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カテゴリー: politics

  • 美しすぎる大臣の訪印

    美しすぎる大臣の訪印

    7/27にインドのクリシュナ外相と会談したパーキスターン外相ヒナー・ラッバーニー・カル氏

    今年2月に『美しすぎる大臣?』として取り上げたヒナー・ラッバーニー・カル氏。ちょうどその時に同国の内閣改造時にパーキスターンの外務副大臣に相当する職に抜擢されており、ひょっとしたら将来大化けするかも?と思ったのだが、意外にもその日は早くやってきた。

    しばらく空席になっていた外務大臣の職に任命されたのが7月19日。翌日20日には就任の宣誓を行なっている。同国初の女性の外務大臣であるとともに、34歳と最年少での就任だ。パーキスターンのリベラルな顔として、今後しばらく目にする機会が多いことだろう。

    就任直後に彼女はPTVの独占インタヴューに応じている。華やかな見た目に似合わず、落ち着いた低い声と自身に満ちた口調でシャープに応対している。演説もかなり上手いのではないかと思われる。

    PPP Hina Rabbani Khar Sworn In As Foreign Minister

    7月27日にデリーに到着し、45歳年上のインドのS.M.クリシュナ外相と会談。その後マンモーハン・スィン首相、ソーニアー・ガーンディー国民会議派総裁、BJPの重鎮L.K.アードヴァーニー、スシマー・スワラージ等とも会談している。

    また在デリーのパーキスターン・ハイコミッション(大使館に相当)では、インドのカシミール地方で分離活動をしている指導者たちとも面会をしている。

    今回のパーキスターン外相のインド訪問において、特に大きな成果があったわけではなく、かといって何か深刻な摩擦が発生したということもない。両国側とも粛々と日程をこなして、7月29日にはパーキスターンの指導者が訪印する際のお決まりのコースのひとつになっているアジメールのダルガーに参詣した後にパーキスターンに帰国している。

    インドのメディアでは、印パ外相会談について、あるいはインドの他の指導者等との会談についての報道はもとより、スタイリッシュで若くて美しく、身分の高いパーキスターン人としてセレブ的な扱いもしていたのがとりわけ新鮮であった。日刊紙を複数購入して関係記事目にしてみると、彼女の『美』に関するものがずいぶん多い。インターネット上にもそうした調子の記事等がいくつも出ている。ヒナー・ラッバーニー・カル氏には、『重厚なオジサン政治家』にはあり得ない、グラビア的な輝きとヴィジュアルな魅力がある。

    Hina Rabbani Khar’s date with India (NDTV Photos)

    彼女のファッションについての話題も沢山見受けられた。日刊紙上では、イギリスのケンブリッジ公爵夫人キャサリン(ウィリアム王子夫人)よりもセンスが上、などと書いている記事も見かけた。

    Hina Rabbani Khar fashion statement

    Meet Pak’s youngest and stylist foreign minister, Hina Rabbani Khar

    年齢的にも閣僚クラスとしては異例の抜擢であり、インド側としても彼女が突然、今年2月にパーキスターンの外務副大臣相当職にされてからようやく、『ヒナーってどんな人?』と云々されるようになった。これまで全くノーマークの人物である。

    これまでにない若い世代の大臣であることによるしがらみの無さ、類まれな美貌とファッションセンスと相まって、インドでは好意的に迎えられるとともに、隣国との間の友好的なムードを醸し出す効果があったといえるだろう。

    だが、出自が大地主層にして政治エリート家族の一員ということはあるものの、パーキスターン政界という、極めてマスキュリンな社会の中で若くしてめきめきと頭角を現してきたヒナー・ラッバーニー・カル氏は、ただのセレブではないし、無垢なお嬢様でもなければ、世間知らずのお姫様でもない。自分の父親かそれ以上の年齢の大物たちを相手に堂々と渡り合うことができる女傑なのだから、とりわけインドのメディアは鼻の下を伸ばしている場合ではない。

    彼女の姿に、故ベーナズィール・ブットー氏の面影が見える気がするのは私だけではないだろう。今後の大きなポテンシャルを感じる。

  • タイ 下院総選挙迫る

    タイ 下院総選挙迫る

    投票日を7月3日に控えたタイの下院総選挙。前評判では海外に滞在しているタクシン元首相が操るタイ貢献党が現在の与党の民主党をわずかにリードしているとのことで、再び政権交代ということになるのだろうか。辛くも民主党が持ちこたえたとしても、今後の政局はかなり苦しいものとなるとの見込み。

    2008年の黄色いシャツがシンボルの反タクシン派であるPAD(People’s Alliance for Democracy民主市民連合)によるバンコクの空港占拠、2010年に起きたそれと逆の立場の赤シャツがトレードマークのタクシン派UDD(National United Front of Democracy Against Dictatorship反独裁民主戦線)がバンコク市内で繰り広げた大規模なデモ活動とそれに対する政府側の弾圧といった非常に大きな出来事は記憶に新しいところだ。

    まさにそれらふたつの対立する勢力が真っ向から衝突するのが今回の選挙だが、結果はどうあれ国民和解への道のりは遠いものと思われる。

    カッコいいアピシット首相

    それはさておき、ハンサムな風貌で知られるアピシット首相はもとより、勝てばタイ初の女性首相となるインラック・チナワット氏(タクシン元首相の妹)もまた相当な美人。おかげでタイの政治にまったく興味関心のない筋からも注目されている今回の総選挙のようである。

