王宮転じて博物館 1

2008年に王室が廃止されたネパール。その時期、旧ロイヤル・ネパール航空の『ロイヤル』の字が抜け落ちた。ネパール外務省から各国政府に対して『ネパール王国』から『ネパール連邦民主共和国』に国号が変更となったことを伝える文書が発信された。 それ以外にもいろいろゴタゴタあったのだろう。
会社が合併その他の理由で名称が変わると、担当者たちは諸手続きや関係各所に連絡等で大わらわとなる。労力以外に既成の用紙・書式・スタンプ等も変更になったりするから、相応のコストもかかる。これが国レベルとなると相当な手間がかかったことだろう。
旧王族たちもまた、これまでの特権が剥奪(最もわかりやすいところで言えば、外遊時に公用旅券でなく下々と同じ一般旅券となる)されても、今なお資産家であり、手広くビジネスを展開している人も多いとはいえ、この時期には、かつて王室が使用していたこの宮殿や離宮などを含めて、相当な資産が国有化されたようだ。
国王といっても、日本の天皇のように象徴としての存在ではなく、91年の民主化以前は、実権を伴う『支配者』であったわけだし、2001年の宮中での事件の後に即位したギャーネーンドラ元国王(1947〜)は、民意を得て成立した内閣を解散させるなど、世俗の権勢を振るったこともある。
かつては塀の外から何となく景色を窺うことはできても、そこに立ち入ることなど想像もできなかった王宮だが、2007年8月に王室の手を離れて国有化された。その後もギャネーンドラ国王夫妻と家族はしばらくここに残ることが許されたものの、昨年6月に彼らはここを退去した。その数日後から、Narayanhiti Palace Museumとして一般に公開される博物館になっている。
Narayanhiti museum (2008年6月16日付e-Kantipur)
ここは、ツーリストゾーンのタメル地区からトリデーヴィー・マールグを東に歩いてすぐ。外国から来たオノボリさんが徘徊するエリアと隣り合わせたこの地域には、けっこう重要施設が多い。王宮脇を走るカンティ・パトとの交差点のところには文部省があるし、ここを左に折れると外務省がある。
洒落たレストランやみやげもの屋が入居しているSanchaya Kosh Bhawan Shopping Centreの隣には、SAARC(南アジア地域協力連合)のセクレタリアートがある。ショッピングセンターの向かいあたりには、雑踏の中でよくよく目を凝らすとモロッコ大使館がある。
SAARCの加盟国としての大切な機関でありながらも規模はコンパクト。しかも誰もが出入りできる商業ビルの上階から見下ろすことができ、正門が面する道路、トリデーヴィー・マールグからメインの建物までの奥行きもない。その他三方はザワついた商業地区である。破壊活動を企図するものがあれば、いとも簡単にターゲットにすることができそうで、様々な攻撃のシナリオが頭の中に展開してしまう。
土地に根を持たない、不特定多数の人々が出入りし、多少奇妙な振る舞いをしても、そうそう怪しまれることのないような旅行者ゾーンのすぐ近くにこうした重要な施設があるというのはいかがなものか?と思う。
もっとも、これらの施設はタメル地区が旅行者地区として発展する以前からあり、後から付近に商業地がジワジワと広がってしまったのであるが、こうした施設へと続く道が幾つもの検問所で仕切られるわけではなく、コンクリートブロックや鉄条網でがんじがらめになっているわけでもないが、今年5月に内戦が終結したスリランカでの同様の地域での警備の物々しさを思うと天と地の差がある。
ご存知のとおりネパールでも内戦が1996年から2006年まで11年間の長きに渡って政府とマオイスト勢力として広く知られるネパール共産党毛沢東主義派との間で内戦が続いたが、その時代には地方の政府関係の建物や警察等に激しい攻撃がなされ、多くの人々が命を落とすことになった。
現在、マオイストたちの指導部は大政党となっており、昨年4月の制憲議会選挙への参加の結果、世論が予想していなかった大勝利を収めた。だがそれに先立ち、彼らが政権議会選挙参加することについて、当時の政府側にマオイストたちが突きつけた条件のひとつに王室の廃止があった。
