昔、20歳前後の大学生だった私が初めてインドに来たとき、鉄道でマイソール駅に夜明け前に到着。しばらく時間を潰そうと待合室に入り、荷物を床に置いて一息ついた。近くに座っていた、きちんとした身なりの男性ボソボソと話しかけてきた。
『I need your help. 実は夜行列車でサイフをスラれてしまいまして・・・』
彼はバンガロールから列車でやってきたのだという。寝ている間に・・・というのはときに自分自身も不安に感じることがあり、身につまされるものがあった。
『後日、必ず返しますからお金を貸してください』
待合室は空いていた。でもそこにいるのは私だけというわけではなかった。それなのに唯一の外国人である私だけをつかまえて、やけに声をひそめてしゃべるのは怪しいと思ったものの、いくばくかのお金を渡しておいた。
でも、しばらくしてからわかったのだが、当時こうしたタカリが各地で流行っていたようだ。バンガロールでも駅構内でまったく同じことを言ってお金をせびる男に会ったし、どこかの駅前で声をかけてきた西欧の女性旅行者も同じセリフで迫ってきたので、もうひっくり返りそうになった。
近年もムンバイーCST駅構内のスタンドで雑誌を買って歩き出したら、やはりこざっぱりとして見た目感じの良い男性が、困惑した表情で話しかけてきた。
『すみません。実はついさっき夜行でここに着いたのですが・・・I need your help』とくる。
「もしや・・・?」と思えば、やはり『寝ている間にサイフを盗られまして』ときた。おそらくここで同じことを幾度も繰り返しているのだろう。
『オレのことを覚えてるか?前あんたと会ったぞ、ここで!』とカマをかけると、案の定『え?ボクじゃないよぉ・・・違うよぉ』などとブツブツ言いながら人ごみの中に消えた。
映画Traffic signal でも、鉄道車内でスリに遭ったとして、路上で通行人に声をかける場面が出てきた。彼の話を聞いた男は、ポケットから紙幣を取り出して渡す。『今度必ず返しますから連絡先教えてください』というのに対して、『いいから取っときな』と背を向けて歩き出すと彼はニタリと笑う・・・という具合であったと記憶している。
実際、よくある古典的なタカリの手口らしい。列車内での盗難は決して珍しいことではないので同情を得やすいと思われる。もらえる金額はそう高額なものになりにくいこともあり、あまり罪悪感を抱かずに、小遣い稼ぎ気分で声をかけている者もあるのではないだろうか。それにしてもこうした人たち、なかなかの役者ぞろいだ。きちんとした身なりで知的な雰囲気、そして人柄も良さそうに見えるのだから。もちろん声をかけてくるのが真面目そうで好印象な人でないと、相手にしてもらえないはずだ。
ひょっとすると彼らが通行人たちから手にするお金は、雑踏という舞台で披露される、真に迫った彼らの演技に対するまっとうな『報酬』なのかもしれない。彼らにいくばくかの現金を渡したほうもまた、『人助けをした』とその日はいい気分で過ごせるだろう。
どこか遠くから『ホラ、誰も損しない、誰ひとり困らないじゃないか、ケケケ・・・』と高笑いが聞こえてくる気がする。
劇場『雑踏』へようこそ!

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