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カテゴリー: travel

  • 女性だけの市場

    マニプル州インパールに女性限定で3000人もの売り手が集まるマーケットがある。ところが200年以上もの伝統あるこの市場を取り壊し、商業ビルを建てようという地元政府の計画が浮上。それ以来、夜間の不在時に職場が撤去されないよう、彼女たちは自らの「店」のかたわらで眠る…いわば”座り込み”の日々が一年近くも続いている。
    政府の言い分はマーケットの混雑と衛生状態を改善したいとのことだが、ここで働く女性たちにしてみれば、いままでの自分たちの商売を守るということに加え、当事者に何の相談もなく話が進んでいることに対する不信感、新しい施設には男性業者も入り、女性の職場が奪われるのではないかという危惧もあるという。
    モンゴロイド系少数民族が住むミャンマー国境近くのマニプル州とは、東南アジア世界みたいなのだろうか?機会があればいつか訪れてみたい。

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  • 時刻表から眺めるAirIndia

    Air India Time Table / November 1, 1959 / by TimeTableImage.com
     世の中には切手やコイン収集など様ざまなコレクターがいるものだが、なんと航空会社の時刻表を収集している人たちもいて、世界各国の航空会社の古い時刻表等のイメージがアップされているウェブサイト「TimeTableImage.com」まである。
     もちろん、長い歴史を持つエア・インディアの時刻表も載っている。
     英領時代にスタートしたタタ・エアラインス(エア・インディアの前身)。1938年の飛行ルートは、本拠地であるボンベイを中心に西北と南に偏っている。まだ東部へのサービスは始まっておらず、カルカッタへは「就航予定」。ボンベイ―カルカッタ間(ナーグプル経由)のフライトがはじまるのは、さらに7年後の1945年である。
     当時の空路は、デリー、マドラス、コロンボといった英領の大都市とともに、グワリヤル、ボーパール、ハイデラバードといった有力な藩王国、ポルトガル領のゴアなどをむすんでいる。ボンベイからアーメダバード経由でカラチに行く途中で、ほかの寄港地と比べ商業的に重要とは思えないブジ(ここも旧藩王国)にストップするのはちょっと興味深い。
     独立直前の1947年6月のタイムテーブルでは、ボンベイーカラチ便の経由地からブジが抜け落ちている。ふた月後には別の国になってしまう両都市を、乗客たちはどんな想いで行き来したのだろうか。
     おなじみターバンを巻いたおじさんのマスコットは、ユーモラスだけど、やたらと古臭い感じがするな…と思っていたが、1948年のエア・インディア・インターナショナル(現在のエア・インディア)の時刻表で、すでに使われているのだから、やっぱり相当年季が入っていることになる。
     ここには2000年のものまで、時代を追って時刻表の表紙が掲載されているが、どれもカラフルでインドらしい図柄が使用されていて面白い。
     時刻表のカバーひとつとっても、インディアン・エアラインスのほうはどうも素っ気ない。同じインドの政府系企業でもずいぶんカラーが違うものだ。
     創業間もないころ、インドの空の旅の機内はどんな様子だったのだろうか。「むかし利用したことがある」という方があれば、ぜひお話をうかがいたい。

  • 空の旅今昔

     いまでは考えられないことだが、一昔前、長期旅行者が出入りする安宿の掲示板でこんなメッセージを目にすることがよくあった。
    「航空券売ります」
    「カイロ/バンコク片道 価格応相談」
    「×月×日成田行き ××航空」
     旅の期間や旅のルートが変更したことで、格安往復航空券の帰路を放棄することになった旅行者が、チケットの買い手を探す貼紙だ。
     方法はいたって簡単。売り手が一緒に空港まで行き、パスポートを提示してチェックインする。買い手はボーディングパスを受け取り、イミグレーションと税関を通過して機内へと乗り込むだけだ。チェックインの際を除いて本人確認がほとんどなかった時代でこその裏技(?)である。
     もちろん他人名義で乗った飛行機に万一のことがあっても補償はなさそうだし、不正が発覚することがあれば厳しい罰則もあったことだろうが、当時はまだ空港のセキュリティも緩く、のんびりした時代だった。
     途上国のキャリアでは、飛行中コクピットのドアが開けっぱなし…ということもしばしばあり、乗客が頼めば中に入れてくれることも珍しくなかった。ネパール航空のヒマラヤ遊覧飛行「マウンテンフライト」では、多くの希望者が順番に操縦席からの素晴らしい眺めを見せてもらうことができた。眼前に広がる「世界の屋根」のパノラマ風景はいまでもまぶたに焼き付いている。
     いまや乗務員以外の人間がそんなところに踏み入るなんて考えられない。万が一、許してしまったら航空会社が利用客から強い抗議を受けるに違いない。
     長距離のフライトでは、経由地で乗客の乗降と給油が行われ、機内に清掃が入る。どこかに着陸するたびに機外に出てターミナルビル内でしばらく待たされることがよくあった。
     アエロ・フロートでモスクワ発リマ行きのフライトを利用したとき、ルクセンブルグ、シャノン、ガンダー、ハバナ…と寄航する地点が多く時間がかかるうえ、毎回空港ターミナル内に出て待機しなくてはならなかったので、やたらと疲れた記憶がある。
     いまでは他機乗客との合流や入れ替わりを防止するため、目的地や乗り換え地以外の空港で、待機中の乗客が外に出ることはほとんどないはずだ。
     インドを含めて一部の国や地域では、危険物や爆発物を防ぐ目的で機内への搭乗前、乗客自身に預け荷物の確認をさせることがあった。「これは私のです」と告げ、係員がチョークで丸印をつけて初めて飛行機の荷物格納庫に運ばれた。
     だがこんな方法はもはや通用しなくなっている。他の乗客もろとも上空で木っ端微塵に吹き飛んでしまうことさえ恐れない危険人物が紛れ込んでいる可能性があるからだ。