『農村から都市部を包囲する』という毛沢東理論を実現したマオイストだが、武器を置いて当時の政権側と同じ土俵『選挙』で闘うことを受け入れるにあたり、彼ら自身を納得させる落しどころとして、無産階級の対極にある封建支配者(・・・の代表としての王制)を潰すことであったのだろう。ギャーネーンドラ国王は、様々なメディアで報じられていたとおり、マオイスト以外の市民たちの間でも、非常に不人気な君主であった。それでもこれが実現するにはかなり紆余曲折あったようだが、最終的にこれが実現することとなった。
王宮が博物館として公開されることになったのは『マオイストのおかげ』ということになる。選挙で過半数には及ばずも一党になり世間を驚かせたが、他勢力との連立模索に関するゴタゴタが続き、プラチャンダ議長が首相に就任したのは同年8月であった。
今年5月にマオイストの武装勢力『人民解放軍』の国軍への統合に強硬に反対する国軍参謀総長の解任・続投問題の絡みで連立政権が崩壊、これを受けてマオイスト以外の勢力()なんと22もの政党の寄り合い所帯!)が結集、マーダヴ・クマール・ネーパール氏を首相とする現在の内閣が成立するまで、責任ある与党の立場にあった。
プラチャンダ首相の就任時、ちょうど昨年の今ごろだったが、インドのメディアは『隣国インドに対する彼のスタンスはどんな具合か?彼の首相として最初の外遊先はどこか?』ということで注目していた。インドと中国というアジアの二大巨頭に挟まれたヒマラヤの山国は、常にその両国との間で微妙なバランスの中で生きていかなくてはならない。
もちろんインド側にしてみればネパールが中国と接近することに対する大きな不安がある。近年中国との関係は改善に進んでいるものの、1960年代初頭に軍事衝突を経験し、ラダックのアクサイチンを失っていることに加え、他にもアルナーチャル・プラデーシュ、スィッキムといった領土問題(中国はこれらの地域がインドに帰属することを認めていない)等がある。さらには常々緊張をはらむ西の隣国パーキスターンに支援を続けてきたのがこの大国でもある。安全保障上、この国の存在はインドが核を保有する動機はパーキスターンのみならず、その後ろ盾でもあり自国と長い国境線を接する中国の存在である。
対中国不信感が根深いこともあり、南アジアの『毛沢東主義者』と現在の中国共産党との結びつきはほとんどないとされるにもかかわらず、インドの人々の間では、ネパールのマオイストにしても、自国内で暗躍する『マオイスト』『ナクサル』などと呼ばれる極左過激派たちは親中国であり、中国政府から相応の援助を受けているはずだと、本気で信じている人が少なくないようだ。
それがゆえに、南アジアの友邦ネパールが、急に中国側へと大きく舵を切るのでは?と疑心暗鬼になるのもわからないことではない。インディア・トゥデイ誌も制憲議会選挙で第一党となった際、またプラチャンダ議長の首相就任時にも、彼に関する詳細な記事を掲載していたし、彼に対するインタヴュー記事にも大きな誌面を割いていた。
彼自身は、ネパールとインド両国の伝統的な関係を維持していく・・・といったごく当たり障りのないことを語っていたようだ。だが昨年8月といえばちょうど北京オリンピックの開催時期。他国の多くの国家元首級の人たちと同様に中国の北京の五輪会場に姿を現した。その結果インドのメディアは『プラチャンダ議長がネパール首相として最初の訪問先は、やっぱり中国』と大いに失望させられた様子であった。
ネパールの人々のインドに対する気持ちには複雑なものがあるにしても、国家としてはインドから見て伝統的に友邦としての関係を維持しているネパール。しかしインドは自国に敵対的な組織により、出撃基地として利用されて大火傷を負った苦い記憶がある。1999年12月に起きたインディアン・エアラインスのハイジャック事件だ。
カトマンズ発デリー行きのIC814は、パーキスターンを本拠地とするイスラーム原理主義過激派組織、ハルカト・ウル・ムジャヒディーンの一味に乗っ取られた。飛行機はアムリトサル、ラーホールそしてドゥバイへと移動した後、アフガニスタンのカンダハールに着陸し、インド当局との厳しい交渉を重ねることとなった。
