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  • ラヴァングラー ボン教寺院とブッダ・パーク

    ラヴァングラー ボン教寺院とブッダ・パーク

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    ラヴァングラーの町からYundrung Kundraklingというボン教の寺院を訪れた。スィッキムでは唯一のボン教寺院であるとのこと。

    見た目はチベット仏教の寺院と同様に見えるため、そう言われなければ気がつかない。入口のところにチョルテンがあるのも同じ。寺院建築や中の壁画はもちろんのこと、祭壇や堂内の様子、タンカ、高僧の高い席も似たような感じである。宗教用具も共用しているものが多いのではなかろうか。僧侶の装いも似ている。

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    チベット仏教自体がボン教の強い影響を受けているが、同様にボン教もチベット仏教の影響を多く受けているためではないかと思う。ともあれボン教の寺院を訪問するのは初めてであったため、非常に新鮮な体験であった。寺院は小さいものの、いろいろと感じるものがある。やはり来て良かった。寺院内ではボン教に関する資料(100Rs)が頒布されており、一部購入した。

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    ボン教寺院からラヴァングラーに戻り、坂道を登ってブッダ・パークに出る。ここはラヴァングラーの新しい名所となることが期待されている。今年3月にここを訪問するダライ・ラマによる大仏の開眼式が執り行われることになっており、これをもってこのブッダ・パークが開園することになる。現在はすでに園内はほぼ完成しているようだが、開眼式までは大仏には目隠しがなされている。

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    新しい宗教モニュメントにはあまり関心はないのだが、よくよく考えてみるまでもなく、どんなに由緒ある寺院等であっても、出来立てのホヤホヤの時代もあったわけで、その後歴史を刻んでいくことになる。

    こんな小さな町の割には、ずいぶん大掛かりでしっかりしたものを造ったものだと驚かされてしまう。資金やアイデアはどこから来たのかといえば、当然町の外のどこかに違いないはずで、このブッダ・パーク建立の背景には大きな政治経済力学があるに違いないと見るのが当然だ。スィッキム州政府の先導のもとに、地元仏教界、その他の有力者等の綱引き等があったようだが、どちらかというと施設そのものよりも、そちらのほうに興味がいってしまう。

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  • タシディンのゴンパへ

    タシディンのゴンパへ

    タシディン・ゴンパ入口
    なかなか洒落た造り
    タシディン・ゴンパを訪れる。田舎にある割にはずいぶんゴージャスな感じがする寺院だ。何がゴージャスかといえば、細長い敷地の通路には、信者たちの寄進による沢山のカラフルなマニ石があしらってあることだ。
    こんな眺めがずっと続いている。
    どこまでもどこまでも・・・。
    おそらく地震のためダメージがあって修復したのだろう。いくつかあるお堂の壁は新しく塗られている。境内にいた地元の人の話によると、ここの寺院では壁にひびがはいったりはしたものの、崩落するような大きな被害ではなかったという。
    2011年9月の地震による大きなダメージはなかったという。
    建物の中にある大きなマニ車は、ちょうど下部のベアリングの交換をするというところであった。現在、私たちが目にするマニ車がスムースに回るのは、もちろんベアリングが入っているからで、そういうものができる前の時代には、回すのにかなり力が要るものであったことだろう。
    寺院敷地内に沢山のチョルテン群
    2011年9月の地震は多くの寺院で改修工事を促すことにもなったようだ。おかげで(?)被害が少なかった寺院や資金力のあるお寺はやけにキレイにしてある。
    良く整えられている敷地内
    朝の散歩のつもりで立ち寄ったが予想以上に素晴らしかったタシディン・ゴンパ
    敷地内はよく整備されている。とりわけ入口から見て、敷地の向こう側に沢山のチョルテンが集まっている部分は特徴的である。敷地内にいたおばあさんが、「こっちにおいでなさいよ」と言うのでついて行ってみる。彼女が数々のマニ石やチョルテンに礼拝しながら連れて行ってくれた先は、まさにそのマニ石を彫ったり、そこに仏画を書いたりする職人さんの工房であった。
    マニ石を描く職人さんの工房
    奉納されたマニ石。おそらくさきほどの職人さんの手によるもの。
    こちらも同様
    あまり生産的ではないかもしれないが、チベット仏教圏では、こうした寄進文化が非常に良く発達している。だが、実は仏画というのは感覚で適当に描いているものではなく、最初にいくつもの直線を引き、極めて幾何学的な正確さで下書きを進めていく、非常に精密なものなのである。
    窓
    朝の早い時間帯であったため、お堂の中はちょうど朝の勤行の最中。そのため堂内を見学することはできなかったものの、勤行自体を見学することができて良かった。
    風力で回るマニ車
    寺院から宿までは、斜面のつづら折れの道なので徒歩30分くらいかかる。寺院からの階段の参道で、一匹の大柄な犬が近づいてきた。叱っても後ろからついてくる。特に吠えたり、噛み付こうとしたりする様子もないので放っておくが、ときおりやけに近くまで来るので叱りつける。
    まるで帰り道を案内しているかのように、しばらく先に進んでは、こちらが追いつくまで待っている。するとしばらく後をついてきて、叱るとしばらく先に進む。そこでしばらく待っていて・・・といった具合に。
  • ユクソムからタシディンへ ワンデイ・トレック

