ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: environment

  • パンカム村への道1

    パンカム村への道1

    ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

    町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

    午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

    小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

    スィーパウ郊外の田園風景
    牧歌的な風景

    畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

    シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

    このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

    禿山が続く

    昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

    1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

    現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

    スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

    このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

    民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

    穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
    ソーラーパネルが設置されている家があった。
    タワシとなるヘチマ

    発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

    <続く>

  • ガントクへ

    ガントクへ

    実に20年以上の年月を経て、スィッキム州を訪問することになった。前回訪れたのは確か5月だった。平地の暑気から離れてホッと一息ついたものだが、今回はその反対。心地よい気候の平地から入ってくると、西ベンガル州の山岳地のダージリンにせよ、スィッキム州にせよ、日が沈んでからの寒さがとてもこたえる。日本の冬と同じような気温とはいえ、基本的に暖房がないので着込むしかない。しんしんと冷え込む中、さっさと寝てしまえばいいのだろうが、日記その他を書いていると寒さが骨身に沁みるような気がする、などと言っては大げさすぎるだろうか。

    バケツに温水を溜めて髪と体を洗う。湯を浴びているときはそれなりに気持ちはいいのだが、前後左右から冷気が迫るため、すぐに身体が震えるほど寒くなってくる。バスタオルで全身を拭くころにはすっかり冷え切っていて、即座にカゼを引いてしまいそうなくらいだ。背中から布団や毛布を羽織り、ベッドの上で足を投げ出して座ってしばらく書き物をしていると、膝に載せたノートPCの温もりが心地よく、湯たんぽのような効果があることに気が付く。

    夕方以降の室内の寒さは、西日の当たり具合にも左右されるようだ。ガントクでの宿のこの部屋は、午後の陽がまったく当たりないロケーションになっているようで、日没後に外から戻ってくると、室内のほうが寒かったくらいだ。

    今回、ガントクの街に着いてみて、果たしてこれが同じ場所なのかと首をひねりたくなるくらいだった。前回の訪問から20年以上の時間が過ぎているため、いろいろと大きく変わるのは当然であるにしても、これほど景観が変わってしまうとは想像もしなかった。何が大きく変わったのかといえば、ガクトクの建物のタイプが昔と根本的に異なっている。州都ガントクの中心部、MGマールグ界隈では、「昔と今」の鮮やかな対象を目にすることができる。

    ガントクの建物新旧 木造二階建て「イグラー」を取り囲むコンクリートの高層建築
    「イグラー」の建物は、ガントクにはごくわずかしか残っていない。

    マーケットの中にごくわずかに残る「イグラー」と呼ばれる、スィッキム州独自の木造建築だ。普通、建物は緑色に塗られており、トタンで屋根を葺いた二階建てだ。一階部分は店舗、通常二階は住居や倉庫となっている。前に訪れたときには、州都最大の商業地区MGマールグ沿いの店舗のほとんどは木造のこんなスタイルであった。現在、ガントクではこういう建物で新築する人はいない。斜面の街の限られた土地を有効活用するため、いきおい高層化することになる。建物がローカル色のあるものから、全インド共通のコンクリ柱とレンガで作る普遍的なものに置き換わったこと、加えて高層化により空が狭くなり、昼間でも通りが暗く、往々にして陽当たりも悪くなったといえる。

    2011年9月に発生したスィッキム地震の際、斜面という元々地盤の軟弱な土地であることもあり、多かれ少なかれ被害を蒙った建物はかなりあったという話は聞くが、全壊してしまったビルもあったというから恐ろしい。地盤がゆるく、傾斜のきつい場所には不釣り合いなほど高層であったことが災いしたということだ。

    2011年9月のスィッキム地震で全壊したビルの跡地
    しばしば地震が起きるスィッキム州。こういう建物もかなり危険なのではなかろうか。

    それはともかく、MGマールグ界隈では、申し合わせがあるのか、それとも条例で定められているのか知らないが、コンクリート造の建物の外装は薄緑色になっているため、ガントクらしい雰囲気と統一感はある。現在では車両乗り入れ禁止の遊歩道となっており、通りの中央には花壇がしつらえてあるなど、なかなか洒落た感じになっている。ライトアップされた夕方以降など、なかなかいいムードになる。

    なかなか洒落た眺めのMGマールグ

    それでも午後8時を回ると、開いている商店もごくわずかとなり、まるで深夜のような静けさとなるため、これが州都の中心地であるとはにわかに信じ難い気もする。

    こんなカフェも現在ではあって当然の州都ガントクのMGマールグ

    _

  • ダージリンティーの茶園訪問2

    ダージリンティーの茶園訪問2

    ハッピーバレー茶園の製茶工場

    昨日カルスィヨンのマカイバリ茶園訪問で失敗したので、本日はダージリン市街地のすぐ外にあるハッピーバレー茶園に前もって電話してから訪問する。たがあいにく「ウチでは冬の茶摘みはしませんので、工場のラインは止まっていますが、それでもよろしければ・・・」という回答。この茶園では収穫期は春・夏・秋の3シーズンのみなのだという。

