ストーンハウスロッジの記憶 3

あれからずいぶん長い年月が過ぎた。ストーンハウスロッジのことなど、すっかり忘れていたのだが、今年夏にカトマンズを訪れた際にニューロード界隈に来たので、ちょっと覗いてみようと思い、あの宿へと続く路地へ足を踏み入れた。
私の記憶が変質してしまっているのか、それともこの路地が変わったのか?道の両側の隙間なく建物が並ぶ様子は以前と同じだが、ずいぶん背の高いものに置き換わっているようだ。建物の高さもせいぜい三階建てくらい(?)であったように記憶しているが、今や五階、六階は当たり前、それ以上に大きな建物もニョキニョキ生えている。
元々、市街地の密度が高くて狭かった空がさらに狭くなり、また狭いながらも様式や高さなど統一感のあった街並みが、まったくてんでバラバラの無秩序な空間となっている。
この路地に限ったことではないが、他のカトマンズの路地同様、もともと人間が徒歩で通るために出来ている細い道を無理矢理走るバイクやクルマなども増えていて危なっかしい。
その反面、様々なモノが溢れ、非常に活気のあるエリアとなっていた。人々の暮らしぶりもかなり向上していることだろう。
ストーンハウスロッジがあった場所にたどりつくと、そこにあるのはふた周りほど大きな建物。以前ここにあった木造の建物は、こんな風に二棟が直角に寄り添う形で建っていたのだが。家電製品を扱う店や雑貨屋などが入った小ぶりな商業ビルとなっている。写真左下部分には、何故だかロッジの敷地入口にあった門柱の部分のみ、昔のたたずまいのまま残っている。当時宿泊したことのある方の中には、『ああ、そうそう・・・』と思い出す人もあるのではないかと思う。
ストーンハウスロッジ跡地
ストーンハウスロッジ跡地からさらに小路を奥に進むと、かつてはほとんど居宅であったエリアであったのが、すっかり商業地化していた。ネワール式の古い建物もコンクリート柱とレンガ壁の今どきのものに建て変わっている。
辻ごとにあった祠もまたフェンスで囲まれるなど、キレイに整備されたものが目についたりする一方、他にもあったはずの祠がずいぶん減っているようであったり、神々の姿が人々からやや遠い存在になってきたような気もする。
『ずいぶん変わったなあ』という思いともに、昔のいろんな記憶がどんどん胸の中に蘇ってくる。半ば放心状態で立ち尽くしていると、『パパ!こんなところいてもつまんないよ。どこかに行こう!』と言う息子の声で我に帰る。
時は移ろうもの。時間の経過とともに、目に見えるもの、見えないものもどんどんカタチやありかたを変えていく。街並みも然り、自分自身の立場も然りである。安旅行者だった私は、今や子供を連れて家族旅行のオトウサンとなっているのだから。
〈完〉

ストーンハウスロッジの記憶 2

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歩くと床全体がユラユラと振動して、階段を通して上下によく音が抜ける老朽家屋、ベニヤで細分化された部屋ということもあり、足音や話し声がどの方向から来ているのかよくわからなかったりした。
ずいぶん昔の話になるが、この宿に滞在していたとき、他の宿泊客から『帰って来る幽霊』の話を耳にした。何でも、私が宿泊したときから数年前に、この宿で亡くなった日本人客があったのだという噂だった。その人が生前に滞在していた部屋にときどき帰って来るという伝説みたいなものが流布しつつあった。
『夜1時過ぎくらいに帰って来るんだ、奴が。この宿って11時が門限で、玄関のカギを閉めてしまうから、その後に入ってくるはずないんだよ。昨日も奴は帰って来てた。宿の人は、チェックアウトした人の部屋の掃除に使用人を寄越すくらいで、よりによって遅い時間に上がることはないって言ってた。思い出すだけで気味悪いよ。重たい足取りで、トン、トン、トン、トン・・・と上がってきて、この階の端っこの部屋のドアを開けて入るんだ』
彼が言うには、隣室には他の旅行者が泊まっているため『霊が帰って来る』のはその脇の部屋に違いないのだという。
『昨日も、奴が帰ってきてから、ちょっと怖かったけど、確かめるためにドアの外に出てみたんだ。するとあのドアは、外から南京錠がかかっていた・・・』
こちらもちょっと背筋が寒くなる思いがした。私が滞在する部屋ちょうど真下に、幽霊が帰って来るなんて、気分のいい話ではない。
ひとつ下のドミトリーに宿泊していた男性も彼の言葉を裏付けた。
『昨日、ちょうどそのあたりの時間だろうな。寝ていたけれども階段を上る音がしていたこと、その後ドアがバタンと閉まる音も耳にしたよ』
『昔いた場所に帰って来るってのは、アンタ、そりゃ地縛霊だよ。タチの悪いのもあるって言うから気をつけてね』などと、したり顔で無責任なことを言う者もあった。
そんな怪談じみた話がしばし続いてから『そろそろ夕食に行こう』ということになり、数人で近所の食堂に出かける。部屋に戻ってからも、ドミトリーに顔を出して、そこに滞在している人たちと、ひとしきり話していると、いつの間にか夜は更けて午後11時。
『おやすみなさい』と、彼らのスペースを辞して自室に戻ってから、ステンレスのマグに電熱コイルを放り込んで湯を沸かして茶を淹れる。いつものとおり日記を書き、今朝方買った新聞を広げてみたり、ガイドブックを眺めたりしながら過ごす。そんなことをしているうちに、いつものことながら1時を回ってしまうのだ。
『さて、歯磨きをするか』と、お茶沸かすときに汲んで来た残りの水で口をゆすいで、無作法ながら、窓の外にペッと吐き出す。歯ブラシでシャカシャカ磨いてから、洗面台があるひとつ下の階にそうっと下りる。階段脇の水道の蛇口を静かに開いて口の中をゆすいで歯磨き完了。
癖で、階段を上るときに足の裏を叩きつけるようにして上ってしまうが、途中で『あ、この時間はみんな寝てるんだ』と、なるべく音を立てずに上がることを心がけたりするのもいつものことだ。
建て付けの悪い部屋のドアをバタンと閉めて、中から金属のカンヌキをかけると、下の階でドアが開く音。誰かが数歩進んでから、『やべぇ!』など声を上げている。彼は即座に自室に駆け戻ったようで、バタンとドアが閉まる音が聞こえてきた。どうやら『帰って来る幽霊』とは、私自身のことであったらしい。
翌日、下の階の男性は『昨日も幽霊が帰ってきた』などと吹聴していた。ドミトリーの宿泊客たちは『マジかよ!』と眉を顰めて話に聞き入っている。
私は『幽霊自身が種明かし』をして、せっかく定着しつつある『怪談話』がオジャンになってしまってはつまらないので、とりあえずあまり興味のないふりをして聞き流すことにした。

ストーンハウスロッジの記憶 1

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昔、カトマンズのニューロードにあるネパール航空事務所の反対側の路地を少し進んだところに、ストーンハウスロッジという格安の宿があった。
宿泊客はほとんど日本人ばかりで、インド亜大陸各地をめぐるとか、アジア横断してアフリカに向かうなどといった長期旅行者が多かった。インターネットもなかった頃なので、こういうところでいわゆる『情報ノート』が貴重なインフォメーションのリソースでもあった。かつて、私もこの宿に幾度か宿泊したことがある。
古いネワール式の木造の建物で、最下階の狭い入口のところに受付があり、細くて急な階段を上ってすぐの階には家主の家族が暮らしており、そこより上の複数の階に宿泊客を泊めていた。 各階ともに、もともと狭いフロアーを無理やりベニヤで仕切って、やけに幅の狭いベッドが置かれているが、これで部屋の中は一杯。確かひとつだけ四つのベッドが入った『ドミトリー』があったと記憶している。
