「ヒルステーション」としてのラーンチー③

英領期の名残を求めて次に訪問したのはゴスナー福音ルター派教会(Gossener Evangelical Lutheran Church)。「ゴスナー」という部分から想像できるとおり、ドイツから渡ってきた宣教師たちによる福音派の教会だ。植民地時代のインドでは、英国国教会だけでなく、実にいろいろな国からの教会が活動していた。

中を見学してみるつもりだったが、ちょうど結婚式が進行中であった。しかも外で何組も待っているため、それぞれの式が順番に執り行われた後、それぞれの披露宴の会場へと向かうのだろう。敷地内は賑々しく、楽しげなムードに満ちていた。末永く幸せに!!!

ラーンチーには、「War Cemetery」として知られる連合軍墓地もある。ここを訪問すると言ったら、地元の複数の人たちから「あのあたりはミヤーンローグ(ムスリムの兄ちゃんたち)が多いからバチケーレへナー(気をつけて)」と言われた。このあたりは確かにムスリム地区だ。ガラの悪いのが多いのかどうかは知らないが、ときどき問題が起きたりしているのかもしれない。

兵士たちの墓碑を見て回ってみると、ずいぶん若くして亡くなった人たちが多い。18歳、19歳、25歳、21歳、23歳・・・。中には40代の者の墓碑もあるが、言うまでもなく最前線で戦うのは階級の低い若者たちなので、当然そういうこととなる。英国系の名前が多いが、英国人、豪州人、ニュージーランド人などが含まれる。墓標の多くには十字架が刻まれているが、少なからずダビデの星のものもある。ユダヤ教徒の兵士たちだ。また当時のアフリカの英領地域から出征した人たちのものもある。

 

私たちの祖父の世代の人たちが、この墓碑の下に眠る人たちと死闘を繰り広げた。世話人によると、埋葬されているのはビルマ語戦線及び日軍によるインパール侵略の防衛にあたった兵士たちであるとのこと。日本ではインパール作戦は全く無謀な、最初から勝ち目のなかった作戦であったと言われているがそうではなかったという話が防衛する側にはある。

守備側にとっては、インド東部全体が日本軍の手に落ちるかもしれないと、大変な危機感を持ってインド各地からはもちろん、東南アジアやアフリカなどの英領地域から兵員をかき集めて、これまた必死に防衛に努めるという、英国側にとっても「負けることの許さるない厳しい戦い」であったのだ。

個人的には相互に傷つけ合う理由さえない若者たちが上官の命令により、国のためという建前のために大切な命を落としてしまったのだ。戦の大義はどうあれ、戦争で命を落すことは「究極の無駄」だ。個人の命の重さは国家の大義にはるかに勝る。何が起きても「国のために死ぬ」などということは決してあってはならない。

以前、ナガランドのコヒマにある連合軍墓地を訪問したことがある。記念碑に刻まれていた言葉が胸を打たれた。兵士自身が残した言葉かどうかはわからないが、若くして亡くなった兵士たちの無念さが伝わる一文だ。

WHEN YOU GO HOME

TELL THEM OF US AND SAY

FOR YOUR TOMORROW

WE GAVE OUR TODAY

命を投げ出すこととなった彼らへの供養があるとすれば、戦争のない未来が永劫に続くことしかあり得ない。

連合軍墓地のすぐ近くには、英領期から続くクリスチャンの墓地もあり、広大な緑の芝生の敷地の中に白い十字架や墓標が散在していた。残念ながらここの場所に気が付いたときには夕方になっており、ゲートも閉鎖されていたため見学することはできなかった。

こらちは英領期から続く現地在住クリスチヤンたちの墓地

〈続く〉

内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください