地震後、スィッキムはどうなっているのか?

今朝になってからスィッキムの知人の息子から連絡があり、無事であることがわかった。

しかし、停電しており、固定電話、携帯電話ともにほとんど使えなくなっているとのこと。情報が限られていて、歩いて回れる範囲以外の地域がどうなっているかもわからないとのことだ。知人の息子は空軍に勤務しており、ビーカーネールの基地に配置されているのだが、ちょうど休暇か何かで親元に戻っていたところらしい。とりあえず少し安心した。

メディアによれば、現在インド国内では昨夕の地震により死亡が確認された数は50名前後となっているようだが、震源地のスィッキム州自体が山岳地帯で、斜面に建設された細い道路で繋がれていること、これらの中で地震による崖崩れで不通となっているところは少なくないことを考え合わせれば、被害の全容がわかるまで時間がかかることは想像に難くない。同様に、山岳地であるがゆえ、救助作業等も難航することだろう。雨季には多雨で知られる地域でもあり、現地では断続的に降雨が続いていることも伝えられている。

平地の内陸部であれば、周囲の四方から救助活動を展開することが可能だが、北は中国占領下のチベット、東はブータン、西はネパールといった外国に囲まれ、南は西ベンガル州とインド北東州をかろうじて陸路で接続している細い回廊地帯という非常に不利な条件下にある。先述の山岳地帯であり、季節柄仕方ないが天候が悪いということと合わせれば、如何に難しい状況にあるかということは明らかだ。

中国占領下のチベットに向かって突き出す形で位置するスィッキムは、中国に対する軍事面での要衝である。加えてスィッキムのインドへの帰属を中国が認めていないといった事情もあることから、外国人の入域には形式的なパーミットが不可欠となっている。そのパーミットにより許可される訪問可能なエリアにも制限がある。また一度スィッキムを出てしまうと、再度パーミットを取得するまで3カ月経過しなくてはならない。そうした背景からもわかるとおり軍の施設も多い。内政面では特に問題はないので、安全かつ快適に過ごすことができるのだが。

今回の地震で、本来ならば災害時には救助活動が期待できる軍への被害もかなり出ているようで、他州に駐屯している部隊等による活動が始まっているようだ。

メディアによる今後の続報が大いに気になる。

震源地スィッキム M6.8の地震

ニュース番組आज तक (Aaj Tak)を見ていたら、突然地震の知らせが入ってきたので書いている次第である。地震の発生は午後6時11分、マグニチュード6.8、震源地はスィッキム州都ガントークからおよそ64kmのネパール国境地帯、震源の深さは約10kmと伝えられている。

ビハール、西ベンガル、アッサムといった周辺州はもちろんのこと、チャッティースガル、U.P.、デリー、ラージャスターン東部でも揺れが観測されるなど、かなり広範囲に及んでいる。現時点ではアッサムの一部で建物にひびが入った程度の被害が伝えられているものの、負傷者等の情報はない。

コールカーター、パトナーその他で、リポーターによる街の人々にインタヴューの様子がオンエアーされており、突然の揺れでとても驚いたことを各々が語っているが、彼らの話の内容からしても、このあたりではそう大きな被害が出るようなものではなかったことと思う。

だが肝心の震源地域、スィッキムとネパール東端に及ぶ震源地周辺については、今のところ何の知らせも入っていないようだ。山間の地域ということもあり、どういう状況になっているのか懸念されるところだ。

スィッキムへの電話が通じなくなっている(回線が停止しているのか、安否確認等の電話が殺到してパンクしているのかは不明)しているとのことだが、いくつかの大きな建物にもたらされた被害についての知らせも、おそらく非公式なルートから入ってきているようだ。州都ガントーク在住のベンガル人知人がいるので、気になって電話してみたが、携帯もランドラインも案の定通じなかった。目下、彼の無事を祈るしかない。

今後、地震の続報に留意したい。

インレー湖

宿で募っていたインレー湖のボートツアーに参加した。ノルウェー人男性、アメリカ人男性とその友人の日本人女性、そして私の計4人である。朝7時半に船頭が迎えに来た。

インレー湖につながる水路

ホテルを出て通りを左に直進したところにインレー湖につながる運河の船着場がある。両岸は土が崩れ落ちないように竹で護岸がなされている。ところどころで浚渫作業が進行中。放っておくと浅くなってしまい、船の往来に支障を来たすようになるのだろう。

