混乱の中から生まれるもの

 先日、デリーで友人に誘われ、シュジャート・カーンのコンサートに行ってきた。
 やはりこういうところに来ているのは、裕福な人たちだ。顔立ちといい、格好といい、インテリジェンスに満ちた雰囲気が…と持ち上げるのは大げさだが、かなりスノッブな感じがする。古典音楽に関心を持ち、わざわざ足を運ぶからには、それなりに文化的な人たちなのだろう。
 開演前の会場では、携帯電話を使う人が沢山いた。司会者による演奏者紹介がひとしきり終わっても、鳴り止まない着信音に耐え切れなくなった観客のひとりが突然立ち上がって、会場全体に大声でこうアピールした。
 「どうか皆さん、お手持ちの携帯電話の電源が入っていれば、今すぐにオフにしてください。そして今日の演奏を大いに楽しみましょう」
 そんな勇気ある忠告があったにもかかわらず、演奏が始まってからも、着信音はあちこちから響いていた。受話器を耳に当てて、そのまま話し込んでいる人もいて、少々憂鬱になる。上流の紳士淑女が集まる演奏会でこの程度のマナー。思えば、携帯電話のないころはずいぶん良かった。


 道路でも同様のことが言えるかもしれない。
ここ10年ほどで急激に華やかになったインドの自動車市場。高級セダンや大型RV車を乗り回しているドライバーが多くなってきた。価格には圧倒的な差があれど、マナーに関しては高級車も庶民の車も変わらない。やはり、インドの交通は「衝突すればより痛むほうが譲る」のが大前提。自動車の数が増え、交通はさらに過密、車自身の性能の向上は必然的に高速化をもたらす。路上は今後も引き続きシビアな方向へと進むことだろう。
 経済的に豊かになるのは良いことだと思うが、同時にそれらを手にした人間自身も変っていかなくてはならない。
 インドは、トイレの革命的傑作「東西折衷型」を日々生産している国である。純然たる洋式よりも背が低く、便座がついていながらも左右に力強く張り出したステップに足をかけての東洋スタイルにも対応できる懐の深さ。ステップは逆ハの字型、ギザギザの滑り止めといい、なかなか芸が細かい。これは、外来のものを自分たちの生活習慣に違和感なくアレンジした逸品だと思う。(私もいつの日かマイホームを建てることがあれば、ぜひこの機能美トイレットを設置してみたいものだ。)
 現在、この「人智の国」は外来のモノや文化の過食により、消化不良を起こしているように見える。だが、その混乱を乗り越え、インド独自の価値観や秩序と融合したとき、我々をあっと驚かすような新しいモノや文化が生み出されるのではないか…と私は期待している。

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