ムガル最後の皇帝 バハードゥル・シャー・ザファルの墓所

ムガル最後の皇帝ザファルの墓はミャンマーのヤンゴンにある。

バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー (indo.to)

ザファルは、ウルドゥー詩人としても高名だが、一部ではスーフィーの聖人としても崇められている。彼が埋葬されている場所は、その聖人としてのザファルを祀るダルガー(聖者廟)となっており、金曜日にはヤンゴン在住のインド系ムスリムたちが多数出入りする。シュエダゴォン・パゴダから南へ1.5kmほど進んだところにある。ここにそのロケーションを示すリンクを示しておこう。

1857年に発生したインド大反乱の名目上の旗印として担ぎ出された当時のムガル皇帝であったザファル。同年9月にイギリスは王宮であったラールキラーを陥落させる。数日後にデリーがイギリスに制圧後すぐに捕らえられ、王妃ズィーナト・メヘルと嫡子のミルザー・ジャワーン・バクト、そして側室の子であるミルザー・シャー・アッバースとともにデリーからビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)に島流しとなる。ザファルは1862年に同地で亡くなり、秘密裡に埋葬された。

イギリス当局は流刑先にあっても元皇帝の死後における影響力を危惧し、その後30年間ほどこの場所を立ち入り禁止した。そして亡骸が埋葬されている地点を正確に示すことはなかった。そのため「このあたりに埋められたらしい」といった程度の情報しか人々は知ることができなかったようだ。時の流れとともに、事実を知るわずかな人々もこの世を去っていく。

やがて1935年にようやくバハードゥル・シャー・ザファルの子孫にあたる人物が運営していたムスリム団体による管理が認められ、この地所が政府から引き渡される。その後長らくムガル最後の皇帝の正確な埋葬地点は不明だったが、ようやく1991年にレンガ積みからなるオリジナルの墓石が地下から発見されることとなった。その年にインドの援助により礼拝所が建設されることとなり、現在の姿となっている。

さて、異国で失意のうちに生涯を閉じることになったムガル最後の皇帝ザファルだが、大反乱が起きる前、すでに墓所がデリーに用意されていた。以下の画像がそれである。

上の画像左上から右下へ

アクバル・シャーII
(在位1806 年~1837年)
第16代ムガル皇帝 (バハードゥル・シャー・ザファルの父)

シャー・アーラムII
(在位1760年~1806年)
第15代ムガル皇帝(バハードゥル・シャー・ザファルの祖父)

バハードゥル・シャー・ザファル(バハードゥル・シャーII)
(在位1837年~1857年)
第17代ムガル皇帝
※墓石がなく、雑草が生い茂っている部分

ミルザー・ファクルー
バハードゥル・シャー・ザファルの跡取りになることが決まっていた王子。大反乱が起きる前年の1856年にコレラで死亡

この墓所の外観は以下のような具合だ。

これは、南デリーのメヘローリーにあるザファル・メヘルという離宮内にある。父であり、先代の皇帝であったアクバル・シャーIIの時代に建築が開始され、ザファルが完成させた。ザファルは、この場所がお気に入りであったようで、しばしば狩猟や余暇を楽しむためにここを訪れていたという。

現在では南デリーの市街地となっているが、1960年代くらいまで、このエリアには何もなく、原生林に囲まれていたらしい。だが、ザファルがデリーに生きていた時代から、この離宮に隣接するダルガー(クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーの聖者廟)は、デリーに存在する最古のダルガーのひとつとされるため、このあたりには何がしかの集落があったのだろう。ザファル・メヘルから、そのダルガーの飾り立てられたドーム部分が覗いている。(下の画像右側)

ちなみにイギリスによるデリー制圧後、ザファル一行が捕らえられたとされるのは、このメヘローリー界隈。当然、その現場はザファル・メヘルかその付近であったと考えるのが自然だ。

全盛期には数々の素晴らしい建築を残し、皇帝や妃の死後のために壮大かつ流麗な廟を建てたムガル帝国も、末期では皇帝の亡骸も離宮の中で簡素に葬られるのみであったことに、帝国の栄枯盛衰を想わずにはいられない。タージ・メヘルやフマユーン廟に負けず劣らずの歴史的価値がこの簡素な墓所にあるとも言える。

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