事件発生から1週間後、当時のインド政府の外務大臣、ジャスワント・スィンは犯人たちが要求したインドで服役中のモラーナー・マスードをはじめとする3名のパーキスターン人過激派指導者たちを連れてカンダハールの空港に現れた。彼らの釈放との交換で、乗客たちがようやく解放されることとなった。
このあたりの時期、ネパールでバーキスターンのISIならびにイスラーム過激派組織の構成員たちが頻繁に出入りしているだの、インドと国境を接する平原部のネパール側で、やたらとマドラサーが増えてきているだの、その建設資金が外国から流入しているだのといった報道がインドのメディア紙上に出ており、ネパールを基点に何か良からぬことが起きなければいいのだが・・・といった調子の記事がしばしば見受けられた。
それが最も判りやすい形で実際のものとなってしまったのが、1999年のハイジャック事件だ。この国がインドと敵対する勢力によって攻撃基地として用いられた場合、インドの喉元に突きつけられた剣となり得る。
自国の影響が大きな地域であり、SAARC内の他国との間にはない、ある意味格別な関係のあるネパールだが、言うまでもなく主権を持つ独立国である。インド憲法356条により認められた、必要とあれば州政府を罷免して大統領による直接指揮下に置くことができる自国の諸州とは違う。
それがゆえにインドとしては、この国の政権の安定した運営とインドに対する友好的な姿勢を希望するし、そうであるように外からいろいろと工作を仕掛けるほかない。同様に中国もそれとは逆の立場、対インド工作の足掛かりとしてネパールを抱き込みたいがゆえに、様々な開発プロジェクト等のパッケージを提示したりして、ネパール政府の気を引こうとしている。
話が大きく逸れてしまった。Narayanhiti Palace Museumを見学した印象については次回書くことにする。

スィク教徒 インドへの回帰

政治的混乱が続くネパールにおいて、バンドやストは日常茶飯事となっているが、望まない休業を強いられて収入が落ち込むビジネス経営者はもちろんのこと、日銭で稼ぎ家計が自転車操業の人々もとても困っていることだろう。
そうした中、ネパールでの商売に見切りをつけて引き揚げてしまう投資家も少なくないようで、先日ネパールのメディアにこんな記事があった。
Chronic banda displaces Sikh community (eKantipur.com)
ビジネスチャンスを求めて、今から遡ること43年前くらいからビールガンジに定着して運輸業に従事し、当地のみならずネパール全国でこれを操業してきたスィク教徒たちが、昨今のネパールの政治状況を嫌ってインドへ回帰する流れになっているということだ。
古来、テライ地域、インド国境に面したネパールの平原部には深いジャングルが広がり、人口密度は希薄であったとされる。しかし開墾が進むにつれてこの地域は農業に適した肥沃な大地であることに加えて、人口圧力の高い国境の反対側、つまりインドのビハールやU.P.の人々の移住・定着などもあった。
今ではネパールの総人口のおよそ半分を抱えるようになっているテライ地域において、インドに起源を持ち、人種的、言語的、文化的に国境の向こうにより強い絆を持つマデースィーと呼ばれる人々が占める割合は高い。彼らは長年不利な立場に置かれていたが、近年は活発な政治活動を通じて政治的な立場を強めているのは各メディアで伝えられているとおり。
初代副大統領パルマーナンド・ジャー氏はマデースィー出身で、就任の宣誓をヒンディー語で行ない大きな非難を浴びることとなったが、彼の母体政党であるマデースィー人権フォーラムは、ヒンディー語をネパールの公用語に加えるべきであると主張している。
ネパールという国自体が、インドとの間のある意味特別な関係から人々の行き来は頻繁で、国境の反対側に雇用機会を求めたり、起業したりという人々は非常に多いが、隣国インドと接するテライ地域での人々の行き来は頻繁なようで、仕事関係はもちろんのこと、国境を越えた通婚や親族訪問なども少なくない。
