









入口にはナーガがあり、シヴァ寺院であることを示しているのだが、その脇にはストゥーパがある。お堂内は仏教とヒンドゥーの神々が混淆した状態だ。ここの世話人と話してわかったことだが、驚いたことにこのお寺には祭祀を司るプージャーリーもいないのだそうだ。

仏教のお寺と見まがうようになっているのは、マイノリティであるヒンドゥーたちの寺院が地元仏教徒たちにも受け入れられるというに、ということがあるようだ。
そして世話人自身、仏教寺院に仏塔を奉納したりもしており、この寺の建立を含めてこれまで九つの寄進をしているのだそうだ。ここ以外はすべて仏教寺院であることからも、彼自身が仏教世界との融和を心掛けているらしいことが見て取れる。
その世話人、グル・ダットさんは、まるで昔の映画人みたいな名前だが、両親もそのつもりでそう名付けたのだそうだ。「おかげで、私の名前を一度聞いたら忘れる人はいないんだ」と笑う。
彼の祖父母がパンジャーブから来て定住し、彼自身は三代目でインドの地を踏んだこともないとのことだが、流暢なヒンディーを話す。
自身の子供はなく、誰かに財産を残す必要もいないので、こうした寄進を続けているともいう。彼は49歳。50歳を越えたらこうした諸般の事柄から手を引き、完全に引退生活に入るという。瞑想をしながら過ごすことにしたいと語る。
境内にいたヒンドゥーの人々の多くはネパール系。境内の木造の建物の中ではネパール語教室が開かれていた。これは毎日実施されているのだそうだ。黒板にはデーヴァナーグリー文字が書かれており、女性の先生が教えていた。私たちが教室の出入り口の前に立つと、全員起立して「ナマステー」とあいさつしてくれた。


ミャンマーのネパール系の人たちにとって、往々にしてネパールとインドは異なる国という位置付けではないようだ。ネパール系といっても、インド領の地域から移住した人たちも少なくないこともあるし、テーラワーダ仏教世界に移住した同じインド亜大陸を起源とするヒンドゥー世界の住民という意識もあるのだろう。ゆえにヒンドゥーとしてのアイデンティティとしての言語であるヒンディー語、そして民族の言葉であり、父祖の出身地域の言語であるネパール語という意識であるようだ。そんなわけで、日本人としての日本語、東北の人間としての東北弁といった関係に近いものがあるように思われる。
プージャーリー不在の寺とは不思議な気がするが、宗教施設というよりも、むしろインド・ネパール系の人々のコミュニティセンターとして機能していることは容易に理解できる。診療所も併設されていた。
スィーパウの町にはヒンドゥーの世帯は50ほどあるとのこと。寺院の収入とするための揚げ菓子を作ったり、包装したりという作業をしている人たちもあるが、ヒンドゥーのコミュニティ内で就労機会を分け与えるという意味もある。
ほぼすべてのインド系の人たちの母語は今ではビルマ語になっている。しかしながら彼らの間で、ヒンディーを理解するということだけで、ずいぶん大げさに歓迎される。民族語であるからして、他のコミュニティの人に通じることは通常ないため、自分たちの文化に対する強い関心を持っているということは伝わるのだろう。


<完>



スィーパウはミャンマーのシャン州の町だが、周囲に様々な少数民族の集落が多いことから、それらを訪れる目的でやってくる外国人は少なくない。


この町自体、ピンウールウィンやカローのような、英領時代を思わせるヒルステーションのような高貴な雰囲気はないのだが、シャン州らしい木造で味わいのある建物を多く目にすることができる。