    ユクソムからタシディンへ ワンデイ・トレック

    ユクソムの宿で朝食を済ませてから、山道をタシディンに向けて出発。一日だけの山歩きを楽しむ。日中一杯で歩くことができる距離で行程も簡単なのだが、道は判りにくいところはいくつかあった。集落のないところ、人が通りかからないところで突然分かれ道になっていたり、それまで歩いてきた、あるかないかわからないような道自体が忽然と消えてしまっている箇所があるといった具合。
    シンプルで素朴なマニ車
    大きながけ崩れの跡。滑落しないよう注意。
    行程で特にこれといって大きな見どころはないのだが、やはりそこは尾根から眺めるスィッキムの山間の自然豊かな景色を眺めること、ひなびた集落の様子を目にすること自体が最大の見どころということになる。歩きながら目標となるのは、ルート上にあるお寺であったり村であったりする。お寺の類で最初に訪れたのはドゥーブリー・ゴンパー。
    お寺は大改装中
    お堂はふつうに見えたのだが・・・。
    2011年のスィッキム地震爪痕が今も生々しい
    壁画はかなりひどく損傷していた。
    復旧が完了するまで相当な時間と費用がかかることだろう。
    お寺は外装を大改装中。僧院に誰もいなかったが、中に入ってみると、その理由が判った。2011年9月に起きたスィッキム地震のためである。一階のお堂は比較的状態が良いとはいえ、壁画が剥がれ落ちている部分がある。おそらくこれでもかなり修復を施したのだろう。外壁もきれいになっている。しかし、上階のお堂はひどいものだった。壁の絵が広範囲に渡って崩落している箇所がいくつもあり、仏具や装飾等が無造作にゴロゴロ置かれているなど、修復の最中にあった。
    緑したたるスィッキムの山の景色
    途中の集落の子供たち
    登り坂でひと汗かいたら小休止
    本日の行程において、勾配がきつくて大変なのは、その次のホーングリー・ゴンパーまで。あとはところどころ登り坂はあるものの、基本的には下降していくルートである。逆に言えば、ユクソムからタシディンに向かうのではなく、その反対のルートであると、かなり上り基調で体力を消耗するということになる。
    正面から見ると何でもないようだが・・・
    向かって右側の壁はすっかり崩落していた。
    ホーングリー・ゴンパーも地震の影響を受けており僧侶は不在であったが、被害はこちらのほうが明らかに大きかった。正面から見て右側の壁がほぼ完全に崩落してしまっている。おそらくガントク近くのルムテクやペマヤンツェー等の寺院も被害を受けたのではないかと思うのだが、やはり復興のカギとなるのは資金力ということになるのだろう。
    グラーム・パンチャーヤトが運営するゲストハウス
    ホーングリー・ゴンパーの敷地脇には、地域のグラーム・パンチャーヤトが経営しているというゲストハウスの看板があった。そういうレベルで経営がなされている「公共の宿」が他にあるかどうか知らないが、かなり珍しい例ではないかと思う。
    ここからは下り基調である。向こうの山にタシディンの町が見える。直線距離では、渋谷から新宿、あるいは渋谷から池袋程度の距離のはずだが、複雑に絡み合う高度の異なる山々の稜線を越えてのことなので、実際に歩く道のりは見た目よりもはるかに長い。
    Hongri Gompaまでの登りがきつかったので、これからは下りと安心していると、今度は分かれ道でどう進めば良いのかわからないところがいくつもあった。またガレキで行き止まりになっているところもある。
    ふたりばかりの集落を過ぎて、Nessaの村に到着。ここでようやくジープ道に出る。未舗装だが四輪駆動は通ることができる道なので、一気に文明社会に出た気がする。ここでようやく小さな商店があり、コーラとビスケット購入して遅い昼食とする。午後2時半くらい。
    スィッキムでよく家屋等の屋根の上で翻っているのを見かける三色旗、赤、黄色と緑の旗は何なのか尋ねてみると、現在の州与党のSDF(Sikkim Democratic Front)の党旗だということ。ここからもうすぐ近くにタシディンの町が見える。タシディン行きのジープが出るところであったが、せっかくなのでそのまま歩くことにした。
    ひとつ集落を過ぎてSinon Gompaに着いた。扉が閉まっているので見学できなかったが、外壁にあちこちヒビが入っており、入口両側の壁画も割れている。外壁については修復したばかりのようで真新しくなっている。
    スィノーン・ゴンパー境内にはためくタルチョー
    ゴンパの裏に学校があり、その脇からタシディンに下ることになるのだが、近くに見えてもまだまだ遠かった。すでに日没は近いので急がなくてはならない。学校脇で大工仕事をしていた人が、しばらく下るとジープ道に出るというので、その小道を急ぐ。しばらくは階段で、そこからは先のトレッキングルート同様の岩石だらけの細い路となる。
    ようやくジープ道に出たものの、今度はどちらに行けばよいのかわからない。道の上に民家があったので、大声で誰かいないか呼んでみると、出てきたのは子供たち。これはアテにできない。ジープ道から直下に下るけもの道がタシディン行きだと言うのだが、すでに太陽は山の向こうに沈んでおり、ジャングルの中で真っ暗になったら大変困る。とりあえず向こうから来たクルマがあったので、タシディンの方角を確認。クルマが来た方角がタシディンであった。
    問題はどのくらい遠いかということ。向こうから来た女の子たちに尋ねてみると、12キロなどというとんでもないことを言っている。これは何かの間違いだろう。しかし、他に尋ねる相手もいない。仕方なくその方角に歩くが、ちょうどジープ道を横切る二人連れがいたので聞いてみると、「ここを通ると15分でメインロードに出る」とのことなので、付いていくことにした。彼らは集落の住民で、帰宅するところであった。分かれ道に来て、彼らが集落に行くところで、それとは違う側がメインロードに続く道だと教えられる。
    しはらく下るとジープ道に出た。つづら折れになっている道をショートカットしたことになるのだろう。もうかなり暗くなってきた。タシディンまでは、まだ5キロあることが道路脇の表示で判った。タシディンまでのシェアジープがあればぜひ乗りたいが、なくてもここを歩いていけば着くということ、けもの道ではないので懐中電灯を点ければ歩くことができて、やがて到着できるという安心感がある。しばらく進むと見晴らしの良いコーナーがあり、タシディンの夕暮れ風景を一望できる。景色は美しいのだが、早く着きたい。歩きくたびれたし空腹だ。
    眼下にはタシディンの町
    しばらく進むと後ろから二台の大型トラックが来るのが見えた。止めて尋ねるとタシディンの方向に向かうというので乗せてもらうことにした。
    タシディンの町に着き、小さなマーケットにある食堂で、ペリンから同行させてもらっているUさんと夕食。注文して出てきたモモもトゥクパも疲れた身体に染み入るように旨く感じられる。ビールも最高に気持ちよく胃の中に吸い込まれていく。
    タシディンでの夕食
  • Namaste Bollywood #35

