王宮転じて博物館 2

王宮博物館は11時開館。少し早く着いたのでゲートの前でしばらく待つ。ゲートを入った右手のチケット売り場では入場券を購入。料金は500ネパールルピー。他の観光スポットの多くがそうであるとおり、この国での入場料はネパール国民、ネパール以外のSAARC国民、その他の外国人の三つに区分されており、言うまでもなく後者ほど高い。
売り場では係員に国籍を尋ねられるが、その際に『India !』以外に『Bangladesh』『Srilanka』
といった返事も耳に入ってくる。インド以外にもSAARC諸国からけっこういろいろな人たちが来ていることがわかる。
宮殿内の警備は、まるで今でもそこに王家の人々が暮らしているかのように、なかなか厳重である。チケットを購入してから身体検査があるが、カメラは持ち込み禁止、ごく小さなカバンもロッカーに預けさせられた。
この宮殿が出来たのは18世紀後半に出来た洋風の建物だ。広い庭をぐるりと回って正面入口へと向かう。階段を上って最初にあるのは、外国からの来賓を迎える謁見の間だ。続いて外国の要人と会談する部屋、会談の前に要人たちが待機した待合室がある。
少し進むと、国からの要人が宿泊する部屋、その奥さんが泊まる部屋が横にあり、またその隣に要人家族が泊まる部屋がある。要人当人のための広々とした豪華な部屋からだんだんシンプルになり、面積も次第に小さくなる。
わざわざ夫婦の寝室を別にする必要もないだろうし、欧米の要人のように奥さんを同伴しない国賓もあろう。それに配偶者はまだしも子供たちまで連れてくるというケースはあまり多くないだろうから、こうした部屋には側近や護衛などが控えることが多かったのではないかと思う。
晩餐会が開かれた豪華なダイニングホール、晩餐会前に要人たちが待機する待合室などがある。またこれまでここを訪れた諸外国の要人たちと国王夫妻(ビーレーンドラ前国王)が一緒に写っている記念写真も飾られている。故アイシュワリヤ王妃の若い頃は、素晴らしい美人であったようだ。外国の要人ないしは代表団と何か重要な取り決めごとについて調印するための部屋もある。
ここまで見たあたりで、地元の高校生の16才の男の子がこちらに声をかけてきた。両親は食料品の卸の会社を経営しているそうだ。今日は学校の先生たちがストで休みのため、両親と見学に来ているのだという。
確かその前日から教員のストの記事が新聞に出ていた。この博物館に来る手前のところに文部省があるが、ここで多数の学校関係者が座り込んで抗議行動をしているのを目にした。
同時期にゴミ収集のストが1週間ほど続いており、カトマンズ市内どこに行っても汚いゴミの山が積み重なっていた。特に人々の密度が高く、商業活動の盛んなエリアでのそれは目を背けたくなるほどのものだった。様々な品物を商う無数の小さな商店や路上の物売りたちがひしめくアサン・チョウク界隈のそれもまた凄まじかった。普段ならば、そこで雑貨や野菜などを商っていながらも、ゴミの山のせいで居場所を失った人もかなりあったのではないだろうか。
話は宮殿に戻る。セキュリティの関係から、王宮内のすべての部屋が公開されているわけではないものの、見学できるゾーン内には、他にもいくつかの部屋がある。建物内で一番高いところにある戴冠式の間まで行くと、その先は王家の人々のプライベートな空間となる。マヘーンドラ国王(1920〜1972) の執務室から始まり、広々として快適そうな王家の家族の団欒の場、シャハ王朝の最後の王でとなったギャーネーンドラ国王の寝室などがある。
意外だったのは、国賓の寝室に比べて国王の寝室が、想像していたよりも貧弱であったことだ。王宮ゆえに天井はかなり高いものの、前者と比較して半分以下のスペースで、部屋の形もいびつで窓も小さい。冬季の冷え込みの関係もあるのかもしれないが、およそ『人間』が必要とするスペースには限りがあるのかもしれない。貴人の館と一般人の個人宅を比較のしようもないが、日本の売れっ子の芸能人やちょっとした会社経営者のほうが、もっと豪華で快適な寝室を持っているのではないかと思う。
王族など貴人たちの居室にしても、何か後世へ伝える業績を残した偉人の住まいにしても、一般に公開されるようになる際にはすっかり整理整頓されてスッキリとした状態になっている。ギャーネーンドラ元国王は、間違っても偉人ではなく、生まれた家柄からして貴人ということになるが、彼の寝室もまたキチンと整頓された状態で人々の視線にさらされている。
ここに起居していたころには、家電製品はもとより、様々な身の回り品が雑然と置かれていたのではないかと思う。宮中とはいえ、そこはたまたま国王の座についた一人の人間の生活空間である。これらがそのまま部屋に残されていたならば、それらを目にしてギャーネーンドラという元国王自身の人となりがちょっと想像できるような気がするのだが。
館内の見学を終えて建物の外に出ると、2001年に当時のビーレーンドラ国王(1945〜2001)夫妻その他王族を含む多数の方々が亡くなった宮中惨殺事件の現場があった。そう、あの宮中クーデターと言われたあの忌まわしい事件である。この惨事の中で、国王に加えて皇太子以下、王位継承権を持つ人々がことごとく犠牲となった。当日、その場に居合わせず、ポーカラーで息子パーラス他直近の親族と過ごしていた王の弟であるギャーネーンドラを除いて。
事件後、危篤状態で意識不明であったディペーンドラ皇太子が、手続き上のみ王位を継承した形となるが数日後死亡。幼少時に2ヵ月ほど王位に就いたことのあるギャーネーンドラが、甥のディペーンドラの後を継いで再び即位した。
その現場となった建物はすっかり取り壊されており、今は土台だけが見られる。まるでガンダーラの遺跡である。事件直後に撤去されたとのことだ。カトマンズに長年お住まいで、ネパール事情に非常に詳しい日本人の方にその理由をうかがったところ、表向きは皇太后がその建物があると惨事を思い出すからということだが、実際の理由は証拠隠滅だと言われているとのことだ。
宮殿の裏手には、事件の際の銃弾の痕がいくつか残っている。まさにここで銃弾が飛び交ったのである。誰それが瀕死の重傷を負っていたところ、誰それがここで云々と書かれている。

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