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  • 一見インド人

     ゴアで一日ツアーバスに乗ったときのこと。乗客には近隣州から来た人が多かったが、コトバの最大公約数ということだろうか、ガイドはヒンディー語でなされていた。
     近くの席に知人によく似た人がいたので話しかけてみると、インド人ではなく、外国に住むインド系でもなく、アラビア人だった。オマーンから来た留学生。マハーラーシュトラ州内の大学でエンジニアリングの勉強をしているという。英会話はインドに来てから覚えたというだけあって、アクセントも立派なインド風。 本人曰く「ラージャスターンの人と思われることが多いよ」。 なるほど浅黒い肌、細面に高い鼻、鷹を思わせるような精悍な顔立ちだ。
     宿ではモーリシャス生まれのインド系イギリス人にも会った。何代も前にモーリシャスに移民した先祖の出身地はインドだが、どこの地方だかわからないという。幼いころ両親に連れられてイギリスに移住、帰化したが、インドを訪れるのは生まれて初めて。何もかもが物珍しいという意味ではイギリスの白人たちと変わるところはないようだ。
     本来、ヨーロッパから来た他の旅行者たちと意識は同じなのに、彼らと一緒にバイクを借りて走り回れば、道中出会う人々から地元のガイドだと思われるのは愉快な体験だ。
     私たちにとってなかなか真似できることではないが、似たような顔立ちの人々に囲まれてのインドの居心地はどうだろうか。モンゴロイドの少数民族たちが住む東北諸州をふと思い浮かべてみた。

  • みんなおなじ「旅人」

     インドに限らず見知らぬ異国を訪れていると、西洋人たちの存在が身近に感じられるときがある。その国にルーツを持たない「外国人」という立場、地元人たちが渦巻く大海の中でプカプカ浮かぶ圧倒的少数という立場は同じなのだから、そう感じるのもごく自然なことかもしれない。
     旅行中は毎日が新しい出会いの連続。宿で顔を合わせば、自然に「Hi!」と声かけあう。知り合った旅行者と一緒に観光見物や食事に行き、時にはしばらく旅道中をともにすることだってある。いろいろな国籍の人たちと飲みに出かけ、夜遅くまでワイワイガヤガヤと過ごすのも楽しいものだ。
     「旅行者」という立場は同じでも、彼らから見れば我々はやはり「異民族」。こちらから進んでコミュニケーションをとらないと、ひとりぼっちになってしまうこともある。なにせ相手は英語を母語にする人たち。こちらが聞き役に回ることが多くなってしまうのはやむおえない。
     国籍や母語の異なる相手が会話の輪に混じっていると、相手を気遣いちゃんと「共通語」の英語で話すように心がけてくれる人はありがたい。同じ輪に日本人旅行者がいると、ついつい英語でしゃべるのが照れくさくて、その人とだけは日本語で話しがち。そうなると、他の母語の人は会話に入れない。こういう点は前者をおおいに見習いたいと思う。
     旅先ではだれとも利害関係はないし、相手の社会的地位も関係ない。世界各国(先進国から来た人たちがほとんどだが)の人たちがニュートラルな立場で接しあえる空間…そこには束の間の「旅行者コミュニティ」が生まれる。気分はユニバーサルな「地球人」といったところか。
     ただし、悲しいかな「地球人」気分も帰国の飛行機乗るときまで。それまでの「おなじ外国人旅行者」という立場から一転、「地元人」と「外国人」という関係になる。あとは成田空港に到着して、旅に出る以前となんら変わらない平凡な日常に戻るわけだ。
     ひとつの旅が終わった後、おなじ旅人に再会できるのはごくごく稀なケースで、親しくなった人と手紙のやりとりをすることはあっても、その場限りのお付き合いとなってしまうのがほとんどだ。
     旅先で遺跡や自然を楽しみ、土地の人びとと触れ合うだけではない。興味や物事のとらえ方は多少違っても、同じ目線で旅する他国からやってきた旅人たちと無駄話に興じるひととき。それもまた旅の楽しみのひとつだろう。

