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カテゴリー: column

  • 遠きに想い ポルトガル 1

    ポルトガル時代からの町並み / photo by AKIHIKO OGATA

     2003年夏、ゴアを再訪した。前回来たのは89年だったので、実に14年ぶりということになる。同じインドながら旧英領や藩王国だった他地域とは、ずいぶん違う。建物、人びとの装い、街並みが醸し出す独特の空気があった。当時、宿で一緒になったブラジル人が、「パナジはすべてがポルトガル風で、まるで故郷にいるような気になる」とはしゃいでいたのを思い出す。
     だが久々のゴアは、その印象がずいぶん薄らいでいる気がした。なぜだろうか。

     89年といえば、1961年12月のインド軍による「オペレーション・ヴィジャイ」と呼ばれた軍事作戦による「ゴア解放」から28年。今回はそれからさらに14年経過、ポルトガル時代が1.5倍遠くなっているのである。

     以前は植民地政府による教育を受けた世代はまだ働き盛りで、社会のそれぞれの分野で活躍していた。今ではそういう人びとはすでに引退してしまっているはずである。
     ゴア解放時、高校卒業した人が17〜19歳くらいと見積もって、それから42年…ポルトガル語世代で一番若い人たちはすでに60歳くらいになっているのだ。インドでは公務員の定年は55才。民間でも50代に入れば、老後は目前という時期である。

     インドへの返還は、英語時代の始まりでもある。連邦直轄地(1987年に州)になったゴアは、中央政府のコントロールの元、インド式ひいては英国から受け継いだ流れの上に立った社会制度を導入した。
     教育やビジネスの公言語がポルトガル語から英語へ、法体系がポルトガル式から英国式へ移行。当然のことながら、メディアや出版活動を含めたインテレクチュアルな部分もがポルトガル式から英国式に移行してしまうため、ポルトガル文化やカトリック文化がそれまで維持してきた権威が一気に吹き飛んでしまったことになる。他の地域が独立を境に英国から統治システムを「引き継いだ」のとはかなり事情が違うように思う。

     もちろん、ある日突然、言語を切り替えることはできない。ポルトガル語新聞の発行は、インドへの復帰後もしばらく続いていたことだろう。ポルトガル本国から送られてくる書籍、ゴアで出版されたものなど、ポルトガル語の本が書店に並んでいたはずだ。
     ただ、言葉は単に意思伝達手段ではなく、言語の背景にある固有の文化をも伴うものである。1961年以降、ポルトガル語時代から英語時代へ移ったことは、それ自体が一種の文化革命であったはずだ。

     ボルトガル語世代と英語世代の間で、価値観のギャップもあったことだろう。ポルトガルに親族が移住したという上層階級の人びと、ポルトガルとゴアを行き来していたビジネスマンも相当数あり、留学する者も少なくなかった。インド復帰まで「ポルトガル」の名は高い文化と良質な品物、高尚な学問と富と権力の象徴であったはずだ。

     ポルトガル語世代は独自の生活文化を持ちつづけていた。しかし今、彼らは社会に影響を与えるべき表舞台からは去っているのだ。
    <つづく>

  • 紙おむつ抱えてインド旅

    singlebabyinTusinies.jpg

     今年の夏、家族でティオマン島(マレー半島南東部にある島)に行こうかという話をしたら、「そこまで行くならもうちょっと頑張ろう」という妻の意見に従い、インドに行くことになった。

     家族サービス先がインドということになって、ちょっとドギマギしている。なにせ初めての子連れ海外旅行。これまで息子を連れての遠出といえばTDLと、三重県を訪れたことくらい。飛行機にはまだ乗せたことがないので、乗り物酔いについても未知数である。

     次に頭に浮かんだのは紙おむつ。現在、三歳を目前にして、まだおむつが取れていない。常用している使い捨ての紙おむつは、便利だが非常にかさばる。30枚入りが2パックもあればバックパックはすぐ一杯。大変な大荷物になってしまう。

     into.toウェブマスター=多聞くんほか方々にたずねて、インドの都市でも購入できるということを教えてもらった。
     インドではまだまだ割高な紙おむつを使っている家庭はごく限られているとはいえ、よくよく考えてみれば世界で最も子供が多い(と思われる)国なので、少なくとも都会では手に入らないはずはないだろう。 とりあえず一安心だが、こればかりは一日たりとも切らすわけにはいかない。品切れで手に入らない事態も想定して、余裕をみて荷物の中にストックしておく必要がありそうだ。

