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カテゴリー: column

  • 目の前はブータン 5 早朝のアザーン

     ホテルの裏手ではかなり大きなモスクの建築工事が進行中であった。他にもいくつか作りかけのモスクがあることから、この新興地ジャイガオンにもムスリム人口が急速に相当数流入していることをうかがわせる。
     今朝は午前5時過ぎに近所のモスクから信者の人々へサラート(礼拝)を呼びかけるアザーンの大音響で目覚めた。イスラーム教徒たちは集住していることが多いものの、都市部ではかなり入り組んでいたりするし、ムスリム地区に隣接する他コミュニティの住宅地域だってある。大まかにムスリム地区とくくられるとこにあっても、すべての住民がそうであるとはいえない。 非ムスリムの人も幼いころからそうした環境の中で暮らしていれば、ごく当たり前の生活音として慣れっこになっているかもしれないし、インドには朝早い人が多い(?)ので、ちょうど目覚まし代わりになって便利なところもあるかもしれない
     しかし不幸にしてそう思わない人々もあるかと思う。近隣にモスクがない場所に生活してきた人が引っ越してくると、「何だ、こりゃ!」ということになるのではないだろうか。 
     特に出自、信仰、出身地の違う人々が混住する都会にあって、コミュニティ間の距離感というか、ある種の緊張感というものには、こうした音に由来するものも少なからずあるのではないだろうか。そうでなくても『音』というものは、どこの国にあっても住民間のトラブルの原因の最たるもののひとつなのだから。
     それはともかく、アザーンの呼びかけにスピーカーを使用するようになったのは20世紀前半あたりではないかと思うのだが、そもそも一番はじめにこれを始めた地域は一体どこだったのだろうか。古来ずっと行なわれてきたムアッジン(アザーンを行なう人)の肉声を電気的に拡大することについての是非をめぐる議論も、きっとどこかであったのではないかと想像しているのだが、実際のところどうなのだろう。どなたか詳しい方があればぜひ教えていただきたいと思う。

