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カテゴリー: politics

  • マニプルへ4 Japan War Memorial

    マニプルへ4 Japan War Memorial

    モイランの町の食堂で簡単な昼食を終えて外に出るとクルマがいない。運転手の携帯にかけてみると、『警官に移動を命じられまして・・・』などとブツブツ言いながら、店の前に戻ってくる。どうせ小一時間くらいはヒマになるとみて、テキトーにフラついていたのだろう。

    ともあれ、携帯電話の普及は、こうした運転手たちにとって、得意先(ホテル、旅行代理店その他手配師等)から話がダイレクトに飛び込んでくる効果があったり、私たちのような一見の客が「それじゃあ明日もよろしく」と依頼したりすることもありえるなど、より多くの仕事の機会を得ることを可能にしたといえる。同時に、運転手としての仕事の中での空き時間の自由度が増したという副次的な効果も生んだということにもなるだろう。

    Japan War Memorialの記念碑

    国道150号線でインパールに戻る途中にあるJapan War Memorialを見学。この場所にあるのは、気まぐれでも地価が安い(市街地から遠く離れている)からでもなく、まさにこの場所が戦跡であるからだ。War Memorialのすぐ裏手に通称「レッド・ヒル」と呼ばれる丘があるが、往時の日本軍はここに一時的な拠点を構え、道路と反対側のより小さな丘には英軍が集結していた。この狭いエリアで両軍入り乱れる熾烈な戦闘が展開された。両軍の大勢の兵士たちが血を流したことから、レッド・ヒルと呼ばれるようになったのだという。

    「レッド・ヒル」と呼ばれる背後の丘

    比較的新しい現代的なモニュメントは平成6年に造られたものだ。日本の建築会社が施工したことを示すプレート等がはめ込まれている。清掃は行き届いているものの、おそらく建造されてからきちんとしたメンテナンスはなされていないのだろう。かなり荒れている印象だ。

    「レッド・ヒル」から見て道路を挟んだ向こうにある丘に英軍が陣取ったのだとか。

    その背後には、モニュメント建造以前からの慰霊塔があり、日本軍の残した砲身も残されていた。砲身に刻まれている文字は錆で消えかかっているが、それでも何とか「大阪・・・昭和16年・・・」と、部分的に読み取ることはできる。

    慰霊塔
    旧日本軍が使用していた重機
    「大阪・・・昭和16年・・・」とかすかに読める。

    ここの管理人は話好きな人で、いろいろ話してくれた。もちろんこの人は戦時を知る世代ではなく、人々から伝え聞いた二次情報、三次情報なのだが、当時の戦闘の事柄はもちろんのこと、ここを訪れる日本の戦友会の人々のこと等について、いろんな予備知識を披露してくれた。

    後世の私たちから見れば、無益な戦争のため、不幸にして往々にして若い年齢で亡くなった兵士たちに善悪の区別はない。出身国の異なる同年代の人々が、戦場という場所でたまたま敵味方に分かれて対峙したばかりに、上官の命令に従って殺戮を繰り広げるという理不尽さ、戦争という国家による愚かな過ちが今後繰り返されることがないように願うばかりである。

    だが過ちであったということ自体が風化してきて、日本が過去にかかわった戦争やそれにまつわる犯罪行為を美化するかのような風潮が高まりつつあることについて、懸念を抱かずにはいられない。

    日本で、原爆記念日、終戦記念日といった時期にさしかかると、テレビでは戦争にかかわる記念番組が放送されるのは毎年のことだが、今や戦争体験を自らのものとして一人称で語ることのできる人がとても少なくなった。こうした世代が社会の第一線から退いて長い時間が経過していること、その体験を伝える声が世の中の人々に届かなくなって久しいことも大きな要因のひとつだろう。

    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文

    インパールのJapan War Memorialには、かつてインパール作戦に従軍した兵士たちの様々な思いが詰まっているに違いない。この地で無為な戦闘のために大切な命を失った両軍の関係者たちに黙とうを捧げたい。

    慰霊碑

    <続く>

  • 迫り来る中国の悪夢

    最近のネパールの新聞のウェブサイトも『見せ方』や『読ませ方』をずいぶん研究しているようだ。Nepal Republic Media 社が発行している英字紙Republica、ネパール語紙のनागरिकともに通常のウェブ版以外に、実際に市中で販売されているものと同じ紙面をネットで閲覧できるようになっている。

    ところで、11月29日付のRepublicaの第3面左上の囲み記事をご覧いただきたいと思う。あるいは通常のウェブ版でも同じ文面が掲載されているのでご参照いただきたい。

    China eager to bring train service to Lumbini (Republica)

    中国を訪問したシュレスタ副首相兼外務大臣が帰国時に立ち寄った香港でのインタビューの要旨とのことである。短い記事ながらも、中国による気前の良い援助攻勢により、ネパールがどんどん北京に引き寄せられている様子が窺える。

    2年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国によるネパールへの鉄道建設のオファーについて取り上げたが、11月29日のRepublicaのこの記事の中で、ネパールと中国の両国が鉄道建設のための調査を開始することで合意に至ったことが明らかにされている。

    ここで言うところの『鉄道』とは、2006年にラサまで開通している青蔵鉄道のことで、ネパール側はとりあえず首都のカトマンズまでの延伸を主張しているが、中国側はルンビニーまで延長することを目論んでいる。

    もちろん建前としては中国が執心しているルンビニーの観光開発ということもあるはずだが、『世界の工場』たる中国にとっては、大量輸送の有効な手段である自前の鉄道を自国以外のアジアでもうひとつの巨大市場を目前にする場所まで引っ張ってくることにより『将来が大いに楽しみ』ということになる。

    だがインドにとっては、自国産業の保護という観点よりも、むしろ自分たちの主権の及ばない隣国に、長年の敵国である中国が深く食い込んでいくことについて安全保障上のリスクが懸念されることはもちろんだ。こともあろうに自国との国境のすぐ向こうのルンビニーまで『中国の鉄道が乗り入れる』となれば、まさに悪夢以外の何物でもない。

    これまでのどかだったインド・ネパール国境だが、中国の鉄道がルンビニーまで延伸されることになり、またネパールにおける中国のプレゼンスが今後さらに増していくことになれば、それそうおうの厳重な警戒が必要となってくる。当然、軍備面でもそうした措置が求められるようになる。

    中国という狡猾で危険な国に、インドから見れば文字通り血を分けた兄弟であるネパールが取り込まれつつあることについては、親中国のマオイストたちが現在のネパール政界に強い影響力を持っていることもあるが、インドのほうにも責任がないわけではない。