    茶園に到着すると、ちょうどそこにやってきたポーランド人の夫妻があり、茶園の職員に率いられて、一緒に工場内を見学する。この茶園は150年くらいの歴史があり、インドで茶の栽培が始まった初期のあたりからあることになる。茶の木の寿命を尋ねると、かなり長いらしい。茶園が始まったころからある木がまだ沢山あるとのこと。

    茶摘みの仕事をするのはすべて女性で、年代ごとにチームを編成し、若い人たちほど遠くのエリアで収穫作業をして、年上になるほど工場に近いエリアで茶摘みをするとのことだ。工場で働くのはほとんどが男性で、女性は数えるほどしかいないとのこと。茶摘み労働者たちの日収は90ルピーと少ないが、その代わりに住居、子供の教育のための学校、診療所は無料となっているそうで、家族のうち数人が茶園で働いていれば、なんとか食べていくことはできるだろう。ちょうどスリランカなど他国の茶園もそんな感じだ。

    加工ライン
    加工ライン
    加工作業に用いられる送風機
    これも加工ラインの一部
    ここで加工の最終段階を経て最後の選別場に作業は移る。
    ここで手作業にて茶葉を等級ごとに選別

    収穫期ではないので、空っぽになっている作業場を見学。コンベアの上の茶葉に、最初に常温の風を大きなファンで送り、続いて熱い風を送る。これにより、茶葉が握ってもちぎれることなく、ソフトになるとのこと。その後階下で発酵・熟成の過程があり、最後に茶葉をグレード別に選別するというラインになっている。摘みのシーズンにより、加工の時間は適宜変えるとのこと。通常、茶葉はサイズが大きいほどグレードが上になる。ひとつだけ「ALOOBARI」という別の茶園の名前が記されている加工ラインがあった。同じオーナーが所有する茶園だが、工場が併設されていないため、ここに持ち込んで加工しているとのこと。

    ハッピーバレー茶園工場のオフィス

    茶園のオーナーは外資系が多いらしい。インド人所有のものではマールワーリーのビジネスマンが経営するものが多いとのことで、このハッピーバレー茶園もまたマールワーリーの所有だ。地元民族であるブーティヤー、レプチャー、グルン等の民族が運営する茶園は存在しないそうだ。

    一緒に工場と茶畑を見学したポーランド人夫妻は仏教徒であるとのこと。日本国外でも盛んに布教活動を展開する創価学会かと思いきや、なんとカギュー派とのことで、チベット仏教徒である。ポーランドに僧院があり、そこで入信する人が少なくないとのこと。チベット仏教寺院がそんなところにあるとは驚きだ。これからスィッキムに行き、あるリンポチェに教えを乞うところなのであるそうだ。つまりこれは英語で行われるわけで、先述のポーランドにある寺院とともに、チベット仏教にはなかなか国際的な側面もあるかもしれない。

    三人でしばらく茶園を散歩する。茶園の中の集落で、ここで働いている女性に声をかけてみた。茶摘みのオフシーズンには何をしているかと尋ねてみると、それなりに仕事はあると言う。主に茶園の整備や木の手入れであり、この時期にはしばしば茶畑の専門家が来て、茶の木の健康状態をチェックしたり、病気等の駆除の手当等を行なったりするのだそうだ。

    茶畑

    茶畑の中に点在する集落の家屋は、どれもここで働く労働者のためのものであるようだが、どれもかなり清潔感があり、ある程度の居住スペースはきちんと確保されているらしいのは幸いである。