当時からタメル地区はかなり繁栄しており、すでに旧王宮近くのジョッチェン地区に宿を取る旅行者は少なくなっていた。どちらからも離れたストーンハウスロッジになぜ日本人旅行者が集まるようになったのかは不明である。シーズンは常に満杯、雨季のオフシーズンでも部屋が空いていないということは珍しくなかったようだ。
いつ購入されたのかわからないボロボロの古いベッドの上に敷かれているシーツは、これまたいつ洗ったのか知れず、身体を横たえていると、南京虫の執拗な攻撃に悩まされるようなところなのだが、何故かとても繁盛していた。
ひどく狭くて汚いかわり、宿泊費がそれ相応以上に低料金であった。『お金はあまりないけど、とにかくあちこち訪れてみたい』という安旅行者には重宝される宿であった。ただ安いだけならば他にいくつもあっただろうと思うが、安宿が集中するゾーンからは離れているものの、ニューロード裏という便利なロケーションも良かったのかもしれない。
いつだったか、すぐ隣にレンガ積みの真新しい建物が出来上がった。ストーンハウスロッジよりも料金は高くとも、ずっと設備が良くて、新築であるがゆえにピカピカで快適な部屋が用意されていた。ストーンハウスロッジの利用客が『こっちのほうがいいや』と移動してもいいような気がしたが、そうはならなかったようだ。
こちらはまったく流行らず、数年で廃業してしまった。流行る宿というものには、理論的に説明がつかない『旅行者とうまく合う波長』のようなものがあるような気がする。人と人との相性のようなものかもしれない。別に宿の人の愛想がいいとかいうわけでもない。その場所が持つ『気』のようなもの(?)とも言えるだろうか。
古い長屋のような建物であるがゆえに、隣接する棟とぴったりくっついた建て込んだ地域であるがゆえに、家屋での人々の暮らしぶりが、特にそれを覗こうとしなくとも、ごく間近に感じられる楽しさはあった。人々の会話や赤ん坊の泣き声など、様々な生活音がジャンジャン聞こえてくるし、どこかの世帯で作っている料理の匂いも漂ってきて、下町に暮らしている気分になったりもした。
もともと人口密度の高い空間なので、人通りは多かった。何せニューロードの真裏である。それでも野菜売りが沢山出て賑やかな朝の時間帯、様々な用事で人々が行き交う昼間の時間帯を過ぎて夕方の帰宅時間を過ぎれば、ガランとしていたものである。
用事等でタメルに徒歩で出かけて、帰りが午後7時過ぎると人通りがとても少なくなり、午後8時を回るとほとんど誰もいない路地をトボトボ歩くことになった。出会うのは野犬ばかり、灯もまばらでほとんど暗闇のようなもので、懐中電灯を照らして宿まで歩いたものである。
ダサインやディワーリーの時期にも滞在したことがあるが、路地という路地では、無数の小さな素焼きの器の中に火が灯されて、幻想的な眺めが出現していた。辻ごとにある小さな寺や祠に詣でる人々が行列していて、窓から見下ろしているだけでもワクワクしたものだ。
先に書いたとおり、もともと狭いフロアーが、薄いベニヤで極小の部屋として細分化されていたものの、プライバシーはまったくないようなものであった。視覚的には遮られていても、壁の向こうから屁の音、着替える音などがそのまま聞こえるのである。相手が起きているのか寝ているのかもはっきりわかる。厚さ数ミリの非常に薄い壁を背にして寝ていると、そこを境に数センチからせいぜい30センチくらいのところに隣人が存在しているのだから。
不思議と閉塞感はあまり感じなかった。隣の人がかなり親しくなった人だったりすると、壁越しに会話が弾み、まるで同室に滞在しているかのようであった。

ポーカラーの日本語教室

H学院
半日歩き回って、レイクサイドに戻るとかなり暑くなっていた。この時期、ポーカラーの午前中早い時間帯は涼しくて快適なのだが、昼前くらいからずいぶん気温が上がってきて、午後になると汗だくになる。WiFi付きのレストランでしばし休憩する。
