ジャスワント・スィン 著作とBJP除名

財務大臣、外務大臣、国防大臣といった要職を歴任したラージプート出身で軍歴も持つ大物政治家、ジャスワント・スィンがBJPから除名処分を受けたというニュースが流れたのは一昨日のこと。
ヒンドゥー右翼政党にありながらも世俗的なスタンスで知られ、BJP幹部の中ではRSSでのキャリアを持たない異色の存在でもあった。
71歳のご老公が党を追われることになった原因は、つい先日発刊となった彼の著書Jinnah India-Partition Independenceにおける隣国パーキスターン建国の父、ジンナーに関する記述だという。
Jinnah : India-Partition Independence
この件についてはいろいろ報道されているところだが、まだその本自体を読んでいないので何ともいえないが、要は党として看過できない内容が書かれているということになっている。
2005年に同党のL.K.アードヴァーニーがパーキスターンを訪れた際、現地でのジンナーに対する言及も大きな騒動を引き起こしたことを思い出される。
Advani salutes ‘secular’ Jinnah (2005年6月4日 The Telegraph)
BJPのリーダーたちにとって、祖国を分離へと導いた立役者であったジンナーに対する肯定的な姿勢はまさに禁じ手ということになるにしても、あまりに短い時間でこうした動きになるのは、彼を追い落とすために、こうした機会がめぐってくるのをじっと待って雌伏していた勢力が党内にあったのかもしれない。
ところでジャスワント・スィンは、自身のウェブサイトを運営しており、今回の顛末について彼なりの意見等が表明されるのかもしれない。
なお、このサイト上には彼に対するリクエストや意見等のメッセージを送ることができる機能も付いており、それに対して『本人から3日以内に返事がもらえる』ということになっている。
BJP内部でどういう動きがあったのか、彼がどういう立場で政治活動を続けていくのか、今後メディア等による続報や分析などが伝えられることだろう。今後の成り行きを見守りたい。
Jaswant Singh

トラ死すとも・・・

インドの隣国スリランカ。LTTEの最高指導者、プラバーカランが死んだ。スリランカのタミル人反政府組織が国軍に降伏したことが報じられた直後、後は彼の身柄拘束がひとつのカギとなる・・・と伝えられたものの、実はその時点で彼はすでに殺害されていた。
2008年11月24日に『キリノッチはどうなっているのか?』で取り上げたことがあったが、2004年の内部分裂以降弱体化していたLTTEに対し、昨年1月に政府は停戦破棄を通告、特に同年後半から政府は国軍による攻撃をエスカレートさせ、力によるLTTEの粉砕の意思を明らかにしていた。
近隣国ということもあり、インドのマスコミにもたびたびLTTEにまつわる記事が掲載されているのを目にした。スリランカ国軍によるこの時期からのLTTE実効支配地域へ進攻について、これを『これが最終的な局面へと繋がるだろう』と読んでいたようで、決定的な展開へのシナリオを掲載するメディアもあり、ほぼその予想どおりに事が運ばれていったといえる。
しかしながら他国のメディアでは、その後スリランカ情勢について、たいした報道をしていなかった。11月下旬に開始された当時のLTTE実効支配地域の『首都』であったキリノッチ攻略により、LTTEが本拠地を東へと移動していくことになる。
今年の年明けあたりだっただろうか、彼らが民間人を『人間の盾』として立てこもっていることが次第に広く伝えられるようになり、日本のメディアにもそうした状況が少しずつ報道されるようになってきていたところである。
1983年に本格的なゲリラ闘争に手を染めて以来、海外のタミル人組織や旧東側ブロックの国々からの武器調達等により、正規軍顔負けの戦闘能力と、都市部等においては爆破テロ等で揺さぶりをかけるなど、スリランカにおいて非常に大きなプレゼンスを示してきた。
それだけに、ラージャパクサ大統領率いるスリランカ当局が、LTTEが弱体化してまだ回復しておらず、『テロとの闘い』という建前が反政府組織殲滅に当たる国軍の暴虐に対する非難に対する護符として使えるこの機を逃してなるものか、と一気呵成に片付けてしまうという賭けに出た。
当初から予想された欧米その他先進国等から批判と反発を浴びつつも、非常に満足のいく結果を得たということになるのだろう。
26年間、国軍を向こうに回して闘い続けてきたトラは死んだ。しかし対話による和解ではなく、力による粉砕という手段を経ての反政府組織殲滅は、果たして同国の安定をもたらすのだろうか。
長年に渡って彼らが撒いて来た『テロリストの種』は、静かに水を含んで殻を膨らませ、あちこちで小さな芽を吹いているかもしれない。あるいはすでに蔦を伸ばして新たな居場所を模索しているのではないだろうか。