    美貌のインラック・チナワット氏
    インラック氏(右)と並んで写る妹のピントンガ氏もまた大変な美人
  • 生業 1

    このところインドのメディアの人身売買にまつわるニュースにて、バーンチラーというコミュニティのことが取り上げられているのをしばしば目にしている。マディヤ・プラデーシュ北西部からラージャスターン南東部あたりに分布しているコミュティである。

    インドにあまたあるコミュニティには、それぞれ特有の習慣を守り、固有の生業で生計を立ててきた人たちが多い。もちろんそうした古い社会の枠組みは現代においてもそのまま存続しているというわけではないし、あるコミュニティの特徴的な部分にて、それを構成する人々すべてを一般化してしまうのも誤りだ。

    ただし特定のコミュニティがある業種において特殊な技術、知識、既得権を握っていたり、部外者が新規参入するのが困難であったりということがないとは言えないし、何かとそうした縁がものを言う分野もあることだろう。

    それとは逆にいわゆる賤業とみなされる分野においては、その職域を外部から敢えて侵すことにより、新規参入者にとって何か経済的に大きな利益が上がるということでもなければ、社会から賤しまれて収入も少ない生業が世代を越えて連綿と受け継がれていくということもあり得る。

    現代インドでは、そうした出自によるハンディキャップによる格差を是正するために指定カースト、指定部族に対する留保制度が用意されている。­そうした措置のおかげで特に出自の低い人たちの生活や教育の水準が上昇し、次第により公平な社会が実現されるのが理想だろう。

    留保制度によって一流大学に入学できたり、さらにはその後IAS(インド高等文官)その他ステイタスの高い職業に就くことができたりといった具合に、底辺で苦学してきた人たちがインドという大きな国を動かす側に回る例は決して珍しいことではない。能力とやる気がありながらも生活苦で野に埋もれようとしている人々を数多く救済している。

    しかしながら、留保制度という逆差別は、憲法に謳われている万民の平等と矛盾する部分もある。留保の対象となる指定カースト(SC)、指定部族(ST)、加えてその他後進諸階級(OBCs)以外の人々の機会を奪うことにもなる。

    所属するコミュニティによって秩序だった教育、所得、生活水準があるわけではなく、『留保対象以外の人々』が必ずしも『留保対象の人々』よりも恵まれた境遇にあるとは限らないことに留意が必要だ。

    留保制度は長らく政争の具ともなっており、年月の経過とともに新たに留保対象として指定されるコミュニティが増えるとともに、留保の割合もことあるごとにいじくられてきた。

    果たして留保制度が現行のままで良いのかどうかについて、誰もがいろいろ意見のあるところではないだろうか。それでもインドにおいて、政策のツケは広く民意を問う選挙という公平な手段により、国民自身が審判を下す民主的なシステムが徹底している国であるだけに、難しい匙加減のもとでそれなりにバランスが取れていると見ることはできる。

    かつてと違い、今のインドのとりわけ中央政界においては、大政党が過半数を得られることなく、大小含めた主義主張の異なる様々な政党の寄合所帯となっている。それがゆえに右派勢力が政権を取ろうとも、中道左派の国民会議派が支配しようとも、連立政党や閣外協力政党にも配慮した運営が求められる。結果として極端な方向に舵を切ることなく、穏健でバランス感覚に富んだ政治が続いているように見受けられる。

    <続く>

  • 美しすぎる大臣?

    美しすぎる大臣?

    この人が来日することがあれば『美しすぎる大臣』と日本のメディアに書かれるのだろうか。2月11日にパーキスターンの外務副大臣(に相当する役職)に就任したヒナー・ラッバーニー・カル氏である。

    パーキスターンのパンジャーブ州ムルターン生まれ、有力な政治家ファミリー出身の34歳。ラーホール経営大学卒業後、渡米してマサチューセッツ大学にて修士号取得。

    パーキスターン・ムスリム連盟のカーイデー・アーザム派(PML–Q)にて政治家としてのキャリアのスタートを切った。経済・統計副大臣(に相当する役職の経験もある彼女は、現在パーキスターン人民党(PPP)に所属。

    不安定なパーキスターン政局の中で、この人物をこうしたポストに起用するということは、ちょっとサプライズな人事であったため、彼女自身の美貌と合わせていろいろと取り上げられる機会が多いようだ。

    パーキスターン人民党所属の女性政治家で、早くから要職に就いていることから、暗殺されたベーナズィール・ブットー氏の再来を期待する声もごくごく一部にはあるようだが、パーキスターン国内ではともかく、隣国インドのメディアでの扱いはパッとしない。まだ若くて政治家としての経験も浅いことから、現在の同党執行部にとって扱いやすい人物であるという評価に尽きるようだ。

    だが彼女は外交のカギを握る要職にあるがゆえに、インドのメディアにもしばしば取り上げられる機会があるだろう。またパーキスターンの国政レベルの若手政治家の注目株のひとりであることも確かである。

    Youtubeに昨年11月頃のニュースのインタビューの映像がある。

    Talk about taxing agriculturists is nonsense and politically motivated: Hina Rabbani Khar (Youtube)

    キャリアはまだまだこれからなので、未知数の部分が多い人物だが、今後とりわけ西欧諸国に対するパーキスターンの顔として起用される機会も多くあるのではないかと思われる。

    ヒナー・ラッバーニー・カル氏関係ニュース一覧 (dailylife.com)

    ※コーラープト2は後日掲載します。

  • ヒマラヤのドン・キホーテ

    ヒマラヤのドン・キホーテ

     ネパールに帰化し、自らNNDP (Nepal National Development Party)という政党を率いてネパール政界への挑戦を続けている宮原巍氏について書かれた本である。 

