『国』ってなんだろう?

 今月下旬に中国の胡錦涛国家主席の訪印が予定されている。未解決の国境問題の早期画定、経済協力、軍事交流などといった戦略的関係の強化を目指すものとされており、すでに実務レベルでは相当踏み込んだやりとりがなされていることだろう。
 だがそんな中で孫玉璽駐インド大使によるアルナーチャル・プラデーシュ州の帰属をめぐる発言がインド側の強い反発を生むなど、近年良好な関係にあるとはいえアジアで覇を競い合うふたつの大国同士の間には一筋縄ではいかないものがあることがうかがわれる。
 もともとこの地域についてはマクマホン・ラインによる線引きにより1914年に当時英領下のインドとチベットの間に決められた国境線を認めない中国が『わが国の領土である』として旧来より主張してきた。その根拠となるものは『チベットは歴史的に中国固有の領土であり、その中の地方政権(つまり当時のチベット政府)に国境画定の権限などなかった』というものである。
 つまり当時のインドとチベットとの間の合意に妥当性を認めないものであるからこういう論が成り立つことになるのだ。しかし地元の人々にしてみればニューデリーと北京というどちらも遠くはるか彼方のふたつの街のお偉方たちの間で自分たちの帰属が云々されるという不条理はいかんともしがたいものだろう。自分たちの土地がインドに属するならばそこに暮らしてきた人々は『インド人』となり、その同じ土地が中国の領土となればやはり同じ自分たちが『中国人』ということになる。
 現代の民主主義のシステムの中で『主権在民』ということにはなっている。だが係争地帯に住む人々に自らがどちらの国に属するか決めることはできず、ただ暮らしてきた土地がどちらの領土になるかにより自らが何国人であるかが明らかとなる。土地の帰属は自分たちとは縁もゆかりもない遠く離れた大きな街で、見た目も言葉も違う人々によって自分たちのあずかり知らぬ国家同士の損得勘定を背景にしたさまざまな駆け引きにより勝手に決められてしまう、あるいは現状を承認されていくというのはいかがなものだろうか。
 そうした土壌であるがゆえに『国』に対する忠誠心は薄く、それがゆえに実効支配する勢力に対する反感という一点において利害をともにする国境の外からの支援などを受けて地下組織による反政府活動が行なわれ、『国』はそれに対する取り締まりを強化するとともに政情不安を理由に強権で押さえ込もうとする。そこで地元の意識がさらに高まるとこれをうまく利用しようと外部の勢力がさらにあちこちに触手を伸ばす。そうした動きを口実に地元当局はさらに強引な手法で弾圧しようと試みる・・・という図式は、係争地が人々の住む地域である限り世界中どこでも同じ構図が見られる。こうした動きの中で誰に理があろうとも、多大な迷惑を蒙るのは地元にずっと暮らしてきた人々だ。
 その地域を実効支配している『国』あるいはその土地を外から『自国の領土だ』と主張するまた別の『国』があろうとなかろうと、人々は昔からずっとその土地に暮らしてきたわけである。『うるさいから出て行ってくれ!』と叫んでみたところで、今の時代どの土地もどこかしら『国』に属することになっているのだからそうはいかない。
もちろん『国』にもいろいろ言い分はあるのだろうが、これは人間の尊厳にかかわる大きな問題だと思う。
India and China row over border (BBC South Asia)

