木のたもとに宿る神性

木のたもとに神が宿る

こういう場所に神的なものが存在するというのは、国や文化は違ってもいろんなところで共有される感覚だ。

人が行き交う場所で、花や供え物が置かれたり、やがては壇が作られたり、神像や神の絵などが飾られるようになると、立派に信仰の対象となる。
ここで祈ったり賽銭を置いたりする人が増えてくると、ただの木なのに、それなりの風格も出てくる。
それは、人々の思いや気持ちが昇華された結果なのか、はてまたその場所に本来備わっていた神性が出現したがゆえのことなのかはよくわからない。

映画「PK」に出てきた、迷信や盲信を風刺するひとこまを思い出したりもする。大きな木の根元に石を立てて、紅いティーカーを付ける。そこに小銭をいくばくか置いておくと、そこを通りかかる何人もが手を合わせて賽銭を重ねる。地面に跪いて祈る人やお札を置く人も出てくる。そうして集まってくる人たち目当てのスナック売りなども登場して・・・といった具合。

確かに、大きな街中でこうして置かれていく賽銭を懐に入れている世話人がいるはずなのだが、いつも祭壇をきれいに整えて、日々往来する人々に家内安全や何か特別なお願いごとなどの機会を提供してくれているのだから、正当な報酬かもしれない。

24時間、365日、いつでも開いている。お布施を催促して煩わしい司祭もいないので気楽だし、さりとて木のたもとで往来を眺めている神様の目の届く範囲で悪事を働く不謹慎な奴はそうそういないだろうという、「見守られている」安心感もあったりするようにも思う。

前述の映画の中に出てくるように、最初は誰かが思いつきで神を演出させてみたのかもしれないが、それがいつしか本当に神がかってしまうのが面白い。でも街中のそうした祠や木のたもとの神サマは、僕らと同じ等身大の存在で、通りがかりにいつでも気楽に声をかけられる身近なものであるのがまたいい感じだ。

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