    ネパールが『腹黒そうだが今のところは気前が良くて面倒見も良い兄貴分』になびいてしまっている背景には、長年の付き合いの中で『横暴かつ財布のヒモが固くて冷淡な長兄』に愛想を尽かしてしまっているという部分も否定できない。ネパールに関して、いずれインドは高い代償を支払わなくてはならないだろう。

    中国とインドの狭間で、現代のグレート・ゲームの舞台のような具合になっているネパールは、両国の間でうまく立ち回り、上手に利益を引き出していくことになるのか、それとも今後は前者に従属的な立場になっていくのだろうか。

    長年、強い絆のあるパーキスターン以外の南アジアの国々に対して、近年様々な形での積極的に外交・援助を展開している中国。インドにとって安全保障上の大きな脅威である中国だが、それとは裏腹に中国にとってインドの存在はそれほどの重さを持つものではない。インドにとってかなり分が悪いことは言うまでもない。

  • UP州 四分割へ

    2000年に州北西部のヒマーチャル・プラデーシュ州とネパールの間に挟まれたエリアをウッタラーンチャル州(現ウッタラーカンド州)として分離させたウッタル・プラデーシュ州(以下UP州)だが、今度はさらに四分割されることになるようだ。

    UP Assembly passes resolution on state’s division into four (INDIA TODAY)

    西側がデリー首都圏に隣接するパシチシム・プラデーシュ、その東側にアワド・プラデーシュ、その南にブンデールカンド、現在のUP州東部はプールヴァンチャルとする法案が、本日11月21日にUP州議会を通過した。州の分割について今後は中央政府の判断に任せることになる。

    現与党の大衆社会党(Bahujan Samaaj Party : BSP)党首で、州首相でもあるダリット出身のマーヤーワティーによる、2012年4~5月にかけて予定されている州議会選挙を念頭に入れた策略であるとする野党側の声は高い。

    だが先述の2000年に分離したウッタラーカンド州地域を除けば、英領時代のUnited Provinces of Agra and Oudh(略してUP)が、独立後もほぼそのまま継承されたUttar Pradesh (略称同じくUP)は、現在1億9900万人超の人口を抱える巨大な州である。なんと人口世界第5位のブラジル(1億9500万人)を凌ぐ数字だ。

    デリー首都圏からほど近く、工業地帯として発展したノーエダーを擁する西部は、後進地域であるその他の地域から切り離したほうが将来の展望は明るいと思われるため、それを希望する意見は従前からあった。

    その他、現在のUP州都であり、アワド王国の古都としても知られ、北インドの文化の中心地のひとつでもあるラクナウーがそのまま新州都として移行するのであろうアワド・プラデーシュは豊かな穀倉地帯だ。

    同じく農耕地の広がるプールヴァンチャルは、隣州ビハールにつながるボージプリー話者が暮らす地域だ。先に挙げたふたつに較べると有力な産業を欠き、開発の遅れたエリアということになる。

    以前から分離要求の声が最も高かったのは、現在のUP州の中で最貧地域であるブンデールカンドだ。人口中にダリットが占める割合も高く、州の現与党であるBSPの大票田としても知られている地域だ。

    もちろんマーヤーワティー率いるBSPにはしたたかな計算あってのことには違いないとはいえ、ひとつの州が『世界的な大国並み』の巨大人口を抱えていることは、政治への民意の反映や施策への民意の汲み上げを困難にするし、行政の効率上も好ましくない。

    さらに露骨な言い方をすればUP州西側の先進地域パシチム・プラデーシュにとっては、『その他の地域を食わせてやる』義務から解放されて今後勢いの良い成長が期待できるということになるし、州内では比較的豊かなアワド・プラデーシュにとっても『余計なお荷物が減った。今後は自分のことに専念できる。』ということになる。反対にこれまで州の後背地であったブンデールカンドとプールヴァンチャルは、それぞれ独自の州としての地位を得ることにより、自主性・主体性を持った開発が可能になるとも言えるだろう。

    地域的なカラーが著しく異なる(ゆえに分割という論にたどり着くことにもなるのだが)がゆえに、UPの有力政党がそれぞれの地域でうまく棲み分けをすることにより、不毛な政争を避けて、それぞれが本来なすべき仕事に注力できるようになる・・・としては期待しすぎだろうか。

    独立以前から有力な政治指導者たち、イギリスが去ってからは歴代の首相や政界の重鎮たちを輩出してきたUP州の政治的な重みは失われてしまうが、このUP分割はそれでも『遅きに失した』感さえある。

    今後、UP州分割がどのように進展していくのか目が離せないし、はなはだ失礼であることを承知で言えば、分離したそれぞれの地域がどのような成長あるいは停滞、発展あるいは混乱を呈していくのかといった野次馬的な興味も尽きない。

  • チェルノブイリは今

    チェルノブイリは今

    今年の9月に、チェルノブイリの現状を写真と文章で綴った本が出ている。

    ゴーストタウン チェルノブイリを走る

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    ゴーストタウン チェルノブイリを走る

    http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0608-n/

    集英社新書ノンフィクション

    ISBN-10: 4087206084

    エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワ 著

    池田紫 訳

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    1986年に起きた原発事故から四半世紀が経過したチェルノブイリにガイガーカウンターを持ち込んで、バイクで駆ける写真家エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワがチェルノブイリの現状を伝えるウェブサイトを日本語訳した書籍だ。

    汚染地域に今も残る街や村。すでに暮らす人もなく朽ち果てていく建造物。家屋の中にはそこに暮らした家族の写真、子供たちの玩具が散乱しており、役場等にはソヴィエト時代のプロパガンダの跡が残っている。

    ソヴィエト時代、原発事故が発生する前のチェルノブイリは、中央から離れた周辺地であったが、それでも整然とした街並みや広い道路、広大な団地、病院その他公共施設、遊園地、映画館といった娯楽施設等々の写真からは、社会主義時代に築かれたそれなりに豊かであった暮らしぶりがうかがえる。

    人々の営みが消えてから久しい現地では、それとも裏腹に豊かな自然が蘇り、もう人間を恐れる必要がなくなった動物たちが闊歩している様子も記録されている。

    一見、のどかにも見える風景の中で、著者はそうした街や集落など各地で放射線量を図り、今なおその地が人間が暮らすことのできない危険極まりない汚染地であることを冷静に示している。

    これらの写真や文章は、著者自身のウェブサイトで閲覧することができる。

    elenafilatova.com

    チェルノブイリに関して、上記の書籍で取り上げられていないコンテンツとともに、スターリン時代の強制収容所跡、第二次大戦期の戦跡等に関する写真や記述等も含まれている。

