遠きに想い ポルトガル 2

photo by AKIHIKO OGATA

 ゴアに起こったのは世代交代だけではない。ゴアの人びとが州外へ、州外の人びとがゴアへ。外国領からインド領に編入され、それまで両者を隔てていた国籍、市民権といった障壁が取り除かれる。相互に人びとが流出・流入する度合いは、ポルトガル時代に較べてとんでもなく多くなったことだろう。

 それまでの行政の中心はリスボンだったが、復帰後はニューデリーとなった。97年に中国に返還された香港。「一国二制度」などという妙なことを言っていたが、ゴアを見ていると、どのようなプロセスで統合されていくのかわかる。もちろん中国の場合、本土から香港への移民は現在のところ厳しくコントロールされているとはいえ、同じ「中央」から支配される以上、時間の経過とともにやがては同化されてしまうものであろう。
 ゴアは復帰当初、同じくポルトガル領であったダマン&ディーウとともに中央政府の直轄地として本土に組み込まれたが、1987年のゴア州成立へと至る以前にはマハーラーシュトラ州と合併させようという動きもあった。
 ゴア州政府を構えるようになっても、結局は中央政府の下での行政、ゴア人ひいてはカトリック勢力がすべて自力更生でやっていくということにはなり得なかった。

 建物の老朽化、再開発と保存という都市環境の問題もある。ポルトガル時代の建物は、当然のことながら時を経て朽ちていく。インドでも都市部では高層建築が当たり前になってきた昨今、これまでの建物が手狭になるだろうし、空調や近代的設備導入にあたってマッチしない部分も出てくることだろう。地主は当然、所有している地所を有効活用したい。行政の強力な関与無しに、古い時代の建築物の保存はなかなか実現できるものではない。

 そんな理由が重なり、かつての植民地時代の建物が取り壊され、インドの現代的なつまらない建物が林立するようになるのである。ほんの14年前でも、パナジの街中はポルトガル建築でいっぱいだった記憶があるのだが…。

 おそらく90年半ばからのインドの経済成長、国内の消費文化と観光ブームによる影響も大きいのではないか。大量の資金流入による建築ラッシュ。経済成長で大都会だってライフスタイルが大きく変化するくらいだ。地方都市の植民地時代の残り香なんて簡単に吹き飛んでしまうだろう。
 行政が手を打たないと、今にポルトガル式の建物はほとんどなくなってしまうのではないか。シンガポールだって、政府が慌てて動いて、ある程度残っているのだ。

 1954年発行の『世界文化地理体系 インド・パキスタン』(平凡社刊)という本が手元にある。執筆陣には当時まだ若かった荒松雄や中根千枝といった現在のインド学や分化人類学の大御所たちの名前が並ぶ。仏領だったポンディチェリーがインドに返還されたのはこの年のことだ。
 文中、ゴアについては「ポルトガルが手放す気配なし」「インドからゴアを訪れるには、海路では毎週1回2隻の姉妹客船が交代で、カラチ、ボンベイ、マルムガオ、コーチンの航路についている。別にボンベイとゴアの首都パンジムとを結ぶ沿岸航路も大体隔日に出航している」という記述がある。
 当時カラチはパキスタンの首都であったが、ゴア返還をめぐってポルトガル・インド間での交渉が難航(その結果としてインドが軍事作戦を決行してゴアを奪還)していたころ、ゴアに対する生鮮食品や日用雑貨を大量に補給していたという。

 ポルトガル政府はもともと農業に力を入れていなかったため、隣接する英領地域からの輸入に頼る部分が大きかったが、インドがポルトガル当局に敵対姿勢を強めるとともにその供給が途絶えたため、海路でパキスタンのカラチからそれらを購入することになった。
 ゴアでは、ごく一時期ではあるが反インド・親パキスタンという状況が存在していたのだ。
<つづく>

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