ちびくろさんぼ

 Chibikurosambo.jpg
 幼いころよく読んだ「ちびくろさんぼ」は複数の出版社から出ていたのだが、1980年代末から「人種差別を助長する」との理由で廃刊となっていた。私はこの本のどこが差別的なのか特に深く考えもしなかったが、この本の復刻版(原作の内容が一部割愛されているが・・・)が出ていることに最近気がついた。
 ご存知のとおり著者は1863年にスコットランドのエジンバラに生まれたヘレン・バンナーマン。牧師の父が世界に広がる英領地域を中心とした宣教活動にかかわっていた関係で海外生活が長かった彼女は、1889年にIMS(Indian Medical Service)に奉職する在印英軍付の医者と結婚し、以後30年間にわたってインドで暮らすこととなった。
 バンナーマン夫妻が駐在していたのはマドラス。現地の気温はもちろん当時の生活環境では子育てには問題が多かったらしく、彼らは子供たちを家政婦とともに過ごしやすいヒルステーションのコダイカナルに住まわせており、ヘレンは暇を見つけては彼らに会うため片道二日の鉄道旅行を繰り返していたという。そうした長い道中、子供たちに読み聞かせるために車内で筆を取って書き溜めたストーリーやイラストの一部が、1898年に「The Story of Little Black Sambo」と題して出版されることになった。
 ロンドンで好評を得た後、この本はアメリカでも出回ることになった。しかし版権の管理がきちんとなされていなかったため、著者の描いたものと違う絵に差し替えられて販売されることにつながった。そうした中でいつのまにか主人公の男の子やその家族たちがインド人から黒人に入れ替わってしまったらしい。
 著者自身は初版が出てから一世紀以上にわたって世界中で愛読されようとも、作品について「差別的だ」との批判がなされようとも想像さえしなかったことだろう。
 その「問題」についてはどう決着がついたのか知らないのだが、長く暑苦しい鉄道の旅の最中、離れて暮らすわが子たちのために心をこめて作り上げた原作。登場人物たちがインド人であろうと黒人であろうと、楽しいストーリーを紡ぎ上げた母親の気持ちに一点の穢れもやましい心もあったはずがない。
 この国で半生を送ったバンナーマン夫人、この「ちびくろさんぼ」以外にも子供たちのために数々の面白い話を創り上げたことだろうが、それらは家族の記憶の中に大切に保存されたのだろう。
 政府関係の仕事に従事する夫と専業主婦の妻という当時の在印イギリス人の典型ともいえる夫妻の日々の暮らしはどんなものであったのか、こちらも非常に興味のあるところである。ページをめくりながらしばし19世紀後半の南インドに思いを馳せてみた。
HELEN  BANNERMAN 1862-1946  .jpg

