グジャラート州のバローダーからクルマで1時間ほどのところにあるチャンパーネール。付近の遺跡と合わせてChampaner-Pavagadh Archaeological Parkとして、2004年に世界遺産登録されている。
平地から丘(というよりも山)の上までに及ぶ偉大な遺跡群で、バローダーから充分日帰りは可能だが、できればここで一泊してじっくりと見学したい。遺跡については、各種ガイドブックやウェブサイト等で紹介がなされているとおり。敢えてここでその来歴等について記す必要はないだろう。

しかしチャンパーネールのジャマー・マスジッドで、蜂たちが実に立派な巣を複数築いており、思わず我を忘れて見入ってしまった。まるで『クマのプーさん』に出てくる蜂の巣みたいだ。




巣が黒く見えるのは、無数のハチたちが表面を覆っているため。それぞれが細かく羽を震わせて、何か作業をしているようであった。幼虫たちにエサを与えているのだろうか。

大きな巣の下部を拡大してみると、六角形をしたひとつひとつのセルが確認できる。更に巣を拡大しようという動きがあるらしいことも見てとれる。こんなものを仔細に観察していて、沢山のハチたちに攻撃を受けるようなことがあってはたまらないのだが。

・・・とはいえ、いやしくも世界遺産指定されているエリアの主要な建築物のひとつ。こんなに巨大なモノが出来上がる前になんとかならないのだろうか?
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ダマンへ 5

ナーニー・ダマンの海岸では、年季の入り、地金が露出しているマニュアル式のニコンやキャノンをぶら下げた写真屋たちが徘徊し、近隣州からやってきた観光客たちに声をかけている。遠浅で、干潮時には少し先にある小島まで陸続きになる。これが夕暮れ時に重なるとなかなか印象的な風景となる。そのタイミングこそが彼らの稼ぎどきのようだ。

浜から望むアラビア海のこの眺めは、Damanが『Damão』であった時代から変わることがないはずだ。海原を真っ赤に染め上げる雄大な日没を、往時の人々も日々眺めていたに違いない。

昔々、ポルトガルの人々はこの海を越えてやって来て、この地を彼らのものとした。長い時を経て、彼らはまたはるか彼方へと去っていった。

〈完〉
ダマンへ 4

ユニオンテリトリーであるがゆえに、公の施設等ではヒンディーと英語による併記が大半。民間の商店等ではグジャラーティーといった具合である。街の中心部でポルトガル風の建物にヒンドゥー寺院が入っているものは、ポルトガルが去った後に転用されたものではないかと思う。地元の信仰については寛容であったイギリスによる統治と違い、ポルトガル領ではカトリック以外の宗教活動はかなり制限されていたはずである。
ダマン・ガンガー対岸のモーティー・ダマンに向かう。こちら側ナーニー・ダマンからは、『パブリック』と称される乗り合いオートがある。「グラウンドのところで降ろして」と言っておけば、モーティー・ダマンの城壁南側に着く。ここから徒歩でゲートをくぐれば、ちょうどラテンアメリカの都市で『セントロ』と呼ばれるような街のヘソに出る。きれいに整備された公園の周りに大きな教会やダマンの中央郵便局がある。厳しい建物の刑務所もあった。


かつてここは、ダマンを支配した権力の中心地であったことから、見事な植民地建築が数多く残されている。もともとよく整備された街区であったことも、たたずまいからよくわかる。往時には支配層の人々もこのあたりに居を構えていたようだ。本土復帰後、城壁内の地域の多くは、統治を継承したインド政府の所有ないしは政府カトリックの教団の敷地である。そのため土地が切り売りされたり、建物が細分化されて間借人たちに貸し出されたりすることも稀であったらしい。昼間でも広々とした通りもとても静かで、人通りもごくまばらだ。やや誇張して言えば、街並みだけを残してゴーストタウン化してしまったかのようでもある。

400年もの長きに渡ってポルトガルの街として栄えた『Damão』の濃い面影というよりも、1961年12月、ポルトガルによる支配が終焉を迎えて以来、時計の針の歩みが止まってしまったかのようである。

