達人たちのバンド 1

rajdhani band
ひと月半くらい前の7月24日のことである。ウッタラーンチャル州の避暑地マスーリーのタクシースタンドからデヘラードゥーンの市街地まで行くところだった。

本来ならば400ルピーらしいのだが運転手は『今日ちょっとねぇ。遠回りすることになるから』などといって500要求してきた。少し離れたところで客待ちしていた別のドライバーにたずねてもまったく同じことを言う。どこかで工事でもしているのだろうか。面倒なのでそのままクルマに乗り込んだ。

数日前にデヘラードゥーンからここに来るとき、山の斜面に入ってからの九十九折れのカーブの連続で子供がクルマ酔いして困った。それを教訓に今日は『ほら、クルマ酔いの薬だよ』とテキトーに騙してトフィーを与えた。息子は翌月に5歳になる。このくらいの年ごろだと『薬』がどういうものだかわかっているし、まだ素直なので暗示にかかりやすい。そういう意味では小学校に入学する前後の子供が一番扱いやすいのではないだろうか。おかげで下りは車窓の景色を眺めてはしゃいでおり、気分が悪くなる兆候もない。これは助かる。

南方に平地を見ながら下っていく山道の風景は本当に素晴らしい。緑が多く雲もところどころに溜まっているのが見える。ときに町中が雲の中に入ってしまったり、晴れ渡ったりと5分たてば違う風景になってしまうのがこの時期のマスーリーである。

妻と子供と三人で過ごした避暑地の週末はなかなかよかった。英国時代からの古い教会、古いショッピングモールには設立年が書かれている。道路わきで見かける水道の古い蛇口も植民地時代のもの。これを住民たちが世代を継いで利用しているのは興味深い。とかく植民地時代の面影が濃い町である。

涼しい気候はもちろんのこと、避暑地のウィークエンドは都市の中産階級の人々でごったがえしていた。身なりがよく華やかで購買力のある人たちばかりがモールを歩いているので、ごくひとにぎりの豊かな人たちと大多数のつつましい庶民からなる普通の町中とはずいぶん違う雰囲気であった。

タクシースタンドを出てからずっと下り坂だ。タクシーはデヘラードゥーン郊外に出るまでエンジンをかけずにブレーキを踏むのみである。インドではバスもタクシーも坂道でこういう運転をする人は多い。昔、自動車教習所で教わった恐ろしいヴェイパー・ロック現象というのは、そうそう簡単に発生するものではないらしい。

街の入口にさしかかろうというあたりから上り坂になる。運転手はようやくここでイグニッションを回してブォブォブォンッとエンジンをスタートさせた。彼はポケットからおもむろに携帯電話を取り出して誰かと話を始めた。相手はデヘラードゥーンの街にいる知り合いにかけているらしいのだがちょっと様子が変だ。まさかここを初めて訪れるわけでもあるまいが市内の様子を詳しく質問している。

住宅がまばらに広がる郊外を抜けて市街地に入るあたりまでやってきた。すると道路の様子がちょっとおかしいことに気がついた。平日の昼近いのに他に走っているクルマがやけに少ないのだ。ドライバーはクルマを停めた。何かと思えばそこから先の状況を、ときおり向こうからやって来るバイクなどを呼び止めてたずねている。

『えっ?ひょっとして暴動か?バンド(スト)か?』と彼に聞くと答えは後者であった。どこ(誰)がやっているものかと問えば答えは『シヴ・セーナー』であった。もともとはマハーラーシュトラの地域政党である彼らがここウッタラーンチャル州都でゼネストを行なうのはやや意外であった。北インド各地でもしばしばトラの顔をデザインしたトレードマークを描いたセーナーの支部があるのをチラホラ目にするものの、この地でそれを強行できるほどの地盤があるのかどうかはよく知らない。

だが彼らセーナーのバンドは徹底していて怖いことは広く知られているため人々はそれに従う。そんな彼らはいわば『バンドの達人たち』である。それならさっき乗るときにそう言ってくれればマスーリーでもう一泊したものを。

繁華街の方角からやってきたある運転手は『破壊活動していた連中は捕まったよ』と言い残して郊外へと走り去っていったが、おおいに気になるところである。さきほど携帯で市内の人に電話していたのも様子をうかがうためだったのだ。

こういうときなら通常よりもタクシーの料金が高いのもわからない話ではない。ちゃんと目的地のホテルまで連れて行ってくれるならもっと払ってあげたい気分。彼が気にしているのはもちろん黄色いナンバー・プレートで営業車だとわかってしまい、『アクティヴィスト』たちによる攻撃の対象になってしまうためだ。もちろんクルマ自体や運転手だけではなく利用している乗客にとっても危険であることは言うまでもない。