デリーの古城で

purana qila.gif
 最近「インドの酷熱地獄に日本人収容所があった」という本を手に入れた。これを読むまで大戦中にインド日本人収容施設があったことなどまったく知らなかった。非常に興味深いものだったので、内容の一部を取り上げてみよう。
—————————————————————————
 独立前夜のインド、首都デリーのプラーナー・キラーで暮らした日本人たちがいた。その数なんと2859人。当時の英領各地で、「敵国の人間」であるがために捕らえられた日本の民間人たちである。
 しばらくして解放され、インドから出国できることになった者が400人ほどあったものの、他の人々はここで425日間過ごしたあと、彼らはラージャスターンのコーター市から国道12号線を80キロほど北東へ向かったところのデーウリーという町近郊へと移った。
 1941年12月8日に起きた日本軍による真珠湾攻撃(現地時間では12月7日)により幕を開けた太平洋戦争。まさにその瞬間を待ち受けていたかのようにシンガポールやマレーシア在住の邦人たちが、地元当局により一斉に拘束された。彼らは船でインドへと連れて行かれる。カルカッタに上陸後に鉄道でデリーへと移送され、プラーナー・キラーの中に設置された抑留者キャンプに入れられることになった。
 やがてビルマから、そしてセイロンからは僧侶を含めた人々、またインド在住の日本人たちも捕らえられた人たち、はてまた遠くイギリスや当時英領下にあったアフリカ地域から送られてきた者もあった。運悪くこの時期アメリカの船舶に乗り合わせていたがために、途中寄航したイギリス統治下のイエメンのアデン港で拘束された挙句にインド送りになったというケースもあった。
 非戦闘員である一般市民がこうした形で強制収容されてしまうのは今ならば考えられないことだが、当時アメリカ在住の日本人たちも似た経験をしたように、そういう時代であったということだろう。なにしろ当時、日本の駐シンガポール総領事も同様に拘束されてインド送りになっている。もっともその「身分」を考慮してのことか、抑留地は過ごしやすい避暑地のマスーリーであった。
 1947年のインド・パキスタン分離独立の混乱時、プラーナー・キラーは地元在住のムスリムたちを保護するための難民キャンプになったという。しかしその数年前には日本人抑留者キャンプとなっていたことは、おそらくデリーの人たち、相当年配の人たちでもそれが存在したことすら知らない人のほうがずっと多いのではないだろうか。外の市民生活から隔離された特別な空間であったからだ。
 外部の情報から遮断されたムラ社会であるがゆえの悲劇も起きている。デリーのプラーナー・キラーから移動した先のラージャスターンのデーウリーのキャンプで終戦を迎えても、日本の敗北を信じない人たちが多かったのだという。祖国の敗戦を事実として受け止めた人とそうでない人々たちの間の抗争は、ついにキャンプ内での流血をともなう暴動にまで発展する。騒ぎの鎮圧のために投入された軍隊の発砲により、19人が死亡するという惨事にいたった。
—————————————————————————
 東南アジア各地に旧日本軍にまつわる戦跡その他は多い。タイの「戦場にかれる橋」マレーシアの「コタバル海岸」シンガポールの「チャンギ刑務所」等々。そして今では数はめっきり減ってしまっているものの、占領時代を経験した世代の人たちから声をかけられることもたまにあり、「戦争」について考えさせられる機会は決して少なくない。
 南アジアにそうした場所はほとんど見あたらないが、インドの首都観光に外すことのできないポピュラーな史跡、プラーナー・キラーにまつわる故事来歴の中にこうした史実が加わると、ここを訪れるときまた違った関心が沸いてくるのではないだろうか。
<インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった> 
峰敏朗著 朝日ソノラマ発行 発行年1995年
ISBN4-257-03438-6

今もどこかで

 世界各地のニュースをテレビやラジオなどで網羅するイギリスの公営メディアBBC。ウェブサイト上でも英語によるカバーはもちろんのこと、なんと43言語でのニュースを発信しており、南アジア地域で使用されているコトバだけでもヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、タミル語、ネパール語、シンハラ語、パシュトゥー語の6言語に及ぶ。
 文字で書かれた記事のみならず、音声でも聴くことができて便利だ。自国の出来事を各国語で流すのではなく、世界各地で国際ニュースを含めた「地元情報」として発信しているのだから恐れ入る。やはり「太陽が沈まない」とまで言われた大帝国を支配していただけのことはある、といったところだろうか。
 利用できる言語の数も、ニュースの充実度もアメリカのVOAと双璧を成している。
 どちらのメディアもインターネット出現や衛星放送が一般化する前から、ラジオの短波放送などを通じて世界各地の特にメディアへの規制が強い国・地域では「信頼できるソース」として定評が高い。
 世界各地の現場から報道しているだけに、不幸にも命を落とす関係者も少なくないようで、1月下旬にはソマリアで取材中のBBC女性記者が銃弾の犠牲になっている。
 真摯な姿勢で報道の現場に直接かかわる人々の意識はともかくとして、自国民の利益に直接つながらない海外でマスコミ事業をわざわざ行うことにはそれなりの意図があるわけだろう。また発信(国)側の都合によりバイアスがかかる可能性は否定できないが、それらを差し引いても自国の国境を越えグローバルな「公益性」が非常に高いことも間違いない。
 そんな中で日本語を含めた22言語によるニュースを発信しているNHKオンライン。世界各地でそれぞれの言語で流されるラジオ・ジャパンのプログラムを聴くことができる。南アジアの言語もヒンディー語ウルドゥー語ベンガル語で聴取できる。国際ニュースの量も質もはるかに見劣りするが、主に日本の国内ニュースが中心なので、外国の人たちに私たちの国で今起きていることを知ってもらうには良いかもしれない。
 NHKワールド「日本語講座」もあり、各言語による日本語の初歩の手ほどきがなされている。講座のヒンディー語バージョンはもちろんインド人を対象にしたものだが、毎週これを聴いている人たちはどのくらいいるのだろうか。
 ともあれインドで、特に都市部を離れると日本を直接あるいは間接的に知るためのソースは少ない。今もどこかで「ニッポン」にひそかに関心を寄せてくれている人たちが、静かに耳を傾けていることだろう。プログラムの今後一層の発展を期待したい。