    氏がヒマラヤ観光開発株式会社の創業者であること、ネパールのシャンボチェにホテル・エベレスト・ビューを建設した人物であることは以前から知っていたが、どういう経緯でネパールに根付くことになったのかについては、ほとんど知識がなかったこともあり、この本を見かけた途端とても興味が引かれた。 

    もともと登山を通じて、このヒマラヤの国との縁が出来たそうだが、その後再びネパールに渡り、当初は工業の振興を志したが、この国の現状を踏まえたうえで観光業振興に力を注ぐことになったということらしい。 

    2008年の選挙の結果は残念なものであったが、70歳を越えても決して立ち止まることなく、長らく暮らして来たネパールの国政に打って出るというダイナミック行動力には脱帽である。 この本によると、ネパールで政党がマニフェストを作成するのは、彼のNNDPが初めてのことであるとのこと。同党のウェブサイト上で、2006年の結党時に示したマニフェストが公開されている。 

    マニフェスト Part 1

    マニフェスト Part 2 

    ところで、ヒマラヤ観光開発株式会社のウェブサイトからは氏のブログにリンクされている。同じくこのサイト上にある≪世界最高峰・エベレストの見えるホテルへ!≫というタイトルの下の山岳の画像をクリックすると、ホテル・エベレスト・ビューの紹介ページに飛ぶ。 

    海抜3,880mに位置する日系ホテル。掲載されている写真も魅力的だが、サンプルビデオを再生してみても、そこが絶景の地であることがうかがえる。高いところは苦手なのだが、いつか宿泊してみたいと思っている。 

    書名:ヒマラヤのドン・キホーテ

    著書:根深 誠

    出版社:中央公論新社

    ISBN-10: 4120041719

    ISBN-13: 978-4120041716

  • リビア インド人たちの脱出準備

     カダフィ大佐による長期政権が最大の危機を迎えているリビアでは、18,000人のインド人たちが住んでいることから、インド政府は自国民の脱出のための準備を進めているとのことだ。 

    India sends ship to Libya to evacuate 1,200 Indians (Sulekha.com)

    上記リンク先記事にあるとおり、エジプトでチャーターした1,200人乗りのフェリーを日曜日までに東部の街ベンガーズィーに到着させ、エジプト北部の港町アレクサンドリアへ脱出させる予定。同時に首都トリポリやその他の内陸部の地域への救援機の乗り入れも予定しているとのことだ。 

    チュニジアで発生した民衆蜂起デモによる政変は、エジプトのムバラク大統領退陣、そしてリビアでも同様の危機を迎えており、バーレーンでも大規模なデモに発展するとともに、その他の湾岸諸国でも不穏な動きが見られるようになっている。

    少し前まで政治的に盤石であると思われていた地域でこうしたドミノ現象が起きていることについて驚くばかりであるが、同時に大産油国が名を連ねる地域でもあることから、早くも原油価格の高騰が伝えられているのはご存知のとおり。 

    各地で今後も民衆蜂起の連鎖が続くかどうかという懸念とともに、長きに渡り独裁を続けてきた支配者が去った後の真空状態を埋めるにはいったいどういう体制なのか、安定は望めるのか等といったことも心配されている。この地域の人々にとって民主化を求める代償は決して安くはない。 

    同時に、その地域外に住んでいる私たちにとっても、世界のエネルギー供給の大半を占めるこの地域を誰が治めるか、どういう体制が敷かれるのかということは大変気になるところだ。 

    産油国であるリビア、バーレーンでの動きを考え合わせれば、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールといった更に豊かな国々でさえも、この流れと無縁とは必ずしも言い切れない。 

    日本からの視点よりも、インドから眺めたほうが事はもっと深刻かもしれない。地理的な近さもさることながら、自国の膨大な労働力の吸収先である湾岸諸国に騒ぎの火の手が迫りつつあるからだ。原油価格高騰と合わせて、今後が非常に懸念されるところである。今後の推移を見守りたい。

  • サッカーと軍政

     インドの東隣のミャンマーでは2009年からMNL (Myanmar National League)というプロサッカーリーグが発足した。同年5月から2か月間ほどに渡るカップ戦が展開され、今年3月からは10のクラブチームによる正式なリーグ戦が開始され、記念すべきMNLリーグ初代優勝チームはYadanarbon F.C.である。 

    言うまでもなく旧英領であったこの国では、サッカーという競技の歴史は古い。かつてはアジアを代表する勢力であったこともあり、観るスポーツとしての人気も高かった。社会主義計画党時代のビルマでは、実業団チーム(といっても省庁や自治体が構成するチーム)のリーグがあり、私自身も『税関vsヤンゴン市役所』(であったと記憶しているが・・・)の試合をアウンサン・スタジアムで観戦したことがある。 

    その後90年代に入ると、いわゆるクラブチームがいくつも結成されるようになり、ヤンゴン市にはプロチームさえ存在していたものの、全国的なプロリーグというものはなかった。 

    いまや地域の他の国々の多くにプロサッカーリーグがある昨今、経済的に非常に厳しい状況にあるミャンマーにもそうしたものができるのは時代の流れなのだろうと思っていたが、その裏には軍政による大きな後押しがあったことを示唆するニュースがあった。

    昨日、ジュリアン・アサンジュ氏がイギリスで逮捕されたことが各メディアで伝えられていたが、彼が創設したウィキリークスから流された在ヤンゴンのアメリカ大使館発の公電に関するBBCの報道がそれである。