    (さらに…)

  • 復活なるか?「地上の楽園」

    photo by www.kashmirretextured.com / Rafiq Kathwari
     インドのケーブルテレビで、カシミール地方の自然や文化を紹介する番組が流れていた。ヨーロッパ制作のプログラム。日本ではあまり機会のないことだが、外国の制作会社が作った自国紹介のTV番組というのものは、往々にして何か違和感を感じられるものだ。この番組、インド国内視聴者の反応はどんなものだったのだろうか。
     カシミールといえば、有名なハウスボートの誕生秘話はご存知だろうか。藩王国時代、外国人の土地購入が認められなかったため、英国人が屋敷の代わりに、湖に豪華なハウスボートを浮かべたことがはじまり。いわば苦肉の策である。カシミールの宿泊施設の典型のごとく言われているハウスボートの歴史は意外にもそう長くはない。
     カシミールの状態が安定していた1988年以前、風光明媚なカシミールの景色は、よくインド映画に出てきたものだったし、ハネムーンや家族旅行先の定番であった。気候はフランスのアルプス地方とほぼ同じ。暑い夏に「涼しいインド」を訪れるのも粋なもの。インドに数多く点在する避暑地の中でも、別格の存在である。
     長らくテロと暴力の連鎖の中にあったカシミールだが、ひとたび平和が訪れれば、すぐさま昔のように夏のインド観光地のハイライトとして、内外から多くの人びとを集めることができるはずだ。今年は15年ぶりに観光シーズンのにぎわいを取り戻しつつあるというカシミール。例年観光客が2万人以下と低迷していたころに比べ、今年はすでに10万人以上の人びとが訪れているという。
     「地上の楽園」とまで表現されたかつての輝きが取り戻されるを願ってやまない。


    カシミール 楽園復活なるか? (BBC-SouthAsia)
    kashmir Retextured
    カシミールの人びと、街、自然、喜びと憂い。Rafiq Kathwariによる写真とエッセイ。

  • あられもない「神様」

    hindu bikinis

     ヒンドゥーの神様をあしらった下着やトイレの便座カバーを欧米のデザイナーが制作。その一部がインドでも発売、ヒンドゥー宗教団体による抗議活動が起きているという。こんな商品が、自分たちの市場に出回るとなると、インドの一般的な人びとは決して快く思わないことだろう。 
     外国人にとってはエキゾチックで、ときにクールな「デザイン」に見えても、それを信仰する人たちにとっては冒涜以外の何ものでもない。表現の自由はあっても、さまざまな文化や人種からなるこの世の中。自分たちとは違った価値観を尊重することは大切だ。 
     多くの国ぐにで、人びとの信仰と倫理・価値観は切り離すことができない。「無宗教だ」と言う人も、長年受け継がれてきた文化や思想背景からなる道徳、生活習慣や年中行事から無縁でいることはできないのだから、やはり神は存在するということになるのかもしれない。
     宗教の名のもとに、一律の価値観を人々に押し付けたり、行動が制限したりするべきではないが、同時に個々の信仰を否定あるいは侮辱するようなこともあってはならない。  
     インドに限ったことではないが、宗教にはしばしば政治の影が色濃く見え隠れする。聖と世俗の境はあってないようなものなのかも。この世は実にややこしい。 
    下着に神様 VHP(世界ヒンドゥー協会)が抗議
    ビキニのなかで微笑むヴィシュヌ!?
    Vishva Hindu Parishad公式サイト

  • ブータンとインド

    bhutanTV 

     ブータンでテレビ放送が始まって5年目。おそらくそれ以前は、ごく一部の道楽人が隣国インドの地上波や衛星放送を受信して楽しむ他なかったのだろう。考えてみてほしい。二十世紀末まで存在しなかったテレビ文化が突然ドカッと流入したのだ。人びとへのインパクトは強烈である。地元コンテンツはまだ未熟で、放送されるのは外国番組が主体ということもカルチャーショックに拍車をかけていることだろう。 
     「テレビ放送」と一口に言っても、技術や経験の蓄積なしに、暗中模索してなんとかなるシロモノではない。業界のコアを占めるのは地元っ子ではなく外国人かもしれない。
     今なお鎖国状態のヒマラヤの小王国で、欧米からやってきたプロフェッショナルたちが大手を振って闊歩する…という光景は想像しにくいが、相互に人の行き来が盛んなインドからということならば納得がいく。 
     非熟練労働者から高度な専門職まで、ブータンで活躍するインド人は多く、学校で教えるインド人教員も少なくないようだ。国策として英語教育に力を注いできたブータンでは、国語以外の授業は英語を通じて行われているというが、この外来の言葉を定着させることができたのは、現場でのインド人教師の活躍あってのことらしい。 