    私たちにとって、チェルノブイリ原発事故といえば、今からずいぶん遠い過去に、遠く離れた土地で起きた惨事として記憶していた。事故後しばらくは、放射能が飛散した欧州の一部での乳製品や食肉などへの影響についていろいろ言われていた時期はあったものの、自分たちに対する身近な脅威という感覚はほとんどなかったように思う。まさに『対岸の火事』といったところだったのだろう。

    今年3月11日に発生した地震と津波、それによる福島第一原発の事故が起きてからは、原発そして放射能の危険が、突然我が身のこととして認識されるようになる。実は突然降って沸いた天災と片付けることのできない、それまでの日本の産業政策のツケによるものである。曲がりなりにも民主主義体制の日本にあって、私たち自らが選んだ政府が推進してきた原子力発電事業とそれに依存する私たちの日々が、いかに大きなリスクをはらむものであったかを思い知らされることとなった。

    順調な経済成長を続けているインドや中国その他の国々で、逼迫する電力需要への対応、とりわけ先行き不透明な原油価格、CO2排出量への対策等から、今後ますます原子力発電への依存度が高まることは、日本の福島第一原発事故後も変わらないようである。もちろん各国ともにそれぞれの国内事情があるのだが。

    原発事故後の日本では、食品や生活環境等様々な面で、暫定基準値を大幅に引き上げたうえで『基準値内なので安心』とする政府の元で、放射能汚染の実態が見えにくくなっている中で、今も収束にはほど遠く『現在進行形』の原発事故の危険性について、私たちは悪い意味で『慣れつつある』ように見えるのが怖い。

    事故があった原発周辺地域の『風評被害』云々という言い方をよく耳にするが、実は風評などではなく実際に無視できないリスクを抱えているということについて、国民の目を塞ぎ、耳も塞いでしまおうとしている政府のやりかたについて、被災地支援の名の元に同調してしまっていいものなのだろうか。

    これまで原子力発電を積極的に推進してきた日本の政策のツケが今になって回ってきているように、見て見ぬ振りをしていたり、『どうにもならぬ』と内心諦めてしまったりしている私たちのツケが、次の世代に押し付けられることのないように願いたい。

    同様に、これから原子力発電への依存度を高めていこうとしている国々についても、将来もっと豊かな時代を迎えようかというところで、予期せぬ事故が発生して苦しむことにならないとも言えないだろう。今の時代に原発を推進していこうと旗を振っていた人たちは、そのころすでに第一線から退いているかもしれないし、この世にいないかもしれない。一体誰が責任を取るのか。

    もっとも今回の原発事故で四苦八苦しており、原子力発電そのものを見直そうかという動きになっている日本だが、それでも他国への積極的な売り込みは続けており、すでに受注が内定しているベトナムでの事業に関するニュースも流れている。

    チェルノブイリが残した反省、福島が私たちに突き付けている教訓が生かされる日は、果たしてやってくるのだろうか。

  • 国境の飛び地問題

    しばらく前のことになるが、India Today誌を読んでいたら、隣国との関係でとても興味深い記事が目についた。インドとバーングラーデーシュの間の飛び地問題である。その記事の英語版が同誌ウェブサイトに掲載されているので以下をご参照願いたい。

    In a State of Limbo (India Today)

    印パ分離独立以来、つまりインド東部が現在のバーングラーデーシュの前身である東パーキスターンと分かれた際、双方の国境線内に両国の飛び地が存在しており、それが後々まで尾を引いており、飛び地の人たちについてどちらの国でも『外国人』として扱われており、事実上の無国籍であった。身分証明書の類も与えられず、医療や教育といった基本的な社会サービスを享受できないままに放置されていたのだという。

    そもそもこうした飛び地が発生した原因とは、印パ分離独立前に地元の藩王国であったクーチ・ビハールとラングプルが、それぞれの王がトランプやチェスでの賭け事の勝敗で土地のやりとりをしたことが原因なのだというから、とんだ為政者もあったものだ。ふたつの藩王国のうち、前者がインド、後者が分離独立時の東パーキスターンに帰属することになったことなったため、飛び地が両国国境をまたいで散在することになってしまった。飛び地問題の解消については、1958年、1974年そして1992年にも合意がなされたものの、実行に移されることはなかったようだ。

    今年の9月になってようやく両国がこれらの飛び地とそこにいる無国籍の人々の扱いについての合意がなされ、双方の領土内の飛び地の交換の実施とそこの人々には国籍選択の自由が与えられることになったとのことで、さすがに今度はそれらがきちんと実施されるのではないかと思うのだが、これらの人々が何らかの理由で、居住している土地の帰属先とは異なる国籍を選択するようなケースには、著しい不利益を被るであろうことは想像に難くない。

    インド側にある飛び地ではムスリムが多く、その反対側ではヒンドゥーが多いとのことである。単純にムスリムだからバーングラーデーシュ、ヒンドウーだからインドという図式ではなく、それまで自分たちを冷遇してきた行政つまり飛び地を内包していた国の政府への不信感とともに、『私(たち)が本来所属するべき国』への期待感(あるいは失うものよりも得るものが多いかもしれないという推測)から国境の向こう側の国籍を選択する例も決して少なくないだろう。とりわけバーングラーデーシュ領内の飛び地の人々にとっては、総体的に経済力の高いインドへの移住が合法となること自体が魅力であろう。

    土地の帰属のみで解消できるものではなく、結果的には一部の人口の流出と受け入れも伴うことにもならざるを得ないように思われる。政府の対応には不満があっても、住み慣れた土地を離れる当事者たちにとっては苦い『第二の分離』として記憶されることになる例も少なくないだろう。

    移住という選択があるにしても、それぞれの人々がこれまで築いてきた人間関係、仕事関係はもちろんのこと、通婚その他いろいろ抜き差しならぬ事情も報道でカヴァーされることのない色々な事例が沢山あることだろう。

    インド・バーングラーデーシュ飛び地問題については、以下のサイトにもいくつか参考になる動画がリンクされている。

    Indo-Bangladesh Enclaves (Indo-Bangladesh Enclaves)

  • バーングラーデーシュ初の原子力発電所建設へ 果たして大丈夫なのか?