〈続く〉
ダマンへ 3

朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。

ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。

ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。

いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。

今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。

〈続く〉
ダマンへ 2

ヴァーピー駅からオートで走っている最中、こちらグジャラート州側と連邦直轄地ダマンの境目はどのあたりかと思っていると、街並みがまばらになってきたあたりでゲートが見えた。
こちらからダマンに入る際には特に車両を停めてチェックしたりということはないが、あちらからグジャラートに入る際には、形式的ではあるが停車させられて警官が中を覗き込んだり、何か質問したりしているようであった。おそらく気が向いたら荷物を調べたりもするのだろう。
ヴァーピーのオートリクシャーは、ダマンまで直行することができるが、反対にダマンから来る際、ダマンを地元とするオートの場合は走行できるのは、このゲートの手前までで後はヴァーピーの車両に乗り換えなくてはならないようだ。ヴァーピーのオートはCNGエンジンが義務付けられているが、ダマンでは今もガソリンエンジンであることから、州境を越えて乗り入れることは許可されていないとのこと。
マハーラーシュトラ州境近くのダマン、そしてグジャラート州のサウラーシュトラ南端に位置するディーウと、地理的には離れていながらも、連邦直轄地のダマン&ディーウというひとつの行政区を構成しているため、今なお禁酒となっているグジャラート州から来ると、それまでグジャラーティー語の洪水であった街中の看板に、連邦の公用語であるヒンディー語で書かれたものが多く混じってくる。特に役所や公の機関などでは当然のごとく後者で書かれていることに加えて、境の向こうではご法度であった酒類を扱う店、つまり酒屋やバーが多いことなど、視覚的にずいぶん違うものがある。
グジャラートに住んでいても、境目あたりに家があったりすると、夕方ちょっと『向こう側』で一杯ひっかけてから帰宅する、なんて人もけっこうあるのではないかと思う。州境に住んでいると、自宅に持ち帰るのはリスクがあるかと思うが、実質のところ禁酒州外に暮らしているのとあまり変わらないかもしれない。中には持っている地所が両側にまたがっているなんていう幸運なケースもあるかもしれない。
これまで来た道を左に折れてまっすぐ進むと海原が見えてくる。ダマンの街はもうすぐそこだ。DD(ダマン&ディーウ)ナンバーではなく、GJ(グジャラート州)やMH(マハーラーシュトラ州)のナンバープレートを付けているクルマがとても多いが、酒屋の前に乗り付けて、店頭でウイスキー、ラムその他を品定めしていたりする姿が目に付く。彼らはダマンで宿泊しているのかもしれないが、週末などに、自家消費の目的でこっそり買い付けに来る人も少なくないのだろう。たぶん州境の検問で捕まった場合の出費はそれなりに覚悟のうえで。
そもそもゴアがそうであるように、ダマン&ディーウでも、インドの他の地域よりも酒類の種類は豊富で、値段もかなり安いので飲兵衛にはありがたい。とりわけ隣接する禁酒州グジャラートからやってくると、その魅力がどれほどのものであるかは想像に難くない。
そんなわけで、ディーウでもそうだが、ダマンでもバーや酒屋は朝から開いており、特に週末などは午前中からそれなりに繁盛していたりするようだ。だからといってダマン&ディーウの住民が、とりわけ酒飲みであるなどというわけではなく、消費の大半は地域外からやってきた人たちのものであることは間違いないだろう。
ダマンの街は、ダマン・ガンガーという河を境に、モーティー・ダマンとナーニー・ダマンに分かれている。これらはそれぞれバリー・ダマン、チョーティー・ダマンとも呼ばれている。
商業地区は密度の高いナーニー・ダマンであり、モーティー・ダマンは城壁に囲まれたエリアが主に行政地区で、ゆったりとした街区に政府関係の建物や大きな教会が点在しており、その外には住宅地が広がっている。

ナーニー・ダマンの飲み屋の多い地域にヘリテージなホテルがある。Hotel Marinaという何の変哲もない名前だが、建物自体にその価値がある。ここはダマンのガバナーの公邸であったものだ。1861年、つまりポルトガル支配終焉のちょうど100年前に完成した建物である。マンに現存する植民地期建築には、もっと規模の大きなものが沢山ある。そうと言われなければ『あ、ちょっと立派な感じの屋敷があるな』とそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
由緒ある建物で、きれいにメンテナンスされている割には、同ホテルのウェブサイトに示されている宿泊料金を見てわかるとおり、ヘリテージ・ホテルとしては格安だ。私が訪れた際には満室で泊まることができなかったが、エントランス、レストラン、ホテル内の廊下などにはやはり歴史の重みを感じさせるものがあり、他のもっと高いホテルよりも魅力的に感じる。
レセプションの背後に、いくつかのテーブルが並べてあり、ビールや食事を頼むことができる。開け放たれたドアのすぐ正面にはダマン警察本部があり、ヒマそうで緊張感はないが、それなりに関係者その他の出入りはある。
ボーイに『ビールもう一本!』と頼む私のすぐ目の前に立ち番の警官。目と鼻の先の禁酒州グジャラートでは非合法となっている酒の密輸にまつわる記事が、毎日新聞紙上に出ていることを思うと、ちょっとヘンな気がするものの、なんだかホッとする。

〈続く〉