カイバル峠の向こうが見えてくる

 インド周辺地域も実に魅力あふれるところが多い。現在の「国」の枠を超えた人々の活動とともに栄えてきた地域だ。重層的に連なる歴史や文化を人々は国境線を越えて共有しているといってよいだろう。
 有史以来、思想や言語、宗教や建築を含めて文化的にもインドとの間に濃いつながりがあったアフガニスタン。南アジアと中東、中央アジアと中国といった異なる文化圏が交差するところでもあり、まさに「文明の十字路」として豊かな伝統を持つ国。決して今のように外界から孤立した地域ではなかった。20数年間もの不幸で長きに渡る混乱を経て、再び「観光地」として世間の注目を取り戻しつつあるかのように見える。
 まさにこの機を待ちかまえていたかのように、今年9月末ついに日本語によるアフガニスタンの旅行案内書が刊行された。同書表紙には「本邦初!(世界でも珍しい)のガイドブックが登場」とある。
 カーブル、バーミヤン、マザリシャリフ、クンドゥズ、ヘラート、カンダハール、ジャララーバードといった世界的によく知られた街やその周辺部などが紹介されている。アフガニスタンの旅行情報そのものが他国に比較して極端に少ないこと、また初版ということもあり厚みはないのだが「ロンリープラネット」や一昔以上前の「地球の歩きかた」のように、一人旅向けの実用的なガイドブックに仕上がっている。

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<経済>のインド

 現在発売中の「週刊ダイヤモンド」9月17日号は、「熱狂のインド」というタイトルでインド特集だ。デリー、ムンバイ、バンガロール、チェンナイ、カルカッタの五都市を取材して、市場および生産基地としてのインドの魅力と問題点を探っている。
 経済誌という性格上、中身はすべて仕事関係なので万人が興味を持てる内容ではないが、今の日本ビジネス界のインドに対する姿勢をサラリとうかがい知る手がかりになるだろう。
 もちろん経営者の視点、要はお金儲けをする人たちのための出版物なので、働く人々の権利である労働運動、政治的自由の証でもある左翼勢力への偏見が強いのはもちろん、これらに対するかなり手厳しい表現も多い。
 IT、自動車、株価、消費活動等々の概況についてわかりやすく書かれているが、その中でちょっと興味を引かれたのは、おなじみの公文式のインド進出についての小さな囲み記事である。従来より海外でも盛んに事業展開しているが、今年4月からインドでも教室を開いており、なかなか好評とのことだ。それにしても数学の本場(?)にして、ホワイトカラーの人たちの平均的な英語力が、日本のそれと比較してはるか雲の上にあるように見えるインドで「算数」と「英語」を教える事業とは、ちょっと恐れ入る。
 今後、インドの人々に対する日本語教育関係のみならず、こうした教育産業も進出していくことになるのだろうか。もちろん子連れで滞在する駐在員が増えるにつれて、日本人子弟を対象にした学習塾等が開講されることも予想されるが、これに対して公文式は主に現地の子供たちにモノを教える教室であるためそのパイは限りなく大きい。10年も経ったころ、インドの都市部で教育熱心な中産階級の子供たちが放課後は公文への教室へ向かうのがありふれた光景になるかどうかは別の話だが。
 インドでの操業の歴史が長い一部の企業を除き、欧米や韓国などにくらべて日本からの進出がいかに低調であるか、どれほど出遅れているのかといった記事もあるが、インドを題材とする書き手についても同じようなことが言えるかと思う。人名等の表記に適切でない箇所が散見されるのはともかく、残念ながらちょっと首をかしげたくなる内容の記事もちょっぴり含まれているのは、インドに明るい経済記者が不足しているからであろう。また従来インドものを手がけてきたライターたちの中には、経済に通じた者が少ない。
 やはり中国大陸にくらべると、日本から見たインド亜大陸までの距離感にはまだまだ相当なものがあるのかもしれない。

インド人は本の虫?

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 インドの人々がこんなによく本を読んでいるなんて・・・
 都会には非常に立派な本屋、素晴らしい書物をズラリとそろえる出版社のショールームがあるいっぽう、まともな読み物がないところでは本当に何もない。ちょっと田舎に行けば印刷物といえば地方語の新聞か簡素な雑誌程度しか見当たらないことは珍しくない。日本のように津々浦々までさまざまな書物が浸透しているのとはずいぶん違い、相当不均衡な様子が見られるのがこの国だ。
 それなのに、インドは世界一の読書大国だというのだ。以下、NOP World Culture Scoreによる調査結果である。このデータについて、調査対象の地域や社会層がひどく偏っているのではないかと疑うのは私だけではないだろう。