中央政権継続へ

昨日、世界最大の選挙、インドの下院選の結果が出た。
国民会議派+ : 258
インド人民党+ : 158
左派陣営+ : 24
大衆社会党 : 21
社会党 : 23
ラーシュトリヤ・ジャナター・ダル+ : 4
全インド・アンナ・ドラビダ進歩連盟+ : 10
テルグ・デーサム党 : 9
ビージュ・ジャナター・ダル : 13
ジャナター・ダル : 3
その他 : 20
総数 : 543
国民会議派陣営が前回2004年の総選挙時の234議席から28議席増となり、インド人民党陣営はオリッサの有力政党ビジュー・ジャナター・ダルが離脱した分も含めて前回184から30減である。国民会議派単独でも205で、前回145であったところからの大きな伸びが注目に値する。対するインド人民党は116であった。
選挙前の出口調査では、現政権の国民会議派陣営の勝利の可能性が高いとのことではあったものの、波乱含みであろうことを予想する向きもあった。
国民会議派陣営とインド人民党陣営の拮抗、あるいはこれらと立場を異にする第三勢力の台頭の予感などから、国民会議派でもなくインド人民党でもない、他の有力政党が次期政権を成立させるキーとなるであろうという意見が多かったからだ。
たとえば大衆社会党のマーヤワティー党首が『初のダリット出身の首相誕生か』というサプライズの可能性が取り沙汰されるなど、意外な展開となる可能性を示唆する報道もあった。
しかし実際フタを開けてみれば、国民会議派陣営の議席増、インド人民党陣営の議席減、第三勢力は予想ほどには伸張せず、国民会議派陣営の勝利という結果となり、会議派陣営は過半数には届かないものの、今後少数政党を自陣に取り込み新政権を構成することになる。
80年代後半以降、国民会議派が単独で過半数を得ることはなくなり、90年代以降台頭してきたインド人民党と合わせて、二大政党と形容されるようになったものの、現在前者はUPA (統一進歩同盟:United Progressive Alliance)を、後者はNDA(国民民主同盟:National Democratic Alliance)をそれぞれ友好関係にある政党とともに構成して選挙戦を戦い、政権を構成・維持するようになっている。
民主主義やそれを実現する手段の選挙において、マジョリティによる『数』こそが力であり、少数者の意見は切り捨てられる傾向があるが、こうした状況はそうしたマイノリティの声を中央政界に伝えるためには歓迎すべきことかもしれない。
2004年以降現在までの中央政界運営においても、UPA政権内で国民会議派とこれを構成する友党との間での軋轢があったし、外資系企業の労使問題を巡り、閣外協力していた共産党との衝突もあった。
総体として、近年のインドにおいては、大政党が強力なイニシャチヴを取りにくい状態となり、政権内でのコンセンサスに手間や時間がかかるようになっているものの、大政党の周囲に寄り添う形で政権運営に加担する他政党によるチェック機能が働くため、単独の指導者ないしは政党による強引なミスリードが生じにくく、全体に目配りの効いた政治がなされる傾向があると私は感じている。
インドの政治土壌や個々の政治家の問題はいろいろあるにせよ、世界第二番目の人口大国であり、文化、人種、信条、生活・教育水準等々さまざまな面から、モザイクのような多様性に富むこの国において、独立以来、選挙を通じた民主的な手法にて政権が選出されていることについては、いつものことながら畏敬の念を抱かずにはいられない。
インド近隣国をはじめとする他の途上国を見渡してみても、これがうまく実現できないどころか、『民主主義』という制度そのものが夢物語である国は少なくないし、経済的により高い次元にある国々においても、こうした民主的な手続きの面において、まだまだ未成熟な国は数え切れない。
加えて、軍に対するシビリアン・コントロールがしっかり効いており、これが政治に影響を及ぼさないという点からも、途上国の中では世界有数の安定感という点からも格別で、国際社会がインドに学ぶべきところ、参考にすべきところはとても多いと私は考えている。
Lok Sabha Elections 2009 (THE TIMES OF INDIA)