マンダレーからラーショーに向かう鉄道路線の中間点であること、この地域は軍の要衝のひとつであることなどもあって、植民地時代に住み着いたインド系・ネパール系の人々の姿もよくある。
だがここで一番大きなプレゼンスを感じるのは、やはり隣国中国だろう。中国系の人々の姿も少なくないのだが、中国人が多いというわけではなく、数世代に渡ってミャンマーに暮らしている華人たちはよく見かける。それ以上に、中国製品の浸透ぶりには目を見張るものがある。
マーケットで売られている衣類や日用品といったものばかりだけではない。街道を行き交うトレーラーやトラックといった物資輸送の車両の多くは、もはや日本の中古車ではなく、左ハンドルの真新しい中国製車両だ。人々が乗り回すバイクも、価格が高い日本メーカーのものではなく、安価な中国製二輪車だ。


だがもちろん一般的な乗用車やバスは日本製の年季が入った中古車がほとんどだ。中・長距離バスとして使用されている日本の観光バスや長距離バスとして使用されてきた比較的新しい車両はもちろんのこと、古いバスの場合は「カーゴバス」と呼ばれる、前半分が乗客の座席で後ろ半分が荷物用となっているものを目にすることが多い。

パンカム村への一泊二日のミニトレッキングから戻ったばかり。空腹を満たすために出かけたのは華人が経営する食堂。中華系移民の子孫だが、慎ましい田舎町でこれほどの規模の飲食施設を経営できる才覚とは大したものだと思う。上階は結婚式その他のセレモニーに利用するホールとなっている。

<続く>

Kさんは午前3時半くらいにトイレに起きたそうだが、そのときには村の眺めが見えるくらい、月が煌々と照っていたのだそうだ。私が見た壁から漏れる光も月のものであったらしい。


朝5時半に隣の仏教寺院に行くと、朝の勤行はすでに終わりの頃合いであった。この時間帯の気温は20度と涼しい。やはり高度が少しあるからだろう。海抜1,000mもないとは思うが。

朝食は、卵焼き、ナスの煮物、昨日と同じ米とバナナの花のおこげ、そして特記すべきはバニヤンの葉のスープだ。バニヤンといっても大きくなるバニヤンとは少し種類が異なるものだそうだ。このあたりでは野菜、野草以外にも食用となる木の葉も多いようだ。食物繊維の摂取にはいいだろう。


朝8時に村を出発。あとはほとんど下るだけである。昨日とは違うルートで、より緩やかな感じだ。このルートは雨季には使わないのだという。ところどころで川になってしまうからだそうだ。でもこのトレッキングを雨季に行なうのはかなり大変だろう。足元はぐじゃぐじゃになるし、ヒルも出るしで、苦痛を伴うこと必至だ。

幾つかの川を渡る。簡素な橋もあれば、切り倒した木の幹を向こう岸に渡しただけのものもある。後者は浅瀬になっているから可能。イチジクの木もあり、実が落ちていたが、ここでは食用にはしないとのこと。割ってみても、においをかいでみても、間違いなくイチジクであった。日本のそれよりも固めで、外観はより赤いが。バニヤンの葉のような、まさか食用にするなどとは想像もつかないものが食卓で供されたかと思えば、我々にとっては当たり前の「果物」が食用にされないとは興味深い。

川の水際の豊かな風景を楽しむ。子供たちが川にザブンと飛び込んで遊んでいる。増水期にはそうもいかないだろうが、この時期ならば小さい子供たちだけで戯れていても大丈夫だろう。日本の江戸時代の村の様子もこんな具合であったのではないだろうか。
このところ経済面で大いに注目されているミャンマー。最大の商都ヤンゴンはこれから大きな変化の波に揉まれていくことになるわけだが、こうした山間の村々もまた同様に、スタート地点があまりに低かっただけに、今後の変化の度合いは非常に大きなものとなることだろう。
だが気になるのは、多様な生活文化を持つ少数民族の人々が、これまで長く伝統的なライフスタイルを大切に世代を継いで継承してきたわけだが、その変化の大波の中でそうしたものが時代遅れで未開なものであるとして切り捨てられてしまうのではないかと、気になっている。
村のコミュニティの中の人々で、経済的にベターな暮らしを得ることができるようになった人々が出てくると、彼ら自身もまたそのような価値判断を持って、自らの民族の文化を軽んじるような方向に行くようなことがないことを願いたい。
スィーパウの町からパンカム村へは、日帰りも可能だ。朝5時過ぎか6時くらい出発して、少し早いペースで飛ばせば昼前には着くだろう。登りの傾斜もゆるやかなので途中キツイ場所もない。村でしばらく休憩してから午後1時くらいに出て、少々早足で下れば、スィーパウの町に日没までには到着できるだろう。
だがこのルートの醍醐味は、やはり村に宿泊することにある。そう遠からず、もっと奥の村へのルートも旅行者たちの間で知られるようになり、ミャンマーのこのあたりといえば、少数民族の村々を訪れるトレッキングが楽しいということが、内外に広く知られるようになるのも時間の問題ではないかと思う。
<完>


