違いを越えて

 以下の動画は、デリーの地下鉄の女性専用車両に乗車している男性たちに対する取り締まりの様子だそうだ。 

Men beaten off women’s train in India (YouTube)

車両の中の男性たちが手荒に叩き出されている。なんとも哀れというか、みっともない有様ではある。後半の映像では、おそらく他の車両がひどく込み合っていて、ここにしか乗り込むことが出来なかったりしたのではないかと思うが、ずいぶん沢山の男性たちの姿がある。 

しかしラッシュ時にこそ女性専用車両の価値があるため、このくらい思い切った手立てが必要なのだろう。ジェンダーの違いによって生じる著しい不都合や不利益がある場合、これを是正する手段は不可欠だと思う。 

今やどこの国でも男女平等ということが言われているが、たとえばこの女性専用車両のように、ジェンダーによるこうした逆差別もときには必要であることは誰も否定しないだろう。 

そんなことからふと思ったのが、何をもって平等とするかということだ。雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用均等法)が1999年に大幅改正された。これによって従前は努力規定であったものが禁止規定となった。 

あれから10年以上経つが、求人の際に性別は当然書かれていなくても、業務内容の関係上から実際に採用されるのはほとんど男性ばかり、あるいは女性ばかりというケースはよく耳にするし、待遇や昇進について事実上差があるというケースは少なくないようだ。もちろんそれも職場によりけりではあるが。 

しかし総体的には、これにより女性の社会参画が促進されたとされるし、反対にそれまで女性の職場とされていた分野への男性の参加も増えたことも間違いないようだ。法の下に働く人々の間のジェンダーの違いによる格差が、少なくとも建前上は否定されたことの意味は大きい。 

だが人は社会人であるとともに家庭人でもあり、その中での役割の違いというものもある。何も女性が家事の大半を担うべきであるなどと言うわけではない。子供に対して父親だからこそできること、母親でこそ可能なことなどいろいろある。また子供たちから見て父親にしてもらいたいこと、母親に期待することなどもいろいろ違うこともある。私たちの幼い頃を思い起こせば胸に浮かぶことはいろいろあるだろう。 

そのあたりも考え合わせると、1日24時間という限られた枠の中で、世の中の男女が同じ働き方をすると、しわ寄せが行くのは結局のところ家庭ということになってしまわないだろうか。そもそも結婚することさえ難しくなってしまうことはないのだろうか。 

不況が続き、雇用や収入に不安があるとはいえ、今のところ日本は平和で衣食住事足りた社会である。それにもかかわらず少子化に歯止めがかからないということは、生物学的には非常に矛盾した状況だろう。 

そんな中で、私たちから見て二世代くらい前の『人々の暮らし』から学ぶことも少なくないのではないかと思う。社会のありかたや仕事のやりかた等は時代とともに移ろうが、昔の人たちのやりかたが間違っていたわけではなく、今とは違った豊かさや温かみがあったはずだ。文化や伝統と同じく、世代を超えて受け継いでいくべき先人たちの『ワークライフバランス』の豊かな知恵があるのではないだろうか。 

ジェンダーの違いを越えた本当の『平等』や『均等』とは、必ずしも今の私たちがそうであると受け止めているものとは少し違うものがあるような気がしてならない。

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