    मैन यू ख़रीदने पर हुआ था बर्मा में विचार (BBC Hindi) 

    上記記事によれば、2009年1月以前に当時の軍政の議長タン・シュエ氏が10億ドルを投じて、イングランドのプレミア・リーグのマンチェスター・ユナイテッドを買収としようと画策していたということだ。 

    サッカーによって政治・経済に対する国民の不満のガス抜きをしようという目的、タン・シュエ氏自身が同チームのファンであり、彼の孫もチームの買収を強く希望していたという個人的な動機があったとのことだが、近年有望視されている領海内のガス田からの収入等を背景に、それほどの金額を出資することが可能であったという点はちょっと驚きである。 

    しかしその前年2008年5月にミャンマーを襲ったサイクロン『ナルギス』の被害からの復興の遅れ、加えて外国からの援助を断り、被災地の人々に対する痛手をさらに大きなものにしていると国際的に非難を浴びていた時期でもあったことから、これを断念したということ。そのため自国内にプロリーグをスタートさせることを決心したということが書かれていたそうだ。 

    だからといって2009年初頭にマンチェスター・ユナイテッドの買収を諦める代わりに4か月ほどでプロリーグを始動させるというのは無理があるため、もともとそういう方向で動いていたものを前倒しさせることになった、という具合なのではないかと思う。

    確かにMNLがリーグとして正式に開幕したのは2010年だが、それに先立って2009年に2カ月間のカップ戦を行なうというのは中途半端で解せないものがあった。このあたりについて、やはり当時の軍政の意向が働いたのかもしれない。 

    そもそもミャンマーにおいては、90年代以降は経済の様々な分野における民営化の進展著しいが、その中で軍関係者による関与はとても大きいようだ。 

    当然MNLを構成するクラブチームについても、純粋に民間人による運営がなされているとは想像しにくいものがある。後に機会を設けてそれらの背景について調べてみようと思う。 

    11月に実施された総選挙により『民主化された』という建前となっている同国の政治同様に、一皮剥けば経営陣に軍関係者たちがゾロゾロ・・・という具合であるかどうかはさておき、なかなか興味深いものがあるのではないかと想像している。

  • エアアジア(タイ) インド便就航間近

     これまでマレーシアからは、エアアジア(マレーシア)で、クアラルンプルからコールカーター、ハイデラーバード、バンガロール、コーチン、トリバンドラム、ティルチラッパリといったインドの都市へ、加えてエアアジア Xにてデリー及びムンバイーに向かうことができる。 さらに、今年12月1日からはエアアジア(タイ)によるタイのバンコク発のデリー便とコールカーター便が就航することになっている。 

    Thai Air Asia to launch Bangkok flights from Delhi, Kolkata (Deccan Herald) 

    旧来は西の方角にある国々(湾岸諸国等)との間のフライトが密であったインドだが、近年は東方向への便も数を増していることは、インドのASEAN諸国との接近ぶりを示すとともに、このあたりをも含めた地域大国として頭角を現しつつあることを反映している。 

    そうした中で、空のゲートウェイとしてバンガロール、ハイデラーバードその他の街がこれまで以上の存在感を示すとともに、他の大都市の発展と自らの停滞のため、相対的に経済的な魅力を失ってきていたインド有数の大都会コールカーターも、地理的にこれらの国々と近いことも幸いして、ここ発着の国際線に内外の航空会社次々に乗り入れするようになってきている。インドとその近隣国の距離は確実に狭まりつつある。 

    だが、ちょっと目を東に移して、もうひとつの大国である現在の中国の『横暴』について思いを巡らせておきたい。近年、日本のメディアのみならず欧米その他からも中国の脅威に関する様々な論調を目にする。以前のように是が非でも外国からの投資や技術等を呼び込もうと汲々とする国ではない。依然、貧富の格差が大きく、地域差も甚だしい社会でありながらも、総体としてはもはや日本を抜いて世界第二位の国内総生産(GDP)を誇る経済大国となった。 

    自国で蓄えた鉄道技術(元々は日本から与えられた技術がベースになっているにしても)を海外に積極的に売り込む、他の途上国へ援助攻勢をかける、地下資源等を確保するために世界各地へ進出していき、これまで彼らに様々な支援を与えてきた先進国と各地で利害が衝突し、火花を散らせるライバルにのし上がってきている。政治的にもそれらの国々を向こうに回して『大いにモノを言う』存在となった。 

    同様に、インドとその周辺地域との間の相互依存関係がより密で抜き差しならぬものとなったとき、かつ膨大な貧困層を抱えつつも、国家としては経済的に圧倒的な存在感を持つようになった暁には、どのような態度でそれらの国々に接するようになるのか少々気にかかったりもする。 

    国と国のエゴが衝突する外交の世界で、国と国との間の力関係によって、交渉の行方が決まる。立場の弱い側から見て『傲慢な大国』はあっても、『謙虚な強国』というのはあまり例がないだろう。 

    今の中国の姿は、将来のインドのそれときっと重なるのだろうと想像するに難くない。従前より南アジアで圧倒的な存在感を持つこの国が、周辺国に及ぼしてきた影響力の届く範囲が、さらに遠くへと広がっていくことは間違いない。 

    目下、ブームのこの国をもてはやすだけではなく、私たちはこの大国との将来に渡っての付き合い方についても、よく考えておくべきではないだろうか。

  • ミャンマーはどうなるのか?②

     さて投票日が11月7日に予定されているミャンマーの総選挙だが、同国最大の野党NLD (National League for Democracy 国民民主連盟)を率いていたアウンサンスーチー氏をはじめとする民主化運動指導者たちを排除(そしてNLDは今年6月に解党)することにに成功した軍事政権は、自らの翼賛団体であるUSDA (Union Solidarity and Development Association 連邦団結発展協会)から衣替えしたUSDP (Union Solidarity and Development Party連邦団結発展党)にて選挙戦に臨む。 

