
近年のタメルの夜は明るくなっている。遅くまで開いている飲食店が多いことはもとより、照明やネオンが多くなったので、場所によっては、カメラに収めると「バンコク?」と思うような具合に撮れることもある。
同じ場所で昼間に眺めると、やはりそこはカトマンズなのだが。



インドが英領時代からインドを含めた英国植民地で、それらが宗主国から独立して久しい現在まで、傭兵として重用されているグルカ兵だが、小柄ながらも勇猛果敢さと規律の高さで知られる。
日本軍によるインパール作戦時、英領インドは、深いジャングルの丘陵地帯に守られて手薄だった東部の守備が切り崩されるのを防ぐため、現地アッサム連隊に加えて、インド全土から応援を呼び寄せるのみならず、遠く英国本国、アフリカの英国領地からも兵員を導入している。
コヒマ市街地等では、両軍による白兵戦が展開するなど、日本軍が撤退を決意するまでは、熾烈なバトルが繰り返されたが、そうした場面で決定的な役割を演じた部隊のひとつが、このグルカ兵から成る傭兵部隊であったとも聞く。
ジェントルでマイルドな雰囲気のネパールの人々だが、インパール作戦に従軍した日本兵たちにとっては、ネパール兵との邂逅は、即座に死を意味するものであったようだ。

ネパールでは「ノースフェイス」の中国製ニセモノが大量に出回っており、見た目からしてずいぶんチャチな安物を沢山見かけるが、カトマンズのタメルには正規のショップが2軒、ほぼ隣り合って出店している。
もちろん、ちゃんとした本物でそれなりの価格の値札が付いているのだが、他国で購入するよりも、かなりお得な値段なので、冬用の上着を買った。

民芸品の類はまったく興味のない私だが、ネパール関係の書籍に加えて、「ノースフェイス」はカトマンズを訪れたならば、マストな購入アイテムであると感じる。
この並びには、他にもMarmot等、国際的に有名なアウトドアブランドのショップがいくつか軒を連ねているので、比較検討してもいいだろう。どの店も品揃えの面でも申し分ない。

韓国発で、日本ではまだほとんど知られていない「BLACK YAK」の店もあり、これもなかなかいい感じであった。

道端のこんな小さなお寺(・・・というか、この写真はお寺というより祠か)もあれば、壮麗かつ巨大な寺院もある。祀られているのはシヴァやヴィシュヌであったり、その他のいろんな神々であったりする。
規模は大小様々で、小さいお寺でもロケーションが良かったり、霊験あらたかであったりするのかどうかは知らないが、人気があり賑わっているところもあれば、大きいのになぜか閑古鳥が鳴いているような寺院もある。
だが概ね、よほど条件が悪くなければ、大きな寺院というものは信者を集めて、それなりに繁盛しているものだ。
しかしながら、どうしてそんな大小の差が出るのかといえば、元々はさほど大きくなかったものが人気上昇とともに周囲の土地を買収したり、寄進を受けたりして拡大していくケースもあれば、昔の王や大商人が唸るほどある財産の一部を使って開かせた寺院があったりといろいろだ。
時代が下ると、大きな教団が信者たちから集めた巨万の富をもって各地でビックリするほど大規模で立派な寺院を建立する例が増えてくる。BAPSなどはその典型で、インド経済が順調な成長を続けていくとともに、転がり込んでくる財もどんどん拡大していくため、その勢いに拍車がかかる。
町中の小さなお寺とこうした大規模な寺院との違いといえば、やはり卓越した経営戦略、マーケティング、それらを支える優秀なスタッフや政治力の有無であるのだろう。
ちょうど、商店街で人気の唐揚屋さんとケンタッキーフライドチキンの違いのようなものとも言えるかもしれない。前者は、日々買い物に来てくれるお得意さんの笑顔と売り上げがもたらす収入から成る日々の糧をありがたく頂き、家族円満に日々楽しくやっているのだが、後者はそういうミクロな視座ではなく、日々の成長と事業の拡大こそ是として邁進しているわけだ。どちらも似たような鶏の調理品を売っているのだが、価値観や生き方の違いなので、どちらが良いというものではない。
小さなお寺の聖職者に非常に徳が高く知識も深い人もいれば、日々の生活に汲々としていて、修行で学識や研鑽を積んだりする余裕のない人もいるだろう。かたや、大きな寺院には本当に尊敬すべき高僧もいれば、いかにもビジネスマンみたいな坊さんがいたりもする。
私たち一般人にしてみれば、寺が小さくても大きくても、そこに祀られている神サマは同じなので、どこに行こうが本質的な違いはないはずなのだが、大きな寺院はたいてい、その寺院自体の謂れだとか由来だとかのような権威を振りかざしていたりするので、せっかくお参りに行くならば・・・と思わせがちだったりする。やはり経営手腕というものが、寺院の隆盛を左右するので、俗世間と何ら変わるところはない。
インド各地で何時も姿を目にする聖者たちにしてもそうだ。観光客たちにたかって食い扶持を稼ごうとする一部の聖者?たちはともかく、実はとてつもない高みに達している聖人が、自己の追求のみに関心があって、教えを広めたり、社会に働きかけたりしようという意思さえ持たず、人知れずこの世を去っていくことは少なくないはずだ。
概ね、世の中で広く知られるようになる宗教家というのは、自己顕示欲、名誉欲、金銭欲の権化であることが多いので、ご近所にある馴染みのお寺でチャリンとお賽銭入れてお参りしておいたほうが安心かもしれない。祀られている神サマは同じなのだから。