ネパール王家の行方は?

2月27日金曜日の本日より、ナラヤンヒティ宮殿が博物館として公開されているが、かつてここに起居していた元国王夫妻は目下インドに滞在中。
2008年6月にネパール王室が廃止されたことにともない、それまで『ヴィシュヌ神の化身である王を戴くヒンドゥー王国』ということになっていたネパールが世俗国家となったわけだが、元国王としては王位とそれに付随する財産や権利等とともに、現人神としての神性をも失ったことになる。
そんなわけで、旧王族たちは『一般人』となっているが、ギャネンドラ氏は家族14名を伴って2月25日にジェット・エアウェイズのデリー便にて出国。インドに2週間滞在する予定だ。
王位を失ってから初めての外遊だが、以前のように外交旅券を手にすることはできず、今回からは一般の緑の表紙のパスポートを持つ民間人の立場だ。随行員の数も大幅に縮小しているとのこと。
目的は、ボーパールで催される親族の結婚式に出席するためである。現在62歳のギャネンドラ氏の祖父、故トリブヴァン国王には二人の王妃があり、3人の王子と4人の王女をもうけたが、その中のひとりバラティ王女は現在のオリッサ州にあったマユルバンジ 藩王国のプラデイープ・チャンドラ・バンジ・デーオのもとに嫁いでいる。
その娘のひとりであるコールカーター生まれのパドマ・マンジャーリーが、やはりオリッサ州の旧藩王国カラハンディーの元王家に属し、現在ジャナタ・ダルの政治家のウディト・プラタープ・デーオと結婚している。
このたび、この夫妻の娘であるシュリー・マンジャーリーが、やはり旧藩王国の血筋を引くバンワル・アナント・ヴィジャイ・スィンと結婚することになった。ネパール元国王夫妻が出席する2月28日から3月1日にかけて開かれるウェディングには、インドおよびネパールの旧王族や政治家たちが多数顔を揃えるとのことだ。グジャラート州首相のナレーンドラ・モーディー、マッディヤ・プラデーシュ州首相のシヴラージ・スィン・チョーハーンといった大物たちの出席も予定されている。
なお結婚式の後には、元国王家族はグジャラートのソムナートおよびドワルカの寺院を参拝するとのことだが、それだけではなくソニア・ガーンディー、カラン・スィン、L.K. アードヴァーニーといった有力政治家たちとの会談も予定されているとのこと。すでに権力を失っているとはいえ、今回の訪印に何か期するところがあるのだろうか。
『一般人』になったとはいえ、抜きん出たステイタスを持つVIPであることは間違いなく、近年の政治動向からすこぶる萎縮してしまったとはいえ、背後に控える王党派の存在とともに、今後もネパールや周辺国において、一定の影響力を持つ存在であることはそう簡単には変わらないだろう。
その潜在力があるうちに、元国王自身ならびに旧王族たちが、自らの将来のためにどういう選択肢があるのか、それらを踏まえて今後どういう動きに出て行くのか、ちょっと興味のあるところである。
一般の市民とは異なる特別な存在であった王家が、やはり今後も他とは違うステータスを維持すべく、自国ネパールの社会のどこに自らの新たな居場所を築いていくか、あれやこれやと機会を覗いながら模索しているのではないかと思われる。
ギャネンドラ元ネパール国王
Gyanendra arrives in Bhopal for wedding ceremony (indopia)
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※『新加坡的印度空間?』は後日掲載します。