竹でできた護岸

様々な船が行き交っている。野菜などの食料品その他の生活物資を載せたもの、建築資材を積んでいるもの等々。だがこの時間帯で最も多いのは、国内外からの観光客を乗せた船だろうか。

船は速度を上げて進んでいく。やがて水路から湖に出て景色が一気に開ける。これまで写真等ではときどき目にすることのあった片足漕ぎの漁師たちの姿が見える。両手で作業しながらも船を進めることができるという利点があるが、傍で眺めていると何とも不自然な身体の使い方だ。

インレー湖名物の片足漕ぎ
インレー湖に出た

船は、パウン・ドー・パヤーというお寺入口の船着場に着いた。本堂内中央には五体の仏像らしきものがあるが、いずれも大量に貼られた金箔のため、雪だるまのような有様になっている。

パウン・ドー・パヤー
大量の金箔で雪だるま状態

隣にはマーケットもある。市場では食品や雑貨等いろいろ売り買いされている。規模もニャウンシュエよりもおよそ倍くらい大きい。マイノリティの人々も来ていて、民族色豊かでカラフルだ。

マーケット

そこから船は来たときとは異なる水路を進んで機織の村に行く。村といっても、水路沿いにある高床式の水上家屋がいくつか寄せ集まっているだけのことだが、周囲はどこもかしこも水で一杯なので、隣家に行くにも船が必要。どの家屋でも軒先には一隻以上の船を繋いである。近所で用を足すだけの自家用なのでほとんどは手漕ぎだ。

そんな環境なので、このあたりでは小さい子供たちも上手に船を操っている。ごくわずかな陸地(?)のように見える部分は浮島になっており、季節の野菜類が栽培されている。どこの集落でも、いくばくかのこうした『耕作地』がある。

水上家屋 水面上の緑色の部分は浮島状になっていて野菜等を植えてある。

家の周りで自家消費に必要な魚類は簡単に調達できそうだが、耕作は容易ではないし、その他の生活物資の入手についても不便だろう。どうしてこういうところに人々は住み着いたのかわからないが、きっと何か合理的な理由があるに違いない。

次にビルマ式の葉巻作りの作業場。大きな高床式建物の中で行われている。中には刻みタバコが詰めてあるが、外側の巻き材はイチジクの葉であるとのこと。女性たちが作る葉巻にはどこかのブランドの名前が付いていることから察するに、一定量の材料を手渡されて請負生産しているのだろう。ここは作業場とはいえ主にみやげ物を売ることを目的にした場所のようで、ビルマ漆器の大小様々なものが展示されている。

次に訪れたのは銀細工の作業場。いろんな年齢層の職人たちがそれぞれ受け持っている異なった工程で作業を進めている。最初に訪れたお寺とマーケットからずっと、他グループの同じ顔ぶれの人たちと行く先々で出会う。どの船頭たちもほぼ同じコースを回っていることがわかる。

銀細工作業場見学を終えてから近くにあるレストランで昼食を済ませた後、水上の耕作地に向かう。浮き草等の植物性の『土壌』から成る水上の畑だ。先述の浮島状の耕作地が大きくなったものである。季節により作物は変わるそうだが、この時期に栽培されているのはトマトである。本来は乾燥地に植える作物だが、ここで採れるトマトはどんな味がするのだろうか?

水上のトマト畑

そしてガー・ぺー・チャウンという、輪の中を飛び抜ける芸をするネコたちがいるお寺として知られているところ。複数の猫たちが係の(?)男に芸をさせられている。男が鈴を鳴らすと芸が始まる合図だ。猫を引き寄せて手にした輪で喉の下を数回擦る。すると猫が上向いて「やる気になった」らジャンプするというもの。

ネコのジャンプ

このお寺を最後に、船はニャウンシュエの船着場に戻る。本日同行した人たちと水路沿いにある飲み屋に繰り出して乾杯。付近には他にいくつか外国人が多く宿泊するホテル等がある中、界隈で唯一ジョッキの生ビールを出す店なので、けっこう賑わっている。