こういう場所に神的なものが存在するというのは、国や文化は違ってもいろんなところで共有される感覚だ。
人が行き交う場所で、花や供え物が置かれたり、やがては壇が作られたり、神像や神の絵などが飾られるようになると、立派に信仰の対象となる。
ここで祈ったり賽銭を置いたりする人が増えてくると、ただの木なのに、それなりの風格も出てくる。
それは、人々の思いや気持ちが昇華された結果なのか、はてまたその場所に本来備わっていた神性が出現したがゆえのことなのかはよくわからない。
映画「PK」に出てきた、迷信や盲信を風刺するひとこまを思い出したりもする。大きな木の根元に石を立てて、紅いティーカーを付ける。そこに小銭をいくばくか置いておくと、そこを通りかかる何人もが手を合わせて賽銭を重ねる。地面に跪いて祈る人やお札を置く人も出てくる。そうして集まってくる人たち目当てのスナック売りなども登場して・・・といった具合。
確かに、大きな街中でこうして置かれていく賽銭を懐に入れている世話人がいるはずなのだが、いつも祭壇をきれいに整えて、日々往来する人々に家内安全や何か特別なお願いごとなどの機会を提供してくれているのだから、正当な報酬かもしれない。
24時間、365日、いつでも開いている。お布施を催促して煩わしい司祭もいないので気楽だし、さりとて木のたもとで往来を眺めている神様の目の届く範囲で悪事を働く不謹慎な奴はそうそういないだろうという、「見守られている」安心感もあったりするようにも思う。
前述の映画の中に出てくるように、最初は誰かが思いつきで神を演出させてみたのかもしれないが、それがいつしか本当に神がかってしまうのが面白い。でも街中のそうした祠や木のたもとの神サマは、僕らと同じ等身大の存在で、通りがかりにいつでも気楽に声をかけられる身近なものであるのがまたいい感じだ。


ハウラー駅から鉄道で、コールカーターの北60キロ余りのところにあるバンスベーリヤーへ。通常はバンデールで乗り換えるケースが多いらしいが、乗った電車は幸いなことにバンスベーリヤーまで直通であった。乗車時間は1時間半ほど。駅からサイクルリクシャーで寺院へ向かう。




13本の塔を持つハンセースワーリー寺院とテラコッタの装飾が見事なアナンタ・ワスデーヴ寺院を見学。すぐ隣にはラージバーリーがあり、なかなか絵になるセッティングだ。絵といえば、境内で水彩画を描いている女性がいたので、いろいろ質問しながらしばらく見物。とかくベンガルでは、若い人から年配者まで、絵画、音楽、写真、演劇その他の趣味に熱烈に傾倒する人が多く、文化的な感じがする。

たまたま参拝に来ていた地元の親切な20代くらいの男性が、これらふたつの寺院の由来や背景、ラージバーリー(旧領主の館)や旧領主にまつわる、詳しい話を聞かせてくれたのもよかった。言葉が通じる国のありがたいところだ。


