百年前の日印交流


 さきほど日印協会の会報第一号の復刻版を手にする機会があった。奥付には今からさかのぼること一世紀近く前の明治42年(1909年)発行とある。同協会は明治35年に組織された日印倶楽部を前身(翌35年に日印協会として改組)とし、当初は熊本藩主の分家にあたる長岡護美子爵が会長を務めていたが、没後は大隈重信伯爵が会頭、一橋大学教授であった神田乃武男爵が副会頭として率いていくこととなった。当時の会員名簿も掲載されているが、こういう時代だけあって伯爵、子爵、男爵といった爵位を持った人たちの名前がところどころに目に付く。当のインドは英国統治下にあったため顧問はイギリス大使のサー・クロード・マクドナルド。名簿には服部時計店(現セイコー)創始者の服部金太郎、この号にて『インド綿花輸入及びボンベー航路起源』と題した文章を執筆し、実業家として広く知られた渋沢栄一男爵の名前もある。個人情報保護という観念がまだなかった時代であり、主に会員たちの内輪で出回る小冊子であるためもあろうが番地まで入った詳細な住所が記載されている。日本在住のインド人としては『バナジイ』『エダルジイ』といったベンガル人らしきも名前が見受けられる。インド在住の日本人の名前には、駐ムンバイーの外交官や『印度ラホール市』在住の貿易商の名前など記されている。日印両国以外のところでは『清国天津』駐在の三井物産幹部の名前も。
 また『印度ボンベイ市』の会員として『ターター』の名前もあるが、これはもちろんあの財閥のターターのことだ。前述の渋沢栄一の文章の中に、日印貿易のはじまりとなる綿花取引にあたり、ジャムセートジー・ターターや彼の甥のR.D.ターターの好意と協力があったことが記されている。


 会報第一号は、中国や朝鮮を経由して入ってきた仏教その他の思想が与えてきた影響は計り知れずとも、それまで人々の直接の行き来がほとんどなかったインドについて、主に経済を中心として俯瞰することを試みているようだ。そのためわずか32ページという紙面の限られた小冊子ながらも、この時代にインドと直接関わりを持つ機会を得た日本人によるインド観、インドにおける邦人たちの活動、日本在住のインド人たちのありさまがほんのわずかながら垣間見えるのが面白い。
 巻頭の大隈重信による論説『経済的日英同盟』には、「吾々日本人が支那及びインドに向つて外の国よりも先きに其開発に助力し一家に於ける兄弟の如く相扶けて行かなければならぬと云ふ」「此際登用の各国民は此平和の間に物質の上にも精神の上にも一日も早く古い思想悪い習慣を改めて其の智其徳其富の程度を高めて世界の文明国に比肩し得るやうにならなければならぬ」と説いている。今の時代にあっては非常に差別的に聞こえるが、当時まさに弱肉強食の帝国主義の時代にあっては、いかにして迅速な近代化をはかり西欧列強に伍してやっていくかということが新興工業国日本における至上命題であった当時の世相を垣間見ることができる。
 また当時の日本国内における『外資』のほとんどはイギリスによる投資であること、当時の世界においてイギリス製品こそが優れた品質により最も高い信用を得ていたこと、日本製品はまだその足元にも及ばず、イギリス製品とそれを追い上げようと努力していたドイツの製品との格差より、ドイツ製品と日本製品の品質の差のほうがはるかに大きなほど『幼稚』なものであったことなどが記されている。 ただし強大な英資本に対して、安価で良質かつ豊富な労働力は日本の利点であり、この二国が経済的な同盟を結ぶことがいかに両国のために有益かという主張がなされており、肝心のインドについては当時の日の沈まない大英帝国の一部であるというためか、格別に言及はなかった。
 日印間の貿易で取引された品物等の中で、日本からの輸出で突出していたアイテムの中にメリヤス製品がある。材料となる綿花を輸入したうえで今度は反対に製品となったものをインドに販売していたのだ。その他海産物、石炭その他鉱物、樟脳、陶磁器といった品々とともに『人力車』の文字も見える。ちなみに当時の日本から対インド輸出主要産品のひとつの柱でもあったマッチについては、価格が非常に安いことから市場ではそれなりのシェアを確保はしていたもの、品質が粗悪なため現地でははなはだ不評であったという。インドで日本製品が『安かろう悪かろう』と評された時代があったわけだ。
 また当時揺籃期にあった日本の時計産業は、インドを前途有望な市場であると将来を見据えており、自国に比べて気象条件の厳しいインドでも正確に作動するタフな時計を開発する必要性を認識していることが記されていた。
 輸入の面では圧倒的に多いのが綿花だが、それに次いで多いのがなんと米である。この時代の日本人たちがプラオやビリヤーニーなどを食べて異国情緒を味わっていたなんてことはないと思うので、おそらく煎餅やあられのような米菓子や酒の醸造といった加工目的で輸入していたのではないだろうか。
『印度在留邦人職業別』という一覧にカルカッタとムンバイーに滞在・居住していた日本人たちの生業とその人数が記載されている。官吏とその家族、軍人、銀行員、汽船会社員、綿花会社員、貿易会社社員といった任期付きの転勤族以外に、僧侶、学生、柔道教師といった立場の人々、そして飲食店や雑貨店の経営、洗濯業、植木業といった形で現地に根を張った人々やそうした個人経営者に雇用される立場の者などの姿もあったようだ。その他プネー、カラチー、バンガロール、スィカンダラーバード等々にも何がしかの仕事で生計 営む日本人たちがごくわずかながらいたらしい。当時の在留邦人は全インドで378人と書かれている。なお三井物産は当時すでにインドでオフィスを構えていたそうだ。 当時の『印度留学中の本邦人』の項にはカルカッタに曹洞宗僧侶の山上曹源、そしてバナーラスでは河口慧海が梵語研究中とある。
 当時の『本邦在留インド商館』の所在地のリストも掲載されている。人の行き来もモノの移動も海上交通による時代であっただけに横浜と神戸に集中していた。『日本に於ける印度学生の現状』としては、そんな時代でも多いときには年間50名のインド人留学生たちが来日していたというのはちょっと意外だった。その中で大部分を占めるのはベンガル人たちであったという。当時カルカッタはインドの首都。同時に学問や芸術といった知の分野の都でもあり、南アジア随一の商都でもあったわけだから当然のことではある。
  また『先年アガハン殿下及びゼー・エン・ターター氏来朝』『マイソール王子殿下来朝』とのくだりもある。その王子から『金壱千五百円』の寄付が同協会になされたそうだ。当時のそうそうたる名士たちが居並ぶ日印協会の『会費領収報告』を見ると各会員たちが支払った金額は『弐円』であったというから相当な金額であるらしいことは想像に難くない。
 その後の日印関係の進展についてこの会報にはどのように記されていったのだろうか。第二号、第三号・・・と読んでみたくなったが、復刻されたのはこの記念すべき最初の号のみだとか。さらに時代下って盛り上がる独立運動の最中のインドと軍国時代の日本、印パ分離前後と日本の戦後復興期あたりに発行された号のコンテンツもちょっと気になる。いつか機会があればぜひ閲覧してみたいと思っている。

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