    今回行われる選挙により、国政レベルの連邦議会と管区・州レベルの地方議会の議員が選出される。連邦議会は二院制で合わせて664議席、地方議会は合計888議席となる。 

    無政党が選挙に参加するには1,000人以上の登録された党員数が必要とされる。無所属で立候補することはできない。また各候補者ひとりあたり約500ドルという同国としては高額な登録料が課せられている。また日頃から政治活動に対する当局による監視の目も厳しいこともあり、志ある市民が政治の道を目指すことは難しいようだ。 

    それでもこのたびの総選挙に参加するのは37政党と、なかなか賑やかなものとなる。だがトータルで3,000人ほどとされる候補者の内訳で見ると、1,000人超の候補者を擁する最大政党USDPと同じく1,000人規模の候補者を持つNUP (National Unity Party)が突出している。 

    NUPとは、1988年8月8日に始まった大規模な民主化要求運動を抑えきれず、同年9月に軍のクーデターにより政権を追われるまで、1962年から22年間の長期に渡り、ビルマ式社会主義を標榜する政治を運営してきたBSPP (Burma Socialist Programme Partyビルマ社会主義計画党)がその前身である。 

    1988年7月まで同党のトップである議長の座にあったネ・ウィン将軍は、国防大臣であった1962年にクーデターに成功して政権を握った直後、自ら創立させた軍人主体のビルマ社会主義計画党に政権を横滑りさせている。ゆえにBSPP時代からして国軍の間接統治による独裁政治であり、それに対する国民の不満がついに噴出したのが1988年に大きな民主化要求運動であったといえる。この出来事により、ネ・ウィン氏は事実上失脚した。 

    1990年に軍事政権の意志決定最高機関であるSLORC (State Law and Order Restoration Council)の元で総選挙にて、同機関と旧BSPPによって設立し、当然政権を継承するものと体制側が目論んでいたNUPだが、獲得したのはわずか10議席という惨澹たるもので、対するアウンサンスーチー氏がトップを務めるNLDは392議席と誰の目にも明らかな結果となり、ついにこの国が民主的な体制に移行するものと内外からの期待を集めた。 

    しかし、与党となるべきNLDへの政権の委譲が行われず、軍事政権側に批判的な活動家たちに対する弾圧が行なわれ、国民議会も招集されていない状態が続き、現在に至っている。SLORCは、1997年にSPDC (State Peace and Development Council)へとその名称を改めている。 

    そうした経緯もあり、現在の軍政の翼賛団体から衣替えしたUSDPとNUPは、どちらも国軍と非常に縁が深い。ただし現在の軍事政権と一心同体の存在であるUSDPに対して、1988年に政権を追われた後、1990年の総選挙では軍事政権を代表する政党として再登場したもの、まったく話にならない大敗北を喫してからは、隅に置かれてしまい存在感を失っている旧BSPPことNUPは、現在では前者並びに国軍とは少々スタンスを置いた立場であるらしい。 

    今回ようやく実施される総選挙について、USDPとNUPというふたつの大政党があまりに突出していること、さらには総議席の四分の一が軍人に留保されることなど問題は多く、極めて軍の影響力を留保させた政権が誕生することは間違いないようだ。 1990年総選挙におけるNUPの大敗北の苦い記憶のある軍政側は、実に長い時間をかけて民主化運動を冷却させるとともに、こうした勢力の影響力を排除していった。そしてついにNLDを解党に追い込み、満を持しての選挙戦となる。

    NLD解体以降のリベラル勢力は小規模なものが割拠している状態であるのに対して、軍政側には、選挙によらず軍が指名する四分の一の軍人議席という、いわばセーフティ・ネットがあるため、USDPとNUP合わせて最悪でも総議席数の四分の一をわずかに超える程度確保すれば政権に就くことができるという極めて有利な状況にある。 

    つまり『体制側(現在の軍政) vs民主化勢力』 という構図ではなく、大方は現体制側の立場の候補者の中から『人物を選出する』ものとなる。今回の選挙に向けて、慎重かつ周到に準備を重ねてきた軍事政権側は、USDPの候補者に軍や政府関係者以外にも、ビジネス界その他で名前の知られた有名人たちも多く擁立しているようだ。規模の上でも資金力の上からも同党が圧倒的に有利である。

     アウンサンスーチー氏は、支持政党がなければ選挙をボイコットすべきであると旧NLD支持者たちに呼びかけているが、同党を支持していた人たちがこぞって投票を控えた場合、小所帯のリベラル政党へ流れるべき票が失われてしまうため、かえってUSDPを利することになってしまうのが悩ましいところだ。 

    この選挙について『看板の架け替えに過ぎない』『軍政が軍服脱いで文民面するだけ』『軍政にお墨付きを与える手続きに過ぎない』といった批判は多く、本来1990年選挙の結果を受けて当時与党の座に就くべきであったNLDが参加できなくなったことにより、西側諸国の多くも今年11月の『総選挙』を正当なものとみなすかどうかは別の話である。おそらく選挙後に新たな政府が発足してからも先進諸国による経済制裁は続くことだろう。 