  • 目の前はブータン 4 ジャイガオンに来る人々

     想像していたとおり、ジャイガオンの町中の人々の多くはヨソ者であるらしい。町としての歴史は非常に浅く、交易の拠点として注目されるようになってからインド各地(主に北部と東部)から人々がドッと流入してきて形作られたタウンシップであり、小さな町でありながら多文化・多人種からなるコスモポリタンな性格を持つ。
     中心部から東西南北どちらに向かっても5、6分も歩けば町外れに出てしまうような田舎町であるにもかかわらず、モノが非常に豊かであることは特筆すべきである。有名ブランドのオーディオ機器、さまざまなカッコいいバイクや新車のショールーム、最新の家電製品、高級なシャンデリア等の室内装飾用品などが小さなバザールにぎっしりとひしめいている。
     露店ではインド映画の様々なタイトルのVCDやDVDの海賊版とともに、珍しい(少なくとも私にとっては)ブータン映画や人気歌手のミュージッククリップの類も販売されている。うっかり買いそびれてしまったが、いくつか購入しておけばよかったと後から思う。
     話は戻る。いくらモノが豊富に出回っているからといっても、ここに暮らす人々が裕福でそれらをバンバン消費しているというわけではもちろんない。ここがインド・ブータン間の物流拠点であるためだ。まさにそのため外の地域から、商売人たちはここでビジネスを立ち上げるため、またお金やノウハウを持たない人々はここで雇用にありつくために集まってくるのだろう。
     ブータン観光の拠点として、インド人観光客の訪問も多いようだ。そうしたツアーグループと昼食の席で隣になったが、食事が終わるとツアコンが全員からパスポートを集めるとともに、いくつかの注意を参加者たち与えていた。
     いっぽう国境の反対側からやってくるブータンの人々はどうだろうか。ジャイガオンを訪れて、織物や衣類、家電製品に貴金属類などそれぞれの得意分野で商談をする買出しのプロたちは決して目立つことなく黙々と仕事をこなしているのだろう。私のようなヨソ者の目によく止まるのは日用品の買出しのためにやって来たと思われる一般市民たちの姿である。もちろん自家用車を運転してくる家族連れなんていうのは、特に恵まれたごくごく一部の人たちに過ぎないに違いないはずだが、あまりにその数が多いのには驚いてしまう。
     週末にシンガポールの人たちが国境のコーズウェイを渡り、物価の安いマレーシアに買い物に出かけているイメージが頭に浮かんだ。彼らがあたかも経済的に優位にある国の人たちであるかのようにさえ見えてしまう。車種はインドで走っているものと同じだが、ゾンカ語の入った赤いナンバープレートが「ブータンから来たもんね!」と静かに自己主張している。
     こうした裕福な人たちがちょっと高めのレストランで食事を楽しむ姿もよく見られた。そうした場所では往々にして『ブータン料理』のレパートリーも提供されていた。
     ブータンには自動車産業が無いため、バス、トラック、自家用車などすべてインドのものをそのまま輸入している。国内その他の産業もパッとしないことから、マーケットの規模はたいしたことないが、さまざまな耐久消費財の供給をインドに大きく依存していることは想像に難くない。それにちょっとした日用品や加工食品などでさえも、インド企業の独壇場ではないだろうかと推測できるし、ひょっとすると肉や野菜といった生鮮食品についても似たようなことが言えるのではないかと思う。だが実際ところどうなっているのだろう?
     世界のさまざまな国々からブータンに経済援助の手が差し伸べられているが、地理的・政治的なもののみならず、日常生活で手にするモノという観点からも隣国インドのプレゼンスは圧倒的なものであろう。
     モノやおカネのやりとりが盛んでヨソから来た人々の往来も多いとなれば、おそらくここは夜の町も相当なものではないかと推測される。この町のどこかにはインドやネパール各地から『就労機会』を求めてやってくる水商売の女性たちの姿、それらを取り仕切るアンダーグラウンドな世界が広がりを見せていることだろう。世の中どこにいっても、こうした場所が発展するところにはたいてい似たような土壌があるものだ。文化や民族は違っても、こういうところはあまり変わらないように思う。
     私たち一般の外国人にとって、ジャイガオン/プンツォリン国境は、ここから先は自由に出入りできない『地の果て』となっているが、ブータン側から見れば陸路で大きく外界に開け放たれた扉である。
     通りに面した二階のカフェに席を取る。隣の席でおしゃべりに興じている若者たちに話しかけてみると、やはりブータンから来た人たちであった。注文したコーラが運ばれてきた。私はさきほど市内で見つけたブータンの英字紙KUENSELを広げ、目の前にそびえるゲートの向こう側の国に思いを馳せてみた。

  • 目の前はブータン 3 インド通貨同様に通用するブータンのお金

    ブータン通貨はインドルピーと等価
    ジャイガオンに来てから食事をしたり買い物をしたりすると、しばしばお釣りがブータン通貨ニュルタムで渡される。国境の町なのでインド・ブータン両国のお金が広く流通しているのだ。おそらくブータン側でも同じことだろう。インドルピーと等価なのでなおさらのこと使いやすいといえる。この町を通じて両国の経済がいかに深く関わっているかということを端的に表しているともいえる。
    珍しいお札やコインが手に入り最初はうれしかったが、あまりに人々がニュルタムを渡したがるのには閉口した。 ここは国境だからいいとしても、この町から離れればブータン通貨など受け取ってもらえないはずだからだ。 いくら等価とはいえ、外国紙幣であるブータンのお金がインド国内で法的な効力を持つわけではない。便宜上、習慣上日常の小さなやりとりについてはルピー同様に市中で扱われていても、たとえば銀行への預金や決済などといった正式な取引について、この外国通貨をそのまま使用することはできないはずだ。
    つまり当地における「正式なお金」ではないため、商売人たちは手元になるべくルピーを残し、お客にはニュルタムを渡すことを選好しているように私には感じられた。

