ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: life

  • ラトナーギリー 2 ティラクの生家

    ラトナーギリー 2 ティラクの生家

    インド独立の志士たちの中でも、ひときわ大きな存在感があったロークマニャ・ティラクはラトナーギリーの出身。彼の生家が「ティラク博物館」として公開されている。(入場無料)

    展示品や写真には、説明書きがいろいろあるものの、マラーティーでの表記しかないのは残念。英語かヒンディーは付けて欲しい。他の地域から来たインド人も困るだろうし、ティラクはマラーティーの人々の英雄ではなく、全インドの偉人である。

    それはともかく、この地域における典型的な伝統家屋がこのような形で保存されているのは良いことだ。最近の建物はレンガとコンクリートで造るので、亜大陸どこでと同じだし、アフリカでも大した違いはない。地元で入手出来る建材で、地元の風土気候に合った建物ということになるのだろう。

  • ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリーの街は密度が低い割にはダラダラと長く市街地が続いている印象を受ける。静かで落ち着いた感じの住宅地が多いようだ。

    ラトナーギリーの宿泊先

    私がここを訪れた最大の目的は、ティーボーの邸宅の見学。ビルマ最後の王朝、マンダレーのコンバウン朝の王、ティーボーとその配偶者で、美しくも知略、肝略で知られたスパヤラート后が、第三次英緬戦争で王都マンダレー陥落後、マドラスに移送され、再度身柄を移されて生涯を終えたのがここ。

    近年まで、かなり荒れ果てていたと聞いているが、現在は大掛かりな修復の手が入り、工事が進行中。

    ティーボー夫妻とは反対に、インドからビルマのラングーンに送られたムガル朝最後の皇帝、ババードゥルシャー・ザファルは、英国官憲の屋敷で幽閉されたまま生涯を終えたのに対して、こちらは専用の宮殿のような屋敷を与えられたうえに、ラトナーギリーで仏教寺院を建立しており、多少なりとも地域社会との接点はあったらしい。

    ビルマから遠く離れたラトナーギリーで、彼が地元に与える影響はなかったこととは異なり、ザファルについては流刑先が当時の英国が、インド人たちを大量に投入して建設し、インド人がマジョリティを占めていた街、ラングーンであったという環境の違いがあったがゆえのことではある。

    ティーボーパレスは一部博物となっているが、彼とは無関係の古いヒンドゥーの神像が展示されており、生前のティーボー夫妻の暮らしぶりを偲ばせる家具や遺品などは、ほとんど残されていないようだ。

  • マドガオンからラトナーギリーへ

    マドガオンからラトナーギリーへ

    マドガオン駅

    ゴア州のマドガオンからマハーラーシュトラ州のラトナーギリーまでは、ラージダーニー・エクスプレスの3A(エアコン付き三段寝台)を利用した。快適である。午前10時に出発して午後1時30分に到着という、わずか3時間半の汽車旅だが、このエクスプレス自体は、マドガオンが始発駅で、ムンバイーを経由してデリーのニザームッディーン駅が終着駅となる。

    ラージダーニー・エクスプレス3A車内
    ラージダーニー・エクスプレス3A車内

    乗車券に込みとなっている昼食

    コーンカーン鉄道利用するのは初めてだ。赤土の大地と豊かな緑が延々と続く風景。やたらとトンネルや切り通しが多いのは丘陵地であるため。岩石を掘削しての工事は困難であったことが伝えられている。
    ラトナーギリー駅への到着は少し遅れて午後2時ごろだった。ラトナーギリーは特産のマンゴーが大変有名だが、駅のプラットフォームでも大量に販売されていた。

    ラトナーギリー到着
    乗車したラージダーニー・エクスプレス

    ラトナーギリーといえば、特産のマンゴー
  • 再び炎上 ゴールカー・ランド要求運動 

    1980年代にはゴールカー・ランド分離要求でテロが頻発して、事前にカルカッタなどで発行されたパーミット無しでは入域できない時期もあった。その後は穏やかになっていたものの、西ベンガル平地と分離してひとつの州を創ろうという動きは続いており、今後も同様であろう。やがて、ゴールカー・ランド州が成立する日が来るのではないかと私は考えている。