午後2時過ぎに、パラウン族が暮らすパンカム村に到着。本日宿泊する先の民家で昼食を出してもらう。米はもち米で、料理は菜食料理。西洋人の中には肉を嫌がるものがいるので、トレッカー相手には菜食にしているのだという。もちろん西洋人たちの間ではヴェジタリアンは決して珍しくないとはいえ、多くの場合は冷蔵保存施設などありもしない村という衛生上の理由、加えて目の前で鶏などが殺されるのを目にしたくないといったことなどが理由だろう。また民家側のほうとしてみても、やはり肉を出すのは高くつく。

出てきた昼食は、もち米、春雨のスープ、米とバナナの花の炒め物でおこげのようになったもの、ジャックフルーツの実の炒め物であった。魚醬は使われていないようで、何か発酵調味料が使用されているような気がする。ちょっと不思議な味わいだ。ちょっと洗練させれば面白い料理になるかもしれない。
村のたたずまいは、プラスチック製品とわずかながら電気が来ている(川での自家水力発電かどうかは知らない)があること、バイクを持っている家があること、人々の多くが中国製の洋服を着ていること、屋根がトタンであることを除けば、数百年前とほとんど変わらないのではないかと思う。今も料理の燃料は薪だし。それがゆえに森林伐採が進むということもあるかもしれない。
宿泊する家の隣は仏教寺院。木造の建物で、これまたそう言われないとお寺とは気が付かない。前にシャン州に来たときに、木造の仏教寺院が珍しく思えたが、実は村に来るとこういうのが普通にあることがわかる。村に来てこそ、その民族のオリジナルな文化の基層部分、根幹の部分に触れることができるともいえるだろう。


山間の村ではあるが、元々は馬を乗り回していたというパラウン族たちはバイクをよく利用している。どれも安価な中国製だが、これを用いることにより、行動できる半径が何倍にも伸びる。村からスィーパウまではバイクで一時間ほどで着くということなので、飴で道がグジャグジャになるモンスーン期を除けば、町の仕事に就いて、ここから通勤することだって不可能ではないだろう。町からその程度の距離であれば、今に道路が舗装される日も来るだろうし、四輪が乗り入れることができるようになる日も来るはずだ。
もちろんそういう時代になると、村の様子は大きく様変わりして、スィーパウの町角とあまり大差なくなっていることだろう。ここが少数民族の人々と出会うトレッキングの中継地として、観光客を多く呼び込むようになってくると、住民たちもパラウン族ばかりではなくなり、他の地域の人々、シャン族はもとより、ビルマ族、中華系、インド系の人たちも商機を求めて移住してくるということになるのではないだろうか。もとより商売にかけては、明らかにパラウン族よりもそうした人々のほうがノウハウも経験もある。
しばらくのんびりして過ごしてから、ウィン氏に午後4時半に村の北側を1時間ほど案内してもらった。このあたりはまだ森林が少し残っている。やはりこの丘陵地はどこも一面鬱蒼と茂ったジャングルであったのだろう。ここでも斜面には茶が栽培されているが、やはりちゃんと手入れされてはないようで、植え方も乱雑で、まばらに植えてある。
馬たちが草を食む姿もあった。パラウン族の人々がバイクに乗るようになる前に重宝していた日々の足である。