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ちびくろさんぼ

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 幼いころよく読んだ「ちびくろさんぼ」は複数の出版社から出ていたのだが、1980年代末から「人種差別を助長する」との理由で廃刊となっていた。私はこの本のどこが差別的なのか特に深く考えもしなかったが、この本の復刻版(原作の内容が一部割愛されているが・・・)が出ていることに最近気がついた。
 ご存知のとおり著者は1863年にスコットランドのエジンバラに生まれたヘレン・バンナーマン。牧師の父が世界に広がる英領地域を中心とした宣教活動にかかわっていた関係で海外生活が長かった彼女は、1889年にIMS(Indian Medical Service)に奉職する在印英軍付の医者と結婚し、以後30年間にわたってインドで暮らすこととなった。
 バンナーマン夫妻が駐在していたのはマドラス。現地の気温はもちろん当時の生活環境では子育てには問題が多かったらしく、彼らは子供たちを家政婦とともに過ごしやすいヒルステーションのコダイカナルに住まわせており、ヘレンは暇を見つけては彼らに会うため片道二日の鉄道旅行を繰り返していたという。そうした長い道中、子供たちに読み聞かせるために車内で筆を取って書き溜めたストーリーやイラストの一部が、1898年に「The Story of Little Black Sambo」と題して出版されることになった。
 ロンドンで好評を得た後、この本はアメリカでも出回ることになった。しかし版権の管理がきちんとなされていなかったため、著者の描いたものと違う絵に差し替えられて販売されることにつながった。そうした中でいつのまにか主人公の男の子やその家族たちがインド人から黒人に入れ替わってしまったらしい。
 著者自身は初版が出てから一世紀以上にわたって世界中で愛読されようとも、作品について「差別的だ」との批判がなされようとも想像さえしなかったことだろう。
 その「問題」についてはどう決着がついたのか知らないのだが、長く暑苦しい鉄道の旅の最中、離れて暮らすわが子たちのために心をこめて作り上げた原作。登場人物たちがインド人であろうと黒人であろうと、楽しいストーリーを紡ぎ上げた母親の気持ちに一点の穢れもやましい心もあったはずがない。
 この国で半生を送ったバンナーマン夫人、この「ちびくろさんぼ」以外にも子供たちのために数々の面白い話を創り上げたことだろうが、それらは家族の記憶の中に大切に保存されたのだろう。
 政府関係の仕事に従事する夫と専業主婦の妻という当時の在印イギリス人の典型ともいえる夫妻の日々の暮らしはどんなものであったのか、こちらも非常に興味のあるところである。ページをめくりながらしばし19世紀後半の南インドに思いを馳せてみた。
HELEN  BANNERMAN 1862-1946  .jpg

デリーの古城で

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 最近「インドの酷熱地獄に日本人収容所があった」という本を手に入れた。これを読むまで大戦中にインド日本人収容施設があったことなどまったく知らなかった。非常に興味深いものだったので、内容の一部を取り上げてみよう。
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 独立前夜のインド、首都デリーのプラーナー・キラーで暮らした日本人たちがいた。その数なんと2859人。当時の英領各地で、「敵国の人間」であるがために捕らえられた日本の民間人たちである。
 しばらくして解放され、インドから出国できることになった者が400人ほどあったものの、他の人々はここで425日間過ごしたあと、彼らはラージャスターンのコーター市から国道12号線を80キロほど北東へ向かったところのデーウリーという町近郊へと移った。
 1941年12月8日に起きた日本軍による真珠湾攻撃(現地時間では12月7日)により幕を開けた太平洋戦争。まさにその瞬間を待ち受けていたかのようにシンガポールやマレーシア在住の邦人たちが、地元当局により一斉に拘束された。彼らは船でインドへと連れて行かれる。カルカッタに上陸後に鉄道でデリーへと移送され、プラーナー・キラーの中に設置された抑留者キャンプに入れられることになった。
 やがてビルマから、そしてセイロンからは僧侶を含めた人々、またインド在住の日本人たちも捕らえられた人たち、はてまた遠くイギリスや当時英領下にあったアフリカ地域から送られてきた者もあった。運悪くこの時期アメリカの船舶に乗り合わせていたがために、途中寄航したイギリス統治下のイエメンのアデン港で拘束された挙句にインド送りになったというケースもあった。
 非戦闘員である一般市民がこうした形で強制収容されてしまうのは今ならば考えられないことだが、当時アメリカ在住の日本人たちも似た経験をしたように、そういう時代であったということだろう。なにしろ当時、日本の駐シンガポール総領事も同様に拘束されてインド送りになっている。もっともその「身分」を考慮してのことか、抑留地は過ごしやすい避暑地のマスーリーであった。
 1947年のインド・パキスタン分離独立の混乱時、プラーナー・キラーは地元在住のムスリムたちを保護するための難民キャンプになったという。しかしその数年前には日本人抑留者キャンプとなっていたことは、おそらくデリーの人たち、相当年配の人たちでもそれが存在したことすら知らない人のほうがずっと多いのではないだろうか。外の市民生活から隔離された特別な空間であったからだ。
 外部の情報から遮断されたムラ社会であるがゆえの悲劇も起きている。デリーのプラーナー・キラーから移動した先のラージャスターンのデーウリーのキャンプで終戦を迎えても、日本の敗北を信じない人たちが多かったのだという。祖国の敗戦を事実として受け止めた人とそうでない人々たちの間の抗争は、ついにキャンプ内での流血をともなう暴動にまで発展する。騒ぎの鎮圧のために投入された軍隊の発砲により、19人が死亡するという惨事にいたった。
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 東南アジア各地に旧日本軍にまつわる戦跡その他は多い。タイの「戦場にかれる橋」マレーシアの「コタバル海岸」シンガポールの「チャンギ刑務所」等々。そして今では数はめっきり減ってしまっているものの、占領時代を経験した世代の人たちから声をかけられることもたまにあり、「戦争」について考えさせられる機会は決して少なくない。
 南アジアにそうした場所はほとんど見あたらないが、インドの首都観光に外すことのできないポピュラーな史跡、プラーナー・キラーにまつわる故事来歴の中にこうした史実が加わると、ここを訪れるときまた違った関心が沸いてくるのではないだろうか。
<インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった> 
峰敏朗著 朝日ソノラマ発行 発行年1995年
ISBN4-257-03438-6