この地域に、私たち外国人が越えることのできる地点もいくつかあるが、インドとの間に時差 (ネパールのほうが15分早い)があること除き、埃っぽい田舎町や農村風景に国境の手前とこちら側での視覚的な違いはほとんど感じないだろう。
先述の記事中には、『6年前までビールガンジにはスィク教徒の452家族が暮らしていたが、今ではわずか29家族になってしまっている』とある。明らかに隣国インドからやってきた外来の人々であることが不利に作用していることもあるかもしれない。
だが昨今続いてきた混乱により、国の基幹産業である観光業の不振、加えて世界的な景気後退による追い討ちなどもあり、地元のビジネスマンたちにとっても明るい先行きが見えないことには変わりがないだろう。
輸送業界からのスィク教徒の引き揚げは決して無視できるものではないようで、これがその他各産業界に与えるインパクトを憂う形で記事は結ばれている。

悪夢は続く?

スリランカ政府軍に追い詰められたタミル人武装グループLTTEのリーダー、プラバーカラン並びに主要幹部が殺害されたことなどによって同組織は事実上壊滅し、長年続いたスリランカの内戦が終結したことが伝えられたのはつい先月のことだった。
近年、組織が分裂して弱体化したことに加え、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きたことにより、国際社会のスタンスの変化が自らの闘争に与える影響をプラバーカランをはじめとする幹部たちが見極め損なったことが、組織壊滅につながる最大の失策であったといわれる。
しかし国外にも広くネットワークを築いてきており、スリランカ政府の力の及ばないところに在住する活動家も少なくないLTTEは、そう簡単に息の根を止められたわけではなかったようだ。
目下、スリランカ国内での武装組織としての存在は滅亡させられたとはいえ、今度は国外で臨時亡命政府を発足させることを宣言。スリランカ政府にとって、かつてLTTEが実効支配していた地域ならびにタミル人問題への今後の対応を間違えば、悪夢はまだ続くことになるのかもしれない。今後の成り行きに注目したい。
‘New government’ for Tamil Tigers (BBC NEWS South Asia)
देश से बाहर सरकार बनाएगा एलटीटीई (BBC HINDI.com)
Breaking the deadlock through transnational governance (Tamilnet)

インドの東6 コロニアルな新聞

ラングーン・タイムス
ミャンマーは、旧英領とはいえ、現在は英語による出版活動が盛んではないうえに、表現の自由に大きな制限があることもあり、最大の都市のヤンゴンであっても、本漁りはあまり期待できない。
ダウンタウン周辺で、いくつかの書店を覗いてみたが、およそ英語で書かれているものといえば、語学学習書と辞書、あるいはコンピュータ関係書籍くらいのものだろうか。
ビルマ語の書籍にしてみたところで、表紙を眺めてみて想像できる限りでは、当たり障りのない小説、学習参考書、実用書くらいしかないように思われる。
そんなわけで、特にここで本を購入するつもりはなかったのだが、各国の大使館が点在するアーロン・ロード地区の一角に、ミャンマー・ブック・センターという店があり、そこの一角にはミャンマーの歴史や社会について書かれた英文の書籍が置かれているということを聞いた。あまり期待していなかったが、ダウンタウンから遠くないこともあり、ちょっと出かけてみることにした。
タクシーで乗り付けてみたコロニアルな建物は、『書店』というよりも、ヤンゴンにおいては異例なほど大きく、かつ洒落たみやげもの屋といった風情である。そのたたずまいを目にしてガックリきたが、とりあえず建物の上階に書籍があるというので、階段を上ってみる。
3階にある書籍コーナーは、インドの鉄道の一等コンパートメントの3倍くらいのスペースしかなかったが、植民地期の出版物の復刻版が多く、なかなか興味深かった。
