パンカム村への道1

ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

スィーパウ郊外の田園風景
牧歌的な風景

畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

禿山が続く

昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
ソーラーパネルが設置されている家があった。
タワシとなるヘチマ

発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

<続く>

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