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  • インドがサッカーW杯で活躍する日

     2006年ドイツで開催されるW杯アジア一次予選・対日本戦で大敗してしまったインドだが、すでに水面下では、次の2010年本大会出場を目指して動き始めている。
     もちろん勝利への第一歩は、若手プレーヤーのレベル向上、未来へ希望をつなぐサッカー少年たちの育成だが、世界第2位の人口(若年者人口では世界一?)という圧倒的なスケールメリットを生かすために、競技人口の拡大が期待されるところ。 
     ヨーロッパの人口をみても、フランスは約6000万人、オランダは約1500万人、スウェーデンやデンマークなどは数百万人足らず、なおかつ高齢者の占める割合が高い。そのような国ぐにが、ワールドカップに繰り返し出場しているのだ。
     サッカー発祥の地イギリスの人口はおよそ5900万人だが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドのサッカー協会はそれぞれ個別でFIFAに加盟している。おのずと「代表チーム」もその数だけ生まれ、力が分散してしまうにもかかわらず、押しも押されもせぬ欧州の強豪の一角を占めている。一体インドの人口はこれら国ぐにの何カ国分にあたるのだろうか。 
     大きな国が強いわけではない。娯楽、大衆文化として、国民にどれほど強く支持されているかが、「サッカー」というスポーツ文化を支える大きな柱となる。
     競技普及の背景には、気候、文化的背景、伝統、そのほか土地固有の要素が作用する部分は大きい。(ジャマイカのボブスレーみたいな例外はあるが)スリランカのような常夏の国でウィンタースポーツ選手を、サウジアラビアで女性競泳選手を見かける機会はまずない。エジプトに柔道選手はいても、相撲の世界に飛び込む人がいるとは思えない。
     インドにおけるサッカーはどうだろうか。クリケットに圧倒され、競技人口も人気も少ない。普及には地域的な偏りが大きく、全国規模の娯楽というにはほど遠いのが現実だ。
     マナーといい、プレースタイルといい、紳士的雰囲気が漂うクリケットと違い、フィールドを息つく間もなく駆け回るなんて上品じゃないというイメージがあるのかもしれないが、サッカー同様にハードな「ホッケー」も、インドの人気スポーツのひとつだ。
     また、酷暑期のこの国でサッカーなんて、想像しただけで目眩がしそうだが、アラビア半島やアフリカなど非常に暑い地域でも人びとはサッカーに興じている。
     マレーシアのプロサッカーリーグ=Mリーグで活躍するインド系選手やレフェリーは多く、インド文化がサッカー普及を阻んでいるということはあまりなさそう。要はキッカケだろうか? 

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  • 女性だけの市場

    マニプル州インパールに女性限定で3000人もの売り手が集まるマーケットがある。ところが200年以上もの伝統あるこの市場を取り壊し、商業ビルを建てようという地元政府の計画が浮上。それ以来、夜間の不在時に職場が撤去されないよう、彼女たちは自らの「店」のかたわらで眠る…いわば”座り込み”の日々が一年近くも続いている。
    政府の言い分はマーケットの混雑と衛生状態を改善したいとのことだが、ここで働く女性たちにしてみれば、いままでの自分たちの商売を守るということに加え、当事者に何の相談もなく話が進んでいることに対する不信感、新しい施設には男性業者も入り、女性の職場が奪われるのではないかという危惧もあるという。
    モンゴロイド系少数民族が住むミャンマー国境近くのマニプル州とは、東南アジア世界みたいなのだろうか?機会があればいつか訪れてみたい。