  • 目の前はブータン 2 壁の向こうは外国

    ジャイガオンからプンツオリンを眺める
     ジャイガオンのタウンシップはどこも新しい(それでもインドらしく『急いでボロくなる』現象のため古く見える部分もある)ため、比較的最近になって両国間の交易のために開かれた町ではないかと思う。
     国境のインド側のジャイガオンとブータン側のプンツォリンは事実上ひとつの町のように見える。例えば前回の記事の末尾に載せた写真、メインストリート突き当たりのT字路にそびえる大きく立派な建物は一見ジャイガオンの役所かのようだが、実はブータンのものである。ここから右へ進むとそのゲートをくぐってブータンへ、左に進むとジャイガオンの商業地が続いている。
     インド領とブータン領の間には特に緩衝地帯は設けられていない。国境ゲートの並びは密集した住宅地になっており、大きな建物の屋上から眺めるとどこまでがインドでどこからがブータンなのだか判然としない。だが界隈を歩いてみると「いつの間にかブータン側に入っていた」なんてことのないように、一応両国の境は低いコンクリート壁ないしはドブのような川によって仕切られていることはわかった。

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  • 目の前はブータン1 プンツオリンに入れなかった

    Bhutan Gate at night
     ブータンのすぐ手前まで来てみた。『手前まで』というのはヴィザを持っていないのでブータンを訪れることはできないかったためである。国境のブータン側の町プンツォリンにはヴィザなしで訪れることができると、かつて耳にしていたのだが・・・
     シリーグリーからバスで来たのだが、途中の眺めはなかなか気に入った。丘陵地に茶畑が延々と続く。地図で眺めるとバングラデシュとブータンにはさまれた回廊地帯なのだが、景色は広大なのでそんな狭い土地を走っている気はしない。本来大地というものには国境はないのだ。途中幾度かアッサム方面へと走る鉄路と並走する部分がある。幾度か通過する列車や鉄橋を目にする。
     バスの中には、「シリーグリーに買い物にやってきた」というブータン人の親子連れが いた。昨日インドに入国したのだという。彼はとかく明るい人柄で、しきりに冗談を飛ばしている。おかげで闇夜をひたすらガタゴトと走る暗い車内がパッと明るくなるようだ。

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  • 家電メーカーのデジタル一眼に期待

    digital SLR 
     いまや日本メーカーの独壇場となったデジタルカメラ市場。コンパクトモデルの分野では従来のカメラメーカーに加えてカシオ、日立、サンヨーといった家電メーカーの進出が目立つ。店頭を眺めても、価格.com あたりを覗いてみてもこうした新興勢力にたくましい勢いを感じる。
     そろそろ頭打ちといわれているのがコンパクトデジカメのマーケット。ハイエンド志向ユーザーの食指は、すでにデジタル一眼レフへと移って久しい。数年前まではほぼ業務用・プロ用に限られており、非常に高価な機種しかなかったこのマーケットだが、20003年9月にキヤノンによる初代のEOS Kissデジタルの発売以降、一気に火が付いた感じだ。 その後ニコンからはD70、そしてオリンパス、コニカミノルタ、シグマと銀塩時代から一眼レフカメラを製造してきた各社が、一般ユーザーにも手の届く価格帯のモデルを次々に投入し、ホットな市場になってきた。
     そうした中、キヤノンとニコンという二大メーカーが圧倒的なシェアを占め、デジタル一眼レフの分野では出遅れた老舗のコニカミノルタがカメラ事業からの撤退を発表するなど、熾烈なサバイバルゲームによる業界再編が進行中。同社が初めて世に送り出したデジタル一眼、α7DIGITALはボディ自体に手振れ補正機能を盛り込むとともにカメラとして、完成度の高い傑作として高い評価を浴びていただけにとても残念である。

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  • 珍品エレクトロニクス

    Islamic Mobile
     現在のLG電子に、1997年以前Gold Starブランドで販売していたころの白物家電メーカーのイメージ(今でもそれらは商品構成の主要な部分を担うが)を重ねる人は今やほとんどいないだろう。
     ソニー、日立、ナショナル、パナソニックといったグローバルなメジャー・プレーヤーの本拠地ニッポンでは存在感はほとんど無に近いが、パソコンやその周辺機器を含めたさまざまなハイテク分野で力を発揮するエレクトロニクス関連の総合メーカーに成長した同社は、高い技術力と旺盛な営業力をバックに世界各地に進出している。