ここの上階は、H学院という日本語教室になっている。レストランの従業員の中の1人もここで学んでいるとのこと。彼が言うには、教え方が非常に上手くて理解しやすいとのこと。しばらくすると、その教室で学んでいるという人たちがポツリ、ポツリと集まってきた。午後4時半からレッスンが始まるそうだ。こうした彼らからヒンディーで話を聞けるのだから、隣の大国インドの言葉は重宝する。
ネパールでは広くヒンディーが通じる。これを母語とする人は総人口のわずか1%程度でしかないというし、この言葉による出版活動はほとんど無に等しいようだが。もともとネパール語がヒンディー語圏の外縁部にあり、文法や語彙の点で近似する部分が多いこと、インドに出稼ぎに行く人がとても多いことに加えて、テレビ番組や映画などを通じ、ヒンディー語に触れる機会が非常に豊富だ。ゆえに人によって置かれた環境により差はあれども、自然と素養が身につくものらしい。
広く通じるからといって、またエンターテインメント等で馴染んでいるからといって、諸手を挙げてこの言語に親しみを感じているかどうかはわからない。最近、このヒンディー語に関して大きな問題が生じている。昨年ネパールの初代副大統領となったパルマーナンド・ジャー氏が就任式の宣誓をヒンディーで行なったことは違憲であるという議論について、司法判断を仰ぐ事件にまで発展しているのだ。
SC orders VP oath in 7 days (Himalayan Times)
パルマーナンド・ジャー氏は、テライ地方のマデースィーと呼ばれる民族の出身。インド側では主にビハール州北部に、ヒンディーの方言であるマイティリーを話す同族が住んでいるわけだが、これまでネパールで政治的に不利な待遇を受けていた彼らの地位向上を目指すマデースィー人権フォーラムのリーダーである。
事の本質はもちろん、ヒンディー語に対する感情論などではなく、ネパールの国政をあずかる副大統領という地位に就く者が、憲法によれば当然ネパール語により宣誓を行なうべきであると解釈されるところを、他の言語で行なうことがふさわしいものであるかどうかということであるのだが。
話はH学院に戻る。しばらく生徒たちと話をしていると、ここで教えているという男性が姿を現した。ここの経営者であり、教員でもあるL氏は、10年ほど前に始めて日本語に触れ、その後は研修生として日本で暮らした経験があるのだということで、しばし日本語で話をうかがう。
彼は毎日午前6時、正午、午後4時からと、それぞれ2時間ずつ教えている。『もしよかったら授業を見ていってください』とのことなので、生徒たちと階段を上り、教室にお邪魔する。
生徒たちは、ほぼ全員が商売で日本語を使おうとしている人たちで、年齢は20代前半から40代までと幅広い。授業開始後が始まったが、しばしば生徒たちの携帯電話が鳴り、教室の外に出て話などしている。
教えている内容は特にどうということはなく、先生が教える文法には怪しげなところが少なくないし、語彙の面でも不足している部分が多い。また漢字にいたっては、ごく基本的な文字以外は知らないようだ。正式な日本語教育を受けたことがないらしく、こればかりは仕方ない。
それでも、ゆったりと自信に満ちた余裕ある態度で、また先生らしい威厳を保って教壇に立つ姿は、ここで学ぶ人たちに信頼感を与えるのだろう。持てる日本語知識は決して高いとは言えないものの、持てる力をフルに活用して創意工夫を加え、日本語とネパール語を交えて、豊富な実例を挙げながら生徒たちに教えている。教授能力はかなり高い人物であるようだ。
基本的に板書はしないし、それに重きを置いていないので授業にスピード感があるが、生徒たちは積極的に反応しており、見ていて気持ちがいい。生徒たちは、先生の問いに対して競うように答え、新たな言い回しが出てくると級友同志ですぐに実践してみたりと、早く日本語を身につけたいという旺盛な意欲が感じられる。