ドライバーはその後市街地方向からごくたまにやってくる何台かのバイクやクルマなどをつかまえては状況をたずねていたが、まあ大丈夫そうだと判断したようだ。

タクシーは発進した。白昼だというのに往来がすっかり途絶えている大通り、ありとあらゆる店がシャッターを下ろし、路上の物売りさえも姿を消している街中を滑るように進んでいく。
デヘラードゥーンの中心地の繁華街らしきエリアに入った。大きな時計台の少し手前のガーンディー公園が見えてくると運転手はクルマを路肩に寄せた。『繁華街らしきエリア』と書いたのは、建物等の具合からしてそうと思われるのだが、あたりに誰もいないし店もすべて閉まっているためよくわからないのだ。白昼なのにまるで深夜過ぎの雰囲気である。

『早く降りて。早く早く』と私たちを急かして放り出すように降ろしたドライバーは、アクセルを踏み込んでUターンして今来た道を一目散に飛ばして退散した。乗ってきたクルマのエンジン音が遠ざかるとインドの街中にいるのが信じられないほどシーンと静まり返った空気。木々のこずえでさえずる鳥たちの声しか聞こえない。クルマや店先のスピーカーなどによる騒音さえなければインドの街はこんなにも静かなのだ。ということは自動車や電気のなかった中世のインドはさぞ静粛であったのだろう。

数年前の7月にちょうど居合わせたムンバイー・バンドを思い出した。あのときも主役はシヴ・セーナーだった。今回のバンドは『ラージダーニー・バンド』と銘打ってある。ウッタラーンチャルの州都(ラージダーニー)で打って出たゼネストだ。

<続く>

転落する一家

 BJP(リンク入れる)幹部にして能弁家、今年1月からヴァジペイー、アードヴァニーといった御老公たちが退き、指導部が一気に20歳近く若返りラージナート・スィンを中心とする新体制に移行してからの同党のまさに中枢を担う立場にまでのし上がった故プラモード・マハージャン
 4月下旬に家庭内での問題により自宅を訪れた実弟に射殺されるというショッキングな事件がインド全国を駆け巡った。病院関係者たちによる懸命の救命治療の甲斐なく、5月初めに死去。
 エネルギッシュで頭脳明晰なプラモード・マハージャンこそ、新世代BJPの看板役者でもありカリスマ性の高い指導者のひとりだった。彼にとって、そう遠くない将来にインド首相の座に就くことも視野に入っていただろう。党自体は現在の国政の場で下野しているとはいえ、マハージャン氏自身は『まさに飛ぶ鳥を落とす勢い』というイメージがあった。
 そんな人物が兄弟間のイザコザで命を落としてしまうのだから、運命というものはわからないものである。しかもマハージャン家の悲劇はこれにとどまらず、遺族たちはさらに弾みをつけて転げ落ちていっているように見える。
 プラモード・マハージャンの死により、遺族たちが長く深い悲しみに打ちひしがれていたはずの6月2日の朝、息子のラーフルは飛行機に乗ってコルカタ経由でグワーハティーに向かい、ブラフマプトラ河で父の遺骨を散骨するはずであった。しかし彼はそのころ生死の境をさまよっていた。父の腹心だったヴィベーク・モイトラーとともに薬物乱用による意識不明の重態となり病院に急送されたのだ。ヴィベークは病院収容時に死亡が確認され、ラーフルは回復したものの警察から取り調べを受ける。麻薬使用を明らかにする病院の検査結果を受けて逮捕されることとなった。後日ラーフルは保釈されたものの、薬物について個人使用のみならず取引そのものにもかかわっていたのではないかとの疑いもかかっている。
 父親の死を受けて政界入りすることが予定されていたラーフルだが、おそらくこの一件により政治家としてのキャリアはスタート前から潰えたようだ。コトが明らかになってから、同家と一定の距離を置こうとする党関係者は少なくない反面、ヴァジペイー元首相の発言『若いうちには過ちもある』などに見られるように、党幹部の中にはラーフルに同情的な者も多い。父親は亡くなったとはいえ、社会的に非常に影響力を持つ家庭背景があるだけに今後司法の場でどういう進展があるのか先行きは不透明である。
 ラーフル本人は父親の死、3年ほど前から患っていたうつ病の具合が思わしくなく、投薬量を増やすなど精神的に不安定ではあったようたが、かといって麻薬に溺れる理由にはならない。『若者』とはいえ、青春真っ盛りの高校生の暴走ではない。ラーフルはすでに31歳。分別をわきまえた立派な大人であるはずなのだ。
 家族、特に彼の母親や妹にとってはたまらないだろう。夫の死につづいて今後頼みとすべき息子も瀕死の状況に陥り、回復してからは麻薬使用と取引の疑いで警察の厄介になっているなんて。
 兄弟間の軋轢、腹心と息子の薬物禍が明らかになることにより、故マハージャンの名声も大きく傷ついた。私個人としては、家庭という小さな社会、人としての根幹となるべき場さえもまとめられないようで国政をまとめられるものだろうか?と思うところもあるのだが、世間を見渡してみれば高名な政治家であっても家庭にはいろいろと問題を抱えているという例は少なくないようだ。
 人それぞれいろんな考えはあることと思うが、どんな仕事にかかわる人間であっても、家庭を顧みないようでは人間として失格だ。もちろん個々にかかる社会的な責任から家庭へのしわ寄せが及ぶことは多々あるにしても、家庭こそが人間としての根幹部分であることは忘れてはならないと思う。
 今回の一連の騒動は、私とって縁もゆかりもない一家族の悲劇だが、その凋落ぶりを報道で見聞きするたびにとても悲しくなってくる。
Nerve Timeline for Rahul Mahajan (Nerve News of India)