また独自の社会主義路線を歩み始めたころに、当時政権を担っていた社会主義計画党関係機関が机上で描いた(?)明るい将来を伝えるプロパガンダ書籍なども書棚で見かけた。
そうした中からいくつかの書籍を購入してみた。それらの中で『The Rangoon Times Christmas Number』なる題で、1912年から1925年までの英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス版をまとめたものは、まさにそれを読んでいた人々の息吹を感じさせてくれるようであった。
この時代のラングーン、つまり現在のヤンゴンは、国そのものが英領インドに属していたことのみならず、人口の面からも『インドの街』であった。1912年においては、ビルマ族とカレン族ならびに地元の他の民族を合計した人口が10万3千であったのに対し、インド人18万8千人と、2倍近い数を占めており、マジョリテイがインド人であったのだ。ちなみに他の民族については、中国人2万3千人、イギリス人を含めた欧州人が3500人余り、アングロ・インディアンおよびアングロ・バーミーズが8300人少々、その他アルメニア人とユダヤ人が少々といった具合だ。
さて、この新聞のクリスマス版は、在住のイギリス人社会における出来事や彼らを中心とするビルマの発展と進化について、その年に起きたことを回顧するものとなっている。デルタ地帯の河下り旅行記、行政や教育に関する話題、狩猟やポロにサッカーといったスポーツ、大きな鉄道事故に洪水といった惨事、政府や軍などの式典、イギリス人富裕層の見事な屋敷の写真その他いろんな記事が掲載されている。
この時代の広告を眺めるのもなかなか面白い。この時代は銃の規制などなかったのだろうか、洋服や靴のものと並んで広告が出ている。今も世界各地で親しまれているホーリックスのアドバタイズメントは掲載されているが、当時も同じ味だったのだろうか。イギリス本国はもちろんのこと、インドを本拠地とする商社や銀行なども紙面各所に広告を出している。アサヒビールの宣伝もあり、現地の取扱代理店は、三井物産ラングーン支店と書かれている。
銀行の広告
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船会社の広告もある。人々が飛行機で移動するようになる前の客船全盛の時代だけに、なかなか興味深い航路がある。ロンドンから地中海、そしてイエメンのアデンを経てコロンボ、さらにはペナン、シンガポール、香港、上海ときて日本にいたる定期便の記述もあるが、どのくらいの時間がかかったのだろうか。
当時のカルカッタ、ボンベイ、カラーチー、マドラス、コロンボ、ラングーンといった地域の主要港から域内を結ぶ便についても書かれている。特に当時のインド西部から今のガルフ諸国の港への便がけっこうあることに加えて、今はほぼ荷物の出入りに限られる港、例えばグジャラートのマンドヴィー、ポールバンダル、あるいは漁港として知られるタミルナードゥのナーガパトナムなどといった港をはじめとする地域の代表的な海港が、当時は外の人々に対する玄関口としての役割を担っていたことを改めて思い起こさせてくれる。
船会社の広告
それでも便数は週一便、二週に一便などといった記述が並び、今の主だった国際線・国内線の空港と違い、『主要港』といってもずいぶんのんびりとしたものだったことだろう。
他に購入した本も含めて、いろいろ興味深いことが書かれていたが、また何か機会を見つけて取り上げてみたいと思う。

インドの東5 シナゴーグとユダヤ人墓地

ミャンマーでは独立後に教育や行政で用いられる言語におけるビルマ語化を積極的に進めたため、旧英領の割には英語の通用度は著しく低い。英文による出版活動にも非常にさみしいものがあるようで、市中の書店を覗いてみても、新聞や雑誌等に英文のタイトルが付いていても、中身はすべてビルマ語である。
例外的にThe New Light of Myanmarという英字紙が出ているが、ページは少ないし、中身も政府の公式発表ばかりなのでちっとも面白くない。