一応、教科書らしきものはある。しかし会話が中心で、あまり読み書きは重んじていない。教える側の日本語能力の関係もあるのだが、生徒たちの目的である『商売人として日本人とある程度の会話ができるようになる』というニーズに適うものとなっている。
教室に集まる生徒たちは、基本的に仕事を持っている人たちであるため、授業開始からだいぶ経ってから教室にノッソリと入ってくる人たちもあるが、それでも着席してから熱心に学ぶ姿勢は同じだ。
授業がある程度進んでから、L先生に『日本の文化について話してください』と言われた。突然のことで、何を話そうかと思ったが『日本の時間感覚』について話すことにした。
日本では時間に対して厳格であること。通勤電車がトラブルで10分遅れただけで新聞記事になるほどである。仕事のスケジュール等も同様で、個人的にはもうちょっと応用でもいいのではないかと思うのだが、まあそういう風土なので仕方ない。日本に住んでいる南アジア系の人々が、日本人も交えて何かを行なう場合、『時間はJSTで!』という言い方をすることがある。これはJapanese Standard Timeの略だが、ネパールよりも3時間15分進んでいるということではなく『日本式の時間感覚で』という意味である・・・などといったことを話してみた。
この後、先生は私が話した『日本の時間感覚』をテーマにして授業を進めていく。その中で、『日本では出勤に10分遅れるとその日の給料はパーになる』と話しており、彼が研修生として働いていた場所では、そうした慣習がまかり通っていたことがうかがわれ、気の毒になった。
そうした話の中で、ある生徒は『ネパールの時間の感覚は、私たちの大切な文化でーす』と答えて皆の笑いを誘っている。眺めている私には、この気取らなさが楽しい。
言葉を習うには人それぞれの動機や目的がある。学術目的で学ぶ者があれば、仕事や生活その他必要に迫られて習う者もある。今回訪れたのは後者だが『新たな言葉を身に付けたい』という意欲に満ちた教える側の熱意と教わる側の意欲がぶつかり合う現場に身を置くのは久々で、なかなか新鮮な体験であった。

先達なき道

やはり実績ほどモノを言うものはないということなのだろう。今年5月にLTTE最高指導者を殺害することにより、1983年から長期に渡り続いた内戦の終結を高らかに宣言したスリランカがパーキスターンに教えうるものは少なくないらしい。
Sri Lanka to train Pakistani army (BBC South Asia)
スリランカは、パーキスターン軍に対する訓練を与えることを打診されているのだとか。上記の記事中には、スリランカのすでに同様のトレーニングを米国、インド、バーングラーデーシュおよびフィリピン対して実施しているとのことだ。
パーキスターンにおいて、バルーチスターンで長く反政府武装組織による活動は続いてきた。だがそれとは比較にならない大きな問題が、近年イスラーム原理主義過激派武装組織の著しい台頭だ。近年は、大規模なテロ事件をはじめとする様々な挑発や破壊行為、こうした組織による特定地域の実行支配とその拡張、本来の行政機構とりわけ警察や軍との緊張等々、気になるニュースが日々伝えられるようになっている。
彼らの存在は、不安定な同国の政治基盤をゆるがすものとなりかねない。2008年2月の総選挙後にはおそらく国政を担うことになると思われたベーナズィール・ブットー氏がその前年2007年12月の遊説後に暗殺されたことは記憶に新しい。そのわずか2ヵ月ほど前に帰国する前後から、彼女を好ましく思わない組織から幾度も脅迫を受けていたことは周知のとおりである。
またパーキスターンを本拠地とする組織による、隣国インドへの度重なるテロ事件は外交上の大きな障害になっている。これらの組織を取り締まるべき政府の当事者能力の問題もさることながら、今後パーキスターンそのものが、自国ならびにインド以外の第三国対するテロ実行犯の出撃基地となるのではないかという、さらに大きな危惧もある。 加えて、近い将来に事実上の核保有国が、こうした勢力を含む原理主義的なスタンスを取る勢力に乗っ取られたらどうするのかという悪夢さえも決して否定できるものではない。
