バンドから一夜開けて

 朝が来た。活気あふれ街中は前日とはまるで別の世界である。喧騒の中、もはや鳥のさえずりは耳に入ってこない。
 バンド・・・といえばインドにおける伝統的な抗議手法だが、かつてのイギリスに対する非服従運動の中でも人々に対してそれに参加するようにと、影に日向に同様の強制があったのではないだろうか?とふと想ったりもする。
 そのころのインドでは植民地行政下において鉄道の敷設と路線の拡充、道路網の整備など、工業化、商業化を進めるためインフラの整備や開発も進行中だった。 20世紀に入ってからは高級官僚など政府幹部のポストにネイティヴの人たちが占める割合が次第に高まってくるなど、行政組織の頂点部分へ現地の人々の進出が目立つようになってきた時期でもある。地元市民の発言力が相対的に高まるとともに、そのころのイギリスではインド勤務に対する魅力が次第に下降線をたどっていたことも原因のひとつだろう。
 ともあれ当時の統治システムの中で日々を送っていた上から下までさまざまな職責の公務員たちにとって、頼みとする体制の不安定化と流動化は自らの将来について大きな脅威であったはず。反英運動に対する取締りにあたった警官たちも、その大部分はインド人たちであり植民地体制化で既得権を持った人々の中では親英勢力は相当な力を持っていたはず。
 商業活動に従事していた人たち、とりわけ都市部でビジネスを営んでいた人々は当時の行政の枠組みの中でそれなりの繁栄を享受していたし、当時英領あるいは英国の保護領となっていた地域との間で活発な取引を行なうなど、英領下であることのメリットは大きかっただろう。
 たとえば当時のマドラスに本拠地を置いていたスペンサー商会にとって、この時代は大きな試練であったという。社会不安はもちろんのこと商会の根幹を成す事業のひとつであった舶来の高価な品々の輸入販売が大打撃を受けたこと、欧州系のオーナー家族による運営がなされてきた商会が、当時の世の中の動きから必要に迫られて経営の現地人化を進めざるを得なくなったのもこの時期であった。
 社会のかなりの部分の人々にとって、民族の大義や社会正義より正直言って日々の稼ぎと個々の家庭の平安のほうが大切だろう。どんな体制下にあっても世の中の大部分の人たちはそのシステムの中で折り合いをつけたり、うまく立ち回ったりして私生活の維持と向上をはかるものである。開拓精神に溢れて機転も利く一握りの人々を除き、多くの人々にとって場合体制が変わること、システムが入れ替わることは大きな不安だと思う。私自身もそういう人間である。
 しかし植民地当およびその協力者たちと反英勢力の綱引きの中で、次第に親英勢力がジリ貧になっていくにつれて鞍替えする人たちが出てきたこと、また内心どちらでもなく状況の様子見をしていた人たちが独立勢力の伸長していき、イギリスの撤退がもはや明白となったあたりで『さあ、乗り遅れるな!』と反英勢力側に飛びつく人たちが続出した・・・なんていう図が目に浮かぶのだがどうだろうか。
 世の中、誰もが『革命家』であるはずはないし、もっぱらの関心事といえば今日と明日の自分自身と家族のことだろう。いくばくかの問題意識を持っていたとしてもひとりで世の中を動かすことはできないから、せいぜい仲間内で批判めいたことを口にするくらいだ。日和見は無力な一市民だけではなく、何事か起きれば巨万の富や権力を失いかねない立場にある人たちにとっても当然の処世術である。
 時代が下れば『勝者の歴史』は美しくまとめられてしまうものの、当時の世間は様々な不協和音に満ちていたことだろう。戦争にしても独立運動にしてもつまるところ『勝てば官軍』なのである。誰もが勝馬に乗りたがるのは無理もない。
 かくして敗者たちのうち機知に富む者たちあるいはコネを持つ人々はいつの間にかスルリと立場を入れ替えて勝者の側に立ち、要領が悪かったり頑迷だったりした人たちは『裏切り者』という烙印を押されてしまうのはいつの世も同じ。かくして敗者たちの主張は闇へと葬り去られていく。

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