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  • 本に描かれたコルカタ華人たち 2 彼らの生業

     客家人の典型的な仕事には靴製造、皮なめし、レストラン、ヘア・サロン、酒造などがあり、広東人は大工とレストラン、湖北人は歯医者といった具合になっているという。こうした職業的な住み分けは19世紀には出来上がっていたのだそうだ。
     インドで皮なめし加工の三大中心地といえば、コルカタ、チェンナイそしてカーンプルだが、その筆頭格のコルカタで、英領時代に皮なめし加工の大規模な事業者といえば欧州人が多かった。もともと低湿地帯で居住には適していなかったテーングラー(TANGRA)地区に集中している。加工プロセスに大量の水を必要とするため、カルカッタの皮なめし産業はその当時からこの地域に集中していたようだ。
     しかし1920年代の欧州を襲った不況のあおりで、事業を放り出すオーナーが多かったという。おそらく当地で生産された皮革の主要な販売先がヨーロッパだったのだろう。
     これを機に工場ごと買い取ったのは客家人たちである。彼らはこの時期に機械を導入して生産活動の合理化を図ったことに加え、第二次大戦が始まり、皮革の「特需」が始まったことが追い風となった。
     その後も朝鮮戦争、印パ紛争といった騒乱が起きるたびに、皮革製品への需要が高まり、こうした華人たちの商売の発展を助けることとなった。ただし彼らの母国が関わった中印紛争の際には、『敵性外国人』とされた彼らに対する特需の恩恵はなかったことは言うまでもない。
     なおこの地域で皮なめし工場を営むインド人たちもおり、たいていはパンジャーブ人たちだがごく少数のベンガル人たちもいるという。しかし一般的には経営者が華人で経理担当や皮革加工のエンジニアとしてベンガル人を雇い、皮なめし作業の労働者たちはビハール州から来たチャマールあるいはネパール人、製品として出来上がった皮革を袋詰めするのは北インドや地元のムスリムたちというのが典型的なパターンらしい。

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  • 本に描かれたコルカタ華人たち 1 いつどこから来たのか?

     コルカタの華人コミュニティについて概説した書籍がないものかと思って探してみると、ほどなく見つかった。「BLOOD, SWEAT AND MAHJONG」(Ellen Oxfelda著)というコーネル大学出版から出た本である。
     1980年代に同市の華人地区に住み込んで調査をした著者による同地の中華系コミュニティの成り立ちや構成などについて興味深い記述がなされている。
     ただ内容がやや古く当時と現在のインドの経済事情、中国との外交関係などは大きく変わっているため現状と合わない部分もかなり出てきているのではないかと思われるのだが、執筆当地の華人社会の概況を知るために役立つ好著である。
     コルカタの中国系コミュニティのあらましについて、この本から抜粋して簡単にまとめてみたい。
     1770年代からベンガルには中国人たちが来ていた記録があるのだという。当時、中国の広東地方から英国船に乗ったあるキリスト教徒の中国人船乗りが上陸した。彼はサトウキビ農場、精糖工場、砂糖を原料とする酒作りで大いに稼いだがその繁栄は長く続かなかった。そして中国人たちの活躍の場はコルカタへと移り、1780年代にはすでに中国人コミュニティが同市内に存在していたという。以来華人たちの人々の活躍の場は主に都市部となる。
     東南アジア地域に比べれば地理的に遠いインドだが、コルカタはその最東部のメトロポリスは極東地域とも航路で結ばれていた。英領時代、デリーに遷都される前までは南アジアを動かす権力の中心地であったこの街は、この地を選んだ中国出身の人々には無限の可能性を秘めた商都として魅力的に映ったのだろう。

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  • どうやって食べる?