  • お手回り品にご注意

     カフェでのこと。斜向かいに一人で座っていた女性が立ち上がり、奥の化粧室のほうへと向かった。「ここにいます」という意思表示のためだろうか、財布と携帯電話をテーブルの上に置いたまま。幸運にもいままで盗られた経験がないのだろう。
     傍目には「ちょっと危ないな」と思えても、当人が被害をこうむることがなければよいのかもしれない。「安全」に対する意識は、なんといっても経験に基づき作られるからだ。
     用心しなくて済むのなら、それに越したことはない。家の窓に鉄格子がはめられていることはないし、閉店後も店のショーウィンドウには高価な品々が飾られている。カギをかけてみたところで、ガラスという一枚の脆い薄板に過ぎないということは誰もがよくわかっている。それでも周到な防備を必要としないのは、日本社会の良いところでもある。
     以前、カルカッタの繁華街で、お金を盗られてしまったという女性に会った。
    「ちゃんとポーチに入れておいたのに」
    と彼女は言う。首からかけた貴重品袋をショルダーバッグのように服の外に出していたらしい。人ごみの中をかきわけて歩き、ふと気がつくとそれが消えていた。彼女はあまり海外を訪れたことがなくインドに来たのも初めてだという。日本国内ではこんな風にポーチを盗られた経験がなかったのだろう。
     「日本にある我々の取引先にもって行けば、高値で買い取ってくれる」と価値のないクズ宝石を大量に購入させる手口は有名。様ざまな詐欺があるが、そうした怪しい話に簡単にひっかかってしまうのも、これまでの経験と照らし合わせ「大丈夫」と判断したからだ。

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  • ベトワ河の苦行者

     朝から自転車を借りてオールチャーの遺跡群を巡り、昼ごろベトワ河の岸辺に下りて一服。
     ふと水面に目をやると、誰かが河の中から顔だけを出している。溺れているのではないかと心配になったが、後頭部をこちらに向けて身動きひとつせずに静止している。「こんな修行をするヨーギーもいるのか」と感心して眺めていると、近くを通りかかった西洋人たちもやはり立ち止まって注目。
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     午後遅くなってからも男はまだ同じ姿勢で河の中にいた。すでに陽は彼方に沈もうとしている。アメリカから来たカップルが「あの人、大丈夫だろうか」と深刻な顔をして私に声をかけてきた。もしや水面下で流木に引っかかったまま失神しているのではないか、あるいはすでに息をひきとってしまったのではないか、私も心配になってきた。
     ……ところが身を乗り出して、よくよく目を凝らして瀕死の苦行者を見た私たちは、「真実」を発見し、顔を見合わせて大笑いした。遠目には人にしか見えないのだが、……そこには石を積んであるだけだったのだ。昨日は見かけなかったので、今日の午前中あたりに誰かが河に入ってしつらえたのだろう。
     まんまとだまされてしまった。誰だか知らないが「作者」のユーモアのセンスに大きな拍手を送りたい。