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  • オペレーション・ブルースターから20年

    Photo by Swadesh Talwar/Indian Express 
     1984年6月、パンジャーブ州アムリトサルにあるスィク教総本山、ゴールデンテンプルにスィク教徒たちが立て籠もった。彼らは独立国カーリスターンを求める過激派、軍の部隊が突入して多数の死傷者を出した。
     このオペレーション・ブルースターという作戦を強行したことで、同年10月、インディラ・ガーンディー首相は暗殺されることになった。犯人が彼女自身のボディーガードだったことから、反スィク暴動が発生、3000人近くの犠牲者を出した。
     その後も政治的暴力とテロの悪循環な連鎖が続き、パキスタンの関与や、欧米先進国在住のスィクコミュニティからの資金流入についても取り沙汰されるなど、事件は州を超えて国家的な大問題となった。 
     事件当時、パンジャーブ州の治安悪化のため、外国人の立ち入りが制限されるようになり、インドからパキスタンへ陸路で旅するバックパッカーたちは、政府によるパンジャーブ入域許可書を取得した上、毎月3のつく日(3日、13日、23日に)に運行している国境行き専用バスを利用しなくてはならなかった。 
     80年代末、ようやく許可書が不要となってからも、州内の道路を日没後走行するのは非常に危険であるとされた。アムリトサル市内各所に土嚢を積んだトーチカがあり、配置されている兵士たちはライフルを腰だめに構え、非常に緊張した雰囲気であった。 
     しかし、92年のパンジャーブ州議会選挙後、事態は急速に収拾へ向かった。 
     現在、パンジャーブ州の平和な様子を見ると、そんな過去のことなど想像もつかないが、当時を知る地元の人びとにとって、あの事件はつい昨日のことのように生々しく思い出されるはずだ。 
     首都デリーで首相暗殺の報復暴動によって命を落とし、家財を失ったスィク教徒の家族たち、パンジャーブ州で混乱の時代を生きた人たちにとって、インドの新首相マンモーハン・スィン氏がスィク教徒であるということは、彼が同郷(氏の故郷は現在パキスタン領だが)の人間である以上の大きな意味があるのかもしれない。 


    ●関連リンク
    「あのとき」を振り返って (BBC)
    ゴールデンテンプル事件 人々の記憶 (BBC)
    イギリス在住スィク教徒たちの想い (BBC)

    OPERATION BLUESTAR 1984 : 事件の概要(AllAboutSikhs.com)

  • 日本完勝 インドも頑張った

    FIFAワールドカップ・日本対インド戦/photo by Indianfootball.com
     去る6月9日、2006年にドイツで開催されるW杯アジア一次予選グループ3の日本対インド戦が行われた。埼玉スタジアムにぜひ足を運んで観戦したかったのだが、思い立った時にはすでにチケットは完売。注目度の低いゲームなので試合開始直前に当日券を買って悠々と入場できるだろう…という読みは甘かった。予選とはいえ、世界へつながる大切な試合。出場する選手たちと同様、ファンがチケットを得るのもまた真剣勝負だった—-。
     そんなわけでTV観戦することになったのだが、国際試合独特のあの雰囲気はスタジアムでなければ味わうことができない。
     極めてレベルの高い試合であっても、トヨタカップ(インターコンチネルカップ)ならば、純粋に世界最高水準のサッカーを楽しみに来ている人たちが多い。日の丸とは関係のない外国同士の対戦ということもあって実にニュートラルな姿勢である。
     これが自国代表の国際試合となると様相が一変する。試合前の両国国歌演奏とともに「国のメンツをかけた戦い」のような雰囲気が立ち昇り、はっきりとテンションが上がってくる。誰もがウルトラ愛国者になって、ピッチの上の日本代表選手のプレーに一喜一憂する。自陣ゴール前でのピンチに息を呑み、自国選手が
    ゴールを決めたとたん、スタンドは一瞬にして沸騰。自国チームに熱い想いを抱く。
     スポーツの国際試合で瞬間沸騰する即席ナショナリズムとは不思議なものだ。互いに見ず知らずの群衆が、「同じ国籍」というごく曖昧なつながりを軸に、心をひとつにして熱く盛り上がるなんて、スポーツ以外に考えられるだろうか。日本のようにほぼ国籍=民族の国もあれば、様々な人種や言葉が同居している国も多いのだから。
     —-試合は7対0で日本の完勝。インドにとっては残念だが、圧倒的な技量の差は仕方ない。総当たり戦のトーナメントで他国と勝ち点で並んだ場合、得失点差がものを言うので更に追加点を加える動機がある。とはいえ、出場機会の少なかった選手を試す機会、そして個人記録(主に得点記録)を築くための消化時間と言えないこともない。負けているほうにしてみれば試合を続けるモチベーションも低く、絶望感と恥辱に耐えながらタイムアップの笛が鳴るのを待つことになる。
     サッカーでは3〜4点も差が開けば、逆転されることはまずあり得ない。決められた時間までプレーを続けることに意義があるのか疑問だが、野球やボクシングように、大きな得点差を理由に試合を打ち切るルールは存在しないのだから厳しいものだ。
     インドもなかなか頑張った。守りをがっちり固めつつ、カウンター攻撃を狙うという戦法に終始するだろうという大方の予想を裏切り、キックオフ後しばらくは果敢に攻める姿勢を見せた。この試合で最初のシュートはインド側によるものだった。そこまでは「インドもなかなかやるじゃないか」と思ったのだが…。
     海の向こうのインドでも、やはりサッカーファンたちがテレビの前に集まって声を張り上げていたのだろうか。9月8日、インド・カルカッタで行なわれる次の試合では、一矢報いようとインド代表チームも頑張ってくるはずだ。開催地のクラブチーム「イースト・ベンガル」に所属するインド代表選手は多い。面白い試合が期待できるかもしれない。この試合をスタジアムで生に観戦できる方々がうらやましい。