こうした事態に至るまでに長い伏線があった。パーキスターンの歴代政権が、軍政・民政両時期を通じて対アフガニスタン工作ならびに内政の運営においても、こうした勢力を温存しつつ利用してきた過去のツケであるといえる。かつては時の政権に都合よく操られてきた勢力も今では力を充分蓄えており、政府そのものと競合するところにまで成り上がってしまった。
そうした中、パーキスターン軍が、国内の騒擾を鎮圧した先達としてのスリランカから学べるものは少なくないのかもしれない。だがスリランカにしてみても、長らく政府と対峙してきた武装組織が壊滅し、その首領も死亡したとはいえ、そもそも長く続いた武装闘争の原因としての、政府に対するタミル系の人々の反感との土壌となっている部分が解消されたわけでもなく、根本的な解決に至ったと評価することはできない。
腕力で捻じ伏せた相手がそのまま黙って服従するのか、あるいは彼らの胸の中で大きな渦を巻く怒りの奔流がふたたび堰を切って立ち上がるまで、束の間の『空白期間』に過ぎないのか、まだよくわからない。
スリランカのタミル人たちによる分離活動は、当初複数の勢力が並立する形であったものが、次第にLTTEという組織に集約されるようになった。その中でも最高指導者であった故プラバーカラン議長の存在は突出していた。そのため昨年後半からのスリランカ政府軍による大攻勢と『LTTE首都』キリノッチ陥落、北東海岸地域に背走する残党を掃討、親玉のプラバーカラン殺害による『反乱終結』という構図は明解であるように見える。
パーキスターンの不安定要因のひとつとなっているイスラーム武装組織の場合、LTTEのようにひとつの核からなるものではない。そうしたグループないしは運動が多極的であり、特定の指導者を叩いてみたところで、それが終わるものではない。これは民族の枠組みの中に限定される運動ではなく、彼らの理想、教条、行動に感化される可能性のある人たちが住んでいるところならば、どこにでも広がり得るという特徴もある。
攻撃の矛先が向くのも、居住国の政府はもとより、彼らが自分たちの運動に敵対的な立場を取る国ならばどこでも攻撃対象となり得る、極めてユニバーサルなリスクだ。アフガニスタン、パーキスターンに続き、同様の窮地に陥る国が今後出てくるかもしれない。
8月5日、米軍の空爆により、パーキスターンのタリバーン運動の指導者、ベートゥッラー・メヘスードの死亡を伝えるニュースが流れていたが、このほど彼の直近の部下であったズルフィカール・メヘスードがその地位を継いだことが確認されている。死亡した旧指導者は、まだ34歳という年齢であったが、彼を継いだズルフィカールは28歳とさらに若い。『向こう見ず』という評もある彼は、今後どんなプランを練っているのか。
彼らと対峙するパーキスターンが模範とすべき前例は存在しない。彼ら自身が事例を積み上げていくことになる。先達なき道を歩んでいかなくてはならないことから、この国の指導者たちの知恵が試されるところだ。同時に、周辺国を含めた国際社会は、パーキスターンに対して、どういう形で協力の手を差し伸べることができるのかという意味でも、まさに世界全体の英知が問われているといっても過言ではないだろう。
昨年11月に起きたムンバイーのテロ事件は、決して印パ二国間の問題であると割り切れるものではなく、次の10年には他の国々にも降りかかってくるかもしれない脅威の前触れかもしれない。パーキスターンの現状から、私たちが学ぶべきこと、試みるべきことは多いに違いない。さりとて誰が何をすれば良いのか誰にもよくわからないのが現状だ。
手本とすべき先達がなく、頼りになる道しるべさえもない危険なルートに踏み込むパーキスターンを独りで歩ませるのは、果たして賢明なことなのだろうか。