西側に開けた谷間に来ると、とても涼しくていい風が吹いている。遠くから茶摘み女の歌声が聞こえてきた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、その澄んだ声色に心奪われる。ぜひとも次代にも残してほしい村の風物だ。

村に戻り、すっかり日が暮れてきたあたりで、宿泊先の家で出された夕食は、よくわからない山菜やらいろいろあったが、特に印象的であったのはコンニャクだ。日本のそれよりももっと水分が多いようだ。これを炒めてある。それとナマスのようなものもある。昼食のときもそうであったが、火の通っていないものは遠慮しておく。これまた不思議な味で、正直なところあまり食欲は湧かないのだが、ここでしか食べることができない貴重な体験でもあるので、しっかりいただく。

夕食時、そして夕食後には外で星を眺めながら、同行のKさんといろいろな話をする。少し雲がかかっているものの、満天の星の眺めは美しい。漆黒の天空に無数の小さな穴が開き、そこから光が漏れているような気さえする。
9時半くらいに就寝。簡素な造りの木造家屋なので、人が少し動くと揺れる揺れる。誰かが寝返り打っただけで地震かと思うくらい家屋がグラグラッと激しく振動するので驚いてしまう。
<続く>



点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。
食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。
もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。
あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。



ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。
他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。
山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。
ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。
シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。
さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。
顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。
ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。
「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。
山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。
チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。
<続く>

ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。
町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。
午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。
小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。


畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。
シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。
このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。
1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。
現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。
スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。
このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。
民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。



発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。
<続く>

ヒマラヤのシーズンに入っている。私は本格的な登山をしたことはないのだが、山の景色を眺めたり、トレッキングに出かけたりするのは好きだ。
ネパールのサーガルマーター国立公園内にある、海抜3,880 mのところにある「世界一高所にあるホテル」を称するHotel Everest Viewは、日系資本による宿泊施設。
このホテルからの眺めの動画もYoutubeにアップロードされているが、やはり素晴らしいロケーションのようだ。
トレッキングついでに、いつか泊まってみたい。


先日取り上げたミャンマーのヤンゴン郊外の日本人墓地のすぐ北にクリスチャン墓地がある。英国人をはじめとする欧州系の人たちの墓が沢山あるのではないかと予想していたが、そうではなかった。

敷地内の墓石の大部分はミャンマー人のもので、クリスチャンネームとともにビルマ名も刻まれている。世俗の生活の中で、もっぱら使用していたのは当然後者のほうだろう。この国においては、ヒンドゥーもムスリムも日常用いているのはビルマ名である。

欧州人たちの墓は、ごく小さな一角にまとめてあった。想像していたよりもはるかに少ないが、相当整理されてしまったに違いないことは、墓石が無造作に積まれている有様からも見てとれる。
時は移ろう。世を支配する立場の側にあった人たちも鬼籍に入り、世間に影響を及ぼすことはなくなる。人々の間の記憶から忘れ去られていき、歴史の過去に消えていき、この世に生きる私たちとは無縁の存在となっていく。
付近にはシーア派ムスリムの方々の墓地もある。当然、インド亜大陸からの移民(および少数ながらイラン系の移民)ということになるので、ぜひ訪れてみたかったが、すでに日没の時間となってしまったので断念せざるを得なかった。