    ●関連リンク
    Kahkashaan:メヘンディー掲示板「インド戦 ご報告」
    会場に足を運び、インドチームのサポーターとなった日本人によるちょっと寂しい報告。青い群集の中でサリー、やってほしかったなぁ。
    これでインディア「6/10 サッカーW杯予選 インド×日本」
    デリーからのリポート。現地での反応は…TV中継もなかった!?

  • 時刻表から眺めるAirIndia

    Air India Time Table / November 1, 1959 / by TimeTableImage.com
     世の中には切手やコイン収集など様ざまなコレクターがいるものだが、なんと航空会社の時刻表を収集している人たちもいて、世界各国の航空会社の古い時刻表等のイメージがアップされているウェブサイト「TimeTableImage.com」まである。
     もちろん、長い歴史を持つエア・インディアの時刻表も載っている。
     英領時代にスタートしたタタ・エアラインス(エア・インディアの前身)。1938年の飛行ルートは、本拠地であるボンベイを中心に西北と南に偏っている。まだ東部へのサービスは始まっておらず、カルカッタへは「就航予定」。ボンベイ―カルカッタ間(ナーグプル経由)のフライトがはじまるのは、さらに7年後の1945年である。
     当時の空路は、デリー、マドラス、コロンボといった英領の大都市とともに、グワリヤル、ボーパール、ハイデラバードといった有力な藩王国、ポルトガル領のゴアなどをむすんでいる。ボンベイからアーメダバード経由でカラチに行く途中で、ほかの寄港地と比べ商業的に重要とは思えないブジ(ここも旧藩王国)にストップするのはちょっと興味深い。
     独立直前の1947年6月のタイムテーブルでは、ボンベイーカラチ便の経由地からブジが抜け落ちている。ふた月後には別の国になってしまう両都市を、乗客たちはどんな想いで行き来したのだろうか。
     おなじみターバンを巻いたおじさんのマスコットは、ユーモラスだけど、やたらと古臭い感じがするな…と思っていたが、1948年のエア・インディア・インターナショナル(現在のエア・インディア)の時刻表で、すでに使われているのだから、やっぱり相当年季が入っていることになる。
     ここには2000年のものまで、時代を追って時刻表の表紙が掲載されているが、どれもカラフルでインドらしい図柄が使用されていて面白い。
     時刻表のカバーひとつとっても、インディアン・エアラインスのほうはどうも素っ気ない。同じインドの政府系企業でもずいぶんカラーが違うものだ。
     創業間もないころ、インドの空の旅の機内はどんな様子だったのだろうか。「むかし利用したことがある」という方があれば、ぜひお話をうかがいたい。

  • インド代表チームがやってくる!