    元々はチベット系のブーティヤー族(ブータン人とごく近い民族)が支配するスィッキム王国の一部であった現在のダージリン。英領インドに割譲されたことから、ヒルステーションとしての歴史が始まる。

    スィッキムも同様だが、ダージリンでは英領期からネパールの様々な民族が移民として定着し、現在はマジョリティを成すようになった。これがゴールカー・ランド要求に繋がっていく原点。ゴールカー族が中心というわけではなく、様々な民族が集住している現状だが、ネパール系の象徴として、ゴールカーの名前が政治運動で使われているようだ。

    先のゴールカー・ランド要求運動の果実として、1988年に自治組織としてのダージリン・ゴールカー丘陵評議会が成立。西ベンガル州の中では独特なエリアとなっているが、ゴールカー・ランド要求運動の目標は州の創設。闘いは静かに、しかし着々と続いていくこととなった。

    現在、丘陵地区の政治を掌るのは、ゴールカー人民解放戦線(GJM)。ゴールカー・ランド州創設を唱える政治団体はいくつもある中で最大の政党。組織力と動員力を誇り、今回の無期限ゼネストは、その影響力の賜物といえる。

    以前、ダージリンのチョーラースターで、GJMの青年部がオーガナイズする「ファッションショー」を見物したことがある。ステージで、ダージリンに暮らすネパール系の様々な民族の若者たちが、自らの民族の伝統衣装をまとって自己紹介したり、踊ったりするというもの。ネパール系といっても様々なエスニック・グループがある中での「多様性の中の統一と団結」をスマートにカッコ良く演出していた。ステージのセッティングも、カメラワーク(チョーラースターに入りきれない人たちのために、映像を流す大きなモニターが設置されていた)も、明らかにプロフェッショナルなスキルが感じられた。

    最初、事情を知らずに、たまたまその場所に居合わせることになった私は、てっきりクリスマスのために企画された洒落たイベントかと思ったくらいだ。実は政治集会であるということを知って仰天した。

    こうした催しを切り盛りしているのが、茶髪にピアス、手足にタトゥーを入れて、崩れた感じのお兄ちゃんから、いかにもエリート学生然とした若者、一見、政治なんかにこれっぽっちも興味の無さそうなモデル風の美女から、家族で経営するお店をやりくりするおばちゃん(お姉さん?)まで、実に様々な人たちが嬉々として参加していた。ネパール系社会の広範囲からの支持があるとともに、資金面でも強力な基盤があることが容易に感じられた。

    政治集会で怒りを込めたメッセージを聴衆に伝えたり、デモで動員された群衆がスローガンを叫んだりするだけではなく、若者たちが自発的に楽しみながら参加する政治運動の潜在力というのは、相当なものだろう。

    今回の一連の騒動は、そうしたエンターテインメント的なものとはまったく異なるが、地元社会を広範囲に巻き込んで涵養してきたパワーが、ここぞとばかりに発揮されているものであるとするならば、容易に鎮まるものではないことは、想像に難くない。

    Violence returns to Darjeeling, Army deployed (THE ECONOMIC TIMES)

  • マドガオン2

    マドガオン2

    マドガオンでの宿泊先で付いていた朝食。プーリーバージーなのだが、使われているのがココナツオイルであることに、なんだか不思議なエキゾ感を覚える。

    町中とくに繁華街やその周囲では、元々のゴアの人たちは何割くらいなのか?と思う。観光客ではなく地元で働いている人たちのなかで、明らかにゴアンであるとは思えない人たちがとても多いようだからだ。聴覚的にも、地元に住んでいると思しき人たち同士のヒンディーによる会話も聞こえてきたりする。

    ポルトガル時代の建物
    ずいぶん小さな教会があった。

    インド各地からの移住は自由で、人口圧力の大きな州から大勢流入してくるのは当然のことだ。またビジネスを展開しようという人たちも沢山やってくる。現在、この州がBJP政権下となっている背景には、そうしたこともあるはずだ。