    しかし制裁が続いたところでミャンマーの新政権に与える打撃とは限定的なものとなることだろう。もとよりASEAN諸国はこの国の軍事独裁政権については黙認状態で経済交流は続いていたし、近年では中国の進出が著しい。欧米諸国企業が事実上ほぼ不在の中で、中国企業にとって、ミャンマーはまさに『草刈り場』といった具合である。ミャンマーは欧米諸国が考えているほど孤立してなどいない。ゆえに彼らによる経済制裁が政権を崩壊に追い込むなどと考えているとしたら、誤った思い上がりにすぎない。 

    今回の選挙により、次期政権にて軍人勢力が温存されることになるため、政府が喧伝しているような民主化にはつながらないだろう。しかしそれだからといって、何も変わらないと考えるのも間違いだろう。

    曲りなりにも複数の政党が参加して各選挙区で競合する候補者の中から有権者たちが選び出すというプロセスが実施されることの意味は大きいだろう。総議席中の軍人枠を除いた四分の三は、国軍系の政党候補者であろうと、その他政党から出馬した人物であろうと、選挙というプロセスを経て国民から直接信任されるという点が重要だ。

    またリベラル勢力や少数民族政党(こちらには軍政寄りのスタンスの党も含まれるが)からも当選する者が出てくることから、これまでの軍事独裁政権に賛同しない人々、常にビルマ族に圧倒されてきたその他の民族出身の人々が中央ないしは地方政治の舞台に参加できることの意義も無視できない。 

    軍政とイコールの関係にあるUSDPとこれに近い関係にあるNUPが政権を担うことになるであろうことは誰もが予見するところだが、前述のとおり前者と後者とでは、その立場に異なる部分があり一枚岩ではない。そのため現在、軍政の最高意思決定機関であるSPDCによる政権運営と比較して、かなり活発で多元的な政策論争が展開していくはずだ。 

    軍と政治のかかわりについても変わっていくだろう。軍籍から抜けて政治家に横滑りする国軍幹部が多数あるいっぽう、それらが軍で占めていたポストには下の世代の人たちが持ち上がってくる。同一人物がUSDPと軍双方の要職を占めることにはならないため、世代交代した軍幹部の意志がUSDPましてやNUPのそれとイコールという具合になるとは限らず、時に対立することもあるはずだ。 

    そもそも国軍に対する批判は多いが、北を中国、西をインド、東をインドシナに囲まれた文明の交差点とでも言うべき複雑な民族・文化背景を持つこの国で、まがりなりにも国土を今の形で維持できたのは彼らあってのことだ。イギリスが去り、主権を取り戻したこの国では長らく地方の反乱が続いてきた。それは国軍への反感というよりも、中央つまり支配民族であるビルマ族が彼らに対する抑圧者として映っていたからに他ならない。

    何かと問題は多いが、総選挙が実施されるということ自体は歓迎したい。一足飛びに大きな変革が起きることにはならないが、政治に多少なりとも国民の意志が反映されるようになることは間違いないだろう。リベラル勢力に対しては、与えられた枠組みの中で、今後粘り強く努力を続けていくことを期待したい。 ミャンマーはきっと変わる・・・と思う。時間はかかるはずだが。

    もちろん選挙管理の問題もある。果たして現在示されている枠組みの中での公正な選挙が実施されるのかどうか。選挙報道について、外国メディアを排除していることも気にかかる。とりあえずは行方を見守りたい。 

    1886年から1937年まで、英領インドの一部を成していたミャンマーは、西隣のインド同様に多民族・多文化から成る国ではあるが、多様性を有すると同時に国としての一体感があり、独立以来民主的な政治運営がなされているのとは実に対照的だ。 

    ミャンマーの将来が明るいものであることを願うとともに、インドという国の偉大さをも今さらながら感じずにはいられない。 

    <完>

  • ミャンマーはどうなるのか?①

    ミャンマーはどうなるのか?①

     つくづく不可思議な国である。軍政から民政移管を標榜する『総選挙』を11月7日に控えた今、また2008年に新憲法が公布されたがまだ発効されてもいないのに、なぜ10月21日に突然国名がミャンマー連邦がミャンマー連邦共和国へと改められるとともに、国旗、国歌が変更されることになったのか。 

    Myanmar gets new flag, official name, anthem (REUTERS CANADA)

     ミャンマー 国旗の変更を発表 (NHK)

    Cries of foul play as ‘new Burma’ is hoisted (Democratic Voice of Burma)

     従前の国旗の赤色は勇気、青色は平和を象徴しているとされる。社会主義時代の1974年に制定されたもので、社会主義的なシンボルを取り囲んでいる14の星は、この国を構成する7つの管区と7つの州、合計14の地域の統合の意味を有するとされる。

    新国旗については、緑色は平和、黄色は団結、赤色は勇気、中央の星は国家の永続性を示しているとのことだ。 

    国旗変更の背景について、各メディアによる様々な憶測が飛び交っているが、つまるところ国内外に向けて『国体が改まる』ことについて内外へのアピール、そして『国民の総意に基づく民主的国家』を創るための総選挙へのムード作りといったところなのだろうか。 

    この国は、1948年に独立した後、1974年に一度国旗を変更している。1973年以前は以下のものであった。青字の部分のデザインがそれ以前と異なる。

    ところで他人の空似、ということになるのだろうが、今回新しく制定される前までのミャンマー国旗は、中華民国(台湾)のそれとよく似ていた。

     新国旗も実はよく似たデザインのものがかつて存在していた。それは1943年から1945年までの日本による傀儡政権時代の国旗である。中央に配置されているのは星ではなくクジャクだが。1942年に日本軍とともに、その協力関係にあったアウンサン (アウンサンスーチー氏の父)率いるBIA (Burma Independence Army)が同国からイギリスを追い出すことに成功した。そして1943年8月に発足した日本の傀儡政権だが、前述のBIAから再編された国軍であるBNA (Burma National Army)が起こした1945年3月にのクーデターにより転覆し、再び英国支配下に戻ることになった。その後1948年にイギリスからの独立を達成した。