    Namaste Bollywood #35

    Namaste Bollywood #35

    Namaste Bollywoodの待望の第35号が発行された。今号の特集は、第25回東京国際映画祭での上映の際に来日したAGNEEPATHのカラン・マルホートラー監督へのインタヴュー記事。この大作を創り上げる背景の裏話がいろいろ明らかにされていて興味深い。昨年公開されたこの作品を鑑賞した際にはとても感激した私であるが、日本人ボリウッドダンサーとして知られるAYAKOさんがこの映画のダンスナンバー「GUN GUN GUNA」でバックダンサーの一人を務めていたことについては、この記事を読むまで知らなかった。

    残念ながら私自身は直近の東京国際映画祭には出かけていないし、インドで昨年公開された際に観賞する機会も逃してしまったのだが、同映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞したSHIP OF THESEUも取り上げられている。近年のボリウッド映画はテーマ、演出そして作品の質どれをとっても大きな変化(・・・といっても、昔の作品のクオリティが低いというわけでは決してない)を遂げており、90年代の日本でひとつの社会現象になった「インド映画ブーム」で公開された作品群のイメージとは大きく異なるものが非常に増えている。

    あの時代に日本で次々に公開された映画のイメージで、「歌と踊り満載でハッピーエンドのお気楽映画」などという誤った固定観念に縛られるようなことがあっては、奥行き深い豊かな愉しみの機会を失うことになる。

    なお、今号には早稲田大学文学学術院高橋明先生とNamaste Bollywood発行人のすぎたカズト氏とによる「ボリウッド講座」のお知らせも掲載されている。日時は3月9日(土)の15時から18時まで、場所は早稲田大学(戸山キャンパス)文学部33号館229教室とのことで、大変興味深いお話を聞くことができるに違いない。

    さて、2013年の日本には、どんなボリウッド映画が上陸してくるのだろうか。

  • ペリンから一日観光

    ペリンから一日観光

    朝一番の眺めはいまひとつだった。
    ペリンといえば、この町からのカンチェンジュンガ峰の眺めで知られているが、夜が明ける前に起きだしてみたが、残念ながらちょうど峰の部分に雲がかかっていた。これはこれで奥ゆかしくていいかもしれないが。
    幸いなことに雲が移動して眺めが良くなった。
    本日のクルマ。フロントガラスのヒビ割れの補修がなかなかイカしてる。
    本日は日帰りでこの地域をクルマで観光するつもりにしていたが、明日にはユクソムに行くつもりであったので、本日の行程が終わったらユクソムで降ろしてもらうことにした。
    大きな吊り橋
    滝。珍しいものではないが・・・・。
    最初に大きな吊り橋と滝を訪れる。このあたりは水にも恵まれているため、緑は豊かだ。山あいに広がる段々畑、村落、日を浴びてのどかな村の風景を楽しむ。日向にいると陽射しはそれなりに暖かいのだが、日陰に入ると非常に寒い。自宅にあるダウンの中で最も厚いものを着てきて良かったと思う。
    晴れ渡った空に草木の色が映える。
    こんな感じの家屋が多い。
    蒸篭を日常的によく使うのだろう。
    日本の信州を思わせるような景色
    日陰はやけに寒い
    ケチョパリ湖に行く。ここには土産物屋を経営している日本人女性がいらっしゃるという情報はウェブで得ていた。
    すぐに判るだろうか?と入場チケット売り場から中に入ってすぐのところであった。小さな日の丸が店の壁に貼られているので人に尋ねなくてもそれと判り、お会いすることができた。だがここに立ち寄るインド人観光客たちは、まさか日本人がここで店を開いているとは想像もしないようである。
    湖自体は、ブーティヤー族仏教徒の聖地ということになっているらしいが、一般の観光客が多く、参道に列を成している状態だ。夏のシーズンには大混雑になっているのだろう。
    湖の手前にはチベット仏教寺院がある。ブータンやチベットから来た僧侶も滞在しているとのことで、山間の小さな集落にあるとはいえ、なかなか「国際的」なお寺でもあるようだ。
    仏教寺院
    ケチョパリ湖
    ビューポイントへの道
    湖の眺め
    山間の集落にも携帯電話のタワーが建っており電波がちゃんと届く。
    彼女に勧めていただいたビューポイントまで歩いてみることにした。湖のすぐ東側の斜面を登ったところにある。展望台脇にある店の主らしき男が、芝の上で昼寝をしている。日常は分刻みで仕事をしている身としては、時間がふんだんにあるという点について、少々羨ましくならないでもない。
    そこからもうひとつの滝に行く。ここは高低差が大きく、筋もみっつある。一番大きなものはかなりの水量で迫力がある。
    ふたたび滝
    本日はペリン周辺の景色を楽しむことができて良かった。午4後時半くらいにユクソム到着。のんびりした感じの集落だ。宿もなかなか新しくてキレイだ。ペリンから同行のUさんとビール飲みながらの夕食を楽しんだ。
    ユクソムでの宿
    夕食(の一部)
  • 11年後の処刑台の露

