異宗教カップルの危機

インドで宗教を異にする同士での結婚は、都市部のリベラルな層ではけっこう少なくない。しかしながら、それは容易なものではなく、多くは大変な困難を伴うものであることは「Interfaith marriage」という言葉が存在することからも見て取れることだろう。日本で漢字で「異宗教間結婚」と書くと「そうか」と分かるが、もともとそんなことを気にかけることさえないので、私たちの語彙にはそういう言葉は存在しない。

インド人の誰もが信仰熱心というわけではなく、お寺などに行くのは私たちがそうであるように年に一度あるかないか、という人たちも少なくない。ただし大きく違うのは、特定のコミュニティーが長い歴史の中で担ってきた信仰上の役割があったり、通過儀礼でそうしたものが数多くある層もあったり、カーストや氏族の紐帯と深く結合していたり、古い村落社会生活において、ほぼその地域で完結していた経済・社会活動においての役割分担、現代の社会においてもカーストの繋がりで結ばれた同業コミュニティーが現存しているところもけっこうあることだ。

核家族化が進み、生計を単一世代で営み、公務員、会社員といった形の就業をしている層、あるいは都会でクリエイティブな仕事をしている層においては、障壁は格段に低くなり、そうした今どきのカップル、夫婦を目にする機会は決して珍しくなくなる。

そんな背景がある中で、BJP政権下にあるUP、MP、グジャラートなどの州では、いわゆる「ラブ・ジハード」(恋愛による布教・改宗活動 ※というのものがあると主張している)なるものを禁じる法律が成立し、「本人の意志によらない改宗の強制」を罰するものとなっている。これは恣意的に運用されることが多いようで、異宗教間での恋愛そのものが身の危険を招くこととなっているようだ。

ここで言う「異宗教」とは、ターゲットになっているのは、ムスリムであり、主にムスリム男性とヒンドゥー女性という組み合わせがその焦点にある。異宗教といえば、「スィク教」と「ヒンドゥー教」はたいへん垣根が低く、親が決めた「Arranged marriage」によって、ヒンドゥー男性とスィク女性、あるいはその逆が結婚する例は昔から現在に至るまで多い。結婚してヒンドゥー教徒になっている女性で「実家ではスィクだったのよ」という人は少なくない。これはもともとスィク教がヒンドゥー教から派生した一派であると認識されているからなのだろう。特に総本山のお膝元のパンジャーブ州やその周辺ではよくあることだ。

そのいっぽうで、近年のインドにおけるイスラーム教徒への冷たい対応は、近年の欧州におけるイスラーム教徒への不信感とは大きく異なるものがある。欧州において戦後の復興後に多くのイスラーム教徒たちが流入したという歴史の浅さ、多くは社会の底辺を構成する者が多いという社会層から来る馴染みの浅さと近寄りがたい感覚があるようだが、インドにおいては、イスラーム教徒と共存してきた歴史が長く、社会上層部を構成していた時代も長かった。

人文科学、建築、経済、通商、さらには生活習慣その他の様々な分野で、イスラーム世界からもたらされた知識や知見が、インド社会を豊かにしてきた。そのため日常生活の中で常に身の回りにあるいろいろなモノや概念を表す語彙すら、アラビアやペルシャ起源のものがたくさん溢れているほどだ。たとえばメーズ(机)、ファルシュ(床)、カラム(ペン)、ザミーン(地面)、ドゥニャー(世界)等々、イスラーム世界からやってきた語彙なしには、簡単な会話さえも成り立たない。とにかくインドはイスラーム教世界、そしてムスリムの人たちから多大な影響を受けてきた。そのためヒンドゥーやジェインその他の人々の間で、イスラーム教、イスラーム教徒についての知見や造詣はたいへん深いものがある。

それなのに現状はこのような具合であるため、インドのマジョリティーとイスラーム教との相性はかなり難しいものがあると言える。もちろんそう仕向けているのはヒンドゥー至上主義のサフラン右翼であるわけだが、彼らを支持しているのはマジョリティーの大衆でもあるため、一概に扇動であるとも言い切れないのは、なんとも気味の悪いところだ。

India’s interfaith couples on edge after new law (BBC.COM)

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