英領インドに旅する 2 泊まる・食べる

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 宿泊について、マドラスにはイギリス人を中心にしたヨーロッパ人経営のホテルが相当数あったらしい。19世紀半ばまで、欧州勢がインドで築いた街の中で最大規模を誇ったと記されているポンディチェリーに、GRAND HOTEL DE L’EUROPEと HOTEL DE PARISといった高級ホテルがあったそうだが、これらは今どうなっているのだろうか?
 当時各地自治体や藩王国などが運営していた宿泊施設「トラベラーズ・バンガロー」についての記述がよく出てくる。旅行そのものが盛んではなかった時代、キャパシティは数名程度とごくわずかだ。
 現在の各地の州政府の観光公社によるホテルの多くに、昔は「ツーリスト・バンガロー」というよく似た名前がつけられていることが多かったが、この古くからのシステムの系譜を引き継いだものなのだろうか。いつか調べてみたい。
 だがどうも解せないことがある。場所にもよるが「3日まで宿泊無料、それ以降は所定の料金がかかる」と記されていることが多いのだ。つまり3泊以内でどんどん移動していけば宿代はまったくかからないことになる。営利を目的としたものではなかったのかもしれないが、実際のところどうなっていたのだろうか?
 仏領のカライカルには欧州人旅行者用宿泊施設はなく、唯一のトラベラーズ・バンガローはフランス人役人の出張者専用であったというから、当時から各地にあった公務で訪れる人たちのためのP.W.Dレストハウス、ダーク・バンガローのような性格を持つところもあったのだろう。


 そして公営のトラベラーズ・バンガローはイギリス人を中心とした白人たちが対象であり、たとえ運営母体が同じでもインド人用の宿泊施設はそれとは別のものが用意されていたようだ。非常に差別的ではあるが、そんな世相であったからこそ独立を求める機運が高まっていったのだろう。民間のものではインド人用にはバラモン用、ムハンマダン(イスラム教徒)用等々、様々な階層ごとの宿があったというが、「バラモンには無料の食事」を供給する宿泊施設もあれば、すべてのヒンドゥー教徒を無料で受け入れるがアウトカーストはお断りという巡礼宿という具合に、現地の人々の間でも格差的な待遇は日常茶飯であったようだ。
 ところで当時、日本人などのような非白人系の外国人がこの地を訪れたら、どういうところに泊まればよかったのだろうか?
 旅行の大きな楽しみのひとつ、食事はどんな具合だったのだろうかというと、この本を読む限りでは、大都会を除けば娯楽としての外食産業がほぼ不在であったことがうかがわれる。
「コックがいないので食事は自前で調達」「鶏肉、タマゴ、牛乳は現地で入手可能」と書かれている箇所が多く、自前の使用人による料理か自炊が前提で、旅先でグルメ三昧などという時代ではもちろんなかったようだ。寝具や調理器具持参が当然の時代、身の回り品だけでかなりの大荷物になるので、使用人を連れての旅というスタイルが普通であったのかもしれない。
 イギリス人たちは食事に関して淡白だとは思うが、各地の旨い名物料理についての書かれた記事のひとつもないのは奇異である。
「ワインやスピリッツは持参すること」というくだりもあり、やはりお酒は当時のイギリス人の日常においてもやはり大切なものであったようだ。
 バラモン向け等々、インド人各層ごとを対象にした食堂についての記述はところどころ見受けられる。その中でたまに「すべてのクラスのインド人向けの食堂」と書かれているところもあるが、あえてこう記すからにはあらゆる出自の人々が同じところで食べるようなところは当時珍しかったのだろう。
(続く)
書名:Illustrated Guide to the South Indian Railway
ISBN:8120618890
出版:ASIAN EDUCATIONAL SERVICES

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