亜大陸の片隅で起きていること

 先日、ゴーパール・メノン監督によるドキュメンタリー・フィルム『ナガ物語〜沈黙のかげで』(2003年)を見る機会があった。バングラデシュのタンヴィール・モカメル監督による『コルナフリの涙』とともに、NGOのジュマ・ネットと市民外交センターにより共同上映されたものである。
 どちらも約1時間ほどのドキュメンタリーで、前者はインドのナガランド州における、後者はバングラデシュのチッタゴン丘陵地帯における先住民たちの置かれた立場と弾圧、人権問題や民族対立などを描いた作品だ。
『ナガ物語〜沈黙のかげで』では、インド国籍の者であっても地域外から自由に出入りすることができない状態は、地域の文化や特殊性を守ることにつながったが、外部の目を遮断する効果を持つことにもなったこと、それがゆえにまかり通っている暴力と不条理等が示されていた。ナガランドを含むインド北東部に適用されている国軍特別権限法(Armed Forces Special Powers Act)により、軍が治安上疑わしいと判断した際には令状なしに家宅捜索、逮捕拘束、尋問その他を行なうことができることになっているため、重大な人権侵害が行なわれやすくなる。作品では軍の行為が本来の統治機構である州政府や司法の関与を受けないことから、その暴走ぶりに歯止めが利かない構造になっていることが多くの実例や証言等とともに生々しく描かれている。
 ゴーパール・メノン監督は、他にもグジャラートのゴードラーで起きた列車襲撃事件に端を発する暴動、カシミールで軍の弾圧により犠牲となった人々の現状、津波被災後のありさまなどを描いた作品等々、様々な主題にもとづくドキュメンタリーを制作している。取り扱うテーマがテーマだけに、右翼による襲撃をはじめとする攻撃や脅迫などを受けつつも果敢にインド社会の抱える問題点を人々に提示し続けている。

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たかが名前されど名前 ポンディチェリー改名

 1954年にインドに返還(1963年から連邦直轄地)された旧仏領ポンディシェリー(Pondichéry)は英語ではポンディチェリー(Pondicherry)と言い、タミル語ではパーンディッチェーリ(பாண்டிச்சேரி)と呼ばれる。『新しい町(村)』という意味だそうだ。
 ここにきて再びその名前が変わることになる。8月半ば成立した法案が発効を迎えたことから新しい名称はプドゥッチェーリ(புதுச்சோரி)となり、仏領以前の地名に戻ることになる。
 外国統治下はともかくとして、インド返還後半世紀近くも経ってからその名を変えることにどれほどの意味があるのかとも思う。近年改名された地名は少なくないのでこれに限ったことではないのだが、名称変更後ただちに・・・とはいかなくても、段階的に役所その他の公共施設での表示や公文書における表記を改めていくことになる。そうした手間が行政コストに跳ね返ってくるムダ、また地図、住所表示その他民間にも余計な出費や面倒をかけることになるが、区画整理や自治体の合併などで地名の変更を余儀なくされる場合はともかく、長いこと呼び習わされてきた土地の名前について、こうした代償を支払っても充分ペイする効果があるのかどうかははなはだ疑問だ。
 改称については政治屋さんの思惑や気まぐれに振り回されて『ああ迷惑な・・・』と感じる人も少なくないことと思う。そもそもPondichéry、Pondicherryあるいはபுதுச்சோரிで一体誰が不便や不都合を感じていたというのだろう。あえて大昔の『プドゥッチェーリ』という名称を復古させることにどれほどの合理性があるのだろうか。
Destination Puducherry (The Hindu)