マオイストたちの裏インド 2

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 社会的なテンションがあるところには、それなりの理由があるのだ。マオイストの影響下にある地域の住民にとって、銃器や暴力へ怖れからやむなく従っている、口を閉じているといった日常があったとしても、彼らがさらに力を伸ばしていく背景には、やはり特定層からそれなりの支持を受けている事実があるはずなのだ。
 話は飛んで、現在カシミールの治安状況で問題となっているのは極左勢力ではなく原理主義過激派だが、この点については同様だ。どちらにしても自分たちが「生きるために必要だ」と信じているものの、客観的に見れば誤った方法で頑張ってしまっていると言えるだろう。
 彼らはふざけているわけでもなく、怠けているわけでもない。きわめて真面目で真摯な姿勢で邁進しているのだから、当局による「悪いから叩く」対症療法だけでは延々とイタチごっこが続くだけだ。こうした勢力が跋扈する土壌を作らないよう、社会の体質を改善する必要があることは誰もがわかっているはず。こういうときこそ頼りになるのが政治の力であるはずだが、実に様々な勢力の微妙なバランスのもとに成り立っているがゆえに難しい。

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マオイストたちの裏インド 1

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 先日、ZEE NEWSで、ビハール、ウッタル・プラデーシュ、ウッタラーンチャル、オリッサ、アーンドラ・プラデーシュ、ジャールカンドの六州で活発になりつつあるマオイストたちの活動に関する特集が組まれていた。また西部でもパキスタンと国境を接するラージャスターンでもその気配があり、彼らに対する「外国から」の資金援助の可能性をも示唆していた。

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やがてヒマラヤの南北が結ばれる

 およそ2000キロの国境線を共有するインドと中国。1914年にイギリスが当時のインドとチベットの境界線としてシムラー会議で提示したマクマホン・ラインを「国境線」として継承することを主張する前者と、当時はもちろん中華人民共和国成立後そして現在にいたるまでこれを認めていない後者の間では今なお12万5000平方キロにも及ぶ土地をめぐり係争が続いており、ここでもやはり実効支配線をはさんで両国の軍が相手側の動向を警戒している。 
 このたび中国の温家宝首相の南アジア四カ国(パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、インド)歴訪の中でインド訪問時に、1975年のインドによるスィッキム王国の併合を認めないこれまでの中国のスタンスを改めて、「インド共和国のスィッキム州」であることの確認がなされた。長らく膠着状態にあった両国の国境線問題解決への記念すべきステップといえるだろう。
 アジア各地との経済関係強化をこれまで以上に強く打ち出すこのところの中国の姿勢もあり、印中関係が対立から協力へとシフトしつつあることがよくわかる。
 1990年代以降、中国はチベット自治区内を走る道路網の整備を行っており、総距離数は従前のほぼ倍の4万キロまで伸ばしているとされる。チベットにおける輸送インフラへの大規模な投資は、経済的な目的のみらならず安全保障とのかかわりも深いことだろう。 
 だが仮に国境をはさんだインド側でも同様にこの地域の交通網整備に力を入れる動きが始まれば、長期的には広大な中国大陸とインドを中心とした南アジアが経済的に統合へと向かうことさえ充分考えられるらしい。
 そうなれば中国で出版される地図で「錫金王国」がようやく「スィッキム州」に書き換えられるのにとどまらず、今後この地域で相当大きな変化を生む可能性を秘めている。これまで「地の果て」として経済的には利用価値のほとんどなかった両国の辺境地帯が、人口規模では世界最大の二大国間の物流の動脈として脚光を浴びる日が訪れるのかもしれないのだ。
China and India sign border deal (BBC South Asia)