    近年、好調な経済成長が伝えられるようになっているバーングラーデーシュ。地域の他国にかなり出遅れてはいるものの、失礼を承知で言えばスタート地点が低いだけに、ひとたび弾みがつけば、今後成長は高い率で推移することは間違いないのだろう。日本からもとりわけテキスタイル業界を中心にバーングラー詣でが続いているようだ。

    これからが期待される同国だが、やはりインフラ面での不安は隠しようもないのだが、電力供給事情も芳しくない。発電電力の約4%は水力発電、他は火力による発電だが、その中の大半を自国産の天然ガスによるものが占めている。開発の進んでいる東部の電力事情はいくぶん良好なようだが、西部への電力供給の普及が課題であるとされる。

    産業の振興、とりわけ外資の積極的な誘致に当たっては、電力不足の克服は是が非でも実現したいところだろう。長らく雌伏してきた後にようやく押し寄せてきた好況の波に乗り遅れないためにも、1億5千万人を超す(世界第7位)人口大国であり、世界有数の人口密度を持つ同国政府には、国民の生活を底上げしていく責任がある。

    そこでロシアと原子力エネルギーの民生利用に関する政府間協定に署名することとなり、2018年までに二つの原子力発電所の稼働を目指すことになった。

    Bangladesh signs deal for first nuclear plants (NEWCLEAR POWER Daily)

    実のところ、この国における原発建設計画は今に始まったものではなく、東パーキスターン時代にダーカー北西方向にあるループプルに建設されることが決まっていたのだが、1971年にパーキスターンからの独立戦争が勃発したため立ち消えとなっている。新生バーングラーデーシュとなってからも、1980年代初頭に原発建設を目指したものの、資金調達が不調に終わり断念している。

    同国にとっては、建国以前からの悲願達成ということになりそうなのだが、折しも日本の福島第一原子力発電所の事故以降、原発そのものの安全性、他よりも安いとされてきたコスト等に対して大きな疑問を抱くようになった日本人としては、本当にそれでいいのだろうかと思わずにはいられない。

    同時に国内であれほどの大きな事故が起きて、その収拾さえもままならないにもかかわらず、また原子力政策そのものを根本的に見直そうかというスタンスを取っていながらも、原発の輸出には相変わらず積極的な日本政府の姿勢についても信じられない思いがしている。ベトナム政府は原発建設を日本に発注することになるのは今のところ間違いないようだ。

    『日本でさえ不測の事態であのようになったのだから・・・』などと言うつもりはないが、大変失礼ながらバーングラーデーシュという国での原子力発電の稼働は本当に大丈夫なのだろうか?

    事故さえ発生しなければ、原発稼働は同国の電力事情を大きく好転させていくことになるのかもしれないが、電力供給の分野でロシアの技術力・資金力両面において、大きく依存しなければならなくなる。

    どちらも憂慮されるものだと思うが、とりわけ前者については大いに気になる。本当に大丈夫なのだろうか、バーングラーデーシュでの原子力発電所の稼働は? サイクロンや水害といった大規模災害がよく起きることもさることながら、頻発するハルタール、その背景にあるといえる政治的な問題、不安定な政局等々、国内の人為的環境面での不安も大きい。

    決して遠くない将来に起きる(かもしれない)大惨事への序章でなければよいのだが。これが杞憂であることを願いたい。

  • インドにとってネパールは『第二のパーキスターン』となるのか?

    しばらく前から、北京に事務局を置く中国政府筋と関係の深い基金によるネパールのルンビニーにおける大規模な開発計画が各メディアによって取り上げられている。

    Nepal to build £1.9 billion ‘Buddhist Mecca’ (The Telegraph)

    China plans to help Nepal develop Buddha’s birthplace at Lumbini (Reuters)

    The Lumbini project: China’s $3bn for Buddhism (ALJAZEERA)

    このことについては、最近では朝日や読売といった日本のメディアによっても書かれており、記事を目にされた方は多いだろう。ちなみにその基金とは、亚太交流与合作基金会である。

    調達予定の資金額は何と30億ドルで、ネパールという国自体の年間の歳入の合計額に比肩するほどのものであるという。上記リンク先のロイターの記事によれば、計画には寺院の建築、道路や空港の建設、コンヴェンション・センター、仏教大学の設置等が含まれるとのことで、これが実行に移されることになれば、今は静かなルンビニーの町の様子が、近い将来には一変していることだろう。

    人類共通の遺産、とりわけアジアにおいて広く信仰されている仏教の聖地が整備されること、観光産業への依存度が高いネパールにおいて、観光資源が開発されること自体は大いに結構なことではあるものの、小国の年間歳入に匹敵するほどの資金を提供しようというプランの背後には、スポンサーである中国の国家的な戦略があることは無視できない。

    ちょうど昨年の今ごろ、ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?』と題して、中国によるネパールへの積極的な進出について取り上げてみた。また一昨年には『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』として、中国の占領地チベット(中国は西蔵自治区を自称)からの鉄道の延伸計画等について触れてみたが、今度はインド国境から数キロという場所であることに加えて、ネパールでマデースィーと呼ばれる人たち、ネパール南部でインドの隣接する地域同様に、マイティリー、ボージプリー等を母語とする人々が暮らす地域に打って出た。

    インドにとっては国境すぐ向こうに『同族の人々』から成る『親中国の一大拠点』7が出来上がってしまうことを意味する。対外的には、特にインドにとっては大いに憂慮されるものであるが、ネパール政府にとっても、この計画は一方的に利を得るものとはならない可能性もある。

    同国で不利な状況下に置かれているマデースィーの人々の地域である。自治権拡大等を求めての活動が盛んで、中央政府に対する反感の強いマデースィーの人々のエリア。そこに外国による国家の歳入に比肩するほどの投資がなされるというのは尋常なことではない。

    現在までは、インドと中国を両天秤にかけて、うまく利益を引き出しているように見えるネパールだが、将来的には対インド関係においても、また内政面においても、同国が『パーキスターン化』するのではないか?と危惧するのは私だけではないだろう。決して好意的なものばかりではない様々な思いを抱きつつも、ときには関係が冷却したこともあるとはいえ、伝統的には特別な互恵関係にあった『身内』のインドとの対立と緊張、自国内でのさらに新たな摩擦と軋轢といった事柄が生じる可能性を秘めており、それらが現実のものとなる時期もそう遠い将来ではないような気がする。

    中国によるネパールへの数々の援助のオファーは純粋な善隣外交の意志からなされているものではなく、まさに自らの国益のためになされているということに対して大いに警戒するべきなのだが、目下、同国議会の第一党にあるのは、インドと一定の距離を置くいっぽう、中国寄りの姿勢を見せるネパール共産党毛沢東主義派である。