同じベンガルでも、お隣りのバングラデシュだと、ヒンディーはもちろん、英語を話す人も極端に減るので、たいていの人たちと普通に話が出来る環境から、ほとんどの人とかんたんなやり取りさえも容易ではないという、正反対の状態になってしまうのだ。田舎の眺めはインドの西ベンガル州もバングラデシュも変わらないのだけれども。




そこからオートリクシャーでバンデールまで移動。16世紀にここに地歩を築いていたポルトガルが建てたローマンカトリックの教会に関心があったのだが、今の建物は近年になってからのものであり期待外れであった。ここからほど近いフーグリーには、なかなか風格のあるイマームバーラーがあり、バンスベーリヤーのついでに訪れた甲斐があった。






帰りは再びフーグリーの駅に出て、ハウラー行き電車をつかまえる。バンデールからは80分くらいかかるのだが、スマホをいじっていると、あっという間にハウラーに到着していた。暇な時間には日記などを書くこともできていいのだが、その反面、車窓の景色はあまり見なくなるように思う。

1868年に完成した優美な建築物。現在これが立地する場所のすぐ脇が、1765年に起きた悪名高い「ブラックホール事件」の舞台となった場所だそうだ。
The Black Hole of Calcutta (History Today)
それはともかく、ここは旅行者たちにとって、少し前までのネットカフェ、今のスマホのような役割を果たしていたことがある。インターネットの利用が一般化する前の頃の話である。
Mr. ×××
Poste Restante
General Post Office, Calcutta,
India
・・・というような宛名で書かれたハガキ、封書、場合によっては荷物などが、G.P.O. (General Post Office = 中央郵便局)に局留郵便として届き、受取人は本人の証明としてパスボートを持参して、これらを受け取っていた。
一般的には、局留として到着した郵便がG.P.Oに保管されるのは3カ月とされるが、それよりも多少長い期間が経過しても、届いた郵便を見つけることが出来る場合もあった。
こうしたサービスは、コールカーターの郵便局に限ったことではなく、インドの他の大きな街はもちろんのこと、世界中どこに行っても郵便局はこうした便宜を図ってくれていた。現在もそれは変わらないだろう。だいぶ前に、「POSTE RESTANTE 局留郵便(1)」と題して書いたことがある。
さすがに今の時代には、局留で手紙を送ることはないが、荷物の受け取りなどで利用する人はかなりあることと思う。
そんな時代、G.P.O入口の階段では、家族や友人から受け取った手紙の文面を嬉しそうに見つめている旅行者たちの姿があり、持参した絵葉書を手に、その場で返事をしたためていたり、郵便窓口でエアログラムを購入して返信を書き始めたりする者の姿をよく目にした。
今の旅行者たちの場合は、ポケットの中のスマホに、両親からメールや友達のFBでの動向がリアルタイムに入ったり、自らも彼らに頻繁に発信したりしているのだが、当時のこうしたシーンでは、メッセージの往復に最低で数週間、多くは数カ月くらいかかっていた。
そもそも局留で手紙を受け取るには、「次には××に行くから手紙をくれ」というように、今後確実に向かうであろう都市のG.P.O(自分がそこを立ち去った後に手紙が到着しないよう、多めに時間の余裕を見込んで)を伝えておかなくてはならなかったので、こうした便りを受け取る際の感激はひとしおであった。
コールカーターの大時代的な建物の郵便局は、ふとそんなことを想起させてくれる。これが開業した当時の郵便事情はどんな具合であったのだろうと思いを馳せたりもするが、こうした郵便や通信の変遷の歴史をつぶさに見つめてきたのが、この歴史的な郵便局である。

現存するモーターサイクルのブランドとしては世界最古で、発祥の地イギリスでの生産が終わってからも、インドで製造が続けられているロイヤル・エンフィールド。
クラシックなブリティッシュバイクということで、欧州などからインドを訪れてバイクによるツーリングを楽しむ人たちの間で昔から人気が高く、そうしたモデルを新車・中古車等で購入してインドを駆け巡る旅行者もあれば、このバイクでのツーリングを売りにするツアー企画会社もある。
そうしたクラシックバイクが今なお生産されているいっぽう、近年は若者ウケするモデルも次々に世に送り出しており、かつての「オジサンのバイク」のイメージを一新し、以前とは違った境地に踏み出している現状だ。
「ロイヤル・エンフィールド」の名前を冠したグッズの販売店もあり、これまたなかなか好評のようだ。