そんな中で、ヤンゴンのダウンタウンにおいて、特に北インド系の住民が多い地域では、ヒンディー/ウルドゥーを話すことができる人たちが多いだけでなく、そうした人々同士が、これら『父祖のコトバ』で話しているのを耳にする機会は多い。
それでも彼らがこうした言葉で出版活動を行なっているわけではなく、あくまでも日常生活の中での会話でのみ使われているという具合のようだ。独立まもない時代には、インドの各言語、中国語等による新聞なども出ていたそうだが、現在のミャンマーにおいて、これらの言語による出版の自由はない。
幾度かヤンゴンを訪れて散策してみた印象でしかないので確かなものではないが、特にインド系のモスクが存在する地域で、彼ら自身の民族の言葉を使うことができる人の割合が高く、彼ら同士がこれで会話しているのを耳にする頻度が高いように感じられる。もちろんインド系ムスリムとしてのアイデンティティということもあるかと思うが、宗教を通じた言語教育もなされているのではないかと想像される。
そのインド系ムスリム地区の真っ只中にあるのがこのシナゴーグだ。以前も書いたとおり、18世紀初頭から、現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたものの、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降とのことである。
イギリスによる支配とは、つまり当時の英領インドによる軍の遠征と領土の併合であったことから示唆されるとおり、それ以降この地に定住したユダヤ教徒とは、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒がマジョリティを占めるようになり、1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、さらに彼らが勢いを得ることになる。
米、チーク材、綿花などの輸出業をはじめ、この時代に盛んであったアヘン取引はもちろんのこと、軍需にかかわる物資の交易に従事して富を築いた者も多く、行政当局との繋がりが深く利潤の高い取引を通じて、経済的に高い地位を得ることになる。
1937年にインドと分離して英連邦内の自治領となった後、アウンサン率いるビルマ義勇軍とこれに協力した日本軍によるイギリス勢力の駆逐、日本軍がインパール作戦に敗れた後に1945年に連合軍による当時のビルマの奪回、1948年に英連邦を脱して独立国家としてのビルマ連邦の成立といった一連の大きな動きの中で、彼らの多くはインドに戻ることになった。
かつて帝国主義勢力の片棒を担いで繁栄を謳歌していたユダヤ教徒たちにとって、ビルマ人たちが主権を回復しての新生国家は決して居心地の良いものではなかったようだが、彼らのほとんどがこの地を捨てて国外に活路を求めることになった決定的な事件が1962年に起きた軍によるクーデターだ。
ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党による急進的な国粋主義化、とりもなおさずビルマ民族主義化という流れの中で、多民族から成るモザイク国家における総人口の7割近くを占めるビルマ族の民族文化を前面に押し出した政策により、シャン族、カレン族その他の少数民族の不満が高まることになる。
だが主に都市部に集中する外来のユダヤ教徒たちは、もはやイギリスという大きな後ろ盾もなく、存亡の危機を迎えることになった。その結果、今日ヤンゴンに残っているユダヤ人は、わずか8家族に過ぎないとされる。
以前、ヤンゴンのインドなエリア(4)で取り上げたが、2007年にネピドーに遷都されるまでミャンマーの首都であり、今でもこの国最大の都市でもあるヤンゴンには、シナゴーグがある。
シナゴーグ建物外観
以前ここに夕方来たときは、中に誰もいないようで見学することができなかった。今回は昼前にやってくると、通りに面した門は鍵を閉ざしているものの、声をかけてみると世話人らしき者が『何か御用で?』と、やや不審そうな面持ちで出てきた。インド系男性で、この人はヒンディー語を話す。