ヤンゴンの空港の国際線ターミナル正面にあるSEASONS OF YANGONというホテル。かつては、アメリカのラマダグループのホテルであったが、90年代前半に撤退した後を受けて、オーストラリア系資本が買収し、現在に至っている。
元々が『外資系のちょっといいホテル』であったため、施設は古びている部分もあるが、それでもずいぶんお得感があった。5、6年前には一泊25ドル、2年前は30ドルであった。それが昨年には35ドルと上がったのだが、今年は一気に50ドルにまで上昇している。
それでも市内の宿の料金が軒並み急騰している中、相場や建物の質や部屋の内容等を考え合わせると、まだまだ割安感はあるといえる。今のところはまだ部屋でwifiを利用できないが、現在ではロビーでは使用することができるようになっている。
数年前に、支配人で華人系マレーシア人のTさんと飲んだことがある。個人でフラリと訪れているお客に自分のワインを振舞って話し込むことができるという暇な時代であったわけだが、当時は私以外に宿泊客が2人とか3人とか、そんな状況であった。
「この国がこのままであるはずがない。今に大きく変わると信じているから続けているのだ」と熱く語るTさんであったが、閑古鳥の鳴く大型ホテルにこの程度の宿泊客数、この程度の料金設定で、よくやっていけるものだと思った。
今、Tさんが期待していた、まさにその時期がやってきたといえるだろう。今晩宿泊しているのは何と60人という。道理で、次から次へとレセプションに新しいお客が到着しているわけだ。
「ウチみたいに、周囲に何もない、空港近くにあるトランジットホテルは、何泊もするものではない。まさに乗り換えが目的でお客さんたちが利用するホテル。だから空港により多くの人たちが乗り降りする状況になることが大切なんだ。」とも言っていたことを思い出す。
まさにそういう状況になりつつある。乗り入れている航空会社、そして本数も大幅に増えてきた。そして各フライトの搭乗率も着実に上がってきている。スタート地点が低かっただけに、これからの伸びしろは大きい。

今後、市内では大小、高いものからエコノミーなものまで、様々な宿泊施設がオープンする方向にあるようだが、まだまだ宿泊施設は著しく不足しているため、クラスを問わず、今後もしばらくの間は宿泊料金の上昇は続くものと思われる。
ミンガラードン・タウンシップにある空港とこのホテルだが、今のところ周囲には特に何もない状態ではあるものの、いくつか新しい飲食施設が出来上がっていて、それなりにお客が入るようになっている。
少し北東方向に向かうと、小規模なバスターミナルやそれなりの規模のマーケットもあり、そのあたりから商業地が延伸してくることも充分あり得ることだろう。
このミャンマーという国、とりわけ商都ヤンゴンは、ほんのチラリと目をやっただけでも、無限大の商機と可能性を秘めているように思えてならない。














てっきりMAI (Myanmar Airways International)が日本との間の定期便を飛ばすようになるのかと思ったのだが、そうではなくゴールデンウィーク期間中の訪問客のためのチャーター便であった。
5月1日に成田からマンダレーへ、そして5月5日夜にヤンゴンから成田に向けての帰国便(成田到着は5月6日)という組み合わせ、もしくは4月27日に関空を出発してマンダレー到着、そして5月1日にヤンゴンから関空へと戻るというものだ。
2013年ゴールデンウィーク限定 祝!ミャンマー国際航空 ミャンマー直行便就航 (MAI)
チャーター便の航空券販売とともに、ヴィザの手配も代行 (MAI)
しているようで、なかなか力が入っている。おそらく定期便就航へ向けての地ならしといったところなのではないだろうか。
ところで、MAIの東京事務所がすでにオープンしているとは知らなかった。ただし「日本地区総代理店」と記されていることから、どこか日本の提携先の旅行取扱業者がMAI予約・発券等の業務を請け負っているものと思われる。おそらく前述のヴィザ取得代行についても同様であろう。
現在のヤンゴン国際空港の小ぶりながらもモダンなターミナルビルがオープンしたのは2007年のことだが、建物を含めた空港施設が手狭になるのはそう遠い将来のことではないはずだ。
同様に、MAIによるミャンマーと日本の間を直行する定期便が就航するのも近い将来のことであればとても嬉しい。