池袋にショヒード・ミナール

池袋のショヒードミナール
 1999年にユネスコの第30回総会で宣言された『国際母語の日』は2月21日。この日をShaheed Dayと呼び国民の祝日とするバングラデシュの強い働きかけにより実現したものである。 民族固有の言葉と文化の大切さをアピールし、1952年に自国の言語運動で大勢の犠牲者を出したこの2月21日を採択することを提案し、数多くの国々から賛同を得たのである
 本物のショヒード・ミナールが建つバングラデシュは、多くの尊い命と引き換えに自主独立を達成した国だが、暮らすチャクマ族をはじめとするモンゴロイド系少数民族との摩擦などからくるチッタゴン丘陵問題をかかえていることは皮肉ではある。この世の中はさまざまな力関係が幾重にも折り重なってできている。だから被抑圧者は同時に抑圧者でもあり、強者と弱者の連鎖は果てしなく続いているものなのだ。
 本題に戻ろう。このたび国際母語の日の象徴でもあるダッカのショヒード・ミナールのおよそ1/10ほどの大きさのレプリカが池袋西口公園に登場した。昨年7月12日、来日中のバングラデシュのジア首相から東京都豊島区に寄贈されたもので、同日定礎式も行われている。今年4月16日にこの場所で開催された『ボイシャキ・メーラー』の開会に先立ち、このモニュメントの完成式典が執り行なわれた。
 今、このモニュメントが建つ公園とバングラデシュの縁といえば、毎年ここで開かれるボイシャキ・メーラー以外に思い当たるところはない。だがその催しが開かれるまさにこの場所に、かの国の首相が訪日の際にわざわざ手みやげとしてわざわざ私たち市民のために持ってきてくれるという親日的な姿勢は実にありがたいものだ。
 南アジアのどの国をとっても、日本に対して特に友好的な国ばかり。外交辞令として、あるいは観念的な『友好』のみならず、よりお互いの顔が見える身近な関係を築いていきたいものである。
ダッカのショヒードミナール