    2001年の国会議事堂襲撃事件に関わったかどで収監されていたアフザル・グル死刑囚に対する絞首刑が執行されたのは今月9日の朝。デリーのティハール刑務所で処刑され、同刑務所内に埋葬された。事件から11年2か月後であった。

    この事件によってエスカレートした緊張は、南アジアの事実上の核保有国同士が睨み合う、世界最初の核戦争まで一発触発の危険が揶揄されるまでに至り、日本その他の国の政府が自国民をインド・パキスタン両国からの退去を促す事態にまで発展した。

    Afzal Guru hanged in secrecy, buried in Tihar Jail (The Hindu)

    今月21日にアーンドラ・プラデーシュ州都ハイデラーバードで起きた連続爆破テロとアフザル・グルの処刑に関する関連性の可能性を指摘する声も一部ではある。

    Hyderabad Blasts and Afzal Guru hanging link a mere sham? (One India News)

    処刑は国内外で波紋を呼ぶことになったが、とりわけこの件によるインパクトが大きかったのはアフザル・グルの故郷カシミールであり、反政府活動の活発化の強い兆しが見られるようになっている。

    近年は情勢が沈静化しつつあり、騒乱が始まった1980年代後半以前の主要産業であった観光業の復興の確かな進展がみられつつあった中、今後の成り行きが心配されているところである。

    Afzal Guru’s secret execution raises concerns in India (DAWN.COM ※パーキスターン)

    The hanging of Afzal Guru is a stain on India’s democracy (The Guardian ※イギリス)

    カシミールのインドからの分離要求運動は、当局による逮捕、拘禁、投獄等の恐怖を前にしても怯むことのない活動家たちによって支えられている。もちろんその背後には、外国、つまりパーキスターンのISIや同国を本拠地とする原理主義過激派団体のサポートがあることはよく知られているものの、地元に暮らす人々多数が支持・共感する運動であるがゆえに政府の弾圧を乗り越えて継続されているわけでもある。

    マハトマー・ガーンディーが中心となって率いた、イギリスからの独立運動の中で、ガーンディー翁自身も含めて多数の活動家たちが当時の政府当局に拘束され、投獄され、場合によっては命を落としたりしながらも、運動は粘り強く継続されていき、独立を手にするという輝かしい歴史と経験を持つインド自身の過去が、現在のカシミールという土地やそこに暮らす人々の痛みと苦しみと重なるように思われてならない。

    テロや暴力を肯定するわけではないが、アフザル・グルの処刑はカシミールの分離を支持する人たちにとって、1929年4月に国会議事堂で爆弾を投げて「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)」を叫んで逮捕・収監され、1931年3月にラーホールの刑務所で処刑されたバガット・スィンのイメージと近似したものになるような気がしてしまう。

    将来、カシミールがインドから分離独立ないしはパーキスターン側に編入されるようなことは決して有り得ないと私は信じている。それでも、万が一そのような時代がやってくるようなことがあれば、国会議事堂襲撃事件を後方支援したとされるアフザル・グルならびに襲撃実行犯たちは、故郷カシミールのインドからの分離のために自らを捨石とした憂国の志士として、祀り上げられることになるのだろう。

    だが民族自決のために血で血を洗うような抗争がこの世にあってよいものなのか、私は大いに疑問である。とりわけインドのような民主主義国家にあっては、「共和国」の名に恥じない平和的な解決がなされることを望みたい。

    「外国からの干渉」により、カシミールの政情不安が20数年間も続いているということは、問題の解決を強権による解決を求めた当局の大失態であり「世界最大の民主主義」の至らない部分にツケ込んだ隣国に足をすくわれてしまった結果であるともいえる。

    「独立の志士」を生むことなく、異なる土壌に暮らす異なる民族、異なる伝統や信条を持つ人たちが、それぞれ異なる夢を抱きながら、共存・共栄していくことができる平和なカシミール地方を築いていってもらえるよう切に願いたい。