    以前、あるジャーナリストの方に話をうかがった際、手を替え品を替えといった具合に矢継ぎ早に繰り出す援助プロジェクト等のオファーにより、中国側に引き寄せられつつあるネパールのことについて、こんな風に表現されていたのを思い出す。

    『ネパールは、南側のインドという比較的ゆるやかな斜面と北側の中国という急峻な崖の間に位置する国。南側に転がれば怪我は軽いけど、北側の崖に転落したらどうなることか。けれども当人たちはそれがまだよくわかっていないようだ。』

    ネパールの空には、ネパール・インド双方に不幸を呼び込む暗雲が、北の方角からじわじわと押し寄せているように感じている。これが杞憂であればよいのだが・・・。

  • たかがトーピー、されどトーピー

    たかがトーピー、されどトーピー

    イマーム・シャーヒー・サイード(左)と声を交わすナレーンドラ・モーディー(中)

    先日、『アーグラーで爆発』の記事の後半部分で、爆発とはまったく無関係だが、グジャラート州首相のナレーンドラ・モーディーの誕生日に開かれた集会について触れた。その場には従来の取り巻き、関係者や支持者たち以外にも、ムスリムその他の様々なコミュニティを代表する面々も集まっており、ステージで彼に挨拶をする様子がテレビで流れていた。

    その中のひとりの聖職者イマーム・シャーヒー・サイードがモーディーにムスリムのトーピー(帽子、キャップ)を提供しようとして、彼に拒絶されるひとコマがメディアに取り上げられて波紋を呼んでいる。聖職者が右のポケットからトーピーを取り出すと、モーディーが慌てた様子で何か言い訳をしながら、これを拒む様子が繰り返し映し出されていた。トーピーを拒絶した直後、聖職者が差し出したショールのほうは受けている。その模様は以下の動画サイトで閲覧することができる。

    Narendra Modi refuses to wear Muslim skullcap during his fast (News24の映像  Youtube)

    ヒンドゥーであっても、政治スタンスが宗教的にニュートラルで、ムスリムの大きな票田を持つ政党の指導者たちは、ムスリム宗教界その他の要人たちと会見する際、親愛の情を込めてトーピーを提供されると、受けた側もそれに応えて被ってみせて親近感を演出するものだ。サマージワーディー・パーティーのムラーヤム・スィン・ヤーダヴ党首、ジャナタ・ダルのニティーシュ・クマール等々が、そうした格好で写っている写真をメディアでよく目にする。

    中央政界進出に意欲を見せており、具体的には近い将来インドの首相になることを視野に入れているとされるモーディーは、自信の61歳の誕生日の誕生日を機に、友愛と融和をテーマにした集会とそれに続き足かけ三日間の断食を実施し、2002年の暴動の際に裏で糸を引いていたと見る人たちもまだまだ多い、彼の負の側面を払拭して、ムスリムその他様々な宗教関係者たちも同席する中、セキュラーなイメージを演出しようとしていた。

    だが、モーディーのそうした動きについて、彼の信条の変化(?)を疑う向きの多いマスコミ関係者たちが、トーピーを拒絶する姿を見逃すはずはなかった。メンツを潰されたイマーム・シャーヒー・サイードからのコメントもすぐさまオンエアーされ、BJPと対立するコングレス陣営からは『減量のための断食だったね』といった揶揄も含めて、厳しい批判の声が上がった。

    たかがトーピー・・・と片付けてしまうのは簡単だが、受け容れたショールは誰もがまとうもの(いかにもイスラミックな柄であったが)であるのに対して、あのトーピーはそれ自体がイスラーム教徒を象徴するアイテムである。モーディー自身にとっては、彼をこれまで支えてきた、そして今後も支えて行くことであろうサフラン色のヒンドゥー極右勢力の反感を買うわけにはいかず、計算づくの行為であったはずだ。こうした場で、トーピーを提供する者が出てくるであろうことも充分予測していたことだろう。

    また、彼にトーピーを差し出してみて、それを被ってみても、あるいはこれを拒絶しても、それぞれ異なる立場の人々から批判の声が上がることは必至であるため、敢えてこれを一種の『踏絵』として仕込む陰謀が画策されていたのかもしれない、などと穿った見方もできるかもしれない。

    他の宗教関係者たちと合わせて、ムスリムの様々な代表者たちが集合している中、彼らの祝福や好意を受け入れて過去の確執や反感を水に流す(流してもらう?)姿勢を見せて、これまでの支持者たち以外からの歓心を買おうと試みると同時に、決して彼らに同調するわけではないというスタンスを従来からの確固たる支持層に対してアピールしてみせたことになる。

    現政権がそのまま任期を全うすれば、次回の中央政権の総選挙が実施されることになる2014年までまだ3年ほどある。現在野党として雌伏しているBJPが政権を再び奪取すると仮定すれば、まさに飛ぶ鳥を落とそうかという勢いがあり、地方政治で有能なステーツマンとしての実績とカリスマ性もあるモーディーという看板は魅力的で、現時点では近未来の首相の最有力に位置していることは間違いない。

    モーディーはともかく、1998年から2004年まで中央政権の座にあったBJP自体も、政権始動期に懸念されていたほど極端な方向にはあまり振れることなく、彼らを危惧する声とは裏腹に、意外なまでに穏当な『中道右派』といった様相で政権を運営していた。これはBJPを支えてきた、いわゆるサング・パリワール内での不興を買うことにもなったのだが。

    今後も機会あるごとに、モーディーはこれまで身に滲みついてきたサフラン色を薄めていこうと試みることだろう。そして2014年あるいは今の連立政権が中途で崩壊するようなことがあれば、それよりも早い時期に『第14代インド首相ナレーンドラ・モーディー』が誕生する日が来るかもしれない。だが彼にとって、ムスリムの人々の前で得意げに彼らのトーピーを被ってみせるのは、自身がインドの首相になることよりも難しいように思われる。

    サフラン色の中に緑色(ムスリム)を取り込んでいくのは容易ではない。グジャラートの2002年の大暴動での痛手の記憶はまだまだ風化しておらず、BJPはもとよりモーディーという人物に対する後者の警戒心を解くにはまだ至らないだろう。また前者サフラン勢力の中では後者へのリップサービスに対する反感もある。

    モーディー自身は、このふたつの色を混ぜ合わせて、どんな絵を描いていくことを意図しているのだろうか。極右のイメージと2002年の大暴動への関与に対する疑惑を除けば、金銭面では清廉で有能な為政者であることは、すでに州政治において実証済みだ。経済面での行政手腕については、大いに魅力的で将来性が非常に高い人物であるだけに、その腹の底で何を企図しているのか不安にもなるのは、ムスリムだけではなく、従前から彼を支持してきた層も同様だろう。

    インドの近未来を左右するであろう人物のひとりであるだけに、今後とも彼の動きから目が離せない。

  • アーグラーで爆発

    9月7日に起きたデリー高等裁判所での爆弾テロの記憶も新しい中、昨日9月17日夕方にアーグラーのジャイ・ホスピタルのレセプション付近で爆発が起き、15名が負傷、うち3名が重体と伝えられている。

    現在までのところ犯行声明等は出ていない。また爆発物や犯行手段が特定されていないためテロと断定されてはいないものの、状況に鑑みて事故ではなく事件としての捜査が続いている。

    Agra blast: City had specific intelligence alert (Rediff.com)

    元々、地域の社会構成等から『センシティヴなエリア』でもあり、20日ほど前から治安当局が警戒していたということではあるが、テロに関わる可能性がある小さなグループが点在しており、そこに出入りする者たちが爆発物を製造していた可能性がある・・・等の噂ともつかない情報と合わせて錯綜している。

    爆発の規模は小さく、混雑したバーザールで起きたわけでもないため、被害の規模は決して大きなものではなかったが、こうした事件が起きるごとに「また彼らが・・・」「たぶんあの人たちが・・・」といった具合に、決して事件には関係のない特定のコミュニティに対する不信感、猜疑心は深まっていくことは否定できない。

    日本の主要メディアでも報じられたアンナー・ハザーレーの汚職運動と合わせて、国民会議派を中心とする連立政権にとって不利な状況が続いている。ローク・サバー選挙で2度の敗北、サング・パリワール内での不協和音、BJP党内でのパワーゲーム等の関係もあり、しばらく雌伏を余儀なくされているサフラン勢力が、力を盛り返しつつある様子もうかがえる。こうした中で、ひとつひとつの出来事の積み重ねが近い将来の政局に与える影響は決して小さくないだろう。

    同じ9月17日に、グジャラート州首相のナレーンドラ・モーディーは61歳の誕生日を迎えている。彼の就任前、2001年1月にカッチ地方を襲った大地震からの復興、グジャラートの高い経済成長等、彼の行政手腕は高い評価を得て再選され在任2期目にある。

    彼は、極右的なスタンスの政治家の中で最も人気の高い人物のひとりである。彼の州首相就任後間もない2002年にアヨーディヤーからサバルマティ・エクスプレスで帰還途中のヒンドゥー右翼活動家たちが大勢乗り合わせていた車両が州内のゴードラー駅に停止していたとき、地元のガーンチーと呼ばれるコミュニティのムスリムたちが襲撃し、車両に火を放ったことに端を発したグジャラートの大暴動を抑えることができなかったばかりか、これを陰で大いに煽っていたと信じている人々は今も多い。

    この暴動の際、地元選出の元国会議員でムスリムのエヘサーン・ジャフリーも命を落としている。グジャラート州の国民会議派組織の重鎮であった人物であるのにもかかわらず、本人の度々の要請にもかかわらず警察が動かず、自宅に押し寄せた暴徒に殺害されることとなった。

    余談になるが、ゴードラー駅での列車襲撃事件の際、乗り合わせたほとんどの人たちが亡くなったのは、国鉄の客車車両前後のドア以外からは出入りすることのできない構造が原因であったため、その後はノンACクラス、ACクラスともに車両真ん中の窓からは緊急時に脱出できる造りに改められることとなった。

    グジャラートの大暴動から10年近い歳月が経過し、昨日彼の61歳の誕生日に合わせて開かれた政治集会では、インドのニュース番組でも取り上げられていた。同州の複数のムスリムコミュニテイの代表たちも招待され、ステージでナレーンドラ・モーディーの誕生日を祝福するシーンもあり、彼らとの融和を演出する試みがなされていた。 加えて、彼は昨日から『人々の友愛と融和のため』と称して3日間の断食を実行中である。

    グジャラート州での行政手腕の実績を背景に、上げ潮の勢いのナレーンドラ・モーディーは、イメージチェンジを図るとともに、国政への進出に意欲を見せており、グジャラート州外でも将来のインド首相として期待する層も多い。このところ相次ぐテロと合わせて、何か不安なものを感じずにはいられない9月17日であった。

  • ラージ・タークレー ヒンディーで答える2

    さて、ラージ・タークレーはシヴ・セーナーから飛び出した後も、バール・タークレーに対する敬慕の念を表明しており、自分こそが彼の思想の正当な後継者であると主張していることからも明らかであるように、MNSの政党としてのスタンスはシヴ・セーナーと根本的には大差ないし、支持層の厚い地域もムンバイー市内及び沿岸部という点で共通している。

    違いといえば、党としての規模が小さいことと、それなりに歴史のある『本家』シヴ・セーナーに比べて、幹部や支持者は若年層が多いこと、そして地域主義に加えて『サフラン色』のイメージが濃いシヴ・セーナーに比べるとかなり宗教色が薄いことだ。地元のマラーティーを母語にするムスリムコミュニティの一部からの支持も取り付けていることは特筆すべきだろう。今のところは、マハーラーシュトラ州外に影響力を及ぼすという野心は希薄であるようだ。ゆえに地元『マラーティー主義』に全力を注ぐことができるという強みはある。

    昔は風刺漫画家としても知られていた叔父のバール・タークレー同様、ラージ・タークレー本人も画才には自信があるようで、MNSのウェブサイトで彼の作品を閲覧することができる。

    話は冒頭に戻る。昨日取り上げてみたラージ・タークレーのインタヴューである。

    मोदी के गढ़ में हिंदी भाषी बने राज ठाकरे (AAJTAK)

    彼は、メディアの取材にはたいていマラーティーのみで応じることで知られているだが、8月上旬にグジャラート訪問の際にヒンディーによるかなり長いインタヴューに答えた模様がニュースで流れていた。

    「ラージ・タークレーがヒンディーによる取材に応じています」とリポーターが喋り、彼は最初少々はにかみながらテレビカメラの前に姿を現す。

    彼は、ヒンディーという言葉に対する敵愾心はない。マラーティーを母語とする地元ではマラーティーを使うべきだ。私はグジャラートに来ているが、グジャラーティーは出来ないのでヒンディーを使うことにしているetc.といった具合に、ヒンディーで応じている理由に触れた後、州都ムンバイーを初めとするマハーラーシュトラ各地に労働者たちを送り込んでいる北部州に対する批判を展開している。