    かなり南側に位置しているとはいえ、マラーティー語に近いコーンカーニー語のエリアなので、ヒンディー話者にとっては馴染みやすい言語環境(同様に地元でのヒンディー語受容度もすこぶる高い)であり文化圏であるため、北インドからを引き寄せやすい環境だ。

    そんなこともあることから、話は飛ぶが、ポルトガル時代末期には、インド側のスパイや工作員の活動を防ぐことは困難であったらしい。革新志向のインテリ層の若者たちの中で、『祖国復帰』の活動のため地下に潜行したり、インド側の内通者として活動したりした者も一部あったようだ。

    とはいえ、大方のポ領ゴアの世論はインドによる『返還要求』を脅威と捉えており、とりわけ受けた教育や社会的地位が高くなるほど、そうした傾向が強かったとのこと。

    そんなポルトガル時代末期に、ゴアとパキスタンは蜜月時代にあったことがある。インド独立後にデリーから強硬な返還要求を拒み続けていたポルトガルは、インドによる経済封鎖を受けて、各方面に渡る様々な物資の入手をパキスタンに依存した。パキスタンにとってもインドと敵対するポ領ゴアは戦略上においても大きなポテンシャルを持つ『友好国』であり、食料、生活物資等々、多岐に渡る供給を支援していたようだ。

    そんなポルトガル領ゴアとパキスタンの関係も1961年12月にインドが強行したゴア制圧の大規模な軍事作戦、『オペレーション・ヴィジャイ』により、粉砕されることとなる。

    当時の貧しかったインドに呑み込まれることを恐れたことに加えて、よくも悪くもポルトガルによる同化志向の強い政策により、ゴア人として独自のアイデンティティとポルトガル本国との強い絆が涵養されてきた歴史が背景にあった。こうした面で、インドネシアと東ティモールとの間にあるものと、似たような土壌かあったとも言える。

    復帰後のゴアは、中央政府による連邦直轄地となり、地元の社会・文化・政治環境等には配慮しつつも、16世紀から長く続いたポルトガル式統治のシステムと慣習をインド化することに力を注いだ。ポルトガル時代末期までの在地エリート層で、この時期に凋落してしまった例は少なくない。

    ポルトガル語で教育を受けた官憲が英語教育で育った者に置き換えられただけでなく、インドが独立後に実施した土地の分配と同様に、ゴアでも大地主たちが所有していた農地等が分配されたことなどもある。ロンリープラネットのガイドブックで紹介されているBraganza家の屋敷の当主もそんな具合だったのではないかと思う。
    ゴアがようやく『州』となったのは1987年のことだ。

    インド復帰後のパワーゲームをうまく処理してゴアを上手にインドへ統合させたことになるが、ゴアで2012年にBJP政権が成立したことはエポックメイキングな出来事であり、ゴア問題解消に至るゴールであったと言える。かくしてゴアは普通のインドとなった。

    さて、インドによる軍事侵攻に降伏してゴアを去ることになったポルトガル当局だが、1947年にインドを去ったイギリスと対照的なのは、ポルトガル籍を取得していた現地住民と一定ランク以上にあった政府職員への措置。

    当時のポルトガルが保有していた海外領、とりわけモザンビークへの移住、再就職を積極的にサポートしたと聞く。もっともそれからまもなくモザンビークはポルトガル支配への闘争から内戦状態となり、インドから移住した官憲は当然攻撃の対象となる。そしてモザンビークは独立を迎える。期待した新天地での明るい未来は無かったことになる。

    マドガオン駅は宿から徒歩すぐ。駅で大量に販売されていたが、ゴアのチッキーは、具材が豪華らしい。食べると歯の治療の詰め物が外れたりするのが悩ましい。

    チッキー

    ニザームッディーン行きのラージダーニーに乗車。Wi-Fiが利用できて良いと思ったのだが、しばらくすると使えなくなった。携帯電話を入れて、SMSで送られてくるIDとパスワードを入れてログインするため、結局はインドのケータイが必要となる。しかし発車してしばらくすると使えなくなり、シグナルも来ていない。駅だけのサービスというわけではないと思うのだが?