軍人ガーンディー

ちょっと古いもので恐縮だが、昨年12月22日のヒンディー紙『サンマールグ』にてこんな記事があった。
1889年に英軍に所属していたマハートマー・ガーンデイー
救護部隊所属で優れた業績により表彰
非暴力運動の指導者は、彼がまさにその人生を賭けて打倒した帝国主義の、その尖兵の軍服に身を包んでいた時期があったという、これまでほとんど知られていなかった事実をこのほど防衛省が明らかにした。
防衛省が発行する機関誌『軍報』が2009年1月2日に創刊100年を迎えるにあたって発行する記念号では、歴史の影に埋もれた貴重な史実に光を当てており、その中にガーンディーが英軍の救護部隊の業務に従事したことについても触れており、アフリカでのボーア戦争終了後、彼はその優れた業績により表彰されたとのことだ。
この記事によれば、ガーンディーが軍に入隊すること、加えてそれを自らの軍隊であると認識することは、ガーンディーとイギリス双方に取って困難なものであった。しかしこの時代の状況下、いたしかたないものであった。救護部隊の創設は、ガーンディーの提案によるものであったと伝えられている。当初、イギリス当局はそれを鼻にもかけなかったが、ガーンディーに共感する行政幹部がいたことから、これが実現する運びとなる。
ガーンディーがどうして英軍に参加したのか、その目的が何であったのかについても、この軍報100年記念誌で綴られる。ボーア人たちのふたつの共和国(トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国)がイギリスによる干渉を嫌ったことに始まった戦争において、2万8千人の兵士を擁するイギリスは、4万8千人もの兵隊を抱えるボーア人の軍隊の前に劣勢。
こうした情勢下、イギリスは自らの最も優れた司令官たちをその戦いに投入せざるを得なかった。その時期にガーンディーは救護部隊の創設を思いついた。この時期、イギリス兵とインド兵がともに力を合わせて闘うということは考えられなかったが、最終的にこの部隊が結成されることとなった。
ガーンディーはこの部隊の所属となる。そこには800名の契約労働者を含む1100人のインド人たちがいた。イギリス人指揮官はこの部隊の勇敢な仕事ぶりを称えた。彼らは、25マイルもの距離を徒歩で進み、新任の最高司令官ロバート閣下の戦死した息子の遺体を搬送したと伝えられている

以下、この記事に掲載されていた写真である。右の円の中が当人であるのだとか。
20090114-gandhiji.jpg
ガーンディーに軍歴があったとは知らなかった。ニュースの出所はしっかりしているのかもしれないが、一般に知られている彼の履歴とちょっと整合しない部分があるようだ。
1869年生まれのガーンディーは、彼が従軍したとされる第二次ボーア戦争開戦の1889年10月に20歳になったばかり。この戦争が終結したのは1902年の5月。
しかしガーンディーは、18歳になった1887年にロンドンに渡り、法曹界を目指してロンドンにて勉強を始めており、1893年には南アフリカで弁護士として開業している。
留学を始めてから最初の2年間を除き、法曹界で身を立てるための留学・修養期間と重なる。
もっとも戦争期間中を通じてずっと軍に身を置いていたのかどうかについては、この短い記事中では触れられていないし、ガーンディーのような精神的にも能力的にも卓越した人物の行動を凡人のモノサシで測ること自体が大きな誤りであるのかもしれない。詳しくは当の軍報の創刊100年記念誌(今月2日に発刊されているはず)に掲載されているのではないかと想像される。もしこれを手にする機会に恵まれたならば、ぜひそれをじっくり読んでみたい。
ただちょっと不思議なのは、まさかその『100周年記念』のネタとして、『軍人ガーンディー』を何十年間も封印してきたのではあるまいし、どうしてまた今になってそんな話が出てきたのだろうか?