空が壊れた 2

 テレビは「前例のない豪雨」であると伝えている。ハイウェイのフライオーバーの向こうの部分がすっかり水に浸かっている。その手前では身動きとれなくなった大小のクルマたちが車線も何も関係なくメチャクチャな姿勢で数珠つなぎになっている様子が画面に映し出されている。
「今日のフライトなのだ」と宿を朝出て行った人が夜中戻ってきた。途中で先に進めなくなり、ひどいところでは「腰までの高さ」の水をかきわけ徒歩で帰ってきたのだという。
 仮に飛行機が飛んだとしても空港までの足が心配だったので、明日は空港近くのホテルに泊まろうなどと考えていた私だが、少なくとも本日(7月27日)時点ではムンバイ郊外は同じ市内にありながらも異次元空間となっていることがよくわかった。道理で電話も通じないわけだ。
 フライトのキャンセルのため、空港にも人々があふれているという。飛行機の運航が再会するまで、付近のホテルも当然満室なのだろう。
 昨夜、市内の各駅では大変なことになっていたらしい。午後二時に鉄道がすべてストップしてからというもの、可能な範囲で折り返し運転していたバスとタクシー以外に交通機関がなくなったからだ。洪水により郊外への交通がすっかり遮断されてしまったため、帰宅しようとしていた人々は駅で夜を過ごすしかなかった。そのため運休中とはいえ、構内は寸分も隙もないほどの大混雑であったという。外は相変わらずの豪雨が続いており、人々は行く先もないのだから仕方ない。
 宿のボーイも「昨夜チャーチゲート駅に行ったけど、あきらめて帰ってきた。ここの床で寝るほうが駅よりはずっとマシだからね。自宅?ゴレガオンだよ。どうやらウチも浸水してるようだなぁ・・・」とボヤいている。
 なんでも26日のコラバでの降水量は70数ミリだったものの、郊外では950ミリに達したとのことだ。記録的な豪雨には違いないと思っていたが、驚いたことにインド全国の観測史上最高だと新聞に書かれていた。
 大きな河川がないムンバイは決して洪水に弱い街ではないと思うが、この雨ではいたしかたないだろう。テレビで排水施設の不備が指摘されているものの、数十年に一度あるかないかの豪雨対策よりも先になすべきことがインドの街には沢山あるのだから、あまり無茶を言ってはいけない。
 外ではまだ激しく雨が降り続いている。いい加減休んでくれればいいのに。やはり空が壊れたのだろうか?
<続く>

空が壊れた 1

 非常に激しい豪雨であった。日本の台風でさえも見たことのないまさに滝のような降りがほとんど休むことなく何日も続く。そして時に雷がとどろく。
「空は疲れないのか?」そんなことをふと想い、脳裏に浮かんできたのは真っ黒な雲の上でトラ皮のパンツをはいた鬼が飛び跳ねながら太鼓をドコドコ叩いているイメージだ。
 これまで見たこともないスケールの大雨だけに、天空で何やら奇怪な生き物が悪戯しているような気さえするのだ。
 7月25日時点で、すでに洪水のためマハーラーシュトラ、ゴア間の道路が寸断されるとともに、ムンバイからゴアへと向かう鉄道も運休。
 翌26日の午後2時あたりから、ムンバイの郊外電車やこの街発着の長距離列車等のすべての鉄道が運休となった。ほぼ時を同じくして空港も閉鎖となり、国際線・国内線ともにストップしてしまう。外国からムンバイへと向かうフライトはアーメダーバードやデリーへ着陸することとなった。ムンバイ・プーネ間の高速道路も通行止めである。
 ニュースを見ていると、同じ市内でも郊外のほうはさらにひどい状態であることがわかった。滞在しているコラバでは特に変わったことはないのだが、場所によっては腰までの高さの冠水だ。ダーダルのあたりの洪水の状況が映っている。電話や携帯による通話にも支障が出ている。アンデーリーやサンタクルーズといった空港付近の被害が特に大きいようだ。このあたりに電話してもまったく通じなかった。冠水による漏電等の事故を防ぐために、電力会社が意図的に通電を停止しているそうだ。
 交通機関のストップによる市民生活の大混乱を駅や主要道路など現地からリポートしているキャスターは、はたしてどうやってその場所にたどりついたのだろうか。鉄道駅には人々があふれ、先に進めず立ち往生したクルマの中で苦りきった顔をしたドライバーの表情も伝えられている。そんな中に有名人たちの姿もあり、大渋滞の中でクルマに閉じ込められたアーミル・カーンがそれでも愛想よくメディアの質問に答えていた。
 市内では向こう2日間、学校が雨のため休校となる。役所や企業等の職場についても市当局が「公休日」を宣言している。
 27日の朝、まだまだ事態は変わらず。交通はすべてストップしている。翌々日にデリーに行くフライトの予約があったので、エアインディアの事務所に出向く。洪水で足止めされているのか職員はほとんどいなかった。彼らにフライトや空港の状況について質問しても、私がすでにテレビで見聞きしている事柄以上のことは何も知らない様子。結局、「詳しくはニュースを注意して見ていてくれ」とのことで、いやはやなんとも頼りない。
<続く>