     6月9日の夕方、埼玉スタジアムジャナ・ガナ・マナと君が代が流れることになる。ご存知「2006 FIFAワールドカップ」のアジア一次予選グル−プ3のトップをめぐり、二勝無敗で独走する日本と、一勝一敗で三位につけているインドが対戦。試合の様子は夜7時からテレビ朝日系列で生中継される予定だ。
    W杯インド代表チーム
     FIFAランキングでは、格上のシンガポール(110位)を下す頑張りを見せたインド(139位)。アジアでは韓国と並ぶ強豪・日本(25位)との実力差は計り知れないが、W杯本大会出場常連国となりつつある日本チームを相手に、インドがどれだけのプレーを見せてくれるか期待したい。
     何を隠そう昔はサッカー小僧だった私。間違っても、日本の引き分けや負けといった大失態は期待しないが、往年のインドファンとしては、インドが記録的な得点差で負けるなどという悲しい試合は見たくない…複雑な心境である。
     試合内容とともに気になるのはスタジアムの観客席の様子。はるばる母国の代表チームがやってきても、クリケットとは違い、インドにおいてサッカー人気は特定地域に偏っている。頼みの綱は、IT系プロフェッショナルを中心とした在日カンナダ人(カルナータカ州出身)たちだが、あいにく試合は平日の夜。忙しい彼らが会場まで足を運ぶだろうか?インド代表ゲームシャツを身にまとい、三色の国旗をはためかせて熱く応援するインド人の姿を見れるのか?
     この試合の後、9月8日に今度はカルカッタでインド側が日本代表を迎え撃つことになる。インドのホームゲームで、しかもサッカーが人気の西ベンガル州都だ。どんな盛り上がりを見せてくれることだろうか。 ともあれ、6月9日と9月8日の両日、日印サッカーファンはスタジアムに集合!


    ●関連サイト
    THE INDIAN NATIONAL TEAM
    ステファン・コンスタンティン監督のWEBサイト
    Kahkashaan:メヘンディー掲示板
    「インドも応援。アジア第1次予選」「観戦前に選手を知る。(続き)」ふたつのスレッドで話題。選手の顔と名前をチェック。
    スターとして 先駆者として―インド主将ブティア(読売新聞)
    サッカーリンク集 「さっかりん」
    日本国内ではインド代表チームの情報はほんと少ないようだ。
    パキスタン・インドにおけるサッカーボールの生産と児童労働
    日本のサッカボールもインド製!? ボールにまつわるちょっと暗い話。

  • ヴェラッパさん再選

    photo by www.globalaging.org
     以前、きまぐれピックアップでもふれた「最高齢のインド現役国会議員」ラーマチャンドラ・ヴェラッパさん。元々は国民会議派だったが、現在ではBJPに所属。総選挙での再選を目指して立候補していた。
     その後どうしたのか気になっていたが、調べてみれば見事当選。国会議員の高齢記録をさらに伸ばすことになった。しかし、厳しい選挙戦で体力を消耗したのか、体調を崩し、現在は病院で療養中とのこと。
     こんな年齢で、議員という責任ある仕事がまっとうできるのか、と心配に思う人も少なくないだろう。彼が続投できるのは選挙区の人びとからの信頼が厚いためだが、彼にかわる魅力ある人材が出てこないという背景もある。
     インディア・トゥデイ誌の懸賞付世論調査の中で、こんな質問を見かけたのを思い出した。
    ●政治家に65歳定年を設けるべきか?
    ●国会または州議会の議員に選出されるのを、
     五期以内に制限するべきか?
    ●大臣(首相を含む)を務めることのできるのを、
     二期までに制限するべきか?
     インドは総人口の54%が25歳以下という若者の国だが、国会議員の平均年齢は55歳以上で、中央政府閣僚ともなると平均61歳を超えるという。
     社会の年齢構成に見合った政治の若返りも必要だが、言うまでもなく高齢者も社会の大切な一部である。一世紀近く生きてなお、社会の第一線で活躍しようというのだから実に頼もしいおじいさんだ。
     政権が中途で解散することがなければ今回の任期は5年。5年後には、ヴェラッパさんは99歳。こんな型破りな人がいるのもまたインドらしい。


    ●ヴェラッパさんの近況
    記事によって年齢が違うのは、「やっぱり」という感じ。
    心配無用!ワシは元気だ (The Hindu)
    Good day? bad day (BBC)