ダマンへ 1

20100203-daman1.jpg

グジャラート州最大の都市アーメダーバードから列車で6時間ほどのヴァーピー駅で降りた。ここが連邦直轄地ダマン&ディーウを構成するダマンへの最寄り駅である。1987年にゴアがひとつの州として分離する前までは、『ゴア、ダマン&ディーウ』というひとつの行政区分になっていた。
ゴアからダマンまで直線距離で600キロ、ダマンからディーウまでは同じく200キロと、かなり距離が離れた飛び地状態であるが、これらはご存知のとおり1961年12月19日にインドが敢行した『オペレーション・ヴィジャイ』という国土奪還の総攻撃を仕掛けるまで四世紀半に渡りポルトガル領であったがゆえのことである。この軍事作戦は、すでに弱体化していたとはいえ、わずか36時間で451年に及ぶ植民地支配を続けたポルトガル当局を、圧倒的な武力で屈服させた。独立後のインド軍事史に燦然と輝く金字塔といえるだろう。イギリスから自由を勝ち取ったインドは、植民地勢力からの完全な独立のために、依然各地に残っていた外国領の自国へ回復へと動き出す。具体的には、先述のポルトガル領地域とポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マヘーといったフランス領地域の返還である。
フランスとの間では交渉により、1954年から8年間の移行期間を経て、1962年に領土の回復を達成するのだが、旧来の領土に固執したポルトガルとの間には膠着状態が続いた。ポルトガル駆逐のための政治キャンペーンに加えて、インド本土と当時のポルトガル領との間の人やモノの往来に厳しい圧力をかけるようになる。元来交易地ではあっても食料等の基本的な生活必需品の生産地ではなかったため、様々な物資に悩まされることとなった。分離独立以来、インドと対立してきたパーキスターンが、これに関してポルトガル領ゴアに救いの手を差し伸べていたことはよく知られている。インドにとって長らく続いてきた帝国主義勢力に対する勝利であり、ゴアはこの『解放』により、祖国に復帰することになったのは間違いないが、ポルトガルが450年を越える長い歳月の間に築いてきたシステムの中で、独自のアイデンティティを形成し、社会的にも経済的にも相応の繁栄を享受してきた層にとって、これは必ずしも歓迎すべき出来事ではなく、侵略として受け止められていたとしても決して驚くに値しないだろう。
『ダマン解放』を記念するモニュメントの碑文

シャーム・ベーネーガル監督による映画TRIKALの舞台はポルトガル時代末期のゴア。350年続く名家ソアレス家がこの地を見限ってリスボンに移住する前夜という設定。ここで栄えた人々にとって、『ゴア解放』は決して肯定的に捉えられていたものとはいえず、彼ら自身は頼んでもいないのに大軍を擁して押しかけてきたインドにより、長く親しんできたポルトガルという後ろ盾を失い、入れ替わりにやってきたインド人という支配者たちにより、財政的な後退と発言力の低下がもたらされ、次第に凋落していった地元の上・中流層の心情を綴った名作だ。
この映画の音楽を担当したのはゴア出身のレモ・フェルナンデス。この映画のために手がけた音楽は、コンカニー語ならびにポルトガル語による伝統的なゴアのフォークソングをベースにしており、彼のリリースした曲の中でもとびきり評価の高いものが多く含まれている。以下のクリップ『Panch Vorsam』というノルタルジックな曲にて、歌声はもちろんのこと、ダンスを披露しているのもレモ・フェルナンデス自身とアリーシャー・チナイである。

なお、ゴア、ダマン、ディーウ以外に、同じく元ポルトガル領で、植民地期にはダマン行政区の管轄下あったダードラー&ナガル・ハヴェーリーについては、戦闘によらない政治的な交渉により1954年にインドへの復帰を果たしており、ダマン&ディーウとは別の単一の連邦直轄地を構成している。
1987年に、ダマン、ディーウと分離してゴアは単独の州に昇格した。スィッキム、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュに次いで面積にして四番目に小さな州ではあるものの、中央政府による支配から脱しての自治を得たのもさることながら、それなりにヴォリュームのある『ゴア人』人口規模を持っている点については、独自のアイデンティティを保持するには幸いであったとはいえるだろう。
よほど辺鄙で不便な地ならともかく、人口密度が高く、人の出入りの激しい地域に囲まれていれば、そこに存在していた『国境』が取り払われてしまえば、ごく狭い地域に集住していた他国の庇護下にあった人々は、かつては外国であった近隣の『その他の人々』の大海に呑み込まれてしまう。そうでなくても行政、教育、日常的な慣習等々を含めて、あらゆる面において長年親しんできたシステムが効力を失い、それまで馴染みのなかった『あちら側のやりかた』に同化しなくてはならなくなる。
『コミュニティ間の調和』 中心にあるのはやはり多数派