    茶畑従業員の住宅

    <完>

  • ダージリンティーの茶園訪問1

    ダージリンティーの茶園訪問1

    トイトレインのカルスィヨン駅
    トイトレインでカルスィヨン駅に着いてから、そのままシェアジープでダージリンに戻るのはもったいないので、しばしマカイバリ茶園を訪問することにしたのだが、製茶工場に着いてみると、あいにくこの日は休日とのことであった。せっかくインドのSIMが入った携帯電話を持っているのだから、事前に一本電話確認しておくべきであった。
    マカイバリー茶園の工場
    そんな訳で工場を後にして、坂道を下っていくと、普段は茶摘みの仕事をしているという地元の女性たちが、スマートフォンを大きなスピーカーに付けて音楽をかけて踊っていた。こうしたところで作業に従事する人たちの間でも、スマートフォンを持つことが決して珍しくない時代になっている。
    踊って休日を楽しむ茶園労働者の女性たち
    ところで「ダージリン」と一口で言っても、かならずしもここダージリンやそのすぐ近くで収穫されたものばかりであるわけではない。スィリグリーやブータン国境のジャイガオン等も含めて、北ベンガルの丘陵地やヒマラヤ斜面等に茶園が広く分布しており、その数83もある。茶葉の収穫時期は、春、夏、秋、そして現在の冬とあり、その時期によって味わいが違うということになっている。
    短く刈られた茶の木
    斜面に広がる茶畑に入ってみると、どの木も短く刈られているが、ちょうど12月から1月にかけての収穫期なので、本日のような休日以外には、茶摘み労働者たちが働く姿を目にすることができる。
    茶園のオフィス
    茶園のオフィスに日本語の看板もかかっており、「紅茶・緑茶・ウーロン茶」などと書かれているので、ここの製茶工場からは日本にも輸出されているのだろう。本日、話を聞いたり見学したりすることかできなかったのは残念だ。
    汽車が来ない時間帯はパーキングと化す
    カルスィヨンの町で遅い昼食を摂った後にダージリンへはクルマで戻ったが、汽車が通らない時間帯はレール上がパーキングのようになっている。日の上り・下りそれぞれ4本ずつしかないとはいえ、この緊張感の無さは何だろう。商店の軒先をレールが走っていたりもするが、幼児のいる家では大変な注意が必要だろう。ダージリンに至る前の名所「ループ」では、汽車の通行しない時間帯には店開きしている商売人たちの姿が多数ある。
    軒先を走る鉄路
    「ループ」で店開きする人たち
    そのループでは、インド国旗がこんな具合に翻っていた。思わず敬礼したくなる。
    敬礼!
    <続く>
  • 白馬村の奇跡

    タイ国際航空のフライトの中で、あるドキュメンタリー番組を観たのだが、これが大変興味深い内容であった。インドとは関係ないもので恐縮ながらも取り上げることにいたしたい。

    そのドキュメンタリーとは、中国の重慶市(いっても北海道並みの面積があるため、「市」という理解よりも、中央政府による直轄地域と捉えるほうが適切)の巫溪县にあった白馬村が、如何にして、わずか4年間で都市化したのかについて追ったもの。

    その映像の製作とセットでなされたらしい記事(BBC)があり、こちらには先述のドキュメンタリー映像も含まれているので、ご参照願いたい。すでに2年以上前に書かれたものだが、先日のフライトで映像を目にするまでは、白馬村という場所の名前さえも知らなかったことを不覚に思う。

    A portrait in miniature of China’s transformation (BBC NEWS ASIA- PACIFIC)

    中国がこれまで経てきた成長と変化を象徴している事例とも言えるし、工業化が進展するとともに、活発な商業活動と合わせて、一足飛びに発展してきた地域とは裏腹に、今なお非常に貧しい内陸農村部の現状脱却のためのプロパガンダに格好の革命的モデルケースでもある。

    やはり中国共産党という、強力なリーダーシップのもとで、人もカネも集中的に投下できるがゆえのことであり、かつ行政区分的には重慶市内(先述のとおり、面積は北海道に匹敵することに留意が必要)であり、中央政府の直轄地であるがゆえに実現できたものであり、どこの寒村でも可能というわけではない。また記事中でも指摘される負の側面も少なくない。

    それでも、少なくとも今までのところ、インドにおける「世界最大の民主主義」よりも、中国における共産党の一党独裁体制のほうが、国力の向上ひいては民生の向上に寄与した度合いが高いことは否定できない。もちろん中国という国の体制については、いつものことながら「良くも悪くも」という表現抜きに言及することはできないが。

  • LEH 1990 & 2012

    LEH 1990 & 2012

    手元に1990年の2月に撮影したレーの町並みの写真が2枚ある。そしてもう2枚は2012年の夏に撮ったもの。季節はもちろんのこと、レンズの画角やアングルは少し違うのだが、どちらもレーの町を見降ろす王宮脇からの眺めである。王宮は、1990年当時は廃墟といった状態で、内部はあちこち崩落していたため公開されていなかった。撮影したネガは紛失しており、すっかり退色してしまったポジをスキャンしたものだ。
    レーの町 1990年
    レーの町 2012年
    レーの町の東端 1990年
    レーの町の東端 2012年
    レーの王宮入口 1990年
    レーの王宮入口 2012年

    レーの町の中心を成すメイン・バーザール界隈の大きな建物や政府機関等を除けば、大半の家屋は伝統的なラダック式の日干しレンガを積み上げた構造のものが大半であった。宿もそのような家屋に手を入れたようなものが多かったように記憶している。

