POSTE RESTANTE 局留郵便(3)

 10年前、中国でひと月ほど行動をともにしたスイス人がいる。10年来、毎年年の瀬には、彼からクリスマスカードが届き、私はニューイヤーカードを送っている。とはいえ、いま彼が何の仕事をしているのか、独身なのか、結婚したのかまったく知らない。年月を経て記憶が薄れ、おたがい老けたり太ったりしているだろう。もしどこかですれちがっても気がつかないかもしれない。


 ただ、彼があいかわらず風来坊のような日々を送っていることはわかる。時折、旅先からの手紙が届くからだ。ラサから届いた手紙は、読みにくい薄い文字なので、酸素不足の様子を想像してしまった。(多分インクが切れかけていたんだろう)
 やっぱり、肉筆はいいものだ。悪筆で読みにくいのはおたがいさま。ところどころ綴りを間違え、グシャグシャ消し潰してあるのはリラックスした味があっていい。便箋の端にある油しみは、朝食のバターでも落としたのか。旅先の宿での様子を想像させてくれて面白い。
 彼の手紙の最後には、「もしよかったら、○×の中央郵便局留めで手紙を出してくれ」などと書いてある。ずいぶん縁遠くなってしまったにもかからわす、手紙のリクエストとはチョットうれしい。
 そんな彼がドミニカで投函した手紙が届いた。
「元気かい。最近電子メールのアドレスを取得した。ヒマだったら連絡願う」
私は早速電子メールを送った。彼からの返事は2日後に届いた。なんだか調子狂ってしまう。リアルタイムすぎる。コンピュータのフォントで書かれたクリアな字面からは、彼の顔立ちをおぼろげにしか思い出せない。書面も汚れ無し、旅先からの寄越した文章という気がしない。
 到着するまでのタイムラグは、読み手にとって非日常的な面白さがあった。相手が地球のどこにいようと瞬時に届くためか、パソコンで見る画面の画一性のためか、電子メールから受ける印象は常に日常的だ。
 手紙とは文面以外でも語りかけてくるもの。筆跡はもちろん、絵葉書や便箋を選んだセンスに人柄が見える。書いた時のシチュエーション、内容から相手との距離を知ることもある。絵葉書の印刷、紙質ひとつとっても、お国柄を感じさせられる。
 旅人のほうはどうだろうか。天気の良い晩秋、ヒマラヤの斜面に位置する田舎町の昼下り、宿のベランダの陽だまりで書く絵葉書。モンスーンの厚い雲に包まれた空の下、潤いを帯びた風に吹かれ、夕食後にしたためる手紙。急を要する用件はさておき、のんびりと手紙を書くのは心地よいものだ。
 ヒマな旅先から手紙を書くという楽しさ、そうして書かれた手紙をうけとる新鮮な喜びがあるかぎり、電脳空間での入力作業にとって変わられることはないと私は信じている。
 電子メールが広く普及する中、「便りを出す、手紙を受け取る」ことの味わい深さにきづくとは皮肉な話だが、手紙を書き楽しむことは、旅先でこそのぜいたくな時間の過ごしかただと思う。

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