     

    クジャクといえば、1937年に英領インドから分離する際に制定された英領ビルマの旗にもこれが描かれている。このデザインは、ビルマ最後の王朝であったコンバウン朝の旗に描かれていたものであり、歴史的な図柄だ。 

    わずか1年半ほどしか持続できなかった傀儡政権が定めたものとよく似たカラーリングの新国旗は、この国の行方を暗示しているようである・・・などと言うつもりはないが、国旗変更のタイミングといい、新たに定められた図柄といい、決して幸先の良いものと感じられないのは私だけではないだろう。

     <続く>

  • 国境の儀式

    国境の儀式

    アムリトサルから国道一号線を国境へと進んでいく。デリーから続いているこの国道は、GTロード (Grand Trunk Road)の一部でもあり歴史的なルートだ。 

    途中、右手に見事なコロニアル建築の薬科大学が見えてしばらくすると料金所があり、このあたりからはどこもかしこも広大な田園地帯だ。そこを通過してさらに西へと進むと、アッターリ―村を通過する。 

    国境手前で最後の村はアッターリーであるが、本当の『最後の村』はワガーである。印パ分離により、国境の東西にまたがることになったのがここであったが、現在ではイミグレーション、税関、国境警備施設等の政府機関が固まっており、『村』ではなくなっている。 

    いよいよ国境に着いた。いくつかレストランがある裏手は広い駐車場になっている。訪れたのは月曜日であったが、それでもかなりの人出であった。週末に訪れたらちょっと大変だろう。 

    セレモニーの会場には、カバン類を持ち込むことができない(カメラ、ビデオ、携帯電話、ウエストポーチは可)ため、クルマに残しておくことになる。 

    見学のスタンドに行くまでの間に、パスポートチェックが3回、ボディチェックが2回ある。途中、一般通路とVIP通路に分かれるが、外国人は後者へ進むように言われる。VIP席にも通常のVIP席とVVIP席があるが、ここでは前者に座るように指示される。これらのチェックと誘導をしているのはBSF兵士で、セレモニーで勇壮な儀式を展開する兵士たちと同じいでたちである。皆、体格がとても立派なので、交代で任務に着いているのかもしれない。 

    午後6時前に到着すると、すでに人で一杯になっていた。すぐ向こうはパーキスターン側である。こちらではボリウッドのポップスをかけて人々が踊っているが、反対側も同様に音楽を大音響で鳴らしている。ただしこちらほどの盛り上がりは見せていないようだ。印・パ両側ともに大勢の人々がスタンドで観覧している。 

    6時半くらいになると、ようやく式典が始まった。インド側では司会役のような男性(平服だがBSF兵士のようだ)による「Bharat Mata ki」という呼びかけに対して『Jai』と観衆が応じ、「Hindustan」の呼びかけに『Zindabad』、「Vande」に対して『Mataram』という具合に盛り上がりを見せている。 

    向こう側ではクルアーンの朗誦に始まり、「Jinnah、Jinnah」『Pakistan』と声を張り上げている。いかにも両国の現代国家としての成り立ちの違い、分離独立したことの理由を表しているかのようである。   

    兵士たちの儀式が始まる。最初に数人の女性兵士たちが大げさに足を踏み鳴らして国境ゲートに向かう。続いて複数の長身で着飾った兵士たちが続き、足を高く上げて踏み鳴らす動作もある。一連の流れの中で、両国とも調和の取れた動作をしている。パーキスターン側での動きはここからよくわからないのだが、同じタイミングで始まり、同時にセレモニーを完了する。 

    幾度か儀式に出ている兵士による大きく長い掛け声が流れる。印パ両側でほぼ同時に発声が開始されるのだが、自国の兵士がより長くそれを続けることができると大きな拍手と歓声が上がる。 

    以前、Youtubeでこのセレモニーの様子を動画で見たことがあるのだが、まさに両国側によるしっかりとしたパートナーシップがあるからこそ、毎日のこの式典が成り立っていることがわかる。何か敵意に満ちたものであるのではないかと思っていたが、決してそんなものではなかった。   

    儀式が終わり、家路に着く人たちに国境のセレモニーやBSFにまつわる映像を集めたVCDやDVDを売りつけようとする商売人たちが群がる。どこからかスピーカーで「皆さん、くれぐれも海賊版VCD、DVDに手を出さず、正規版を買ってください」などという、当局からの呼びかけが聞こえてくるが、正規版なるものがどこで売られているのか見当もつかない。道路脇にあるレストランもまさにこの時間帯が書き入れ時のようで、どこも満員だ。 

    アッターリー村、ワガー村の人々にとって、それ以前は、このあたりから大きな街に出るという場合、アムリトサルに行くのもラーホールに行くのも同じようなものあったことだろう。 

    アムリトサルやラーホールの住民たちにとっても、長い歴史の中でずっと「隣街」であったものが、分離により遠い街になってしまった。今の時代の人々にとってはごく当たり前のことであっても、それまでの人々にとっては、学校出てから仕事に就くにあたり、インドもパーキスターンもない同じ国内であった。 