    レーのメイン・バーザール 1990年
    レーのメイン・バーザール 2012年

    レーの市内も主だった通りを除けば、大半は未舗装であったため、やたらと埃っぽかった記憶がある。他にもいろいろ撮っておけば良かったと思うのだが、フィルム時代であったため、低予算のバックパッカーにとっては、コスト面から一枚一枚がなかなか貴重であったため、今のように枚数を気にせずに撮りまくるようなことはできなかった。加えて、愛用していたニコンの機械式のカメラが故障したため、撮影数が少なかったということもある。

    当時のティクセの寺院の画像もある。かなり荒廃した感じに写っているが、その頃は実際そういう具合であった。僧侶たちの多くが携帯電話を所持していたり、その中の若い人たちの中にはスマートフォンを手にしていたりするような時代が来るとは想像もできなかった。

    ティクセ 1990年
    ティクセ 2012年

    今回のラダック訪問で、20年もの歳月が過ぎているので当然のことではあるが、レーや周辺の町並みの整備が進んだこと、主だった寺院その他の建築物が非常にいい状態にあることが印象的であった。やはりインドという国の経済が継続的に右肩上がりで推移していること、観光業もまた順調に振興していること等々の効果もあるのだろう。加えて、1990年当時には、外国人にとって完全に地域が、ILPを取得することにより訪問可能になっていることについて驚かされるとともに、大変嬉しく思った。電気を使えるのは午後7時から午後11時までというのは相変わらずであるし、夏季以外は陸路が閉ざされるという状況は変えようもないのだが。

    電気はともかく、まさに夏季以外の厳しい気候やアクセスの面での不都合があるがゆえに、外部からの人口流入も限られていることも、ラダックらしさが保たれているひとつの要因に違いない。とりわけ北東インドのアッサム州やトリプラー州のように、隣接するベンガル州はもとより、ヒンディー・ベルト地帯からの移住者が多い地域と比較すると、その差は歴然としている。経済的な理由により、ラダック地域内での人口の移動は相当あるのかもしれないが。

    地理・気候的に厳しい条件があるがゆえに、今後もラダックらしさが失われることはないのではないかと思われる。それとは表裏一体ということにもなるが、ラダックの今後については、「インドの中のJ&K州のラダック地域」としての位置付けではなく、ラダック独自の特別な扱いが必要ではないかと思うのである。それは、以前から要求のある州に格上げという行政区分上の事柄で片付くものではないように思う。

    外部から訪れる人々があってこそ成り立つ観光業を除き、いまだにこれといった産業があるわけではない。しかしながら戦略的な要衝にあるため軍施設は多いので、これに関連した雇用やビジネスのチャンスは少なくない。だが電力は圧倒的に不足しているため、これを必要とする産業の育成は難しく、人口密度も少ないためマーケットとしての魅力も薄い。それでいながらも、限られた条件の中で日々やりくりしながら過ごしていく余裕はあるというところが興味深い。他者に従属しない気高さが感じられる。

    蛇足ながら、個人的にはラダックでのヒンディーの通用度の高さには大変驚かされた。ヒンディー・ベルトとは、これほど地理的に離れた地域であり、民族的にも文化的にも大きな乖離があるにもかかわらず、農村のご婦人たちもごく当たり前に喋ることができる。J&K州の公用語がウルドゥーであるということもあるにしても、言語的にも文化的にも全く異質なコトバをこれほど広範囲に受容しているということは、ラダックの人々の柔軟さによるものであるとともに、中国を目の前にするインド最果ての地という地理条件によるものであろう。

    インドにあって、インドではないとも言えるラダックについては、あまり多くを知らないのだが、極めて独自性の高いこの地域で、将来に渡って持続可能な発展とは、どのような形のものなのだろうか。

  • ヌブラ渓谷へ2

    ヌブラ渓谷へ2

    カルドゥン・ラを越えた先でも・・・もちろん中国国境により近くなるわけなので当たり前ではあるが、ところどころで軍の駐屯地や施設を見かける。いつ何時攻撃を受けても反撃できるようにしてあるということだろう。だが中国側では装備等々、インドよりもかなり良いであろうということは想像に難くない。

    インド北西部にあるラダックとは反対側、北東側にあるアルナーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州では、インドの他の山あいの土地と同様、片側一車線分のスペースがあるかないかといった具合の道路が地域を繋いでいるのに対して、国境向こう側の中国では、片側複数斜線の見事な道路が整備されており、有事の際には即座に大量輸送の体制を取ることができるようになっている、という記事をインドのニュース雑誌で読んだことがあるのを思い出す。

