英領インドに旅する 3 移動する

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 鉄道駅では三等車乗客に対するアメニティは何もなかったが、一等、二等には待合室その他の施設があった。有料で新聞を読むことのできるREADING ROOMを設置している駅もあった。これは今のネットカフェに相当することになるだろうか。
 鉄道利用者数全体から見れば圧倒的に少ない白人乗客に対して手厚いサービスがなされており、インド人乗客のものとは別に専用のリフレッシュメントルーム(カンティーン)やリタイヤリングルームがあった。善し悪しはともかく、外国勢力による植民地支配とはこういうものなのだろう。
 食堂車やリフレッシュメントルームのケータリングサービスは、在印イギリス資本のスペンサー商会(Spencer & Co., Ltd.)による請負業務であった。
 この会社は創業者のジョン・ウィリアム・スペンサーにより1863年にマドラスで主にイギリスからの輸入雑貨を扱う商店を開いたのがはじまりだ。ごく短期間に急成長した同社は大規模な買収合併を繰り返して、欧州とアメリカ以外にある小売業者としては最大とまで言われるようになり、まさに当時のインドを代表する有力企業となっていた。デパートや商店などといった販売業に加えて、前述のケータリング、葉巻製造、ホテルやレストランの運営等にも手を伸ばすなど、非常に多角的な経営でも知られていた。 スペンサー商会にゆかりのあるホテルとしてはコネマラホテルが有名である。
 インド独立とともに経営陣の現地化が図られ、もちろん今でも存続している。周囲の地元資本の成長もあり、同社の影響力は相対的に低下して今ではかつてのような影響力はなくなってしまっているのだが。スペンサー商会発祥以来のゆかりの地であるマドラスのマウント・ロード、つまり現在のチェンナイのアンナー・サライにある大きなショッピング・コンプレックスのスペンサー・プラザは同社による経営である。
 このスペンサー商会についてまた別の機会に取り上げてみたい。
 メーターゲージの区間にはそれなりの料金を払えば専用のツーリスト・サルーンを連結させることも可能で、お金持ちがこれを利用して大名旅行をすることもあったのだろうか。
ちなみにロンドンに本社を置く南インド鉄道会社の現地本部があったティルチラッパリは、世界最大級のルビー市場でもあったそうだ。
 英領から仏領への「国際列車」についての記述もあり、旅行者が越境するにあたって必要な税関等の手続きについても触れられているのは面白い。
 南インド域内には、COCHIN STATE RAILWAYのように別会社となっている路線もいくつかあるなど、今の国鉄のように経営が統合されているものではなかったようだ。


 当時、南インドの港町の間での客船の行き来が盛んであっただけではなく、国際便も多数就航していた。鉄道と並んで主要な移動手段としての地位を占めていた船旅の様子もうかがえる。
 この頃、西海岸のコーチンはヨーロッパ、中国、アメリカ等に直接航路がある世界に開かれた玄関口であったという。クイロンは言うまでもなく古からの貿易港だ。南インド観光のハイライトのひとつ「バックウォーター」でも広く知られているが、こうした水路は悪天候時に船舶の安全な係留所としての役目も果たしていたという。
 昨年末に津波で大きな被害の出た東海岸のナーガパトナムは今では漁業が盛んなことで知られるくらいだが、当時はマドラス管区でもっとも大切な港のひとつだったという。ここからセイロン行きの船が出ており、ビルマやシンガポールとの物流も盛んだったという。この町はかつてディストリクトの中心地だったが、後にトランケバールに移転、そしてタンジャーウル・ディスとリクトに吸収されたことは、この町の凋落を象徴しているようである。
 この町からほど近いPORTO NOVOからも、セイロン、アチェー、ペナンやシンガポールと船のルートで結ばれていたのだといい、トゥティコリンに出入りする日本船についての記述もある。停泊中に上陸して町を見物する日本人船乗りの姿もあったことだろう。
 仏領地域からもポンディチェリーからラングーン、ナーガパトナム、そしてカライカルからペナン、シンガポールへの蒸気船の接続があったという。
 現在のタミルナードゥ沿岸地域は、田舎町でも海外へとダイレクトに門戸を開いていたことがわかる。現在私たちが想像するよりも南インドの港町はずいぶん国際色豊かだったのかもしれない。
 鉄道と同様、船旅にも少々差別的な記述がある。マンダパムからセイロンに行くには、客船の三等乗客のみ検疫があったのだそうだ。
 当時のバスについては、おそらく車両の性能や燃料補給の関係もさることながら、道路も町を出るとあまりいい状態ではなかったのだろう。どの項を見ても走行距離は長くても60キロ前後のようで、これでは一息で遠くまで移動することはできない。場所によっては運転手付きの自動車をチャーターできるようになってきていた反面、現地で利用可能な交通機関が「牛車」のみという地方もかなりあったようだ。
 こうした具合から察すると、鉄道や自動車などが出現する前のインドにヨーロッパ人たちによって築かれた街のほとんどが海や大河などに面しており、その中でも統治・行政機能の中心を担う部分がことごとく水際近くに集中していた理由は、「交通の便」の一言に尽きるのだろう。
(続く)
書名:Illustrated Guide to the South Indian Railway
ISBN:8120618890
出版:ASIAN EDUCATIONAL SERVICES

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