宝の山 2

Dharavi
 東西を海に挟まれたインド随一の商都ムンバイーは、水際ぎりぎりまで市街地が迫る高密度な都市空間だ。地理的には一等地となりえる地域がスラムとして放置されているということは、行政にとっては大きな損失であろう。劣悪な生活・労働環境とともに、住民たちのおおまかな人口さえもつまびらかでないようでは治安面からも心もとないし、経済面でも本来期待できるはずの大きな歳入を逸失しているといえよう。インフォーマルな経済が中心で取引はほとんど現金でなされるため、経済の実態を把握するのはかなり困難なのだ。
 だがここはムンバイーの街で建設現場、家庭の使用人や小さな工場の作業員その他の労働者や臨時雇いといった形で社会を下支えしてくれる人材を豊富に供給してくれるだけではなく、実に意外な側面がある。ダーラーヴィー自体が活発や工業地帯であるため、年間10億ドル近い収益を上げているのだ。
 主な産品は皮革製品、陶器、衣類、装身具等々で製品は国外にも輸出されているほど。先のふたつは前回取り上げたごとく、ダーラーヴィーの市街地化(=スラム化)が始まって以来の伝統産業である。同様に盛んな食品工業については、甘味類を中心とした製品がムンバイーやその周辺のローカルな市場で消費される。
 ビジネスシーンとしての大きなポテンシャルを秘めているのは、スラムとしては特筆すべきものであろう。 信じられないことにダーラーヴィーの住民たちのおよそ半数が中間所得層に属し7万5千〜50万ルピーほどの年収があるという非常に極端な説もあり、この地域では収入面よりもむしろ生活・衛生環境のほうが問題であるともいわれる。
 こうしたスラムで一生を終わる人々の姿が無数にあるいっぽう、毎年およそ1000世帯もの人々がベターな環境を求めて北郊外のミドルクラスの住宅地に居を求めて移転していくという。どん底にあっても旺盛な上昇志向と智恵や才覚があれば『ムンバイー・ドリーム』を実現する夢はそこらに転がっているのかもしれない。
 ダーラーヴィーには立地の良さと地場産業の活況を背景とする大掛かりな再開発プランがある。 政府は行けどもバラックが続く風景を改め、製品の海外輸出を念頭に置いた宝石や装身具の加工ユニットを建設して職工5万人分の雇用を創出し、そこで働く人々が8千〜20万ルピーの収入を上げることができるようにするという青写真とともに、地域を九つのセクターに区分し、広い道路の建設、適度なオープンスペースの確保し、学校巣や病院を建設し、上下水道が完備した住宅地などを建設することを構想しているのだ。 
 そして現在のバラックのオーナーたちには225 sq ftのフラットを無料で提供し、『ミドルクラスの』生活環境を用意するなどという計画もあるようだが、本当にうまくいくのだろうか。
 こういう議論が出るということは、90年代以来続く好調な経済成長のおかげで、ある種の余裕が出てきたということかもしれないし、成長の果実が社会の底辺にも及ぼうとしていることの表れなので決して悪いことではない。
 だが経済や所得水準などにおける大きな地域的な格差が引き金となり、この商都に人々が押し寄せてくるという構造をなんとかしない限り、第二、第三のダーラーヴィーがさらに北郊外のほうに出来上がることだろう。
 ところで再開発の本当の狙いとは、現在ここに暮らしている人たちのために雇用を創出したり、環境を整備したりというものではないと思う。本音は土地が限られたムンバイーで貴重なこのまとまった広がりを持つダーラーヴィーを『収用したい』のだろう。もちろんここに暮らす人々を追い出したうえでのことだ。雑なスケッチをいかに美しい見事な絵に見せるかという一種の手品こそが、どの時代どこの国にあっても為政者の腕の見せどころである。
 再開発にはこれまでにないとても強力な指導力と実行力が求められる。問題は議論されていても、いざこれに着手する勇気を持つのは一体誰なのか? その号令がかかるのをじっと待ち構える人たちがいて、官民さまざまな分野からなる再開発事業から生じる大規模な特需、不動産売買や住民たちのリロケーションや補償等々さまざまな利権をめぐり闇でうごめいていることだろう。
 ダーラーヴィーというスラムを必要としているのはここに暮らす人々だけではない。ここから外へ働きに出てくる安い労働力をアテにしてきた産業もあるだろう。ダーラーヴィーという地域の潜在的な宝の山を活用するという視点からは、この再開発構想には大きな意味がある。しかしその『宝』とはいったい誰のものなのだろうか。この世の中どこを眺めても立場が違えば、人々の利害は相反し対立するもの。行政の描くスケッチがそのまま実現するかどうかよりも、これをきっかけに住民その他関係者たちを含めて、人々がどのような落としどころを見つけていくのかというところに注目したい。
 ダーラーヴィーの絶好のロケーションからして、この巨大なスラムがこの先10年、20年もそのままであるとは思えないのだ。