  • ペリンへ

    ペリンへ

    午前中はガントク市内を散策。せせこましい斜面の街並みに高層建築が増えているため、街路は陽当たりが悪く、寒々とした感じがする。
    ガントクの乗合ジープスタンドから出発
    予約した乗合ジープは昼過ぎの出発。できればもっと早い時間に出たかったが、いかんせん本数が少な過ぎる。州内の交通の大半が乗合ジープであるのは、道路が細くて舗装も貧弱であるため仕方ない。だが他州に較べると格段に人々の移動が少ないのではなかろうか。もちろん、それだけ人口が希薄であるということにもなる。
    決して豊かな州ではないし、これといった産業があるわけでもない。その割には極端な貧困層は多くないように見えるのは、やはり人口が少ないことと、中央政府が予算配分で優遇しているということもあるだろう。国境線を巡って幾度か痛い目に遭わされてきたインドとしては、すぐ北にある中国に対する警戒心を解くわけにはいかない。
    ガントク市内を南に下る。家並みが密集している中、ぽかんと開けた空間があった。Iリーグのスィッキム・ユナイテッドの本拠地グラウンドである。元インド代表ストライカー、バイチュン・ブーティヤーは現在ここに在籍している。この時期なのにピッチの緑がつやつやと輝いているのは、まさかグラウンドの整備が行き届いているためというわけではなく、おそらく人工芝なのだろう。
    行けども行けども、山また山。スィッキム州の景色は素晴らしい。同じチベット仏教地域でもラダックのあの月面のような風景とはまったく違い、つやつやとした豊かな緑に恵まれている。水も豊富でところどころで岩清水が湧いては流れ落ちている。自然の恵みの豊かさを感じる。ラダックに較べると、チベット仏教色がやや薄く感じられるのは、仏教徒以外の住民も多いからに他ならない。
    クルマに乗り合わせている人たちの大半はベンガルからの旅行者たち。私の後ろには四人の家族連れと最後の列の席にはカップルがいる。それにしてもジープに11人乗るので、かなりきつい。私は最前列の左側。運転手の横に私含めて二人座っている。それでも最前列はまだいい。後ろの席はもっと窮屈そうだ。乗合ジープはたくましい駆動力で山道を進んでいく。やはり4WDのクルマは、きれいに舗装された市街地で乗るものではない。悪路で荒っぽく使いまくるためにあるのだ。
    街道沿いの茶店で休憩
    タルチョが風にはためく
    ガントクからペリンまで5時間半ほど。道のりを半分ほど来たあたりで、食事休憩が入った。天気は良く陽射しもいいのだが、気温はかなり低くてカゼを引きそうだ。休憩後走り出して間もなく、ラヴァングラーの町を通過する。スィッキム州では、山道を走っていると、いきなり町に入るのでちょっとビックリする。それだけ人々が密集して暮らしているということなのだろう。あまり広がりすぎると往来が困難になるとともに、おそらく電気や水道等のインフラの整備の関係もあるのではなかろうか。狭くコンパクトにまとまることにより、限られた費用で生活や産業の基盤を整えることができると考えられる。
    どこもかしこも山景色
    市街地に入ったときだけ、スマートフォンでインターネットに接続できるようになる。そして郊外に出ると可能なのは通話のみ。人口が希薄でアンテナ等施設の設置と維持に費用がかかる割には投資分の回収を期待できそうにない地域では、相変わらず民間の携帯キャリアではなく、BSNLが強いらしい。
    それでも、ここ10年ほどでインドの通信事情は飛躍的に向上している。インターネットが普及してきたころ、ネットカフェで30分くらい費やしてもメールチェックさえできなかったりすることが珍しくなかったことが、ずっと遠い昔のことのように思える。今ではスマートフォンで手軽に見ることができるし、フェイスブックで友人・知人たちの近況を知ったり、こちらから投稿したりすることができる。インドの場合、スタート地点が低かっただけに、その成長ぶりには目を見張るものがある。
    スィッキムはインドの東のほうにあるため、夕暮れどきがずいぶん早い。午後5時にはもう真っ暗。日没は4時半過ぎくらいではないだろうか。その理由のひとつに山並みが太陽を遮ってしまうことも挙げられる。
    ペリン到着まであと少し
    5時を回って「夜になる」と、満月が美しかった。山あいに点々と光る電光を目にすると、それらの場所に人々の暮らしがあることを気づかされる。スィッキム州の給電事情は良好だ。水力発電が盛んであるためだろう。すぐ隣のブータンもインドに売電しているくらいだから、スィッキムも州外に電気を売るくらいの余裕があるのかもしれない。
    午後6時にペリンに到着した。アッパー・ペリンの宿の前で降車。小さな町ではあるが、正面には24時間営業の銀行ATMがあるのにはちょっと驚いた。チェックインの手続きをしていると、日本人旅行者Uさんに出会った。ちょうど明日は周囲を観光するとのことなので、クルマをシェアさせてもらうことにした。
  • ガントクと周辺を見物2

    ガントクと周辺を見物2

    前日の夕方、A先生のお宅を訪問する前にも少し調べてみたのだが、スィッキム州東部の高地にあるチャングー湖に行こうとしている外国人のグループがないか、付近のホテルや旅行代理店を回って尋ねてみる。

    もちろんクルマのチャーター料金が他の人とシェアして安く済めばそれに越したことはないのだが目的はそれではない。そこを訪れるにはパーミットの申請が必要になるのだが、外国人の場合は最低2人のグループであることが必要となっているためだ。

    念のため、MGマールグにあるスィッキム・ツーリズムにて確認してみると、やはりひとりでは申請できないことになっているようだ。パーミットを発行するのは、まさにこの事務所であるのだが、個人での申請は不可で、必ず旅行代理店経由で行なうことになっている。煩雑な事務を避けるためのアウトソースということもあるだろうが、こうした行政関連サービスの分野における一種の民営化という側面もあるのだろう。

    一軒だけ、「ひとりでも申請できる」という代理店があった。手元にもうひとりの外国人の書類があり、とりあえずはその人と行くということで申請をして、当日はひとりで出発して、チェックポストでは「連れは急病で来ることができなくなった」と言えばよいなどと言うが、追い返されたりはしないだろうか。他のところはすべて「他に誰かいないと受け付けません」ということであったためやめておくことにした。

    数日後にチャングー湖に向かうというカップルには出会ったものの、私にはそれを待っている時間はない。雪の積もった高地で水面が凍結した様子はさぞ美しかろうとは思うのだが、この湖に固執する必要はなく、他にも訪れてみたいところがいくつもあるため、気分を変えて、ジープスタンドに出向いて、翌日ペリンに向かうシェアジープを予約することにした。