バンドから一夜開けて

 朝が来た。活気あふれ街中は前日とはまるで別の世界である。喧騒の中、もはや鳥のさえずりは耳に入ってこない。
 バンド・・・といえばインドにおける伝統的な抗議手法だが、かつてのイギリスに対する非服従運動の中でも人々に対してそれに参加するようにと、影に日向に同様の強制があったのではないだろうか?とふと想ったりもする。
 そのころのインドでは植民地行政下において鉄道の敷設と路線の拡充、道路網の整備など、工業化、商業化を進めるためインフラの整備や開発も進行中だった。 20世紀に入ってからは高級官僚など政府幹部のポストにネイティヴの人たちが占める割合が次第に高まってくるなど、行政組織の頂点部分へ現地の人々の進出が目立つようになってきた時期でもある。地元市民の発言力が相対的に高まるとともに、そのころのイギリスではインド勤務に対する魅力が次第に下降線をたどっていたことも原因のひとつだろう。
 ともあれ当時の統治システムの中で日々を送っていた上から下までさまざまな職責の公務員たちにとって、頼みとする体制の不安定化と流動化は自らの将来について大きな脅威であったはず。反英運動に対する取締りにあたった警官たちも、その大部分はインド人たちであり植民地体制化で既得権を持った人々の中では親英勢力は相当な力を持っていたはず。
 商業活動に従事していた人たち、とりわけ都市部でビジネスを営んでいた人々は当時の行政の枠組みの中でそれなりの繁栄を享受していたし、当時英領あるいは英国の保護領となっていた地域との間で活発な取引を行なうなど、英領下であることのメリットは大きかっただろう。
 たとえば当時のマドラスに本拠地を置いていたスペンサー商会にとって、この時代は大きな試練であったという。社会不安はもちろんのこと商会の根幹を成す事業のひとつであった舶来の高価な品々の輸入販売が大打撃を受けたこと、欧州系のオーナー家族による運営がなされてきた商会が、当時の世の中の動きから必要に迫られて経営の現地人化を進めざるを得なくなったのもこの時期であった。
 社会のかなりの部分の人々にとって、民族の大義や社会正義より正直言って日々の稼ぎと個々の家庭の平安のほうが大切だろう。どんな体制下にあっても世の中の大部分の人たちはそのシステムの中で折り合いをつけたり、うまく立ち回ったりして私生活の維持と向上をはかるものである。開拓精神に溢れて機転も利く一握りの人々を除き、多くの人々にとって場合体制が変わること、システムが入れ替わることは大きな不安だと思う。私自身もそういう人間である。
 しかし植民地当およびその協力者たちと反英勢力の綱引きの中で、次第に親英勢力がジリ貧になっていくにつれて鞍替えする人たちが出てきたこと、また内心どちらでもなく状況の様子見をしていた人たちが独立勢力の伸長していき、イギリスの撤退がもはや明白となったあたりで『さあ、乗り遅れるな!』と反英勢力側に飛びつく人たちが続出した・・・なんていう図が目に浮かぶのだがどうだろうか。
 世の中、誰もが『革命家』であるはずはないし、もっぱらの関心事といえば今日と明日の自分自身と家族のことだろう。いくばくかの問題意識を持っていたとしてもひとりで世の中を動かすことはできないから、せいぜい仲間内で批判めいたことを口にするくらいだ。日和見は無力な一市民だけではなく、何事か起きれば巨万の富や権力を失いかねない立場にある人たちにとっても当然の処世術である。
 時代が下れば『勝者の歴史』は美しくまとめられてしまうものの、当時の世間は様々な不協和音に満ちていたことだろう。戦争にしても独立運動にしてもつまるところ『勝てば官軍』なのである。誰もが勝馬に乗りたがるのは無理もない。
 かくして敗者たちのうち機知に富む者たちあるいはコネを持つ人々はいつの間にかスルリと立場を入れ替えて勝者の側に立ち、要領が悪かったり頑迷だったりした人たちは『裏切り者』という烙印を押されてしまうのはいつの世も同じ。かくして敗者たちの主張は闇へと葬り去られていく。

達人たちのバンド 2

ラージダーニー・バンド

予約していたホテル玄関は蛇腹式のシャッターを閉めてあり休業中みたいに見えるが、門番がカギを開けてくれて中に入れてくれる。グラウンドフロアーにあるレセプションとレストランでは通常通り人々が働いていた。

この日のバンドはムンバイーでの連続爆破テロへの抗議と与党への圧力なのだとホテルの従業員は言う。うまくそれにタイミングを合わせた感じではあるが、固く閉ざされた焦点のシャッターに無造作に貼られたシヴ・セーナーのバンド呼びかけのポスターには、留保制度反対!牛殺し反対!物価上昇に対する対策を講ぜよ!などといった内容のものもあった。

テレビをつけてみると確かに国会のモンスーン・セッションのはじまりに合わせて、シヴ・セーナーの友党であるBJPの人々が鐘を鳴らすなどして政府、つまりコングレスとその連立政権に対するアピールとしてなにやら騒いでいる様子が映し出されているため、こうした動きと歩調を合わせて行なわれているものであるらしいことはわかる。

バンドの達人たるシヴ・セーナーだが、実はこの半月ほど前の7月9日に地元ムンバイーでバンドを試みて失敗している。バンドの理由が党幹部関係者の個人的な問題に起因するものであり『公共性』を欠いたものであったということもあるが、このところナラーヤン・ラーネー、ラージ・タークレーといった大物幹部が離反して党を離れていったため、求心力が大幅に低下してしまったのがその原因と言われている。