宝の山 1

Dharavi
 そこはウエスタン・レイルウェイのバーンドラー駅、またセントラル・レイルウェイ(ハーバー・ライン)との乗換駅のマーヒム駅、セントラル・レイルウェイのサーヤン駅などに囲まれている。加えてサーヤン・バーンドラー・リンク・ロードから少し北上すれば、ウエスタン・エクスプレス・ハイウェイにつながるし、ステーション・ロードを少し東に進めば、イースタン・エクスプレス・ハイウェイだ。
 ムンバイー市中心と北郊外の間に位置する一等地。市南部、つまりこの商都のビジネスの中心地からクルマで30分、そして国際空港から20分という絶好のロケーションである。こんなところにオフィスがあったら、あるいは住むことができたらさぞ便利なことだろう。
 しかし残念なことに、ここは市内で最も人口密度が高く、インド最大ひいてはアジア最大のスラムとして知られる地域だ。ここダーラーヴィーはGoogle Earthで眺めてみても、やたらと規模の小さな構造物がひしめきあっており、周囲の環境とはずいぶん違うことが見てとれるだろう。
 この地域には8万6千もの建築物があるとされる。人口については諸説あり、その数60万人とも90万人とも言われるが、一時滞在者も含めれば100万人を超すという説もある。各地から出てきた人々を日々吸収している巨大スラムだけに、正確な数字は誰にもわからないのだろう。公安当局の目も行き届かないため、かなりデンジャラスな地帯となる。
 そんな土地であるにもかかわらず世間の注目が高まり地価が急騰している。90年代から続く好調な経済成長による建築ブームのため、スラムであるということを除けば文句のつけようのない立地、そして密度の高いムンバイーではもう他に望むべくもないまとまった土地であることからいやがうえにも人々の関心を集めるようになるのは当然のことだ。
 こんなダーラーヴィーにものどかな時代があった。現在のムンバイーがまだ七つの島からなっていたころ、ここはその中のセウリー島とバーンドラー島のあいだに広がる湿地帯であった。20世紀初頭には、このあたりにまだ漁村が点在する程度ののんびりした光景が広がっていたそうだ。
 ちょうどそのあたりから各地から貧しい人々がこの界隈へ移住を開始した。その流れはおおまかに二つの流れに大別される。まずはインド西部つまり現在のマハーラーシュトラ沿岸部、およびグジャラートから来た人たちである。ダーラーヴィー南部にクンバール・ワーダーという一角があるが、文字通り彼らの中の陶工たちが住み着いた場所である。そしてもうひとつが南東部のタミルナードゥから移り住んできた商人や職人たちである。この中で特筆すべきはムスリムの皮なめし業者たちで、彼らのおかげでこのあたりは皮革産業で知られるようになって今日にいたる。どちらの人々も多くはこの地に住み着いてモノ作りに励み、あるいは鉄道施設等で肉体労働者としての働き口を見つけたものも多かったという。そんな集落が現在のここダーラーヴィーの始まりである。 
 外部の人々の流入と並行してムンバイー市街地の拡大と水際の埋め立てが進む。こうした都市化とともに、もともとここに暮らしていた漁民たちは居所を失い、土地の主役は新しい移民たちに取って変わられていく。
 この地域で人口爆発が本格化したのは独立以降である。ここを基盤とする地元の有力者たちや政党などの伸長とスラム人口の拡大は相互補完関係にあった。インドにあって飛びぬけて地価が高いこのムンバイーで、地方から食い詰めて職を求めてこの大都会にやってきた貧しい人たちに寝床を提供したのは特に鉄道や空港などの用地脇をはじめ市内に点在するスラムやバラックだが、それらの中で突出して規模が大きいのがこのダーラーヴィーである。

英領インドの眺め

 東京大学の大学院情報学環で保存されている貴重なポスター661点が、4月4日からネット上で公開されている。これらは第一次大戦期のプロパガンダ・ポスターで、当時の日本の外務省情報部が収集していたものだ。第二次世界大戦後に当時の東京大学新聞研究所(社会情報研究所を経て、現在は大学院情報学環となっている)に移管され、以来書庫内で保存されていた。 このたび5年の歳月をかけてデジタル・アーカイブ化され、誰でもインターネットを通じて閲覧できるようになったのである。
 どんなものかと実際にアクセスしてみた。同サイト内の検索エンジンの動作にはまだまだ改良の余地がありそうだが、これらのポスターを眺めていると当時の各国の事情や世相をうかがうことができて非常に興味深い。
 こうしたポスターは国家の意思をあまねく人々に伝えて感化することを目的としていたため、『絵』そのものの質には当然のことながら相当こだわっていたようだ。ポスターの制作にかかわった人たちには、当時広く名の知られた画家や広告や雑誌などで活躍する第一線級の著名イラストレーターなどが多かったのだという。
 ポスターの内容は戦時公債、戦時貯蓄、募金、募兵、軍需物資の運搬ドライバー募集といった戦争遂行に直接かかわる内容のものが多く、パソコンの画面を通じてきな臭さが漂ってくるようだ。
 さて、当時のインドのポスターを覗いてみよう。戦時公債への投資を呼びかけるものがいくつも並んでいる。英語のみならずグジャラーティー、マラーティーといった土地の言葉で書かれたものもある。そしてインド兵のイラストが時代を感じさせてくれる。
 第一次世界大戦が勃発したのは1914年。その3年前の1911年にインド政庁は首都をカルカッタからデリーに遷都した。ロシア革命は1917年で、ガーンディーの第一次不服従運動は1919年に始まる。こんな時代にこれらのポスターが人々の前に貼り出されていたのだ。
 いまやこの世に生きる多くの人々の胸の中ではなく、『歴史』として書物の中に記憶される旧き時代の断片を前に想像力たくましくすれば、これらを覗き込む当時のインドの人々の姿やその社会がぼんやり浮かび上がってくるかもしれない。
東京大学大学院情報学環アーカイブ 第一次大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション

日本の印象 インドのイメージ

ワンセグ画面
 BBC Hindiで、日本で今年4月から正式に開始された携帯電話等向けの地上デジタルテレビ放送『ワンセグ』について取り上げられている。今のところワンセグ受信に対応した携帯電話の機種はごく限られているし、テレビを視聴した場合のバッテリー持続時間の問題もある。NHK受信料については各世帯での支払いに含まれることになってはいるものの、単身者などで自宅にテレビを持たずにワンセグだけ観るという人も出てくるのではないかということから、一部ではこれまでの受信料とは切り離して論議しようという動きもあるようだ。
 しかし今後はワンセグチューナー対応のモバイルパソコンや車載テレビなども各社からいろいろ出てくる模様だ。すでにソニーからはVAIOシリーズのモバイルパソコンにワンセグ放送を受信できるモデルが用意されている。
名 前だけ先行して、まだまだ一般に身近なものとはなっていない『ワンセグ』だが、こうして海外のニュースで取り上げられているのを見ると、なかなかスゴイことのように思えてきた。(私自身はテレビをあまり見ないので、特に魅力は感じないのだが)
 BBC Hindiとは言うまでもなくイギリスの放送局がインド向けに発信しているものであり、コンテンツの作成には多数のインド人たちがかかわっているものの『地元メディア』とは言いがたい。しかしインドの新聞でもこうした日本の『ハイテク』なイメージを裏づける報道が新聞紙上で小さな囲み記事になることは多く、日本人と直に接触したこともなければ、日本を訪れたこともないインドの一般大衆の間で『ニッポンのイメージ』を形成するにあたり、こういったニュースが大きな役割を担っていることは間違いない。同時に一般の人々が日本におけるどういった事柄に関心を持っているかということの裏返しでもある。
 かつて日本でインドにかかわるニュース報道といえば、大きな鉄道事故、印・パ間の緊張、貧困、経済の停滞、カーストにかかわる問題といったネガティヴなものが多かった。 
 今でもそうした部分を伝える報道は少なくないが、IT産業の隆盛、順調な経済発展といった明るい材料がずいぶん多くなっている。そういえば日本でインド映画ブームが訪れたこともあった(・・・と過去形で語ることになるのは残念だが)し、かつて中華・洋食・和食以外の異国の味覚が広く『エスニック料理』という奇妙なくくられかたをしていたころもあったが、インド料理は日本の家庭料理として定着したかどうかは別にして、今や外食のポピュラーなチョイスとしてすっかり根付いている。それだけインドに対する興味や関心がやや広がってきたということになるだろうか。
 良くも悪くもある特定の国についての報道の多寡、ニュースのジャンルのバリエーションの広がりは、その国に対する関心の高さを如実に示す。ネパールにおけるインドにかかわるニュース、イランにおけるアメリカ関係ニュースの量を見てもそれは顕著であるし、私たちの東アジアにあっても、お隣の韓国におけるテレビ等での日本に関する出来事を伝えるニュースの量には目を見張るものがある。
 だが報道量が多いほどその国への理解や親近感が高まるというわけでは必ずしもないようだ。相互にほどほどに良好な関係を続けていくにあたっては、着かず離れずといった適当な距離感があったほうがいいこともあるのかもしれない。相互依存の関係が深まるほど、利害が大きく対立する局面もしばしば出てくるからに違いない。お互いに心地よい夢ばかり見ているわけにもいかず、厳しい現実や好ましからざる面も目に付くようになってくる。
 さて今後の日本とインドはどういう関係を築いていくのだろうか。
日本で携帯電話向けのテレビ放送開始 (BBC Hindi)
ワンセグとは(NHK)