    それはともかく、ここから決して遠くない中国側でも同じように乾燥した荒々しい風景が広がっているのだろう。だがそちら側に点在するのは中国軍の基地であり、駐屯地であり、漢字の標識や看板ということになる。

    スムルの村にあるサムタンリン・ゴンパ
    ゴンパの扉で見かけたカギはクラシックな感じで立派であった。

    カルドゥン・ラからは下るいっぽうだ。カルサルの集落で昼食を摂った後、この地を流れるシャヨク川東岸にあるスムルの村にあるゴンパを見物。そして来た道を戻り、ふたたび西岸へと橋を渡る。この走行した中では、この川にかかる橋はここしか見ていない。年間を通してこれほどの水量があるのかどうかはわからないが、少なくとも今のように豊かな水を湛えている状態では、川のこちら側と向こう側とでは別世界のようなものだろう。すぐそこに見えても、非常に遠回りして反対側の岸に着くことになるからだ。

    数年前までトラック運転手をしていたというドライバーにとっては自分の庭のようなもののようで知己が多い。今だに大きなクルマを駆っていたときの気分が抜けないようで、運転が荒いのはタマにキズ。

    今日の宿泊地であるフンダルが近づいてくると、こちら側の河岸に美しく連なる砂丘が見えてきた。こんな高地に風紋の刻まれた砂漠みたいな景観があるとは不思議なものだ。予想に反して、フンダルの村にはかなり沢山のゲストハウスがあり、その中のひとつ投宿することになった。庭にはアプリコットがたわわに実っている。

    フンダルの村での投宿先
    宿の庭

    経営者の家族はとても感じがいい。このあたりの人たちは、ラダッキーでも少しアーリア系の血が入っているように見える。ここからさらに進んでパーキスターンにまたがるバルティスターンの一部を成すトゥルトゥクまで行くと、人々はアーリア系のチベット仏教徒という、チベット文化圏の中では総体的に珍しい地域となるようだ。

    宿で食事関係からベッドメーキングまですべてをこなしている若い男性二人組みはネパールからの出稼ぎ人たち。こんなところまで仕事を求めて来なくてはならないとは大変だ。ラダックの観光地はどこでもネパール人や北インドのビハール州、U.P.州などから仕事を求めて来ている人たちが多いが、「シーズン・オフにはどうしているの?」と尋ねてみると、往々にして「ゴアで働く」という返事が返ってくる。

    ラダックは、6月から9月終わりまでのシーズン以外は、長いオフシーズンとなることを考えると、確かにモンスーン期はオフになるゴアとちょうどいい具合に相互補完する関係にあるのだろう。ラダックとゴアというどちらも観光業への依存度が高いながらも、一見何の繋がりも無さそうに見えるふたつの地域を渡り鳥のように往復する労働人口の移動について、彼らがこの地域を行き来する誘因、リクルートの形態等について調べてみると興味深いものが見えてくるかもしれない。

    同行のガビー、フランカ、パットと夕陽を背にして伸びる影で記念撮影

    すでに夕方近くになっているので、取り急ぎ荷物を部屋に放り込んでから、再びみんなでクルマに乗り込んで砂丘に出かける。ここには観光客用にフタコブラクダたちがいる。お客たちを乗せてしばらく歩き回るのである。ラクダ自体はこの地にもともと住んでいるわけではなく、運転手が言うにはモンゴルから連れてきたものだというのだが、実のところはよくわからない。中央アジアあたりから運んできたのかもしれない。

    フタコブラクダたち

    砂丘から望む川床はかなり広く、両側を壁のような乾ききった山々に囲まれており、息を呑むような絶景だ。音を立てて滔々と流れる手が切れるように冷たい水のせせらぎの音が心地よい。