    リポーターが「ムンバイーの経済を支えているのは北部の労働者たちではないですか?」と水を向けると『彼らが大挙してやってくるのは、彼らの州に仕事がないからだ。州の経済がまるでなっていないからだ』と応じ、彼らの流入が地元の雇用に悪影響を与えているという従来からの主張に繋がっていく。

    インタヴューの中で、ラージ・タークレーが『ヒンディーは美しい言葉だ』と持ち上げたことを除けば、MNSの従来からの主義主張に照らして目新しいものは特になかったが、それでも『ヒンディーでインタヴューに応じた』こと自体が、地元のマハーラーシュトラではちょっとした波紋を投げかけることになったようだ。 先述のリンク先の放送局以外のメディアに対しても同様にヒンディーで質疑に応じている。

    その結果、ライヴァル関係にあるシヴ・セーナーには『我が党が真のマラーティー主義擁護者である』というアピールをさせる機会を作ってしまった。ラージ・タークレーがヒンディーでメディアのインタヴューに応じたのは、決してこれが初めてではないのだが、比較的最近、州政府の要職に就いた人物が就任式にてヒンディーで宣誓を行なったことに対する激しい批判を行なったこともあり、ちょっとタイミングが悪かったのかもしれない。

    ともあれ、彼がメディアに対して『ヒンディーで答える』こと自体が一種のサプライズであり、他方ではスキャンダルにもなり得るというのが彼の立場である。

    彼自身にとっては、こうした形で必要に応じて、マラーティーを理解しない他州の大衆に対してヒンディーによるMNSの主張を発信していくことは、長期的には決して損なことではないだろう。

    マハーラーシュトラの暴れん坊、ラージ・タークレーは、中央政界に強いインパクトを与えることができるような人物ではないし、地元マハーラーシュトラにおいても今後檜舞台に躍り出る政治家であるとも思えないのだが、これまで同様に決して無視することのできない一定の影響力を行使していくはずだ。たとえ本家シヴ・セーナーと決別しても、根強い支持層を持つマラーティー主義を掲げた極右政党の親分である。

    こうした空気の中、昨年1月に『ムンバイー タクシー業界仰天』と題して取り上げてみたように、デモクラティック・フロント(コングレスおよび1999年にコングレスから枝分かれしたナショナリスト・コングレス)政権下のマハーラーシュトラで、タクシーの営業許可に対する条件として『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』などという、シヴ・セーナー/MNSばりのマラーティー優遇策を打ち出したりするようなことが起きる。

    Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)

    現在のマハーラーシュトラ州政界は、コングレス+ナショナリスト・コングレスとこれに対抗するシヴ・セーナー+BJPの対立軸で展開しているため、中道の政権にあってもちょっと右寄りのポーズを取る場合もあるのは仕方ない。

    マハーラーシュトラ州政治のメインストリームの中で、本家シヴ・セーナーに対するMNSの居場所はないのかといえば、そうともいえない。上記の二大勢力の次に左翼とダリット勢力があるが、MNSは単独でそれに次ぐ位置にあるからだ。今後の風向き次第では、上位ふたつのどちらかと協調することも考えられる。

    グローバル化が進展していく中でそれに対する地域民族主義が今後どうやってこれに抗っていくのか、どのように折り合いを付けていくのかという点から、とても興味深いものを感じている。

    今後も事あるごとに注目していきたい政治家の一人である。

    <完>

  • ラージ・タークレー ヒンディーで答える1

    ラージ・タークレー ヒンディーで答える1

    デリーのラームリーラー・マイダーンにおいて、社会活動家アンナー・ハザーレーの断食が11日目に入っている。ジャンロークパール法案をめぐる一連の動きが予断を許さない状況になっている中、インド政治がらみながらもこれとは全く関係の無い事柄について触れるのはいささか気が引けるのだが、こちらも個人的にとても気になる人物である。

    ナレーンドラ・モーディーの招きでグジャラート訪問した際のラージ・タークレー

    今月初めのことであったが、マハーラーシュトラ州のMNS (マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)の党首、ラージ・タークレーがグジャラート州首相のナレーンドラ・モーディーの招きにより9日間グジャラート州を訪れた際、メディアの取材に応じているが、その中でヒンディーによるインタヴューが放送されたこと自体が話題になっていた。

    मोदी के गढ़ में हिंदी भाषी बने राज ठाकरे (AAJTAK)

    元々、彼は極端な地元のマラーティー主義と、州外からやってきて就労する人たち、とりわけ北インドのヒンディー・ベルト地帯から来た人たちに対する排斥を主張し、暴力的な示威行動等も辞さない政党、シヴ・セーナーの幹部で、党創設者であるバール・タークレーの甥であり、バール・タークレーの息子で現在は党を率いているウッダヴ・タークレーのいとこである。シヴ・セーナーの中核にあった人物だ。

    しかしバール・タークレーの高齢化とそれに伴う健康不安から、指導部の世代交代が行なわれる中での党内のお家騒動の中で、一時期州与党にあった時期にマハーラーシュトラ州首相まで務めたことがある大物ナーラーヤン・ラーネーが党を追われて国民会議派に加わるというサプライズな出来事があったが、その年末にはウッダヴ・タークレーとほぼ同格の立場にあったラージ・タークレー自身が同党と袂を分かつという大きな出来事があった。

    翌年3月にラージ・タークレーは、シヴ・セーナー時代の取り巻きを引き連れて現在のMNSを結党している。党がシヴ・セーナーとその分家に当たるMNSに分かれたことにより、相対的にシヴ・セーナーの社会的影響力が減じることに繋がったようだ。

    2003年7月下旬にムンバイー市内で起きた市バスの爆破テロに抗議して実施したムンバイー・バンドの際にはちょうどムンバイーに居合わせて、彼らの実行力(強制力)の凄まじさに驚かされたものだ。その模様については以下をご参照願いたい。

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 1

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 2

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 3

    だがその3年後、2006年7月にムンバイーでシヴ・セーナーが再度試みたバンドは失敗に終わったのは、党が割れたことによる弱体化の表れだろう。その後彼らの地元であるインド最大の商都で、こうした規模のバンドは実行されていない。

    ただし地域主義とともに反共産主義(地元ムンバイーの財界の支援を受けて、60年代後半から70年代にかけて共産党勢力と激しく対立し、共産党傘下の労働運動の影響力を弱体化させた経緯がある)を掲げて1966年に発足したシヴ・セーナーは、時代が下るとともに、マハーラーシュトラ州という地域を越えて大衆にアピールできるヒンドゥー至上主義に傾向してきた経緯がある。