  • インペリアル・シネマ

    インペリアル・シネマ

    Imperial Cinema

    デリーの宿泊先近くの映画館「インペリアル・シネマ」。もう何年も閉鎖されたままのようだ。

    今どきのインドの都会では、洒落たシネプレックス化が進み、古いシネマホールが単館でやっていくのは大変難しくなっているのを象徴しているようだ。
    それにしても都心で、こんなもまとまった箱モノが放置されたままというのはずいぶんもったいない気がする。

    また、南デリーでは、記憶に間違いがなければ90年代前半に火災を起こして死者まで出したウパハール・シネマという映画館の建物が、今でも事故後そのままになっている。

    地価がどんどん上がるデリー。どちらも大変引き合いがあるはずのロケーションで、こうした建物が処分されない背景には、建物か土地か、なにがしかの係争を抱えていると推測するのが妥当だが、実際のところどうなのかはよく知らない。

    すでに廃止されていても、オートの運転手などに、その名を告げると、誰もが判るのだから、シネマホールとしての機能の一部(ランドマークとして)は残っていることにはなる。

  • ザファル・メヘルとクトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー

    ザファル・メヘルとクトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー

    ザファル・メヘル
    ザファル・メヘル
    ザファル・メヘル
    ザファル・メヘル内にあるムガル朝末期の皇帝たちの墓所。左から16代皇帝アクバル・シャーII、15代皇帝シャー・アーラムII、17代皇帝バハードゥル・シャー・ザファル(墓石がなく草が茂っている部分)、ミルザー・ファクルー(ザファルの跡取りとなるはずだったが1856年に死亡)

    デリーのメヘローリーにあるザファル・メヘルへ。ムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが夏の時期に離宮として用いた場所で、ムガルの宮殿建築としても最後のものとなった。
    隣はスーフィーのチシュティー派聖者クトゥブッデイーン・バクティヤール・カーキーを祀るダルガーがある。1857年のインド大反乱に加担したかどで英国当局に捕らえられてラングーンに島流しとなったザファルだが、彼もしばしばここを参拝したことだろう。

    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
    クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーのダルガー
  • ジービー (जीभी)

    ジービー (जीभी)

    インドでは、毎日舌掃除をする人たちが多いのだろう。たいていの雑貨屋でジービー(舌こき)が売られている。
    少し使っただけで折れたり、錆びたりしてしまうものも少なくないが、ちょっと探せばとても良質なものも手に入る。
    そんなわけで、ステンレス製のものと銅製のものを購入してみた。
    二日酔いの朝や睡眠不足のときなど舌苔が多くなることから、舌には体調が如実に現れるようだ。舌掃除は、口臭や虫歯予防などに効果的らしい。また、風邪の予防にもなるといことも耳にした記憶がある。
    20数年来、朝晩の歯磨きの際には、欠かさず舌もキレイにするようにしているが、そのおかげか知らないが、風邪を引いたり熱を出したりすることはほとんどなくなっている。

    ステンレス製のジービー
    銅製のジービー
  • 今後、トレッカーの間で赤丸急上昇?のヒマラヤの渓谷

    インディア・トゥデイ5月24日号によると、ウッタラーカンドのハルシル(HarsilまたはHarshil)渓谷、ニラーン(Nilang)渓谷への訪問にインナーラインパーミットが要らなくなる方向での検討が進んでおり、実現目前まできているそうだ。
    実のところ、私自身はハルシルもニラーンも知らなかったのだが、1962年の中印紛争以来、中国国境に近いため、軍事上の理由で入域が制限されていたとのこと。
    風光明媚でとても良さそうなエリアらしい。氷河を目にすることができるところもいくつかあるらしい。
    ウッタラーカンドの観光案内関係サイトに風景写真が紹介されているが、眺めているとぜひとも訪れたくなってきた。

