、世間に広く知られるようになったそうだ。
 だが正直なところ、著者のスィーター・ラーム・パンデイなる人物が果たして実在したのかどうかについてはいろいろ議論のあるところらしい。だがこれが実話であれ創作であれ、今や誰も目にすることのできない19世紀のインドの世相が生き生きと描かれた好著であることには間違いなく、まだ手にしていない方はぜひ一読されることをお勧めいたしたい。
あるインド人傭兵の冒険の人生
シーター ラーム (著),
ジェイムズ ルント (編集),
J. Lunt (原著), 本城 美和子(翻訳)
ISBN: 4303990116
ロージー企画社
From Sepoy to Subedar: Being the Life and Adventures of Subedar Sita Ram, a Native Officer of the Bengal Army, Written and Related by Himself
Sita Ram Pandey (著)
Shoe String Pr Inc
ISBN: 0208011528

欧州発 北アフリカ行きの白人奴隷たち

 大航海時代以降、世界各地に植民地を拡大していき支配地で権勢を振るった西欧列強、そしてアフリカから南北アメリカ大陸に導入された黒人奴隷たち、アジアその他の地域で過酷な労働・生活環境の中で生涯を送った中国やインドなどからの契約移民たちのことはよく知られているところだ。
 だがそのいっぽう、サレー、チュニス、アルジェといった北アフリカの港湾地域を根城とするイスラーム教徒の海賊たちにより航海中の欧州人たちの商船が襲われるのみならずヨーロッパ各地の沿岸部が北アフリカからやってきた荒くれ男たちに攻撃されることは珍しくなかったことだ。もちろんその数や規模は先述の黒人奴隷や契約移民の数とは比較にならないはずだが、主にその海賊たちにより拉致されてモロッコを中心とする北アフリカ諸国で売買される欧州出身の白人奴隷たちがいたということに気を留める人はあまり多くない。
 このたび『奴隷となったイギリス人の物語』という本を手にとってみて、パラパラとめくってみるとなかなか興味深い内容であったので、じっくり読んでみることにした。著者の記すところによれば『1550年から1730年の間、アルジェには約2万5千人の捕虜(欧州人)が絶えず存在していた』『300年あまりの間に少なくとも100万人の白人たちが不当に連行された奴隷交易があった』のだという。
 タイトルには『物語』とあるが、史実をもとにしたノンフィクション作品だ。この本の中で主人公的な立場にあるトマス・ペローなる人物が見聞したとされる出来事などが下敷きとなっており、欧州やアラビアの歴史資料などによる肉付けがなされたということである。
 舞台は18世紀初頭のイギリスとモロッコ。イギリスのコーンウォールで生まれた10代前半の利発な少年トマス・ペローは、おじが船長を務める商船『フランシス号』の船員として乗り込んだものの、海賊船に拿捕されてモロッコの奴隷として売り飛ばされてしまう。彼は当時マラーケシュから遷都し、メクネスを首都としていたアラウィー朝の支配者ムーレイ・イスマイルのもとで奴隷として仕えることになる。
 当初は建築作業現場で他の欧州人奴隷たちとともに危険な作業に従事させられた。そして暴力とともに改宗を迫られて、生き延びるためにやむなくイスラーム教徒となってからは、非凡な知力と資質を買われて宮廷内の警護を経て最前線で闘う兵士として取り立てられたことになっている。その後幾多の危機を乗り越えて運良く帰国できたのは出航してから23年後であったとのこと。
 ムーレイ・イスマイル率いる強大なアラウィー朝とその庇護下で暗躍していた海賊たちの前に、なす術もなく恐れおののいていた欧州(人たち)という図式はなかなか新鮮であった。
 ただ気がかりな部分も多い。不運にも奴隷とされた白人たちの悲劇がテーマになっているため仕方ないのだが、視点は常に捕虜となり奴隷として売られた欧州人たちの側にあるがゆえに『欧州=賢き善なるもの』そして『イスラーム世界=狡猾にして悪辣なるもの』という図式に終始していることである。
 強権政治、建築への情熱、豪勢な生活、そして数百人規模のハーレムなどで知られたムーレイ・イスマイルは、モロッコの歴史の中でも特に大きな足跡を残した人物のうちのひとりである。もちろん彼は暴君として悪名高くさまざまなネガティヴなイメージも持つ人物であったにせよ、彼の治世で国は繁栄するとともに市民生活のレベルもかなりのものであったようだ。当時の王都メクネスはユネスコの世界遺産にも指定されている。
 もちろん『為政者』について現在のそれと同じ尺度で語ることはできるはずもないが、それなりに有能な統治者であったことは否定できないだろう。だが書中では、このモロッコの君主については奇行や蛮行ばかり描かれていること、そして次から次へと様々な登場人物が出てくる中で、地元モロッコのイスラーム教徒たちの中で人情味を感じさせるキャラクターはほとんど見当たらないのである。
 特にニューヨークで2001年に起きたテロ事件以降、イスラーム世界に対するネガティヴなイメージが広がっている昨今、ムスリムの人々に対する偏見や誤解を植え付ける可能性もあり、ちょっと危険な図書ではないかとも思われた。
 捕虜となっていた白人たちの出身国は、イギリス以外にもフランス、スペイン、ポルトガル、そして独立前のアメリカなど実に多岐にわたっていたそうだ。どこも自国民の救出についてはそれなりの外交努力は払っていたらしいが、興味深いことにクリスチャンから改宗してムスリムになった者については救出の対象にはならず、そうした囚われの自国民の数にも加えられなかったのだという。それほど当時のヨーロッパでは、『キリスト教徒であること』は、ある意味生まれや血筋よりも大切なものであったようだ。
 ちなみにトマス・ペローは軍の駐屯地を脱走して野山を越えて港町に出て、欧州の商船に接触することに成功、つまり自力でモロッコを後にしたとのことである。
 ともあれ、これまであまりなかった視点によるヨーロッパとイスラーム圏の交流史のひとつとして大変興味深い本であった。
奴隷になったイギリス人の物語
ISBN4-7572-1211-9
ジャイルズ・ミルトン 著
仙名紀 訳
株式会社アスペクト
原題はWHITE GOLD (GILES MILTON著ISBN: 0340794704)