    周囲が荒涼としている割には、フンダルは非常に水に恵まれている。

    <続く>

  • ストクの村のホームステイ

    ストクの村のホームステイ

    伝統的古民家 にゃむしゃんの館
    レーからバスないしはタクシーで40分ほどのところにあるストクの村で、ホームステイを受け入れているお宅がある。ラダック人のご主人スタンジン・ワンボさん、奥さんの池田悦子さん、可愛い娘さんのかりんちゃんが、ここで暮らしている。庭には季節の野菜が青々と茂り、その一角には自家製の日干し煉瓦が積まれていた。
    この家屋は、かなり傷んだ状態にあったものだそうだが、ご夫妻が丁寧に修復して、昨年11月からホームステイを受け入れておられるとのこと。そこに至るまでの経緯は、ご夫妻のブログ NEO-LADAKH / ネォ・ラダックにて、ラダックでの近況とともに綴られている。
    近ごろは新しい建物が増えて、街並みも広がったレーとは異なり、ストクの村にはまだまだ伝統的な家屋が沢山残っている。川から引いた水路が村の中を流れ、サワサワと涼しげな音を立てながら、生活用水を各世帯や畑に供給している。村のあちこちで、洗濯や水汲みをしている女性たちの姿も目にする。
    村の中で家々の間を縫うように流れる水路
    豊かに咲き乱れるアブラナの花
    水に潤されている土地の鮮やかな緑と、そうでない場所の月面のような荒涼とした景色が実に対照的だ。そこに水があり、これを利する人々がいるがゆえに、日々の生活が営まれ、地域の文化が育まれていくということを実感する。冬季には川は凍結して水路も止まってしまい、ハンドポンプ式の井戸まで水を汲みに行くことになるというから、夏とはまったく異なる景色となるのだろう。厳しい冬の時期に備えて、夏のうちから干し野菜を作って準備しておくとのことだ。
    村の中の豊かな緑は、水を巧みに利用する人々の勤労の証。お見事です。
    ご夫妻のお宅の裏手にある大きなチョルテンは、13世紀くらいのものではないかとされる由緒あるものだそうで、中に入ってみると色彩鮮やかな壁画が描かれているのを目にすることができる。この村に人々が住み着いたのも相当古い時代まで遡ることができるに違いない。
    チョルテン内部の壁画
    ご夫妻のお宅からしばらく下ったところにある王宮
    日中、旧王宮を見物してみたり、川の上流のほうに歩いてみたりしたが、見どころや風景もさることながら、村の中にめぐらされた水路には非常に関心した。川から引いた水の流れを直角に曲げたり、盛り土をした上を流したり、石垣の上を流したりと、自由自在な創意工夫に富んでいる。まさに「水道」である。
    川は村の豊かな緑の源泉
    石垣の上を流れる水路
    直角に曲げてある水路
    夕方近くなってから夫妻のお宅に戻る。家屋の1階は家畜用スペース、2階が住居で3階が客室となっている。2階にあるキッチンの周辺は、ご夫妻と娘さんのくつろぎの空間であり、接客スペースともなっている。ここで奥さんの手作りの美味しい地元料理をいただき、ラダックやストックの村のことなどについて、様々な話を聞くことができて大変興味深い。
    歴史を感じさせる立派なかまど
    家の中では、子犬の「ユキト」と「ヤマト」が2匹飼われていて、かりんちゃんが子犬たちと時にはケンカしながらも、仲良く遊んでいる様子が微笑ましい。ときおりご主人の実家の方や近所の方も顔を出されるので、そこでまた会話をすることができるのもアットホームな感じで嬉しい。私は時間がなくて一泊しかできなかったのは残念に思う。
    夜遅くなってきた。午後11時で電気が止まってしまうので客室がある3階に上る。ユキトとヤマトもトコトコ付いてきて、「遊んで!」という表情でこちらを見つめている。しばらくテラスで2匹の相手をしながら夜空を見上げると、思わずハッと息を呑む。こぼれ落ちてくるのではないかと思うほど沢山の、色彩豊かな星々が天空いっぱいにきらめいているのだ。
    高度のためか、あるいは乾燥のためなのか、早朝や夕方に大空が紅に染まることなく、東の空から淡々と日が昇り、これまた西の彼方に淡々と日が沈んでいくのだが、それとは裏腹に、星空の眺めは低地の都会からは想像もつかないほど豪華絢爛なものであった。
    翌朝目覚めて部屋の外に出ると、子犬のユキトが待ち構えていてくれた。
    レーからストクまでは、朝8時に直行のバスが出ている。あるいは途中にあるチョグラムサルの町を通過するバスは頻繁に出ているのでこれを利用し、そこからはタクシーで向かってもいいだろう。ただし、ストックの村までと言うと、村の中の大きな集落になっている部分か古い王宮の前で降ろされてしまい、30分くらい上り坂を歩くことになるため、「トレッキングポイントまで行く」と伝えたほうがいい。
    トレッキングポイントとは、ストク・カングリー方面に向かうルートの出発地点であり、そのあたりにはいくつかの商店、レストラン、宿などがある。すぐ目の前を川が流れており、橋を渡ってしばらく坂を上ると、お二人が運営する「伝統的古民家 にゃむしゃんの館 (Nyamshan Old House)」に着く。宿泊の際には、前もって電話で予約をすること。
    ご夫妻は、NEO-LADAKH travel & livingという旅行会社も営んでおられる。次回、ラダックを訪れる際には、ぜひともトレッキングやジープでのツアーのアレンジなどもお願いしたいと思っている。
    部屋の扉を開けると、朝日が差し込んできて気持ちがいい。早起きは三文の得なり。
  • 慈悲深き父トラ