二者択一

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インドで、知人の家でも宿泊施設でも、ベッドにエアコンの冷風が直接当たるようになっていることが多い。吹出し口が手の届く距離でしかも横たえた身体とほぼ同じ高さということも珍しくない。
 暑い外から戻ってきて、冷気と風量ともに最大にすれば、まさに生き返るように気持ちが良い。しかしそのまま眠り込んでしまえばあの世行きといっても大げさではないだろう。特に酔っ払っていたりすれば・・・。 分厚い毛布にくるまっていれば助かるのかもしれないが、外はひどく暑いことを思えばずいぶん無駄なことだ。
 そういえばクーラーはともかく、天井からぶら下がるパンカー(扇風機)だってかなりのものだ。ゆっくり回していても一晩中動いていればヤワな私は必ずカゼをひいてしまう。せめてタイマーくらいついていればいいのにと思う。
 就寝直前まで、部屋の中をエアコンでガンガン冷やしてからスイッチを切ることにした。寝入りはいいが、次第に室温が上がってきて目が覚める。窓を開けて、そのころには涼しくなっている外気を入れると気持ちの良いものだが、すぐに耳元でブンブン蚊が騒ぎ、首筋やつま先を刺され痒くてたまらない。天井のファンを動かすと蚊は吹き飛ぶ。再び眠りに落ちていく。
 突然腹痛で目が覚めてトイレに駆け込む。お腹が冷えるとてきめんに下痢してしまうのだ。しぶる腹を抱えてしばし便器に座ったまま「ウーン」なんて唸っていたりする。
 落ち着いてから部屋に戻る。「待ってました」とばかりに蚊たちが襲来してくる。電気蚊取りをオンにする。窓を開け放していると際限なく入ってくるので、やはり閉め切ってエアコンを入れることにする。室温が思い切り下がれば、蚊は天井や壁に張り付いたまま動かなくなる。やれやれ・・・。
 部屋に備え付けの薄いブランケットにくるまってもひどく寒い。荷物の中から寝袋を取り出して中にもぐりこむ。やけに暑いかひどく寒いかの二者択一、辛い一夜である。

昔はずいぶん静かだった

インドの街は活気に満ちている。パワーみなぎる人々の営みが繰り広げられている。往来を行く市民たちのざわめきや商店の中から聞こえてくるお客と商店主のやりとりはさておき、バザールの店先に置かれたスピーカーから流れる音楽、クルマのエンジン音やクラクションといった電気音や機械音こそが街中の騒音の主役だろう。大きな音が公害だという観念が薄いということもあるが、インドの街の風物の一部となっていることは確かだ。
これらがなかったころはさぞ静かであったことだろう。うるさい装置が世の中に普及したのはそんなに昔のことではないから、20世紀初頭くらいまではインドの大都会といっても案外のどかなものであったのではないだろうか。
モスクから流れるアザーン(イスラーム圏でモスクにおける拡声器の使用が一般化したのはいつごろなのだろうか?)やお寺から聞こえてくるマントラやバジャンだって、スピーカーを通さない肉声だったはずなので、敷地の外からでは耳を澄ましてみてもなかなか聞こえなかったことだろう。
現在では人口1300万人を越えるデリーだが、1901年のセンサスによれば当時の人口はわずか20万8千人あまり。中世の様子ともなれば推して知るべしといったところだろう。その頃、都会の昼間に聞こえてくるのは小鳥たちのさえずりくらいだったのかもしれない。
ムガル朝がこの地を治めていた時代、城壁で囲まれた華やかなりし世界有数の都シャージャハーナーバードにあっても、城門が閉まり外界と遮断される頃には街地はすっかり静まり返っており、もちろん排気ガスをはじめとする大気汚染だってなかった。
インドに限ったことではないが、そんなのどかな環境が失われたのは「ごく最近」のことらしい。

デリー・ダルバール

「忘れ去られた名所がある」と友人が連れて行ってくれた先はオールドデリーのアウターリングロードの北縁あたり。このあたりまで来れば、デリーの市街地もそろそろ終わりといったところだ。「ロンリープラネット」のガイドブックにも小さく取り上げられている割には、途中の新興住宅地で人に道を尋ねるがその場所について知る人は少ない。
友人は適当に見当をつけて進んだ後、クルマを止めて道端の木陰で一休みしているおじいさんふたり連れに声をかけてみると「あっちだよ」と指差してくれた。
「かなりのお年寄りだと知っていたりするんだ」と彼は言う。
やがて私たちが到着したのは、1911年12月にジョージ五世が来印した際に、政府高官、各国大使、藩王等も含めた当時の有力者たちを来賓に迎えてインド皇帝位へ就いたことを宣言する「Delhi Coronation Durbar」が盛大に開かれた場所である。イギリスのヴィクトリア女王がインドを支配する皇后であることを宣言した1877年のデリー・ダルバール、彼女の死後1903年にエドワード七世の新しいインド皇帝としてのそれもまた同地で行なわれている。
すぐそばまで宅地が迫ってきているものの、たたずまいはおそらく当時からほとんど変わらないことだろう。一番近いタウンシップはガーンディー・ヴィハールだ。
現在「Coronation Memorial」として知られているこの場所はだだっ広い空き地になっており、あたりに住む子供や若者たちがクリケットに興じているのを目にするだけだが、その脇にいくつも置かれているかつてインドを支配した歴代の総督たちの大きな像が寡黙ながらもこの土地の由来を語っており、古いモノクロ写真に残されたデリー・ダルバールの様子がまぶたの裏に浮かんでくるような気がする。
▼Delhi Durbar
http://www.indhistory.com/delhi-durbar-presidency-bengal.html