    おそらく今の80代以上の人々(分離時にそれなりの年齢に達しており、当時の記憶を自己の体験としてはっきり認識している最後の世代。その頃の幼児や子供は含まず)にとっては、いろいろと思うところがあるに違いない。 

    当時はもちろんブログもなければ、村民で日記をしたためていた人もあったかどうか・・・?「オラが村がふたつの国に分かれた」体験をした人たちは、その過程で様々な事柄を目にしてきたことだろう。また村という小さなコミュニティの中で、そこに国境が引かれるということで、どんな出来事があったのだろうか。 

    村民の間でも人口の移動、分離後の人間関係や個々人の力関係においても、友愛と裏切り、信義と謀略、その他いろいろ大変なことがあったことと思う。そこが国境になったがゆえに国防施設や行政機関等が建設され、地権上でも様々な出来事があったはずだ。印パ分離の縮図とでもいうべき大きなドラマが小さな村の中で展開していったのではないかと想像される。

  • ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?

    1年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国がネパールでの鉄道建設計画に深く関与していることについて書いた。南進を画策する中国は、インドの周辺国に対して鉄道建設計画を含めた援助を行なうことにより、自国との乗り入れを含めた国家間のリンクを強め、これらの国々を影響下に置こうとしている。 

    そうした中で顕著なものは、パーキスターンにおけるグワーダル港、スリランカにおけるハンバントタ港の開発、ネパールにおける水力発電所の建設計画であったりする。 

    今やGDP世界第2位に躍り出た中国。豊富な資金、技術力と労働力で積極的に国外への影響力を高めようとしており、南アジアで突出した存在感を示してきたインドに対し、長期的な視野から着々と包囲網を築き上げつつある。すでに中国は、ネパールにおいてインドに次ぐ第2位の投資国にもなっている。 

    その中国にとって、自国占領下にあるチベットとの境を接し、伝統的にインドと深くかかわってきたネパールは、地理的に南アジアの入り口に位置しており、対インド的にもとりわけ重要な戦略拠点となる。中国から見ると、まさにネパールは現代の『グレート・ゲーム』の舞台であるようだ。ちょうど19世紀の中央アジアがイギリスとロシアの間で国益と覇権を賭けた駆け引きの舞台であったように。 

    2011年に予定されているチベット亡命政府の総選挙における首相と国会議員の候補者を選定するための予備選挙が10月3日に行われた。現在、亡命チベット人の人口はおよそ15万人であるとされ、そのうち8.9万人が18歳以上の選挙権を持つ有権者であるとされる。 

    インド国内を含めた世界50カ所で投票が実施された。インド在住の有権者のうち実際に投票を行なったのは20%程度であったとされるが、オリッサ州のチベット人居住地プンツォクリンでは、驚くべきことに投票率が94.39%という非常に高いものであったということだ。

    インドの隣国ネパールでも亡命チベット人人口は2万人を数える規模の大きなものであるが、投票終了1時間ほど前にネパール当局による妨害により、事実上無効となってしまった。事件当日、投票所から投票箱を持ち去る警察官たちの姿を収めた動画がYoutubeで公開されている。 

    Nepal police confiscated Tibetan ballot box (Youtube) 

    この出来事には伏線がある。かねてより中国からネパール国内で中国の『内政』に干渉する活動を禁じるようにと圧力がかかっていたが、今年9月中旬に中国のハイレベルの代表団がネパールを訪問した際、ネパールから『ひとつの中国』ポリシーを取り付けていたようだ。 

    ここで言う『ひとつの中国』とはもちろん、台湾の存在に関わる『両岸問題』よりも、主としてチベットの扱いに対するものであることは明らかだ。 

    ネパールがこのように『中国に従順』な姿勢を見せるということは、インドにしてみても決して看過できるものではない。ときに関係がギクシャクすることもあっても、兄弟のような関係にあったネパールが、たぶらかされて仲の悪い隣人の家に婿養子に出てしまい、実家に顔も出さないような具合になってしまっては・・・というよりも、場合によっては『もうひとつのパーキスターン』として、インド自身のセキュリティに関わる問題に発展する可能性もある。 

    地理的にインドと中国の狭間でうまくバランスを取ってきたネパールにとっても、対中国の依存度を深めることは、長期的な視野から果たして得策なのであろうか。 

    我が身を振り返れば、日本もバブル以降、それ以前からの中国の開放政策と相まって、積極的に企業等が中国大陸に進出していき、私たちの生活の中で『中国』は片時も欠かすことのできない存在となった。 

    同時に中国に対する日本からの投資額の大きさは、そのものが中国に質に取られているようなものでもある。尖閣諸島問題においても顕著であったように、レアメタル類の調達先が中国に依存しきっている日本に対して、北京がこれらを輸出することを禁じる動きを見せると、経済界が瞬時に悲鳴を上げるようになってしまっている。 

    現在の中国のネパールに対する寛大で気前の良い姿勢は、決して善意から出ているものではなく、将来の南アジアで権勢を振るうことに対する先行投資であり、友好の名のもとに進める計算ずくめの国家戦略である。 

    対中国依存度が高まり、インドの側に戻ることができないところまで行き着いてしまった暁には、新たな華夷秩序に組み込まれた内陸国ネパールは他に頼る相手もなく、経済カードをちらつかせて恫喝する暴君の素顔を露わにした中国を相手に呻吟することになるのではないかと危惧するのは私だけではないだろう。 

    Nepal police disrupt Tibetan elections in Kathmandu (Phayul.com) 

    The China factor in Nepal (INDIAN DEFENCE REVIEW) 

    China takes over Nepal  (INDIAN DEFENCE REVIEW)