午後2時過ぎに、パラウン族が暮らすパンカム村に到着。本日宿泊する先の民家で昼食を出してもらう。米はもち米で、料理は菜食料理。西洋人の中には肉を嫌がるものがいるので、トレッカー相手には菜食にしているのだという。もちろん西洋人たちの間ではヴェジタリアンは決して珍しくないとはいえ、多くの場合は冷蔵保存施設などありもしない村という衛生上の理由、加えて目の前で鶏などが殺されるのを目にしたくないといったことなどが理由だろう。また民家側のほうとしてみても、やはり肉を出すのは高くつく。
出てきた昼食は、もち米、春雨のスープ、米とバナナの花の炒め物でおこげのようになったもの、ジャックフルーツの実の炒め物であった。魚醬は使われていないようで、何か発酵調味料が使用されているような気がする。ちょっと不思議な味わいだ。ちょっと洗練させれば面白い料理になるかもしれない。
村のたたずまいは、プラスチック製品とわずかながら電気が来ている(川での自家水力発電かどうかは知らない)があること、バイクを持っている家があること、人々の多くが中国製の洋服を着ていること、屋根がトタンであることを除けば、数百年前とほとんど変わらないのではないかと思う。今も料理の燃料は薪だし。それがゆえに森林伐採が進むということもあるかもしれない。
宿泊する家の隣は仏教寺院。木造の建物で、これまたそう言われないとお寺とは気が付かない。前にシャン州に来たときに、木造の仏教寺院が珍しく思えたが、実は村に来るとこういうのが普通にあることがわかる。村に来てこそ、その民族のオリジナルな文化の基層部分、根幹の部分に触れることができるともいえるだろう。
山間の村ではあるが、元々は馬を乗り回していたというパラウン族たちはバイクをよく利用している。どれも安価な中国製だが、これを用いることにより、行動できる半径が何倍にも伸びる。村からスィーパウまではバイクで一時間ほどで着くということなので、飴で道がグジャグジャになるモンスーン期を除けば、町の仕事に就いて、ここから通勤することだって不可能ではないだろう。町からその程度の距離であれば、今に道路が舗装される日も来るだろうし、四輪が乗り入れることができるようになる日も来るはずだ。
もちろんそういう時代になると、村の様子は大きく様変わりして、スィーパウの町角とあまり大差なくなっていることだろう。ここが少数民族の人々と出会うトレッキングの中継地として、観光客を多く呼び込むようになってくると、住民たちもパラウン族ばかりではなくなり、他の地域の人々、シャン族はもとより、ビルマ族、中華系、インド系の人たちも商機を求めて移住してくるということになるのではないだろうか。もとより商売にかけては、明らかにパラウン族よりもそうした人々のほうがノウハウも経験もある。
しばらくのんびりして過ごしてから、ウィン氏に午後4時半に村の北側を1時間ほど案内してもらった。このあたりはまだ森林が少し残っている。やはりこの丘陵地はどこも一面鬱蒼と茂ったジャングルであったのだろう。ここでも斜面には茶が栽培されているが、やはりちゃんと手入れされてはないようで、植え方も乱雑で、まばらに植えてある。
馬たちが草を食む姿もあった。パラウン族の人々がバイクに乗るようになる前に重宝していた日々の足である。
西側に開けた谷間に来ると、とても涼しくていい風が吹いている。遠くから茶摘み女の歌声が聞こえてきた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、その澄んだ声色に心奪われる。ぜひとも次代にも残してほしい村の風物だ。
村に戻り、すっかり日が暮れてきたあたりで、宿泊先の家で出された夕食は、よくわからない山菜やらいろいろあったが、特に印象的であったのはコンニャクだ。日本のそれよりももっと水分が多いようだ。これを炒めてある。それとナマスのようなものもある。昼食のときもそうであったが、火の通っていないものは遠慮しておく。これまた不思議な味で、正直なところあまり食欲は湧かないのだが、ここでしか食べることができない貴重な体験でもあるので、しっかりいただく。
夕食時、そして夕食後には外で星を眺めながら、同行のKさんといろいろな話をする。少し雲がかかっているものの、満天の星の眺めは美しい。漆黒の天空に無数の小さな穴が開き、そこから光が漏れているような気さえする。
9時半くらいに就寝。簡素な造りの木造家屋なので、人が少し動くと揺れる揺れる。誰かが寝返り打っただけで地震かと思うくらい家屋がグラグラッと激しく振動するので驚いてしまう。
<続く>