たとえてみれば、これまで勤めてきた職場が、他の企業体に買収されるなり、吸収されるなりして、要はこれまで『ヨソの人たち』であった集団に主導権を握られてしまうのと似ているかもしれない。これまでの常識やフォーマリティ、仕来りや慣習が通じなくなるだけではなく、それまで主流派であったはずの人たちであっても、よほどうまく立ち回らない限り、他者に吸収されての新しい枠組みの中では隅に置かれてしまうものだ。

1535年から1961年まで426年間に渡ってポルトガル領であり、現在は連邦直轄地のDaman & Diuの行政地域にあるディーウ島にしてもそうだが、1673年から1950年までの277年間仏領になっていた西ベンガル州のチャンダルナガルについても然り。植民地時代に建てられたコロニアル建築は現在まで生き延びていても、かつての大聖堂でミサは行なわれておらず、学校や病院に転用されていたりすることもある。住民たちも他所から移ってきた人たちが大半になっていることも珍しくない。

<続く>

Rann of Kutch 4

ザイナーバード周辺には食事できるところはどこにもないため、宿では一日三食付いている。宿泊客たちが集まってくると、彼はふんぞり返った姿勢で眼光鋭く彼らを見据えて言い放つのである。
『私が宿の主だ。皆の衆、遠路はるばる来てくれたことを歓迎する。今日は充分に楽しんだか?明日の朝と昼のサファリについても個々の希望に従って取り計るぞ。よって遠慮なく申し出るがいい』
まるで土地の支配者が客人に謁見しているかのようなムードであった。
元宮殿であったり、植民地時代の建築であったりといった、ヘリテージな建物を利用したホテルでもない限り、特に宿泊施設に感想を抱くことはないのだが、ザイナーバードで滞在した宿はなかなか面白かった。
東屋
この地方の民家風に造ってあるコテージや敷地中央にある東屋もなかなか雰囲気が良いとはいえ、特筆すべきほどではない。だがとても印象的だったのは宿の主人であるDさんである。
ちょっと演技じみているくらいに横柄かつ尊大な感じがするこの人物は、40代前半くらいだろうか。ザイナーバード周辺の領主の子孫であるとのことだが、実に映画に悪役で出てくるよう悪徳タークルみたいである。あるいは、映画SHOLAYアムジャド・カーン演じていたところ盗賊ガッバル・スィンによく似た風貌と雰囲気の持ち主で、宿泊客に対しても、初対面では慇懃無礼な印象を受ける。
田舎の人には違いないが、なかなか洒落者でもあり、センスもなかなかのもの。昨日はチベット風の前合わせのエンジ色のガウン。翌日は、ずいぶん派手な地場製のコットンのショールをまとっていた。
粗野かつ傲慢に感じられる振る舞いから、最初は好ましい印象を受けなかったのだが、実はこちらが想像していたような人物ではないことが次第にわかってきた。威張った態度に見えるが、客たちのサファリにも同行しているし、食事やお茶の席にも必ず同席していろいろ会話を交わしており、宿泊客すべてに親しく声をかけて、意見や感想を聞き出す努力を重ねている。尊大に見えるものの、彼なりにいろいろ細やかに気を使っているのであった。
彼は父祖伝来の地であるザイナーバードに単身赴任状態なのだという。子供の教育の関係から、奥さんと息子ふたりはアーメダーバードで暮らしており、半月に一度彼らがここを訪れるためにやってくるのが一番の楽しみであるという。
彼自身は、うるさい都会での暮らしは向かないと言うが、この宿泊施設の運営以外に、もうひとつ彼がここで行なっている仕事がある。彼は近くにある孤児院アーカーシュ・ガンガーの運営者でもあるのだ。
宿泊施設に関しては、仕事をほとんど一人で切り盛りするのが彼の毎日であるようだ。食事の準備と掃除以外は、すべてDさんが取り仕切っており、客のひとりひとりに対する目配りが行き届いており、豪胆そうな見た目とは裏腹に責任感が強く、非常に几帳面な彼の性格がうかがわれる。
その反面、不便なこともある。宿で彼が少しでも不在にしていると、スタッフは何も決めることができないのだ。宿泊費(三食とサファリ付き)の料金交渉、誰がどのクルマに乗って何を見に行くサファリに行くのかといった基本的なアレンジさえも、D氏のみが扱っているため、どのスタッフも『旦那がいないと私たち何もわかりません』となってしまうのだ。
またDさん以外は英語を話すスタッフがいないということについて、西洋人たちからは不満の声を聞いた。『鳥に詳しいエキスパートのガイドが付くと聞いていたのに、 英語ができない人だったから、何を見に行ったのかわからない。私たちは鳥に関して素人だから、ちゃんと説明できる人がいないと困る』というものであった。
ゆえにDさんは、西洋人たちが乗るジープには可能な限り同乗しているようなのだが。 宿泊施設の造り、ロケーションやサファリの内容は良いのだが、Dさんがあらゆる事柄すべてを取り仕切るワンマンなシステムについては大いに考え直す必要があると思うのだ。
しかし硬派で不器用ながらも、日々一生懸命に頑張っているDさんの人柄が気に入って、バードウォッチングのために幾度もこの場所を利用しているというリピーターも少なくない。名物オヤジで客が集まるという稀有な宿泊施設になっているのが面白かった。私もまたいつかここを再訪してみたいと思う。
コテージ入口
室内
<完>