    ウナギ
     西ベンガル州の内陸部、ある町角の魚マーケットでウナギが売られているのを見てふと思った。「これをどう料理するのだろうか?」
     インドで海岸地域などに行くとあまり目にしたこともないような魚もあり、「どうやって食べるのか?」と思うことはあるものの、他方に目を移せばもうそんなことは忘れてしまう。
     なぜウナギにはこだわるのかといえば、私の大好物だからである。幼いころの私が物心ついてからの記憶は、祖母が作ってくれたウナギの蒲焼から始まるほど、私にとって特別な魚なのである。
     その割にはこの世の中に蒲焼、ひつまぶし以外にどんなウナギ料理があるのかまったく知らないのだが。フランスや中国でも食用にされるということは耳にしているが、具体的な調理方法についての知識は持ち合わせていない。
     ネットで検索してみると、「ウナギ・カレー」「Curried Eel」「Malay Eel Curry」などいろいろ出てくるので、世間にはいろんなウナギ料理があることはわかった。

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  • 再びインド特集 ニューズウィーク日本版

    ニューズウィーク日本版 2006年3月8日号
     ちかごろ何かと日本のメディアでも大きく取り上げられることが多いインドだが、現在発売中のニューズウィーク日本版3月8日号はふたたびインド特集である。
     《インド新常識 ITだけじゃないソフト経済の実力、未来を支えるインド版「寺子屋」》という大きなタイトルとともにパドマ・ラクシュミーの写真がカバーになっている。
     ページをめくれば、『インド経済の規模はいずれ日本の5倍になる』『消費行動は世界有数 クレジット会社が成長』『富める少数派の意思を反映した民主主義』『この繁栄は永遠には続かないかもしれない』『南米と同じパターンをたどる?』『問題山積で極左勢力が台頭』といった見出しが並び、インドの現状と将来の展望と問題点を示している。
     手にとっていただけるとわかるが、日本のメディアの報じる『インド』についてある一定の志向があるのと同じく、アメリカ系メディアにも独自のカラーがある。もちろん『民主主義』と『自由経済』への絶対的な信奉がその背景にあることはいうまでもない。
     いずれにしても日本で取り上げられるインド関係のトピック、日本社会に流れ込むインド情報のソースは確実に増えている。かつての『ベトナム・ブーム』のときのように女性誌に雑貨、小物類、ライフスタイルや旅行などに関する情報が氾濫し、『おしゃれなインド』のイメージが広く流布する日もそう遠くないのかもしれない。

  • 見事なレンガ建築

    名付けて『積み木構造』!
     インドはもちろん南アジアどこに行っても(それどころか世界各地でも)このような芸術的(?)にレンガを積み上げた建物は多いが、近年の都市化と過密化の中にあってこうした構造のままで高層化が進むという傾向が広く見られるようだ。
     鉄骨を用いず、しかも上階から下階まで均一な太さの鉄筋入りコンクリート柱のみで枠組みを造る。各階のフロアーを作るためコンクリートを打つ際には竹柱で上下を支え、乾燥したらそれを取り去る。それなりの技術や技が必要なのだろうが、眺めているぶんにはとてもシンプルで簡単な作業に思える。あとは職人たちの腕前と地道な作業の繰り返しにより、赤茶色のレンガをキッチリと積み上げて、自重を支えるだけで精一杯の建物を地道に造り上げていくのである。
     完成した暁には、もちろん人が廊下で飛び跳ねてもビクともしないし、表面をモルタルで固めてしまえば、レンガ造りなのか鉄骨造なのか外見から区別はつかず、いわゆるコンクリートのビルとなる。
     こうした建物が氾濫する地域をひとたび強い地震が襲えば大きな被害が出ることになる。日本で昨今問題となった『姉葉建築』なんて、このあたりで建てれば、第一級の耐震建築かもしれない。だがこうした『積み木構造多層ビル』があるという状況は特異なことではなく、人口比から眺めてみれば、むしろこちらのほうが『グローバルスタンダード』ということは、なかなか悩ましいことではないだろうか。