目の前の水路を行き来する船を眺めているうちに、陽がとっぷり暮れてきた。

日帰りトレック2

最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

鉄路

鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

焼き上げる前の煎餅

そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

シャーマン

このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

<完>

日帰りトレック1

この宿ではトレッキングのツアーをアレンジしている。カローから2泊3日でインレー湖に出るコースを勧められた。単に明日それで出発する他の人たちがいるからなのだが。しかしちょうど大きな低気圧が来ており、しばらく天候が非常に悪い。しばしば豪雨がやってきていたため日帰りにすることにした。他の人たちの行程の初日夕方で離脱する形である。

この日のトレッキングに参加するのは、カナダ人4人、フランス人2人、ロシア人が1人、加えて日本人の私である。道案内は宿の女主人の息子と、手伝いのネパール系の男性。

一行は出発する。町の西側に出てしばらく行くと竹で造った本尊のあるお寺。このあたりまではカローの町の郊外だが、そこから先は農村風景が広がる。さらに進むと、ところどころに少数民族の村が点在する山間の景色となってくる。

この時期暑いばかりがミャンマーではない。見渡す限りの山岳風景の中で、あまり高度のある山は見受けられないが、オゾンをたっぷり含んだ空気と涼しい風が心地よい。途中幾度か驟雨に見舞われるが、そう長い時間続かないのは幸いであった。

ちょっと小休止

途中パラウン族、ダーヌー族といった少数民族の村々がある。ガイドブックにヴューポイントと記されているところの少し先にはネパール系の人が経営するトレッカー相手の簡単な食堂がある。

本日のランチ

南アジア系の人々の多くは町中で商業活動を営んでいたり、労働者として働いている人が多いようだが、このあたりの山中で耕作に従事しているネパール系の人々もけっこういるそうだ。この食堂の人たちも本業は農耕である。

山間の耕作地では茶畑がいくつもあった。高原の冷涼な気候が栽培に適しているのだろう。そうした中にたまにごく少量のパイナップルが植えてあったりもするが、こちらは商業用ではなく自家消費目的なのだろう。

茶の苗木が植えられている中にパイナップルもいくつかあった。

ダーヌー族の村に行く。外国人たちの姿を見つけた子供たちが大勢駆け寄ってくる。家々では豚も買われている。立ち寄った村は地形によりふたつの部分に分かれている。

子どもたちと案内人のR氏

村の最初に訪れた部分では、茶の乾燥場があった。基壇部分の下では何か燃料、おそらく木を燃やしているはず。上の部分が熱くなっており、そこに広げている茶歯が乾燥されるようになっている。

茶葉の乾燥場

近年、村の暮らしぶりはよくなってきているとのことで、付近の川で簡単な水力発電が行なわれるようになったことから、ささやかながら電気が来るようになったとのこと。裸電球を灯すのがやっとで、他の電化製品を使用できるほどの規模のものではないそうだが。

また付近で石灰岩が豊富に採れるという事情から、最近はコンクリート・ブロックで家屋を建てるケースが多くなっているとのことだ。

一行は村長の家に向かう。伝統的な高床式の木造家屋である。どこからか年配女性たちがやってきて手工芸品を見せる。その中には嫁入り前の女性のみが着用する衣装がある。飾りのついた頭飾りがそれである。結婚してからはターバンをまとうことになっているそうだ。

アレやコレやといろんな品々を見せてくるが、特にこちらが買う気がないことがわかると、彼女たち同士でのおしゃべりに興じている。もう孫がいるであろうと思われる年齢の女性は、嫁入り前のそうした衣装を付けてジッと鏡に見入っている。この人たちにも確かにそういう時代があったのである。

花嫁姿?の元乙女たち

高床式の家の中は風通しがよくて気持ちがいい。ちょっと磨き上げたら相当居心地の良い部屋になりそうだ。少なくともさきほど見たようなコンクリート・ブロックの家屋よりも健康的だと思われる。しかしコンクリート・ブロックであるがゆえに、その上に漆喰を塗り、さらにはペンキで仕上げて近代的な部屋にすることもできる。それにより長い年月維持できるだろう。どちらが良いのかなんともいえないが、少なくともこれを選択している人たちにとっては、それなりの合理的な理由があるに違いない。

案内人パンジャービー系R氏と背後はネパール系のR氏

そこからふたたびしばらく山道を歩く。ときおり芝生状にごく低い草が茂った開けた場所がある。周囲の山並みの眺めを楽しみながら歩く。

<続く>