Rann of Kutch 3

宿で遅い朝食、やや時間を置いてから昼食と、立て続けに二食済ませてから、午後のサファリに出発。朝は寒いからとコテージで休んでいたKさんの家族と、昼食時に到着したオーストラリア人女性と一緒にジープに乗り込む。
20100124-trackinrann.jpg
今回は水場ではなく、Rannそのものの荒涼とした風景と、そこに棲息するワイルド・アス(野生ロバ)ニールガーイその他の動物が主な観察対象だ。ワイルド・アスは、Indian Wild Assという種類のもので、元々はインド亜大陸西部に広く分布していたらしいが、今ではカッチ小湿原のみに棲息している。ワイルド・アスは数頭の群れで暮らしており、彼らの可愛い子供たちの姿もあった。
Indian Wild Ass
ジープである一定の距離まで近づくと、彼らはジリジリと遠ざかる。ニールガーイはそれよりも数は少ないが、非常に筋肉質のたくましい体つきのウシ科の動物である。ワイルド・アスの一団とニールガーイが仲良く肩を並べて草を食む光景もあり微笑ましい。

村の点在する地域を過ぎると、広大な荒地が広がっている。四方どこを見渡しても地平線が見える。これほど広大な土地が手付かずで残されている。もちろん雨季には泥沼になってしまうとはいえ、その面積があまりに広いことに驚かされる。
20100124-crackontheearth.jpg
それにしても運転手はどうやって行き先や帰り道がわかるのだろうか。私にはどこを見渡しても、集落や町がどちらの方角にあるのか見当もつかない。見渡す限りの広大な大地。どこを眺めても地平線が360度続いている。このエリアではときおり狼を見ることもできるらしい。残念ながら私たちは遭遇できなかった。
陽は傾いてきたあたりで塩田に到着。カッチ湿原では塩作りが盛んである。ここは海ではないが、塩分を多く含む地下水を汲み上げて流し、天日で乾かしてから、また汲み上げた水を流すとやがて塩が出来上がる。
塩田
日没の時間が迫ってきた。大地を真っ赤に染め上げ、大きな夕陽がユラユラと地平線の彼方に沈んでいく。私が日々慌しく生活する都市部での夕暮れ時に想うことは特に何もないが、地平線の彼方に姿を消していく太陽の有様は、まるで壮大な儀式のようで、『ああ、これでまた一日が終わった』と実感する。
日没
しばらく大地は明るさが残っているものの、夜の闇がひたひたと迫ってきた。
20100124-earthatsunset.jpg