日経ビジネスもINDIA !!

 
 このところ日本のビジネス誌もこぞってインド特集を組んでいるが、現在発売中の日経ビジネスもこの大市場をカバーしている。IT産業の隆盛が何かと注目されがちなインドだが、昨今の経済成長と世界的市場としての発展について、この2年で2倍になるほどの急成長ぶりを見せていても、GDPに占める割合がわずか4%強に過ぎないITにそれほどの購買力の底上げ効果があるはずはないとしてその背景を探っている。
 これについて関税率が段階的に下がったこと、つまり1991年以前には最高150%だったものが現在では最高でも12.5%となっていることもあり、ちょっといいモノがリーズナブルな価格で手に入るようになったこともあるが、それよりもインドの消費拡大は金融事情の変化、つまり規制緩和によるものが大きいと解説している。
 具体的には『銀行もノンバンクも、インドの金融機関はカネ余りになっていて、貸し出し競争が起こっている』とし、ローンや割賦販売の普及により、耐久消費財を購入しやすくなり市民がおカネを使いはじめたことを挙げている。
 また『工場』としての中国とは違う視点から、『売り』から入れる途上国として切り込み、1994年にインド進出したソニーが2004年にインドでのテレビ生産を中止して、タイにある自社グループ工場製の輸入品販売に切り替えたことが取り上げられている。この年からインドとタイの間でFTA(自由貿易協定)が結ばれていることから可能になり、インドで現地生産するメリットがなくなったためとのことで、裏を返せば製造基地としての足腰が弱いことにもつながる。販売市場としての期待されるインドではあるが、『購買力に比べて販売にインフラが未成熟なのが特徴』であること、いわゆる白物家電の分野で圧倒的に強いのはサムソンやLGといった韓国勢であることなど、日系企業が苦戦している様子も描いてある。
 日本との関係においても、中国における在留邦人が10万人であるのに対してインドでは2000人(もっといるのではないかだろうか?)に過ぎないとし、空の便は日系航空会社だけで毎週274便が中国の主要都市に飛んでいるいっぽう、インドへは首都デリーに週3便しかないなど、まだまだ相当な距離感があることにも触れている。
 こうした状況を踏まえたうえで、これまで東南アジアや中国などへ進出する際の日本企業の特徴であった『日本企業文化の浸透』『低コストの生産拠点としての活用』『日本人駐在員の大量投入』といったやりかたから脱して、『欧米的な経営管理方法の導入』『欧米での留学、職務経験のあるインド人や印僑の登用』『欧米拠点での成功体験がある日本人社員の活用』を提言している。
 とりあえずそんな具合に意欲的な記事が並んでいる。その反面路上の白いコブ牛を『水牛』と呼ぶのはまだしも、『カーストが職業を保証している』(記事中では留保制度のことを言っているわけではない)というくだり、都会でも娯楽施設がまったくない国であるかのように書かれて(たとえばバンコクのタニヤやパッポンといったエリアに出入りすることを『娯楽』と思っている人にはそうかもしれない)いるなど、インドに対する変な誤解や先入観を植え付けるような記述があるのはどうかと思う部分はある。
 だがとりもなおさず経済の分野でインドの何が日本企業の関心を集めているのかわかりやすくまとめてあり、なかなか興味深いものがある。