  • 再訪 3 変わるもの、変わらぬもの

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     観光業の発展は、地元に確実に富をもたらしているようだ。観光客が闊歩するエリアのダーバー(安食堂)主人は30代後半。いまの店を開く前は掃除人をしていたのだという。インド人客が耳にしたら仰天しそうな発言だが、なにはともあれ下積みの暮らしから抜け出して食堂経営者になっているのだから、歓迎すべきことに違いない。
     「観光業」は、さほど大がかりなインフラを必要とせず、しかも労働集約的な性格から、特に途上国にとっては、地域振興と雇用創出のために有効な手段となる。実際、現在のオールチャーには、近隣の村落のみならず、ほかの地域や近隣州からも、職を求めてやってきた者が少なくない。
     しかし観光産業は、特に技術の蓄積がなされるわけではなく、極めて消費的なものだ。景気や政治動向にも大きく左右されるし、こればかりに依存してしまうのもどうかと思う。
    オールチャー・リゾート
     訪問客が増えて、寂れていた遺蹟もメンテナンスされるようになった。現在、補修は急ピッチで進行中で、どの遺跡でも最近補修した部分が一目でわかる。宮殿外の城壁だって「新築」そのものだ。
     オールチャーは大きく変わったが、私自身も同様に変わった。当時「Seesh Mahal」に泊まるお金もなかった私が、今回はそのホテルよりもずっと格上のオールチャー・リゾートに滞在しているのだから。
     宮殿からの窓の格子を通して、ベトワ河対岸にそびえるチャトルブジ寺院の姿を見て、「これだ!」と思い出した。1989年にここに来たとき、全く同じ場所から、同じ風景をカメラで撮影したのだ。14年以上の時間を経て、まさに同じところに私は両足を置いている。当時の私と今の私が重なり合い、昔と今の風景がオーバーラップする。壮大な宮殿というロケーションがまた良い。甘美な思い出なんか何一つないのに、埃にまみれて汗くさかった青春時代の旅がロマンチックに脳裏に甦ってきた。
    飾り窓の向こうにチャトルブジ寺院
    ▼オールチャーを訪れた人にお薦めの本
    「ORCHA AN ODE TO THE BUNELS」
    Alok Srivastava / Archaeology, Archives & Museums,Government of Madhya Pradesh

  • 再訪 2 消費社会と旅行ブーム

    賑わうバーザール
     なぜオールチャーは観光資源に恵まれながらも、90年代に入るまでは寂しい農村だったのか。
     それは、この国にある無数の観光地の中から、バイタリティと好奇心に溢れる裕福なミドルクラスにこの地が「開拓」されるまで待たなくてはならなかった、という一言につきると思う。
     90年代からの急速な経済成長により、ニューリッチが出現。自由化は市場に多様化と品質の向上をもたらし、本格的な「消費文化」を定着させた。当然ライフスタイルが変化し、人びとの関心は「余暇をいかに楽しむか」ということに向かった。旅行ブームの到来である。彼らはありきたりの場所だけでは飽き足らず、常に目新しいスポットを探し求めるようになった。
     オールチャーにも、その機をとらえ観光化を推し進めるべく、本腰を入れてプロモートした仕掛け人がいたはずだ。それは旅行業界か、あるいは州政府だろう。
     安旅行者には最低限の情報さえ与えれば充分だ。『ロンリープラネット』『地球の歩き方』のようなガイドブックに掲載されれば向こうから勝手にやってくる。旅人が訪れるようにれば、質素なゲストハウスもポツポツできる。清潔な食事さえもままならない寒村の不便な面も「インドにいるだけでシアワセ」な若いバックパッカーたちにとっては苦にならない。だが彼らはあまりお金を使わないので、地元にとっても行政側にしてみても、あまりオイシイ話ではない。
     地元に富をもたらしてくれるリッチなお客を呼ぶとなるとやり方は違ってくる。民間企業、政府関係機関が、きちんとしたレベルのホテルやレストランを整備してはじめて、彼らが家族連れで安心して泊ることができる場所になる。近郊の街から日帰りで訪れるにしても、ちゃんとした清潔なレストランがなければ敬遠されてしまうことだろう。

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  • 再訪 1 寒村からリゾートへ

     マディヤ・プラデーシュ州北部、オールチャーを再訪した。
    1989年のオールチャー。この角度から眺めると今も昔も変わらないが
     前回ここに来たのは1989年。この一帯には、ベトワ河の流れに挟まれた中洲を中心に、壮大な宮殿や巨大な寺院など様ざまな遺蹟群が点在している。しかし、立派な観光資源が豊富にありながら、ほとんど活用されてない。どこまでも広がる乾いた大地の風景の中、お寺やチャトリ(あずま屋)は無残に朽ち果て、遺跡に比べちっぽけで頼りない家いえがバラバラ散在しているのみ。お店といえば、土地の人びとの日用品を扱うごく小さな雑貨屋くらいだった。バスで30分ほどのジャーンスィーの街につづく幹線道路から外れると、村の中には舗装された道はない。風が吹くと砂埃がもうもうと舞い上がる乾季。寂しげな農村風景がただ広がっていた。
    1989年のオールチャー 宮殿内は荒れ果てていた
     89年当時の「ロンリー・プラネット」はこの村を”undiscovered gem”と表現していた。それほど訪れる人が少なかったということだ。ラームラージャー寺院のダラムシャーラー(巡礼宿)を除けば、宮殿内に入っている州政府経営ホテル「Seesh Mahal」が当時唯一の宿泊施設。私も探し歩いてみたが、安ホテルやゲストハウスの類は見つけることはできなかった。そういえば、このホテル内のレストランでよく冷えたコーラを飲んだ記憶がある。私がなぜ割高な飲み物を注文したかと言うと、他に飲み物を売っている場所が見当たらなかったからだ。一泊の予算が1〜3ドル程度の金欠旅行者だった私は、結局日帰りでジャーンスィーへ戻った。

