何が良いのか悪いのか

 昔、外からはあまり事情がよくわからなかった時代の中国からのニュースで、「天才××少年」などといったタイトルで紹介されるものがよくあった。それは暗算であったり、スポーツであったり、音楽の演奏であったりした。往時の共産圏では国内外へのプロパガンダという目的もあり、「国家は人民への目配り気配りを欠かさない」「共産主義とは創造的な個性を伸ばす体制だ」といった具合にアピールしたかったのだろうか。
 国外から眺めていても、特にスポーツの分野ではオリンピックその他の大きな大会で、東側の国々が体操や陸上競技など特定の種目において圧倒的な強さを発揮したりもした。まさに才能を秘めた児童たちを発掘し、幼いうちから国家による英才教育を施した結果だ。こうした才能の発掘と開花の目的は、個の育成ではないことはいうまでもないだろう。才能を見込まれながらも結実しなかった多くの者たちが、その後どうなったのか知りたいところでもある。 
 かつてのような東側ブロックなる世界は存在しないが、現在でもそうした体制の国々はいくつか残っているし、国威発揚のための天才発掘とその育成という「事業」が消え去ったわけでもない。


 国の名誉がかかっているわけではないし、公費が投入されているわけでもないのだが、オリッサ州でマラソンの天才少年がいるという記事を目にした。
Fears for Indian ‘marathon tot’ (BBC South Asia)
 もっともこの記事でこの長距離を走る3歳児が賞賛されているわけではなく、それを強いている周囲への批判が焦点となっている。こんな幼児が長距離を走ることによる心臓や肺などの器官へ悪影響が出るであろうこと、発育に大きな問題が生じるであろうことなど、素人だって容易に想像がつくというものだ。
 この子供ブディアは、オリッサ州の非常に貧しい家に生まれ、実の親から他人に800ルピーで売り渡されたのだという。柔道のコーチだという男がこの子を引き取ったのだというが、そもそも何のためにマラソンのトレーニングなどやらせているのかはこの記事を読む限りではよくわからない。それにしても、3歳といえばまだ赤ん坊に毛の生えたようなもの。日々両親にたっぷり甘えて過ごすのが普通だろう。
 インドでまとわりつく子供の物乞いを初めて目にしたときには不憫に思ったりもしたが、小銭を渡しつつも、その辺を走るオートやバスの騒音、あるいは草木のように風景の一部と同じようにしか感じなくなってくる。ときにしつこい子がいると、「ええい、しつこいガキがぁ!」と腹が立ったりもする。
 でも自分自身が人の親になってみると、ちょうど自分の息子くらいの年頃の幼い子が懸命に物乞いをしている姿を見て、やはりいろいろ思うところがある。
 経済的には満ち足りた国でも、教育の現場の荒廃が叫ばれていたり、少年犯罪の増加が懸念されるなどいろいろ問題があるので、何が良いのか悪いのかよくわからない。でも子供たちが子供らしく生きていける環境を守るのは大人たちの責任であることは間違いないはずだ。
 人は長じて自らの努力と能力に応じて生きていく環境を選びとることができる。でも生まれて間もない小さな子供たちは自分たちの意思では何も決められない。野山に生きる動物たちと違い、幸か不幸か人は社会の中で暮らしていくようにできている。どんな僻地に住もうが、どうやって食い扶持を得ようが、多かれ少なかれ他の人々とのかかわりなしに生きていくことはできないのだ。
 子供たちが成長して運命を切り開けるようになるには、通常は学校教育や職業教育その他の修練の機会が得られる環境の中で、社会の中で自分の居所を創り上げる能力を蓄えることが前提にあるだろう。人として生きるために必要なものから引き離されて育つ子供たちが目の前にいること、その数が決して少なくないことは残念だ。世の中とは不条理なものである。
 でもそうした物乞いの子供たちの目端の利くこと、カモに狙いを定める「選球眼」の鋭さにはしばしば感心する。同じくらいの年ごろでも、ウチの子供がまったく持ち合わせていない種類の知恵と才覚がヒシヒシと感じられるのだ、といっては褒めすぎだろうか。苦境にあっても力強いたくましさを持って生き抜いているのは幸いである。

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