東京国際ブックフェアはじまる

 昨日、4月22日(木)から東京国際ブックフェアがはじまった。
 このイベントは、29ケ国・地域の業者(フェア案内のホームページには25ヶ国・地域とあるが、急遽増えたらしい)が参加する本格的な図書見本市である。
 …とはいうものの、デジタルパブリッシングにかかわる機材やソフト、編集製作プロダクションの売り込み、雑誌の発行元、英会話教室といった、読書人と直接関わりのない部分も多い。大手出版社が幅をきかせていること、わざわざここまで足を運ばなくても手に入るような本の山、売れ残った(?)洋書の特売などなど、都内の大きな本屋の店先と大差ない。何とかひと工夫欲しいものだ。
 そもそもこのブックフェアは読書人が本を漁るためのものではなく、主に業界人たちの商談の場なので仕方ないのかもしれないが、不景気のためか年を追うごとに個性ある出展者が減ってきているように感じる。
 ずいぶんテンションが低くなってしまったが、デリーのダリヤガンジ近くで語学書を中心としたショールームを開いているSTAR
PUBLICATIONS
が今年もFEDERATION OF INDIAN PUBLISHERSという名前でブースを出しており、様々な本を並べて販売している。展示図書が売れるにつれてブースの隙間が目立つようになってくるので、興味のある方はお早めに。会期は25日(日)まで。

今年もインドの本がやってくる!

 今年で11回目となる「東京国際ブックフェア」が開催される。会場は東京ビッグサイト。会期は4月22日(木)〜24日(日)までの4日間だ。
東京国際ブックフェア
 「国際」と名がついているわりには、毎年展示フロアの大部分を占めているのは国内の出版社。日本で読まれる書籍のほとんどが日本語という「スワデーシー」市場だから当然のことではあるが…。
 海外からの出展は、中国、台湾、韓国といった近隣国からのブースの存在感が強いが、欧米や中東その他地域のブースも健気に頑張っている。日本の市場で原著がそのまま売れるわけではないが、和訳本としての展開も考えられる。読書大国ニッポンはお得意さんなのだ。
STAR PUBLICATIONS
 今回インドからは、「BHALANI PUBLISHING HOUSE」と「FEDERATION OF INDIAN PUBLISHERS」の参加が予定されている。後者はこのブックフェアに毎年来ている「STAR PUBLICATIONS」の出展。デリーのアサフ・アリー・ロードで「HINDI BOOK CENTER」、イギリスのロンドンでは「STAR PUBLISHERS DISTRIBUTORS」という書店を運営している会社だ。
 主にヒンディー語を中心とした語学関係を取り扱っているのだが、東京で開かれるブックフェアには、映画や料理などもふくめたバリエーション豊かな書籍を並べている。日本のインド書籍読者の好みを把握するために、毎年試行錯誤を繰り返しているように見える。お得意客から注文を受けた書籍以外は、すべて即時即売というのもうれしい。
 南アジアの他の国ぐに、パキスタン、バングラデシュも出展してはいるものの、例年展示のみで販売していないのは残念。ともあれ、日本にあって出展者のインド人紳士とおしゃべりしながら、カタイ本からサブカルチャーまで、さまざまな本を手にとって吟味するのは貴重な機会(?)といえる。「本」に興味があれば、ぜひ足を運んでみるといいだろう。