    シヴ・セーナーのシンボルマーク 咆哮するトラ

    中央政界やいくつかの他州の議会にも議席を持ち、国内各地に咆哮するトラのシンボルマークを掲げた支部が存在する。国外においても、彼らの支部というわけではないが、1999年にネパール・シヴ・セーナーという友党が発足している。

    そんなことから、ときに彼らの地元のマハーラーシュトラ州の外で徹底したバンドを決行することもある。2006年7月下旬にはウッタラーカンドの州都デヘラドゥーンでもシヴ・セーナーによる『ラージダーニー・バンド』が決行された。

    事の良し悪しはさておき、デヘラドゥーンの街の規模はムンバイーとは比較にならないほど小さいとはいえ、彼らのホームグラウンドから遠く離れたところにありながらも、見事な(・・・という言葉は適切ではないものの、パーフェクトなバンドであった)統率力で州都の機能を丸一日停止させていた。この日もたまたまその場に居合わせたため、『達人たちのバンド1』及び『達人たちのバンド2』と題した記事をアップしたことがある。

    <続く>

  • Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    非常に遅ればせながら『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』をDVDで観た。公開されたらぜひ観たいと思っていたもののタイミングを逸し、その後は年月ばかり過ぎてしまっていた。ちょうど終戦記念日あたりということもあり「そういえば観てなかったな・・・」とこれを購入して、自宅で鑑賞してみることにした。

    今年12月には76歳の誕生日を迎える巨匠、シャーム・ベネガル監督が手がけた映画だ。彼の比較的最近の作品では『Well Done Abba! (2009年)』『Zubeidaa (2001年)』等があるが、昔から『Ankur (1974年)』『Nishaant (1975) 』等々で海外からも高い評価を受けてきた。個人的には『Mandi (1983年)』と『Trikal (1985年)』にとても感銘を受けた。とりわけ後者は、映画の制作国を問わず私が最も好きな映画のひとつである。

    音楽を担当しているのもA. R. レヘマーンということ、4時間近い大作であることなどから、期待するものは大きかったが、公開時はもちろんのこと、DVDが発売されるようになってからも、特に理由はないのだがこの作品に触れることなく過ごしてきた。

    細かな部分では、主役のボースがビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)でムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに詣でる様子(当時彼はここを訪れたことになっているがインド政府の援助によって現地にダルガーが建設されたのは比較的最近のことであり、当事は存在していない)やビルマ人の習俗がベトナム風(?)になっていること等々、妙な部分は散見されるものの、映画としてはきちんとまとまっていた。

    イギリスの圧政への抵抗とそれに対する弾圧に対し得るのは武力であると確信したボースがガーンディーと袂を分かち、The Great Escapeとして知られるカルカッタ(現コールカーター)自宅軟禁下からの脱出劇と、それに続く精力的な活動が描かれている。

    カルカッタの自宅から忽然と姿を消して、アフガニスタンのカーブルへ、そしてドイツ、さらにはソ連を目指すものの、ドイツと同国が交戦に入ったことから断念した。その結果、日本、シンガポールへと移動し、マレー半島で日本に屈した英軍インド兵や現地在住インド系の人々からのボランティアを募り、INA(インド国民軍)を結成。日本軍とともにビルマ経由でインパールを目指し、さらに西進してデリーを目指そうという壮大な計画を実行に移した。

    そうした中で、INA内部での北インド系兵士に対する南インド系兵士(後者はマレー半島在住でボースの呼びかけに応じて参加した素人たちが多かった)の確執、INAを自軍の末端組織としてしか見ていない日本軍に対し、募っていくボースの不満と不信等々、要所を押さえて描いていてある。

    最後まで観てみて、ドキュメンタリー的なものとして観れば決して悪くない作品だと思った。しかし残念ながらそれ以上の印象はあまりない。今でもとりわけベンガル地方では『ネータージー』として慕われているスバーシュ・チャンドラー・ボースという人物の大きさが伝わってこないからだ。

    以前、『テロリズムの種』として取り上げてみたアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』同様に、独立の志士を取り上げた作品としては、いまひとつ不完全燃焼といった感じがする。

    ところで作品中では、彼がドイツ滞在中に秘書をしていたエミリーというオーストリア人女性と結婚して娘をもうけたことが描かれているが、そのボースの娘アニター・ボースは現在ドイツでアウグスブルグ大学経済学部教授となっている。

    彼女の写真を見ると、眼差しには父親の面影が濃く漂っているようだ。彼女には夫との間に子供が三人あり、アルン、クリシュナ、マーヤーと、インド風の名前を付けている。

    ガーンディーその他の人物や所属していた国民会議派との関係等から、ボースに対する評価については微妙な部分があるものの、インド近代史の中で燦然と輝く偉人の一人であることについては間違いない。

    晩年の彼が国外で指揮した武闘路線自体が、彼の母国の独立に対してどれほどの効果をもたらしたかについては様々な論のあるところであるが、敗走後に捕らえられた将兵たちを反逆罪で裁こうとする中での反英機運の昂揚は、イギリスによるインド支配に対する最後の一撃となったという間接的な側面を高く評価する向きもあるようだ。

    独立はともかく、INAに参加した人たち、その家族たちに対しては例えようもない直接的な影響を与えたことは間違いない。行軍や戦闘の中で、また日本軍とともに侵攻していったインパール作戦の失敗による敗走の中でおびただしい数の死者を出している。

    『安定した職場』として忠実に勤務してきた英軍が日本軍に負け、敗残兵として囚われの身になる中で、高邁な志というよりも、少しでもマシな待遇を求めてINAに参加した者、成り行きからそうせざるを得なくなった者は多かっただろうし、現地在住者の中から応召したインド系の若者たちは純粋に『自由なインド』を信じて、海の向こうの祖国からやってきた『偉い人』の後に付き従ったことだろう。

    ところで映画の主人公のネータージーが闇夜に紛れて脱出した自宅は現在、ネータージー・バワンとして公開されている。彼が寝起きした部屋が保存されているとともに、屋敷内の各部屋にはネータージーにまつわる数々の写真、ビデオ、身の回りの品々等が展示されている。多少なりとも関心があれば、カルカッタを訪れた際にはぜひ見学されることをお勧めしたい。ここでは彼にまつわる書籍やビデオ等も販売されている。これを運営するNetaji Research Bureauのウェブサイトでもそのごく一部を閲覧することはできる。

    彼の残した偉業の影には、今の私たちには見ることのできない甚大な犠牲者たちの姿がある。平和な今という時代に生まれたことに感謝するとともに、ネータージーという類まれな偉人と彼が率いたINAがインド近代史に与えた影響について静かに考えてみたい。