ラージーヴ・ガーンディー没後30年

THE WEEK 2021年5月30日号

インドのニュース雑誌「THE WEEK」5/30号は、没後30年ラージーヴ・ガーンディー元首相の特集。

1984年に首相だった母親インディラー・ガーンディーが暗殺されたことを受けて、息子のラージーヴが担ぎ出されて、40歳で首相職(1989年まで)に就く。1980年にインディラーの後継者となると目されていた弟のサンジャイが自家用機で墜落死することがなければ、政治野心とは無縁で、国営インディアン・エアラインス(後に同じく国営エア・インディアと経営統合)のパイロットとしての生活を愛していたラージーヴは、定年まで航空会社勤務を続け、息子のラーフルも娘のプリヤンカーも民間人として生きることになっていたことだろう。

国のトップとしては異例の若さ、政治家としての色がまったくついていないフレッシュさと清新なイメージが大衆には支持されたようで、比較的好評なスタートを切ったものの、当時は力のあった左寄り勢力に押されて1989年の総選挙ではナショナル・フロント(という政治連合)を率いるジャナタ・ダルを中心とする左派勢力に惜敗。しかし寄り合い所帯のナショナル・フロント政権は不安定な政権運営の後に1991年に瓦解という短命に。

そんな中で政権復帰を目指す国民会議派総裁として全国遊説中、タミルナードゥ州での政治集会の場に潜り込んでいたスリランカのテロ組織LTTEの女性自爆テロ実行犯による標的となり死亡。享年46歳。「ガーンディー王朝」と揶揄された一家の嫡男。世界有数の大国インドを率いる立場にあり、今後さらに大化けしていく可能性を秘めた人物であったが、政治家としての評価が定まらないうちにこの世を去った。

ラージーヴは若い頃に英国留学していた時期に、後に妻となるソーニアーと知り合う。結婚に際して、ソーニアーはラージーヴに対して「政治には一切関与しないこと」を条件としていたことはよく知られているが、結果として夫のラージーヴは首相となり、そして暗殺により逝去。跡を継ぐことを固辞していたソーニアーだが、中央レベルでは国民会議派の弱体化とBJPに代表されるサフラン右翼勢力の台頭、地方でも会議派の退潮著しく、州与党の座を明け渡すケースも相次ぐという党の危機の最中、会議派幹部たちに拝み倒されて政界進出を決めたのは1998年。いきなり国民会議派総裁に就任している。

このときに外国出身のソーニアーが「ガーンディー家に嫁いだ」がゆえ、会議派トップに収まることを潔しとしない重鎮たちを含む反対派の多くが党を去っており、執行部の求心力と党勢も低下した厳しい環境の中での船出となった。そんな中、当時はお飾り、シンボルに過ぎないと目されつつも次第に実権を掌握し、2004年の総選挙で中央政府与党の座に復帰し、これが2期続くのだが、マンモーハン・スィンを首相に立てたうえで、これを操り人形の如く操作する「影の首相」として、インド政治を牽引する存在にまでなった。

「イギリス遊学」していたイタリアの小金持ちの家の軽薄な女の子(というインドでの認識であった)が、インド政界の御曹司と知り合って結婚。当時のインドとしても露出が多過ぎる彼女の装いが注目され、「インディラーの息子のお嫁さんは今日もミニスカート姿」というような写真がしばしばインドメディア上で話題になっていたようだ。なかなかの美貌の持ち主でもあったことからも世間の耳目を集めやすかったのかもしれない。

会議派入りの後は、それまでの洋装を改め、メディアを通じて流れるソーニアーの姿はいつもサーリー姿で、ぎこちないヒンディー語でのスピーチが「つたない」との評はありながらも、立ち振る舞いにも義母インディラーの面影を感じさせるようになっていった。

そんな彼女が結婚後に予定していたのは、インディラーの後継者の妻ではなく、パイロットの奥さんとしての安定・安心の生活だったのだが、あれよあれよという間に、本来ならば夫の弟が継ぐはずであった「家業 国民会議派総裁」を任されて狼狽するも、ひとたび腹を括ると義母インディラーを彷彿させる「インドの女帝」へとのし上がっていくストーリーは、大変な驚きに値するものであり、まさに「事実は小説より・・・」であった。没後30年経つラージーヴ自身も、天界から自身の妻の活躍ぶりには感謝し続けているに違いない。

そのソーニアーもすでに74歳。一度は会議派総裁の座を愚息ラーフルに譲るも、2019年の総選挙の大敗を受けてラーフルが総裁職を放り出すことにより復帰せざるを得ず現在に至っていることについては、ラージーヴも遠くから胸を痛めているのではないか、とも思う。

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