マオイストたちの裏インド 2

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 社会的なテンションがあるところには、それなりの理由があるのだ。マオイストの影響下にある地域の住民にとって、銃器や暴力へ怖れからやむなく従っている、口を閉じているといった日常があったとしても、彼らがさらに力を伸ばしていく背景には、やはり特定層からそれなりの支持を受けている事実があるはずなのだ。
 話は飛んで、現在カシミールの治安状況で問題となっているのは極左勢力ではなく原理主義過激派だが、この点については同様だ。どちらにしても自分たちが「生きるために必要だ」と信じているものの、客観的に見れば誤った方法で頑張ってしまっていると言えるだろう。
 彼らはふざけているわけでもなく、怠けているわけでもない。きわめて真面目で真摯な姿勢で邁進しているのだから、当局による「悪いから叩く」対症療法だけでは延々とイタチごっこが続くだけだ。こうした勢力が跋扈する土壌を作らないよう、社会の体質を改善する必要があることは誰もがわかっているはず。こういうときこそ頼りになるのが政治の力であるはずだが、実に様々な勢力の微妙なバランスのもとに成り立っているがゆえに難しい。


 映画The Terroristは邦題「マッリの種」として日本でも公開された。1990年にラジーヴ・ガーンデイー元首相が総選挙のための遊説中に起きた暗殺事件をヒントにした作品だ。
 中央政府に反発して分離活動が活発なスリランカ北部に住む利発な少女マッリは、幼いころ両親と兄弟を同国の民族対立の渦の中で失った。同じような境遇の者たちとともに、ゲリラ兵士として育ったのち、インドの要人を狙う自爆テロ作戦に志願する。
 常に周囲で不条理な死の影と怨念がつきまとう故郷を離れたマッリは、平和なインドで潜伏した先のファミリーの中で、うるわしい家族愛や人を思いやる心に触れた。この中で悲しみと怨恨で凝り固まっていた主人公の心が次第に解けていく様が描かれている。
 人間らしさに目覚めかけたマッリは、人間らしく生きることの意味、数日後には消えてなくなる自分自身を想い、「これでよいのか」と揺れる心が描かれている。そんな様子を見透した活動家たちは、彼女の心を自分たちの側へと巧みに引き戻す。結局、主人公はテロを実行すべくその家を出て行く。
 テロリストたちも私たちと同じ人間。暮らしていく中で、「同志」以外にもさまざまな人々とのかかわりがあり、それなりの人間関係や信頼関係が築かれるだろう。そんな中でイデオロギーの名のもとにテロという非道を行ない、大切な自らの人生に終止符を打つことができるものなのだろうか。
 マスコミが自爆テロの背景にあるものを「狂信」と片付けて、いとも簡単に思考停止しまうのは怠慢だと思う。人生経験の浅い若者にあっても、人生そんな単純なものではないだろう。けれどもこんな大それた行為に駆り立てられてしまうことには、もっと深刻にしてややこしい事情が背景にあるのではないかと思う。
 分離主義、原理主義、共産主義・・・思想は違っても過激派が活動する土壌には共通するものが見えるようだ。テロに対してとおりいっぺんの非難を繰り返すのではなく、暴力装置が消滅することなく延々と再生を繰り返し、こんな時代に勢力を拡大していることの意味をトータルに、そして深くえぐることこそがメディアの役割であるはずだ。
<完>

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