オススメの一冊 『インドカレー伝』(Curry a biography)

インドカレー伝
昨年末に出版された『インドカレー伝』という本がある。タイトルだけ眺めると料理のハウツーものか何かみたいに見えるが、手にとって読んでみるとこれが実に中身の濃いインドと欧州の食文化交流史なのであった。
イギリスがインドの食習慣に残したものといえば、紅茶、朝食のオムレツとトーストの他にはあまりないものとばかり思っていたが、実はイギリス人向けの『インド料理』やアングロ・インディアンの家庭で作っていたものがインドの人々の食習慣の中に根付いたものが少なくないらしい。たとえば『チキンティッカ・マサラ』はその典型で、出てきたチキンティッカがパサついていると突き返したお客がいたことから、厨房の料理人がキャンベルのトマトスープ缶とクリームを混ぜてそれにかけて出してみたことがはじまりなのだと書かれている。
もちろんヨーロッパ人たちがインドの食世界にもたらした影響は、チキンティッカ・マサラ単品のみではない。15世紀にイタリアのジェノヴァ出身のコロンブスがアメリカ大陸を『発見』したことにより、トウガラシがヨーロッパに持ち込まれることになったが、この植物をインドに持ち込んだのはポルトガル人であるとされる。ポルトガル王の資金援助を受けた1498年にヴァスコ・ダ・ガマ率いる三隻の船がマラバール海岸のカリカットにて同国のインド到来の第一歩を記すことになる。トウガラシがいつインドに導入されたか正確な時期はわかっていないようだが『ヴァスコ・ダ・ガマのインド上陸の30年後にはゴア周辺で少なくとも三種類のトウガラシ属の植物が栽培されていた』とある。この時期以降、このあたらしい香辛料はインド亜大陸全土に広がっていくことになるのだから、これだけでも欧州人たちがインドの食事に与えた影響は相当インパクトの大きなものである。
トウガラシのみならず、ジャガイモ、キャベツ、カリフラワー、トマト、インゲン等々、ヨーロッパ人たちによりインドに初めて持ち込まれた野菜類は多いらしい。するとそれ以前は一体何を食べていたの?という疑問も沸いてくるが、これらの野菜がインドに根付いてこそ『菜食文化』がインドで本格的に花開くようになったという面もあると著者は分析している。