そこで『セーナーは本拠地を遠く離れたこんなところでも威力を振るうことができるのだ』と、彼らにしてみればまさに面子回復を賭けているのが今回のバンドかもしれない。

2000年11月にU.P.州から分かれて成立したウッタラーンチャル州の州都となったデヘラードゥーン。それまで学園都市として知られてきたことを除けば分割以前の旧U.P.州に数多く存在する中規模の街のひとつにしかすぎなかった。この街で前例のないトータルなバンドであったらしいが、やはり『州都』ともなれば政界への影響やパブリシティーといった面でこの類の行動を起こすメリットが出てくるのだろう。

家族をホテルの部屋に置いて出歩いてみた。暴徒に出くわしては困るのであまり遠くまで行くつもりはないのだが、そうでなくてもバスやオートは一台も走っていないので徒歩圏内しか訪れることはできない。雨が降っては晴れての蒸し暑い気候の中、喉が渇いても店がどこも開いていないので水さえ買うことができない。だから結局ホテルの近所をウロウロするほかないのである。十字路では交通警官がヒマそうに椅子に座っていた。『バンドは日中一杯。午後5時で一応終わりらしいよ』とのことだ。

静かな往来をボーッと歩いていて道路の突起でつまづいてしまった。すると靴底が三分の一ほど剥がれてしまった。こういう日なので路肩にデンと座り込んだ修理屋も見当たらない。突然壊れてしまった靴がうらめしくなる。

通りには誰もいないがガーンディー公園ではヒマつぶしにトランプに興じている中年男性たち、デート中の若い男女などの姿をチラホラ見かけた。街地中心のクロックタワーのあるあたりは大きな商業地になっている。ここでは消防車や『ダンガー・ニヤントラン』と書かれた暴徒対策の機動隊車両が駐車してある。このクルマの天井には催涙弾とその発射装置が搭載されているのが見える。治安部隊の人々がこのあたりに集結して警戒していた。

どこも歩いてみても閑散としていたが、午後4時過ぎあたりになると一部の商店が扉を開き始めていた。3年前、ムンバイー・バンドが終わるあたりで次第に街が息を吹き返していった様子を思い出す。だがインド随一の商都とは違い、デヘラードゥーンでは本日一杯休みにしたところのほうが多いらしい。のんびりした地方都市らしいところだろう。少しずつ人通りが出てくると新聞屋の姿もチラホラ見かけるようになってきた。

ウェーリー・メール(वैली मेल)というというタブロイド版ローカル紙を手にとってみると『未明から90台ほどのバイクに分乗したシヴ・セーニク(シヴ・セーナーの活動家)たちが出動。午前4時半にISBTに到着して2台のバスの窓ガラスを割るなどの破壊行為を働いた』『デヘラードゥーン市内複数の地域で公共バスを破壊』等々、今日のバンドについていろいろ書かれていた。こんな具合でシヴ・セーナーのバンドをまだ良く知らない市民たちにお得意の強烈な先制パンチで明け方前から存在感を示したわけだ。

記事には『朝から学校、郵便局その他の公私さまざま機関、会社、商店などが閉まっていた。路上の物売りたちも一部を除きことごとく姿を消していた。オートリクシャーやタクシーもいなかった。シヴ・セーナーにしてみれば彼らのバンドは大成功』ともある。

破壊行為で逮捕された活動家がポリスのクルマの中に座っている写真も掲載されていた。まだ20代に見えるが、シヴ・セーナーの創設者であり現在同党を率いる息子のウッダヴ・タークレーの後ろ盾でもあるバール・タークレーばりの細身で裾の長いクルターを着て粋がっている様子。シヴ・セーナーの連中にとってはあのBALASAHEBことタークレー親分のいでたちがたまらなく魅力的に映るのだろう。

パルタン・バーザールを抜けたところの ラーム・ラーイ・ダルバールという墓廟兼グルドワラーをしばらく見物して外に出てみると薄暗くなってきた。さきほどまでは人の行き来がまばらだった通りには、昼間まったく見かけなかったオートが何台か客待ちしている。

蒸し暑い中を歩きずくめで疲れた。ガタガタと揺られつつも腰掛けたシートに疲労が吸い込まれていくようだ。

<完>