    昼過ぎに、A先生とガントクの北郊外で待ち合わせする。本日連れて行っていただいた先は、州政府エンポリアムに併設されているクラフト博物館と、各種伝統工芸の職工の訓練も実施されているワークショップ。博物館では、伝統的な工芸品、家具に衣装等が展示されており、興味深かった。この州に暮らしているブーティヤー、レプチャー、タマン、グルン、シェルパーその他の民族の生活ぶりが再現されている。

    ワークショップでは、木彫、タンカ描き、カーペット織り、機織り、竹細工その他、いろいろな工房がある。工芸の種類にもよるが、目が見えなかったり、足が不自由であったりと、様々な障害を持つ人の姿も少なくない。ここで得た技術で人々が自立して稼ぐことができるようになることを目指しているわけだが、ここで製作された工芸品もエンポリアムにて販売されている。

    機織り
    タンカ描き

    夕方、A先生と別れて街の中心のほうに戻る。宿泊先はガントクの中心部にしたのは正解であった。食事どころ、コーヒーやビールなどを楽しむ場所が宿のすぐ近くにあって便利だ。

    急坂ばかりの街なので、オートリクシャーのような気軽な乗り物がない。乗合で運行しているタクシーは、ルートを知っていれば便利なのだろうが、ほんの数日間のみの滞在で、土地勘のない身にはちょっと難しい。

    <完>

  • ガントクと周辺を見物1

    ガントクと周辺を見物1

    私の友人で、ガントクのカレッジで教鞭を取るA先生に連絡をとった。先生はコールカーター出身のベンガル人だが、スィッキム州で20年ほど暮らしている。

    この日は、先生があちこち案内してくださるとのことで、MGマールグで待ち合わせして久々に再会し、クルマでルムテク寺院へと向かう。ガントク市街地を出て西方向に向かってすぐのところのビューポイントからは、斜面に張り付く街並みを一望することができる。

    ガントクの街並み

    少し登った先にあるのがルムテク寺院。20年以上前に訪問している。寺院内部のたたずまいは覚えているがガントクからの道のりについてはまったく記憶がない。確か昔はお堂の中を撮影することができたが、今は禁止となっている。寺院に入る際にはかなり厳重なセキュリティチェックがある。

    ルムテク寺院
    ルムテク寺院にて

    これは外部からのテロに対する警戒ではなく、寺院内部での抗争が原因となっている。ルムテクは、カルマ・カギュー派の寺院だが、同時にカルマ・カギュー派を率いるカルマパ17世の正統性を巡る紛争の場でもある。現在、同派では二人のカルマパ17世が並立(泡沫候補的なスィッキム出身の自称カルマパ17世も加えると三人)しており、これを巡る派閥抗争で流血の惨事も発生するという、異常な事態となっている。治安当局が常駐して監視するという宗教施設内での対立としては非常に嘆かわしい状態だ。世俗を離れた僧院とはいえ、やはりそこは私たちの世界と地続きの「人の住む世」という気がする。

    続いて訪れたのは、1998年に完成したという新しいリングダム寺院。歴史はないが建物や内部の造りは見応えがある。ラダックの寺院とは違う気がするが、チベット仏教、チベット建築の知識があれば、具体的な違いが判るのだろうが、私にとってはどこか違う・・・としか感じられないのは残念だ。建材は日干しレンガではないのは、雨が多い地域だからだろう。

    リングダム寺院

    境内で記念写真を撮影しているチベット系のグループがあった。ひとり、ふたりでいるとそうとは判らなかったりするかもしれないが、大勢でいると地元のチベット系の人たちとは顔立ちがずいぶん異なることに気が付く。「ひょっとして?」と思って声をかけてみると、やはりラダックの人たちであった。

    リングダム寺院の境内でラダックから来た方々のグループと出会った。

    次の訪問先は山の中のバンジャークリー滝。おそらく雨季にはすさまじい水量になるのだろう。滝の周囲は整備された公園になっている。ここから再びガントクに戻り、エンチェイ寺院。ここでは着飾った女の子と家族が訪れていた。女の子はお調子者のようで、愛嬌たっぷりにポーズを取ってくれたので写真撮影。

    エンチェイ寺院
    いろんなポーズを取ってくれた女の子

    行く先々で、A先生の教え子、元教え子であった人たちと出会う。しばしば携帯電話にも教え子たちからの電話がかかってきて、人気者の先生であることがよくわかる。各所見学した後、MGマールグで食事をしてから先生のお宅にお邪魔させていただく。

    <続く>

  • ガントクへ

    ガントクへ

    実に20年以上の年月を経て、スィッキム州を訪問することになった。前回訪れたのは確か5月だった。平地の暑気から離れてホッと一息ついたものだが、今回はその反対。心地よい気候の平地から入ってくると、西ベンガル州の山岳地のダージリンにせよ、スィッキム州にせよ、日が沈んでからの寒さがとてもこたえる。日本の冬と同じような気温とはいえ、基本的に暖房がないので着込むしかない。しんしんと冷え込む中、さっさと寝てしまえばいいのだろうが、日記その他を書いていると寒さが骨身に沁みるような気がする、などと言っては大げさすぎるだろうか。

    バケツに温水を溜めて髪と体を洗う。湯を浴びているときはそれなりに気持ちはいいのだが、前後左右から冷気が迫るため、すぐに身体が震えるほど寒くなってくる。バスタオルで全身を拭くころにはすっかり冷え切っていて、即座にカゼを引いてしまいそうなくらいだ。背中から布団や毛布を羽織り、ベッドの上で足を投げ出して座ってしばらく書き物をしていると、膝に載せたノートPCの温もりが心地よく、湯たんぽのような効果があることに気が付く。