Rann of Kutch 2

朝6時半に部屋の外に出る。まだ夜が続いているかのように暗い。昨夕、食事で一緒だったKさんとジープに乗り込む。彼はベンガル人だがマハーラーシュトラのプネー育ち。留学先のアメリカで大学を卒業してから10年間ほどカリフォルニアに住んでおり、2008年までフィリップスでIT関係の仕事をしていたそうだが、不況のため仕事を失い、現在は同じIT系企業に勤めているという。毎年家族とともにインドに帰っているそうだ。ザイナーバードには奥さんと息子さんおよび奥さんの両親と訪れている。
朝方はかなり冷え込み、フリースのシャツの上にジャケットを着て出かけた。運転手は寒さで縮こまって運転している。途中で東の空からゆっくりと大きな太陽が昇ってくるのを目にしながら、私たちは池へと向かう。
日の出
運転手
ごく小さな池を想像していたものの、到着してみるとちょっとした湖とでもいうべき規模であった。ペリカンや二種類の異なるタイプのフラミンゴが無数にうごめいている。数百羽いるだろう。水場から少し離れたところには、ツルの種類の鳥の姿もある。
20100124-flamingos.jpg
20100124-pelican.jpg
20100124-tsuru.jpg
塩分を多く含んだ不毛の大地ではあるのだが、私たち人間にとってはあまり利用価値のない土地であり、ところどころに茂る潅木や塩気に強い類の雑草がまばらに生えているのを除き、地味豊かな大地ではあり得ないのだが、少なくともこうした鳥たちが捕食する生き物は充分に生息しているらしい。もちろんこの地域に居住する人間が極端に少ないということも、彼らの生存を保障するひとつの要因ではあるのだろう。
20100124-smallbird.jpg
その他、陸地にはいろいろな珍しい鳥たちがいた。キツツキに似たもの、スズメのようなもの、ヒバリのようなもの等々が沢山見られる。せっかくいろいろな珍しい鳥たちを見ることができる機会なので、特に関心のある方には鳥類のガイドブックとして、インドの大都市で手に入れることのできる以下の書籍を携行されることをお勧めしたい。
20100124-book on birds.jpg
Pocket Guide to the Birds of the INDIAN Subcontinent
著者:Richard Grimmett, Carol Inskipp, Tim Inskipp
発行:Oxford University Press
こうした野生の鳥たちを眺めながら、変なところでカラスという生き物には感心した。もちろんカッチ湿原にもカラスたちの姿はある。本来ならば自然の中で暮らす生き物のはずではあるが、鳥類の仲間の中で最も環境の変化に対する適応力に富むのは、言うまでもなく彼らである。
20100124-crow.jpg
通常、野生の鳥たちは都市化等により、生活環境が変わってしまうと、そこに暮らしていくことができなくなる。餌となるものが見つからなくなり、住まうべき森や水場などがなくなり、巣作りをするための材料が手に入らなくなると、もはや生きていくことができないのである。
しかしカラスたちの場合は、およそどんな環境にあっても、人間たちが暮らしていける程度の場所であれば確実に適応する。どんな類の食物であっても貪欲に摂取するし、巣作りだってビニール紐であれ、スチール製のハンガーであれ、器用に利用してしまい、ビルの谷間の物陰でひっそりと、しかし立派に子育てをしてしまう。
仮に猫の平均的な知能を1.2という数値で表すとすれば、犬はおよそ1.5くらいに相当するという。しかし一般的には哺乳類よりも下等であるとされる鳥類でありながらも、カラスの場合はこれが2.0相当で、人類の友とされる『賢いペットたち』を軽く凌駕してしまうほどの高度な知能の持ち主である、ということを何かで読んだ記憶がある。
その頭の良さがゆえにカラスたちは、生活の場が大きく変化しても、機転を利かせて生き抜いていくことができるし、集団で暮らす彼ら自身の『文化』のようなものさえ持っているのだという。
例えば『道具を使う』という行為である。殻の中に入っていて、クチバシで割ることのできない木の実、あるいはプラスチックのケースの中にあって開けることのできない食べ物があったとする。それをクルマの往来のある道路に置き、通行する車両がそれを破壊してから安全なところに持ち運んでから食すという行為は普通に見られるのだという。
何かを利用して結果を得るという知恵があり、他のカラスがそうしているのを目にして、『これはいいアイデアだ』と知覚して模倣する能力があるのだそうだ。そういう賢い鳥だけに、ハタ迷惑な存在として疎ましがるだけではなく、何か有効に活用する手立てはないのだろうか。
池では、魚を取っている人たちがいた。この人たちにとって、フラミンゴのいる景色はごく日常のことである。ときおり、水牛やヤギなどの群れに草を食べさせるためにやってくる人たち、燃料となる牛糞、水牛糞を拾い集めにくる女性たちの姿がある。
20100124-ladyintherann.jpg
どこまでも平らに広がる荒涼とした風景。あちこちに白く粉を吹いたようになっているのは塩分だ。ガチガチに大きくひび割れたところもあれば、芝生状にわずかな草が繁っている部分もある。乾季は、今目にしているようなカチカチの平原となるが、雨季には真水と海水が交じり合う汽水で満たされた湿地帯となり、盛り土の上を走る道路以外では行き来が出来なくなるのだ。目の前にしている光景からはちょっと想像もつかない。
ひび割れた大地
日がすっかり昇ると、かなり暖かくなってくる。上着を脱いでちょうどよい気温になってきた。そろそろ腹も減ったので、宿に戻ることにする。