    インドで飛行機に搭乗した際の機内誌で興味深い記事をみかけた。

    ラージャスターンのランタンボール国立公園で、オスのトラが子育てにいそしんでいるのだとか。

    オスのトラの縄張りの範囲は極めて広く、その中に複数のメスのトラがそれぞれの境界を定めているとされるらしい。

    だが子上の父親が自らの子供たちの面倒を見ることはないどころか、幼いトラが母親以外の大人のトラと出会うこと自体が、即ち生命の危険に晒されることを意味する。

    もちろん彼らにとって厄介なのは、自らの父親を含めた成長したトラたちだけではなく、ヒョウ他の大型のネコ科の動物たちやハイエナ等の肉食獣も同様だ。トラとはいえ、子供たちにしてみると、生態系のはるか上位にある。

    そんな幼いトラを残して母親が脚のケガが元で死亡してしまった。もはや自分たちを守ってくれる存在を失ったことを悟った子トラたちは、荒野をさまようことになった。

    当初、国立公園の担当官たちは、彼らの行く末を案じて、国内のどこかの動物園に送ることを検討していたという。他の肉食獣による脅威はもとより、まだ獲物を捕らえる術も知らない彼らが自然界で生き抜くことはできないことをよく知っているからだ。

    子トラたちの姿を探しての大捜索が始まってまもなく、二匹の子トラたちが大柄なオスのトラと一緒に歩いているのが見つかり、絶体絶命の危機と関係者の背筋が凍りついたらしい。

    だがこのオスのトラ、幼子たちを攻撃することなどなく、彼らを保護している様子に非常に驚かされたということだ。本来ならば、トラという動物の習性からしてあり得ないことらしい。

    そのオスは、常に子供たちを帯同して野原を歩き、狩りのやりかたなども学ばせているとのこと。子トラがうっかり他のトラの縄張りに迷い込んで襲われそうになったときなど、どこからともなく救世主のように現れて子供たちを守っているというから大したものだ。

    「おそらく実の父では?」という憶測もあるようだが、真偽については誰もよくわからない。通常は、遺伝子上の父親であっても、自らのエリアに入ってきた自らの子を攻撃することはあっても、これを保護するといったことが観察されたのは世界初の例だという。

    目下、父親(?)の庇護のもとで、すくすくと成長している子トラたちだが、関係者はこのオスのトラに全幅の信頼を置いているわけではないともいうのも、頷ける話である。

    ネットで検索してみると、詳細ではないものの、このトラに関わる幾つかの記事が出てきたので、そのうちのひとつを以下のとおり記しておく。

    Tiger dad: A roaring success (The Times of India)

  • Grameen UNIQLO

    近年、新たな『世界の工場』として注目されてきているインドの隣国、バーングラーデーシュにて、UNIQLOを展開するファーストリテイリングが興味深い取り組みを行なっている。

    GRAMEEN BankグループのGrameen Healthcare Trustとの間に合弁会社を2011年8月に設立し、Grameen UNIQLOブランドでのソーシャルビジネスの展開だ。

    About the Social Business of Grameen UNIQLO (Grameen UNIQLO)

    同国への進出は、UNIQLO製品の生産地として依存度が非常に高い中国における高騰する人件費と頻発する労働問題に対するリスクヘッジという面が否定されるものではない。

    だが、上記リンク先を読んでみると、どうやら日本その他先進国等向けに販売する衣類の生産基地としての進出だけではなく、ソーシャルビジネスという位置付けにより、現地に根付いて、地元の人たち向けの製品を展開していることがわかる。また委託販売請負者となる『グラミンレディ』や『グラミンメンによる対面販売という点からも、また地場市場向けに、バーングラーデーシュ現地の素材を用いて、現地の縫製工場で仕上げた衣類は、これまで日本その他のUNIQLO店舗で販売されているものとは異なり、他国での展開の様子とはずいぶん違った形態での展開だ。

    男性の襟付きシャツ類、女性にはサーリーやその下に着るペチコート、加えてサニタリー用品まである。ウェブサイト(ベンガル語)には掲載されていないが、子供用のカラフルなプリントTシャツ類もある。

    取り組みが始まってからまだ日が浅く、紆余曲折もあるのではないかとも思うが、今後の展開にぜひ注目していきたい。

  • ムンバイーでモノレール試験走行

    本日から、ムンバイーで建設中のモノレールの試験走行が実施されている。営業運転が開始されるまで、あと8~9か月ほどかかる見込みであるとのことだ。

    Mumbai: Monorail trial begins today (India Today)