    夕方以降の室内の寒さは、西日の当たり具合にも左右されるようだ。ガントクでの宿のこの部屋は、午後の陽がまったく当たりないロケーションになっているようで、日没後に外から戻ってくると、室内のほうが寒かったくらいだ。

    今回、ガントクの街に着いてみて、果たしてこれが同じ場所なのかと首をひねりたくなるくらいだった。前回の訪問から20年以上の時間が過ぎているため、いろいろと大きく変わるのは当然であるにしても、これほど景観が変わってしまうとは想像もしなかった。何が大きく変わったのかといえば、ガクトクの建物のタイプが昔と根本的に異なっている。州都ガントクの中心部、MGマールグ界隈では、「昔と今」の鮮やかな対象を目にすることができる。

    ガントクの建物新旧 木造二階建て「イグラー」を取り囲むコンクリートの高層建築
    「イグラー」の建物は、ガントクにはごくわずかしか残っていない。

    マーケットの中にごくわずかに残る「イグラー」と呼ばれる、スィッキム州独自の木造建築だ。普通、建物は緑色に塗られており、トタンで屋根を葺いた二階建てだ。一階部分は店舗、通常二階は住居や倉庫となっている。前に訪れたときには、州都最大の商業地区MGマールグ沿いの店舗のほとんどは木造のこんなスタイルであった。現在、ガントクではこういう建物で新築する人はいない。斜面の街の限られた土地を有効活用するため、いきおい高層化することになる。建物がローカル色のあるものから、全インド共通のコンクリ柱とレンガで作る普遍的なものに置き換わったこと、加えて高層化により空が狭くなり、昼間でも通りが暗く、往々にして陽当たりも悪くなったといえる。

    2011年9月に発生したスィッキム地震の際、斜面という元々地盤の軟弱な土地であることもあり、多かれ少なかれ被害を蒙った建物はかなりあったという話は聞くが、全壊してしまったビルもあったというから恐ろしい。地盤がゆるく、傾斜のきつい場所には不釣り合いなほど高層であったことが災いしたということだ。

    2011年9月のスィッキム地震で全壊したビルの跡地
    しばしば地震が起きるスィッキム州。こういう建物もかなり危険なのではなかろうか。

    それはともかく、MGマールグ界隈では、申し合わせがあるのか、それとも条例で定められているのか知らないが、コンクリート造の建物の外装は薄緑色になっているため、ガントクらしい雰囲気と統一感はある。現在では車両乗り入れ禁止の遊歩道となっており、通りの中央には花壇がしつらえてあるなど、なかなか洒落た感じになっている。ライトアップされた夕方以降など、なかなかいいムードになる。

    なかなか洒落た眺めのMGマールグ

    それでも午後8時を回ると、開いている商店もごくわずかとなり、まるで深夜のような静けさとなるため、これが州都の中心地であるとはにわかに信じ難い気もする。

    こんなカフェも現在ではあって当然の州都ガントクのMGマールグ

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  • GALAXY Cameraの使用感

    GALAXY Cameraの使用感

    前から見ると普通のデジカメだが・・・。
    背面の様子はまるでスマートフォン

    先日、コールカーターで購入したGALAXY Cameraの使用感について述べてみたいと思う。

    コンパクトデジカメとしての性能や写りについては、正直なところ「並みである」といったところだ。35mm換算で、23mmから21倍という超高倍率な光学ズームが付いているが、正直なところ、そんな倍率は要らないので、もっと良質なレンズを搭載して欲しかった。できれば単焦点で、明るくて描写の良いものを積んでくれれば良かったのにと思う。

    だがこれについては、SAMSUNGは本来のカメラメーカーではなく、家電メーカーであること、技術的なこだわりよりも、マーケティングを最優先とする営業第一主義の会社なので、過剰な期待してはいけないのだろう。まあ、それでも並みの写りではあるが、決して日本メーカーの大衆向けコンパクトデジカメに比較して、描写が劣るわけではない。

    ただ、やはり韓国らしいテイストが明らかであるため、好みは人それぞれだろう。一言でいって、コントラストと色のメリハリがかなり強めであること。ちょうと韓流ドラマを観ていて、日本のそれと映像の具合、照明の当て方が異なることに気が付くのと同様に、デフォルトで撮影するとデジカメの画像の好みも韓国らしいテイストに仕上げてあることがわかる。これについてはカメラ自体の設定で調節することが可能だ。

    カメラとしてどうもいただけない部分もある。スマートフォンから発展したカメラなので仕方ないということになるのかもしれないが、画面側が総ガラス張りであるため、グリップ感が非常に良くない。うっかりツルッと手を滑らせて落としてしまいそうな気がする。実用的なカメラとしては、この部分についてはしっかりと考えて欲しい。

    取り付けることができるストラップは、ハンドストラップのみで、両吊りにして首からかけることができないのも残念。そんなわけで、私は底部の三脚穴に取り付けるストラップを使っているが、知らぬ間にネジが緩んでしまうことは珍しくないので気になるところだ。

    両吊りできないので、やむなく三脚穴にネジ込むストラップを利用

    カメラとしての性能や操作性はハイエンド機には遠く及ばず、大衆向けコンパクトデジカメと同等であるため、とりわけ最近はハイエンド機の低価格化が進む中、日本円にして四万円台前半から半ばくらいといった値段からすると、かなり割高感がある。