ヤンゴンのユダヤ人コミュニティのことに関心があり、中を見学したい旨伝えると、『さあどうぞ』と、門を開けてくれた。中の建物は普段は施錠してあり、中に入ることはできないとのことだが、朝10時から正午までの責任者が来ている時間帯のみカギが開けてあるので入ることができるとのことだ。
シナゴーグ内部
1854年の建設当初は木造であったが、その後1893年から1896年にかけて、現在のレンガ造りのものに建て替えられたものであり、そのことが建物の礎石にも記されている。
あいにく責任者の男性は席を外しているとのことで会うことはできなかったが、名刺だけもらっておいたが、これがその後訪れたユダヤ人墓地で役に立つことになった。
シナゴーグはインド系ムスリム地区の真っ只中にある。敷地内で雇われている使用人たちはすべてムスリムであり、責任者だけがユダヤ教徒なのだそうだ。パレスチナ問題と合わせて、イスラーム教徒とユダヤ教徒が対立する存在であるように描かれることが多い。
だが、それ以前にはアラビア各地で同じ啓典の民としてそれなりの庇護を与えられ、ムスリムたちと共に繁栄してきたことは広く知られているとおり、ここヤンゴンにおいては同じインド系住民として互助的なつながりのもとに共存してきたことをうかがわせる。
今ではほとんど消滅してしまったのも同様のユダヤ教徒コミュニティと記念碑的に存在しており、定期的な礼拝も行なわれていないというシナゴーグだが、毎年イスラエルやアメリカからユダヤ同胞団体がここを訪れ、施設保守等の目的で相当額の寄付を置いていくのだそうだ。
門を開けてくれた男性に、ユダヤ人墓地の場所を尋ねると、ここからそう遠くないところにあることがわかった。Bo Min Yaung RD.とMyanma Gone Yi St.の間にある91st St.という細い道にあるとのことだ。ここも普段は施錠されているが、昼間ならば墓守がいるから、ここで中に入る許可を得たことを伝えてくれと言う。
Myanma Gone Yi St. この背後にユダヤ教徒墓地がある
タクシーで向かうと、そのエリアはタミル系住民が多く住む地域らしく、それらしい人々の姿や南インド式のヒンドゥー寺院などが目に入る。
『ここがそうだと思う』とタクシー運転手が指差した先には、塀の向こうに茂みが広がるのみ。墓地らしき風情は見当たらず、近くの雑貨屋に入って尋ねると、ちょうどそこで買い物をしていた男性が日本語のできる人だった。
『東京、千葉や茨城に住んで仕事をしていたことがあります。もうずいぶん前に帰国したんですが』
チャーリーと名乗る彼はアングロ・バーミーズで、風貌からしてインド系にも見えるとのことで、東京都内のある有名なインド料理店で働いていたこともあるそうだ。
『すぐ近くですから』と彼は墓地まで案内してくれた。彼は墓地のすぐ隣の古めかしいアパートの5階にて、家族5人で暮らしており、いつも家から墓地を眺めていると言う。
彼の父親が子供のころには、墓地は近所の同年代の子たちの遊び場になっていたそうだが、今では高い塀に囲まれ、入口には門番が常駐するようになり、普段入ることができなくなっているそうだ。
ゲートに着くと、案の定施錠されており、管理人らしき初老のヒンドゥー女性とその関係者(?)らしき複数の人物に声をかけると、入場を断られたものの、さきほどシナゴーグでもらっておいた責任者の名刺を見せると、すんなりと中に入れてくれた。ゲートの外からならば構わないが、中に入ってから写真は撮らないでくれとのことだ。
ユダヤ教徒墓地
比較的広い敷地の中には、沢山の墓石がある。中にはいくつか英語も併記されているものもあるが、ほとんどヘブライ語で記されているので、何が書いてあるかわからず、どういう人物がここに埋葬されているのか見当もつかないのは残念である。
墓地の中を散策しながら、チャーリーさんの話を聞いているうちに、どうやら在日ミャンマー人の中に共通の知人がいるらしいことに気がついた。世の中とは案外狭いものであることを実感しながら、しばし世間話をしながら午後の暑い時間帯をのんびり過ごした。