ダライ・ラマ14世訪日 3

チベットやウイグルをはじめとする、中国国内の少数民族問題はともかく、総人口の92%を占める漢民族にしてみたところで、マイノリティのそれとは次元が違うものの、思想的に『抑圧されている』ことは同様だ。
たとえば天安門事件の例などその典型だ。もう20年も前、1989年6月に起きた騒乱だが、政府に対して声高に異議を唱えた市民たちの運動は、権力による巨大な暴力により叩き潰された。通信手段が発達した現在、当時と同じような手法で人々に弾圧を加えることはできないかといえば、そうでもないことは、昨年の春先のチベット自治区、今年の新疆ウイグル自治区での出来事を見ても明らかだ。
幸い、経済成長著しい中国で、人々はより豊かな暮らしを求めて邁進しており、日々稼ぐことに忙しい。どこの国にあっても、人々の最大の関心ごとは自分たち自身のことだ。それは進学であったり、就職・起業であったり、月々の稼ぎのことであったりするだろう。結婚して子供をもうければ、息子や娘の教育のことであったりもするだろう。
これもひとえに経済という、世の中の歯車がきちんと回転し、安定した収入で自らの生活を充足することができ、さらに欲を言えば昨日よりも今日、今年よりも来年がさらにその質を高めていくことができるであろうという、明るい展望があればうれしいものだ。
そうした成長の路線に自分たち自身も加わっているという手ごたえがさえあれば、多少の問題は転がっていても、政府の手腕を評価こそしても、反旗を翻したり、あわよくば転覆を企図しようなどということはないだろう。
天安門事件からすでに20年経過した。1989年に生まれた赤ん坊が、今年20歳の誕生日を迎える。長い年月である。事件の前後あたりに生まれた子供、当時幼子であった世代が、すでに両親の元を巣立ち、国内での進学・就職、あるいは国外に留学したり、仕事を得るために出国したりするようになった。
こうした人々の多くは、いやほとんどは、天安門事件についてほとんど何も知らされていない。せいぜい『北京で何か大きな騒ぎがあったとは聞いている』といった程度だ。もちろん学校でそんなことを教えるはずもないが。家庭でも親たちの世代は『あんなことに関心持つとろくなことがない』と身をもって体感しているがために、敢えて自分の子供にそんなことを話したりすることがほとんどないのも無理はない。
子供たちが、変に政治に関心を持って、せっかくの将来をフイにしてしまうようなことになって欲しくない。ちゃんと勉強に専念して、卒業してからしっかり働けば、それなりにいい暮らしができるようになるのだから・・・。そう期待できる、あるいは確信できる社会がある。いい時代になった、に違いない。
だが敢えて自分たちの社会の抱える矛盾に人々の関心が及ぶのをことさら避ける体制、そうした事柄に関心を抱かない市民たちが、自分たちの暮らす街や地方から遠く離れた西の果てで何が起きているのか、とりたてて興味を持つこともない。ただ昔々、人民解放軍の手によって、チベットは、チベット人たちは『解放された』のだと信じている。事の本質はここにあると私は思う。
ダライ・ラマが各国への外遊を続けても、亡命政府が国際社会に対して支持を訴え続けても、その声は中国に暮らす13億の人々の耳には届かない。報道の自由はなく、私たちの感覚で言うところの『世論』が存在しない国である。
かくして時間の経過とともに、チベット本土が中国の不可分の領土の一部であることの既成事実化がさらに進む。チベット本土と亡命社会との絆も薄れるとともに、チベットへの漢族の入植が進む。やがて『西蔵自治区』人口のマジョリティを占めるのは外来の人々となる。時代が下るとともに、多数派の彼らこそがこの地域の主人公、彼らの文化こそがチベットの文化ということになりかねない。
もはや押しも押されもせぬ21世紀の大国。右肩上がりの経済力と群を抜く軍事力を背景に、近年ますます発言力を増す磐石の体制の中国を前に、亡命チベット人たちの声は消え入らんばかりに弱々しいことが不憫でならない。

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