    ただし、GALAXY Cameraならではの利点もまた多い。カメラとしての基本的性能に関わる部分としては、画面にタッチシャッター機能が採用されているため、強力な手振れ補正機能と合わせて、手持ちによるスローシャッターで撮影できる領域が広がっている。

    また、このカメラの本領は通信機器としての優秀さにあると言い切って間違いない。マイクロSIMを挿入してネット環境を備えれば、撮影データをそのままウェブにアップして保存・共有することもできる。通話はできないものの、携帯電話としての通話機能がないことを除けば、Android搭載のスマートフォンとしての機能がすべて備わっている。テザリング機能により、これを介してPCその他の機器をネットに繋ぐこともできる。もちろんWifi環境のみで使用しても、ネット接続用のルーターを携帯することによって常時接続環境にあれば、利便性に遜色はない。

    4.8インチの画面は、通常のスマートフォンと比較するとかなり大型のカテゴリーに入るため、ウェブサイト閲覧やメール送受信には申し分ないし、電子書籍リーダーとして使えないこともない。折りたたみのBluetoothキーボードを接続して簡単な文書作成等にも使うことが可能だ。かなり高性能なCPUを搭載しているようで、実にキビキビとした快適な操作性を実現している。

    バッテリーはGalaxy SⅡと共通なので、ドコモショップに行けばいつでも手に入る。日本国内では並行輸入以外では未発売とはいえ、スペアバッテリーの入手に困ることはない。

    カメラ、スマートフォンの通話以外の機能、電子書籍リーダー、文書作成とネット閲覧機器(パソコン)等をひとまとめにすることにより、日常はもちろん、旅行先での荷物も相当軽減することができる。ガイドブックだって、PDF版をこの中に放り込んておけばよい。

    非常に魅力的なアイテムで、私自身はとても気に入っているのだが、それでもひとつ疑問に思うことがある。なぜ携帯電話機能が省略されているかということだ。あまり頻繁に通話するのならばちょっと面倒かもしれないが、マイク付きのヘッドセットを接続して通話するような仕様でもいいので、電話としての通話ができるようになっていれば、もっと良かったのにと思う。Skypeの利用は可能なので、発信することはできる。あるいはSkypeで固定電話や携帯電話から受信できるサービス、SkypeInを利用している方ならば、あまり不便は感じないかもしれない。

    カメラとしての機能・性能については、ハイエンド機ではないため、多くを望まないが、カメラに付随している通信機器としての性能が良好なだけに、電話機能がないことは大変惜しまれる。

    だが、それでもこれだけ多彩な機能が盛り込まれたカメラということで、indo.to推奨の「インドで大変重宝するカメラ」としてノミネートすることにいたしたい。

  • ダージリンのガイドブック 1896 & 1921

    ダージリンのガイドブック 1896 & 1921

    ダージリンのチョウラースターにある「Oxford Book & Stationary Company」という書店で、ちょっと気になる「ガイドブック」を見つけた。

    ひとつは1896年発行の「ILLUSTRATED GUIDE FOR TOURISTS TO THE DARJEELING HIMALAYAN RAILWAY AND DARJEELING」というもので、もうひとつは1921年に発行された「DARJEELING AND ITS MOUNTAIN RAILWAY」という書籍だ。どちらも復刻版である。

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    当時、スィアルダー駅からスィリグリーまでの列車は、現在のバーングラーデーシュ西部から北上するルートを走行していた。パドマー河を越える橋はなかったため、フェリーで対岸のサラー・ガートまで渡り、そこから乗り換えた汽車でスィリグリーに向かうといった具合であったことは、今ではあまり知られていないかもしれないが、分離独立前までインドと現在のバーングラーデーシュはまさに一体の関係にあったことが窺われるだろう。

    とりわけバーングラーデーシュ西部の鉄道ネットワークについては、今も昔も広軌が敷かれており、今のインドとの行き来はごく当たり前のことであった。それに対して、東部ではメーターゲージで、現在のアッサム州と繋がっており、こちらもまた相互補完関係というか、切っても切れない一体の関係があったわけである。

    それはともかく、当時、開業から十数年という草創期のダージリン・ヒマラヤ鉄道の息吹を感じるとともに当時の白人居住者たちに対する旅行案内書であることから、植民地の避暑地としてのダージリン、社交場としてのヒルステーションの雰囲気を味わうのに最適な書籍だ。

    山岳鉄道というもの自体が、素晴らしいハイテクの産物であった当時は、平地の鉄道技術者が次々に現地化、つまりインド人化されていっていた中にあっても、多くのイギリス人の(かなり貧しい)労働者たちがここで雇用されていたことについても言及されている。

    冒頭で言及した2冊の「ガイドブック」の発行年には、25年ほどの時差があるため、ダージリンやカルスィヨンといったヒルステーションの整備もかなり進んだように思われる記述が見受けられるし、後者の時代になると周辺地域でのトレッキング案内なども書かれており、だいぶ今の時代の旅行に感覚が近づいているようにも感じられる。

    ただし、その時代には今のような便利なアウトドア用品はないため、ガイド以外に食事係、荷物運び人その他の従者たちを大勢雇って出かけるものであったことが、記述内容からわかる。

    これらの書籍を購入した「Oxford Book & Stationary Company」は、Oxford University Pressとは全く無関係の書店ではあるが、創業1937年という、植民地時代から続く老舗であり、他にも面白い昔の書籍の復刻版はいくつも置いてあるようだ。上記2冊の古い時代のガイドブックは、どちらもダージリンでリプリントされたものである。

    もしダージリンに出かけるご予定があれば、ぜひ覗いてみることをお勧めしたい。