植民地期にはさまざまなイギリス人たちを初めとする欧州系の人々がインドにやってきては様々な活動に従事していた。もちろん人間である以上、活動する力の源となるものは食事、生命を維持するのに必要な栄養素を取り入れる行為が食事であることは言うまでもない。そこで何を食べるかとなると大都市にあっても母国イギリスの食材がふんだんに手に入るとは限らないし、料理人の大半は地元の人たちである。彼らの好みを踏まえたうえでなんとか地元社会で手に入る食材や調理法を取り入れるという妥協や柔軟性は必要になってくる。そうした中でイギリス人の好みに合う味付けや調理法というものが出来てきて、それがインド料理に与えた影響も決して少なくはないのだそうだ。
またイギリス人たちの最大の娯楽のひとつに狩猟があったが、そうした際の野営地での限られた設備と材料から考案された中にも独特の『インド料理』があったらしい。後にアメリカに伝えられて定着したカントリー・キャプテンはその中のひとつであるという。
ちなみに英印混血の人のことを指す『アングロ・インディアン』は、19世紀初頭までは『インドで定住するイギリス人』を意味していた。それまでインド人との間の混血やその子孫で、従前はユーラシアンと呼ばれていた人たちがアングロ・インディアンと呼ばれるようになったのは1911年の国勢調査のときからで、その後に成立した法律により定着したことから、この言葉の意味が入れ替わることとなった。
ともあれ、彼ら在印イギリス人たちが母国に持ち帰った『カレー』がイギリス経由で日本にたどり着いた結果が現在の日本の『カレーライス』となっていることは言うまでもない。
イギリスでカレー料理が定着した背景には、インド勤務を終えて帰国したネイボッブと呼ばれたインド成金たちの功績があったが、彼らはインドから乳母、下男、料理人その他の使用人たちを引き連れてインドを離れることが多かったそうだ。その結果、主人について未知の国イギリスに定住することになったインド人たちの運命には悲喜こもごもいろいろあったらしい。
またそれとは反対に、インド各地の王族たちの宮殿で雇われて働くヨーロッパ人の料理人たちも少なくなかったという。当時の彼らは建築や教育文化その他の面においてイギリスをはじめとする欧州に対する関心が高まっていたが、食事についてもそれは例外ではなかったようだ。
イギリスではインドからもたらされた未知の刺激的な料理はなかなか評判であったようで、手に入る食材で彼らの好みに合わせて作ったのがイギリスのカレーとなり、日本のカレーはここに由来していることは広く知られているとおり。
またウスター・ソースの発明についても少なからずインドとの縁があることについてもこの本に記されている。元ベンガル総督のマーカス・サンズ卿がウスター市でアジアとアメリカから輸入した薬種やと食料品などを扱う店に立ち寄り、お気に入りの『インドのソース』を作ることを依頼した。店の者が言われた通りのレシピで調合して出来上がったものについて、注文した当人は満足したものの、店側は大量に作ってしまったソースは他に売れそうもないことから地下室に仕舞い込んでその存在さえも忘れていた。しかしあるとき放置された樽から芳香が立ち込めているので味見してみるとすっかり熟成したソースがとても美味なものに変身していることに気がつき、これを大量生産してみたところ大当たりの定番商品になったのだということだ。だがオリジナルのウスター・ソース、日本のそれとは材料はもちろん利用方法も大きく異なるようだが、カレーライスと同様にイギリス経由で日本に持ち込まれたインド系アイテムと見ることができるだろう。
東インド会社時代には積極的にインドの食文化を吸収していたイギリス人たちだが、1875年の大反乱以降は伝統的な英国式の食事への回帰を志向するようになったのだという。支配者としての威厳が揺らいだことを機に、食事のみならず生活スタイル全般において自らの伝統的な価値観への回帰が著しく進んだらしいが、これを可能にしたのは男性のみらならず女性を含めてイギリスから渡ってくる人々が増えるとともに欧州製の物資量も増加した。特に缶詰の発明と普及により、『金属臭い』ものであったとはいえ本国直送の食べ物が手に入るという流通面での変化があったことも大きいらしい。そのころには蒸気船が導入されており、エジプト経由で陸路からインドに向うルートが開設されるようになるなど、英印間の交通の便もだいぶ改善されていた。
またチャーイ普及の歴史についてもかなりのページが割かれており、今では人々の生活の一部となっているお茶の習慣が、以外に新しいことについて驚く読者も少なくないことだろう。20世紀初頭、インドはすでに世界最大の紅茶輸出国になっていたにもかかわらず、まだインドの人々の大半の間では紅茶のいれ方は知られていなかったし、それを飲む習慣も定着していなかったという。
しかし、元来輸出志向でイギリスをはじめとする欧州各地での消費を念頭に置き栽培されてきた茶だが、このあたりの時代になるとおそらく作付面積、栽培技術、流通手段等の向上により、在庫にダブつきが見えてきたのだと思う。紅茶業界は、まさにそれを生産しているお膝元が同時に潜在的な巨大市場であることにようやく目をつけたようだ。それでも当時は親英的な富裕層を除き、この新しい飲み物に懐疑的な人々は少なくなかったらしい。1930年代にはまだインド紅茶協会という団体が各地を回り、お茶の普及キャンペーンをしていたという。また彼らこそが鉄道駅に初めてチャーイ売りを導入した仕掛け人であったともいう。当時ほぼ完成していた広大なネットワークを通じて全土に広がっていくきっかけになったという。当時の鉄道駅の食堂同様に、が『ヒンドゥー用』『ムスリム用』と分かれた売り子たちが『ガラム・ガラム・チャーイ』と駅構内を闊歩していたようだ。
書名にある『インドカレー』のみならず、植民地期の食文化広範囲に及ぶさまざまなトピックについて論じられるとともに、当時のイギリス人をはじめとするヨーロッパ人たちの生活ぶりにも触れられていて興味深い。植民地時代のアングロ・インディアンたちの料理、ムガル皇帝に供されたデザートといった珍しい食べ物の調理方法も紹介されている。料理というものは、実物食べたことがないと往々にして本物とは似ても似つかない奇妙なものが出来上がってしまうものだが、敢えて『歴史的なレシピ』挑戦してみるのも楽しいかもしれない。
ヨーロッパ人たちの到来から現在に至るまでの『インド飲食誌』としてのこの本、グルメの方々のみならずインド好きの皆さんに広くオススメの一冊である。
インドカレー伝
(原題:Curry a biography)
リジー・コリンガム著 東郷えりか訳
河出書房新社
ISBN4-309-22457-1

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