市内中心地にあるRabindra Barati Museumを訪れた。Rabindra Bharati Universityの付属施設で、この大学のすぐ隣にある。
カルカッタやその近郊には見事なラージバーリー(領主の館)があるが、こうしたかつての大土地所有者(ザミーンダール)のラージバーリーないしはタークルバーリーの大半は、もう顧みられることなく荒れ放題であったり、中を細分化して賃貸に出していたりする。
博物館内ではタゴールの詩以外にも絵画その他の創作活動、日本や中国との親交や欧米の知識人たちとの往来等に関する展示もあり、見応えがあった。
それぞれの生年・没年を記した家系図の大きなパネルもあった。一族の中では、幼くして亡くなったり、30代、40代で早世してしまった人が多いことに気が付くが、タゴール家が短命なわけではなく、そういう時代だったのだろう。
ちなみに19世紀までは、英国から渡ってきた人たちの平均寿命がわずか7〜8年だかなんだか(数字はうろ覚えなので誤りがあるかもしれない)と書かれたものを目にした記憶がある。まだ病理学が充分に発達する前で、はるばる英国から渡ってきた人たちは、往々にして赤痢、マラリア、コレラなどに倒れたらしい。
カルカッタのサウスパークストリート墓地(植民地期の英国人墓地)の墓標を眺めてみると、最高裁判所の裁判官、行政官といった支配層の人たちが、30代後半や40歳を少し越えたあたりでなくなっていたり、高級官僚一家が半月ほどで、次々に亡くなっていたりすることがわかったりする。後者は明らかに何かしらの伝染病によるものだろう。
植民地支配層の英国人の墓石には、出生地、生前の肩書、没した年月日などが記されていることが多く、死の背景をある程度推測することが可能な場合もある。英国から渡ってきた特権階級の富裕層でさえこうした具合なのだから、インドの庶民の場合はどんな風だったのだろうか。
そんなわけで、なかなか往時さながらの姿を目にする機会はなかったりするのだが、ここはそうした生まれ育ちの詩聖ラビンドラナート・タゴールを記念する博物館として公開されており、展示物もさることながら、見事な屋敷を堪能出来るのもありがたい。
言うまでもなく、ラビンドラナートは、アジア人で最初のノーベル賞受賞者だが、詩だけではなく、絵画や音楽等々、多岐に渡る才能を発揮した人物だが、シャンティニケタンにあるヴィシュワバーラティー大学を創設したことでも広く知られる。
現在の西ベンガル州だけではなくバングラデシュでも土地を初有していたため、タゴール家ゆかりの館は国境の両側を跨いでいくつもある。この屋敷以外にも、実は旅行者ゾーンのサダルストリートにもタゴール家の屋敷が存在していたことがある。ラビンドラナートがそこに起居して詩作にいそしんだ時期があったそうだ。もう今は残っていないが、10, Sudder Streetがその場所。現在は安宿、旅行代理店、両替屋が入る汚い建物がある。
ラビンドラナート・タゴールの詩は、ギクシャクした訳文で読んだことはあるが、その良さはよくわからなかった。原語のベンガル語が判れば、きっとその素晴らしさが堪能出来るのだろうと思う。


シンガポールにラッフルズあれば、カルカッタにはグレート・イースタン。1950年代末だか1960年代初頭だかには、訪印したエリザベス女王の食事会も開催されたほどのホテルだ。
1970年代以降は、共産党州政権のもとで、州営ホテルとなってからは大きく格を下げ、2000年代に入り、ムンバイを本拠地とするホテルグループ、The Lalit Hotelsに売却される直前は、なんと1500Rs程度で宿泊出来るまでに転落。
今から10年ほど前に、グレート・イースタン・ホテルと題して、この宿泊施設を取り上げてみたことがある。
売却後、2005年から長らく工事のため休業していたが、2013年から再び高級ホテルとして開業して現在に至っている。