Rann of Kutch 1

大きな地図で見る
グジャラート州東部からパーキスターンのスィンド州のインダス河口にかけてカッチ湿原 (Rann of Kutch)と呼ばれる低地が広がっている。雨季には、雨による氾濫とともに海水が混ざり合う泥地となる。しかし乾季には乾燥した固い大地となり、ジープ等の四輪駆動車での走行が可能となるものの、塩分を多く含む大地であるがゆえに、もちろん耕作には適さず、人口密度の極端に低い地域である。
カッチ地方の行政中心地であるブジに向かう際には、鉄道であれ道路であれ、盛土した土手の上を走ることになるため、その一部を車窓越しに垣間見ることはできるものの、いつかそこを訪れてみたいと常々思っていた。地質的に稀な地域であるということもあるが、ここは野鳥の宝庫としても知られている。
Rann of Kutchは、地理的にふたつに分けられる。Google Earthで眺めると、インド・パーキスターン両国にまたがる、湾とも大地ともつかないカッチ大湿原 (Great Rann of Kutch)と、カッチ湾の入り江につながるカッチ小湿原 (Little Rann of Kutch)である。グジャラート州のカッチ地方は、このふたつの広大な湿原の存在により、長く外界と隔たれていたため、独自の文化とアイデンティティを育むこととなった。
さて、そのふたつの湿原であるが、当然のことながら足の問題がある。カッチ大湿原の地域には、雨季でも安定した陸地となっている場所には町があり、パーキスターン国境に近いそれらのエリアでは、事前に警察でパーミットを取得すれば訪問することができる地点は少なくないものの、センシティブな関係にある隣国からの侵入者が警戒される地域でもあり、どこかでクルマをチャーターして湿原を走るという具合にはなっていないようだ。
いっぽう、より内陸に位置するカッチ小湿原では、そういう制限はない。国立公園になっていることから、森林局で許可を取得すれば自前の四輪駆動車かオフロードバイクで存分に走ることができるとはいえ、私はそのどちらかを所有しているわけではない。
湿原周辺のいくつかの町では、国立公園でもあるその地域の見物を売りにする施設がいくつかあるが、その中のひとつザイナーバードという村にある宿泊施設を利用することにした。そこでは日中一杯、湿原を訪れるサファリをアレンジしているということだ。もちろんその村には特に見るべきものはなく、宿泊客の目的は100%湿原(・・・といっても乾季に一部残る池を除いては砂漠のようなものだが)見物であることは言うまでもない。
列車をヴィーランガーム駅で下車して、タクシーで1時間ほどのところにある村。駅前からごく狭い市街地を抜けると踏切でしばらく通過列車を待つ。インドの貨物列車はずいぶん長いなあ、とよく感じていたので数えてみると52両。機関車と最後尾の乗務員が搭乗する車掌車を含めると54両編成である。
道の両側には畑が続くが、栽培されている作物の大半はクミンか綿花であることから、いかにも『痩せた大地』という印象だ。
宿に着いたときにはすっかり陽は落ちて真っ暗になっていた。敷地内には、この地域の民家を模したコテージが散在している。ここで働く人が数人ヒマそうにしている他には人影がないのは、みんな夕方のサファリに出払っているからであった。薄暗い電球の灯った東屋でチャーイをすすりながら日記でも書くことにした。
やがて戻ってきた何台かの四輪駆動車から降りた人々が集まってくる。東屋の端に料理が並べられて賑やかな夕餉が始まる。西洋人のグループがひとつとファミリーで来ているインド人たちが数家族。コールカーターから来た写真家集団の姿もあった。食事で同席したアメリカのシリコンバレー在住NRIのK氏によれば、彼らはアマチュアながらもインドの写真愛好家たちの中ではよく知られた存在なのだとか。
実際には酒はいろいろ出回っているようだが、今も公にはグジャラートは禁酒州であり、こういうところでおおっぴらに飲む人はいないため、みんな食事が終わるとそそくさとコテージに戻っていく。翌日早朝からバードウォッチングに出るので、早く寝ることにする。