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  • ロンリープラネット「INDIA」

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     ついに「LONELY PALNET」日本語版が発行された。
     この本は、ご存知のとおり、オーストラリアに本社があるLONELY PLANET PUBLICATIONS社のガイドブックを翻訳したもの。日本での版元メディアファクトリーからは、これまでイギリス、カリフォルニアなど欧米諸国、タイ、トルコ、バリにベトナム…と発行されてきたが、ついに真打登場(?)である。
     目下、店頭に並ぶ日本語版はまだ12タイトルと少ないが、今後ますます拡充されていくことだろう。
     オリジナルの英語版のほうは、世界の様ざまな国をカバーしているが、それだけではない。たとえば、インド関係だけでも、実に多彩なラインナップだ。メインとなる「India」以外に「North India」「South India」、ディープな山歩きガイド「Trekking in the Indian Himalaya」、都市ガイド「Delhi」「Goa」「Mumbai」、地域ガイド「Rajasthan」。ヒンディー語・ウルドゥー語、ベンガル語のフレーズブック、地図帳「India & Bangladesh RoadAtlas」、さらには旅行記まで刊行されている。
     読者の国籍が多岐にわたり、年齢層も若者から中高年までと幅広いため、1981年の初版発行から幾度も改訂を重ねてきたインド編。情報の蓄積量、旅行者が求めるツボをきちんと押さえた編集はスゴイのひとことに尽きる。
     対象となる国、執筆陣によって若干のカラーの違いはあるが、ほぼ統一されたフォーマットで構成されているため、文字ばかりギュ〜ッと詰まっていても、とても読みやすいつくりになっている。
     いままで日本語で発行されてきたガイドブックといえば、一目で内容が把握できるようヴィジュアル面に重きが置かれていたが、ロンリープラネットによる「圧倒的な質と量」は新鮮な驚きをもって迎えられることだろう。
     ただ、一部の業種をのぞき、日本で働く人々の休暇期間は限られている。大学生か専業バックパッカー(?)でないかぎり、これほど本格的なものに手を出すのだろうか…と少し心配にもなる。
     ともあれ与えられた情報を取捨選択するのは読者自身。新しいガイドブックを手に、これまで想像もしなかった「何か」に触れることができるかもしれない。インドでの新しい発見や楽しい出会いなど、みなさんの貴重な体験やご感想をぜひお聞かせ願いたい。

    ▼インド ロンリープラネットの自由旅行ガイド10

    サリナ・シンほか多数共著

    [メディアファクトリー刊/A5判/2004年/3200円]

    日本では「ロンプラ」の愛称で親しまれ、世界中のバックパッカー必須のガイドブック『Lonely Planet』のインド編邦訳版がついに登場!聖地を巡り、アーショラムでスピリチュアル体験。宮殿ホテルでマハーラージャ気分。市場攻略、アーユルヴェーダ。ヒマラヤを望む北部から、南はケーララの海岸まで、インドを満喫するデータ&ガイドブック。 (ISBN:4840108668)

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  • 洗濯楽しきゃ、旅楽し?

    Photo by Tamon Yahagi
     せっかく気分よく旅に出ても、所帯じみた悩みは常につきまとうものだ。洗濯である。高級ホテルに泊まってランドリー・サービスを利用するわけではないので、基本的には自分で洗うことになる。(ときにエコノミーな宿でも頼めることはあるが)
     毎日シャワーは浴びるわけだから、ついでにシャツやズボンも洗濯するなんてワケないのだが、面倒なのは乾かすことなのである。
     乾季の時はいい。干してから数時間もすればパリッと乾く。庇のついたバルコニーがあれば、突然の雨に見舞われても大丈夫。
     一方、困るのは雨季だ。部屋にベランダも窓もないと最悪。仕方なくイスの上に広げたり、ビニール紐を張ったりしてみるのだが、なかなか乾かない。洗って一晩明けたというのに、ジットリ湿っている衣類を目の前にすると、朝からユウウツな気分になる。もちろん、扇風機を回したまま寝れば一晩でカラッと乾いてくれるが、自分自身がカゼをひいてダウンするというリスクがともなう。

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