    Harsil Photos (euttaranchal.com

    見どころが無尽蔵のインドだが、こうして新たに名所がドンドン加わってくるのがまた嬉しい。

  • ウズベクレストラン TASHKIN

    ウズベクレストラン TASHKIN

    パハールガンジにあるウズベク&ロシアレストラン「TASHKIN」で食事。ここの料理はとても素晴らしい。
    マトンのサモーサーは生地がパイ状になっており、中には肉と肉汁が沢山詰まっている。チキンのシークケバーブのようなものは、インドのそれからスパイスをほとんどを除去して、香菜を加えたような上品な味わい。
    これらのアイテムがインドに伝わる前は、こういう感じであったのか、と想像力がふくらむ。
    水餃子風のものは、シルクロード伝いに広まったものではないかと思うが、スープにヨーグルトも使われており、中央アジアらしいムードがある。

    TASHKIN (Uzbek & Russian Restaurant)
    Laxmi Narayan Street, Krishna Cottage Hotel, Aram Bagh, Paharganj, Pharganj, Delhi 110055

  • Cathedral Church of the Redemption

    Cathedral Church of the Redemption

    デリー・メトロのケーンドリーヤ・サチワーラヤ駅でメトロを下車して、Cathedral Church of the Redemptionへ。

    デリーの大統領府(旧総督府)近くにある教会で、現在の建物は1931年にオープンしている。
    かつては英国から派遣されたインド総督兼副王(英領のインド帝国時代の国王は英国国王が兼務)の礼拝や宗教行事に使われたもの。これを設計したのは、ヘンリー・メッド。インドの英領後期を代表する建築家エドウィン・ルティヤンスに師事した人物。英領インドの首都がカルカッタからデリーへ遷都されるにあたって建設された、Lutyens’ Delhiと呼ばれる地域で、ルティヤンスによる主導のもとで才能を発揮した建築家たちのひとりだ。
    ゴアのカトリック教会に比べると地味ではあるものの、英国がインドに建てた教会としては、破格の華やかさがある。

    それはそうと、入場時に警備員から『あまり写真を撮るな』とファジーなことを言われた。宗教施設ではよく、撮影禁止やら内部撮影禁止とか、三脚使用禁止、ビデオは禁止などというところは多いが、こういう中途半端なことを言われたのは初めてだ。他に参観者もいないし、撮ったところで減るものでもないのに・・・。

  • チャンダギー・ラーム・アカーラー

    デリー在住の幾人かのインド人たちに尋ねてみると、やはりデリーにも幾つか超名門とされるアカーラー(道場)があるとのこと。どのアカーラーもそうなのかは知らないが、そうしたところでは、ペヘルワーン(力士)たちは仕事を持たずに専業でやっているらしい。ちょうど相撲部屋のようなものか。

    デリー以外の州からやってきている人たちも多いとのことだが、とりわけパンジャーブやハリヤーナーといった地理的に隣接して体格に優れる人が多いところからの入門者が少なくないとのこと。普通、アカーラーの創設者は伝説的なまでに強かったペヘルワーンであるようだが、大企業が資金をサポートしているところもあるらしい。

    そんな有名どころのひとつ、チャンダギー・ラーム・アカーラーに夕方出かけてみた。
    着いたときにはすでに稽古の時間が終了していて残念。稽古は午前7時からと午後5時からだそうだ。

    山のように大きく、猛虎のようなというか、バイソンみたいというか、まあそんな感じの体格をしたペヘルワーンがいたので少し話してみることはできた。クシティーという競技があることは知っていても、これまでまったく接点もなかった。稽古を見物してみたいし、ましてや真剣勝負の大会を観戦する機会があれば、ぜひ出かけてみたいものだ。

    中には女性の姿もあり、トレーニングスーツを着ていても、物凄い筋肉の持ち主であることがそのシルエットから一目で判る。このアカーラーは、女性の力士たちの養成にも力を入れていることで知られている。

    Chandgi Ram Akhara promoting women wrestling since 40 years (dnaindia.com)

    ここでは、50〜60人くらい合宿生活しているとのこと。もっと大勢のペヘルワーンたちが在籍していた時期もあるとのことだが、今は少し人数が減っているとも、

    次の機会を見つけて、このアカーラーを再訪するとともに、デリーでナンバルワンと言われるグルー・ハヌマーン・アカーラーもここから遠くないので見学してみたいと思う。