    同じく、ムンバイーではメトロも計画されており、近い将来市内交通の利便性が格段に向上することが見込まれる。 またメトロのネットワークが広がったデリーでもモノレール建設計画がある。

    Monorail in Delhi by 2017 (India Today)

    継続的に高い経済成長を続けているインドだけに、長らく不況にあえぐ日本の現状を思うと、明るい話題に事欠かない躍進ぶりは非常にまぶしく見える。現状では都市交通のインフラのレベルが高くないだけに、今後の伸びしろが大きいということもあり、社会層間や地域間の大きな隔たりはあっても、総体的には着実に向上していることは間違いない。

    経済成長やそれに伴う社会や環境の変化には、同時にネガティヴな面も同居していることは否定しないが、それでも『よりより明日』を期待できることは羨ましくもある。とりわけ人口構成が若年層に厚く、高齢化問題とも当分縁がないことも、その成長を着実に後押ししているといえる。

    ムンバイーのモノレールが開業したら、すぐにでも乗り込んで『世界で一番元気な国のひとつ』の勢いを体感してみたい。

    ※ナガランド5は後日掲載します。

  • マニプルへ3    ロークターク湖

    マニプルへ3 ロークターク湖

    アレンジしておいたクルマで郊外に足を伸ばす。朝から夕方まで一緒に過ごすことになる運転手なので感じの良い人だといいなと思っていたら、まだ若いがきちんとした男性であった。

    インパールから南へ45kmのモイランという町に向かう。実は昨日のフライトで上空から眺めると湖に妙な輪がいくつもあることに気が付いていたのだが、それが何という場所なのかわからなかった。

    本日、訪れることにしていたロークターク湖について、L君がGoogleの衛星写真で検索してみると、面白い景色が見えるという。画面を覗いてみると、それがまさに昨日の飛行機から見えた湖らしい。沢山の浮島があり、それが観光名所にもなっているということは知っていたが、こんな風に円状のものが、それこそ無数にあるとは想像さえしなかった。中には家屋のようなものが建てられている浮島もある。

    ロークターク湖全景 湖水上にポツポツと何かが広がっている様子が見て取れる。
    無数の輪がそこここに見られる。
    拡大するとこんな具合。家屋のようなものもある。

    ロークターク湖沿いにはいくつか集落があるが、ちょうどINA戦争博物館があるとのことであったので、モイランを選んだ次第であるが、この日が月曜日であること(インドでは通常月曜日は博物館の休館日)をうっかり失念していた。博物館の前まで行きながらも、その中を見ることなく退散。INAとは、第二次大戦末期にインパール作戦にて、旧日本軍とともにこの地に部隊を進めてきたスバーシュ・チャンドラー・ボース率いたインド国民軍のことである。

    INA戦争博物館

    近くにある湖を見渡すことのできる展望台があるという島に向かう。モイランと島はコーズウェイで繋がっている。 クルマの窓の外ではなにやら大きな作業が進行中であった。植物類の塊のようなものを沢山水揚げして岸に投げ出してある。多数の船や重機を動員しての大仕事だ。一体何が行われているのか、このときはよくわからなかったのだが。

    島のかなりの部分を軍施設が占めているようであったが、運転手はチェックポストで了解を得てクルマを坂道に乗り入れる。道の左右には軍人たちの住居が建ち並んでいた。小高くなったエリアで湖を見渡してみてわかったのだが、さきほどGoogleの画像で見たほど多くの浮島があるわけではなく、ここに来るときに目にした大掛かりな作業は、そうした浮島を除去するものであることがわかった。

    期待していたとおりの眺めが広がる方角もあったが・・・
    浮島がすっかり撤去されて『普通の湖』になっている部分も大きかった。

    そもそも、この湖の浮島は漁撈と耕作目的であるのだが、湖の保全という観点からはいろいろ問題があるようだ。水質の関係はもとより、こうした人造物が増えていくことにより、水深が浅くなってしまったり、悪くすると湖そのものが湿地化してしまったりする可能性等が挙げられる。

    そんなわけで、現在ではこうした目的で浮島を造ることは、特に定められたエリアを除き禁止されているとのことだが、これが守られないため当局が強制撤去に出たということのようだ。確かに湖の保全ということも大切なのだが、浮島による漁業と農業というのもまた他にあまり類をみない貴重な生活文化であることも間違いないので、ちょっと残念な気もする。

    正直なところ観光資源に乏しいこの地域にあって、ロークターク湖を見物に来る人たちの目的は、湖水に無数に浮く世にも稀な円状のこの浮島を見ることである。貴重な観光資源としても、地域の典型的な湖上での生業の保存という観点からも、これらをどこかに保存しておくことは意味のあることであるはずだ。

    <続く>