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カテゴリー: life

  • 部族の人々の木曜市 1

    部族の人々の木曜市 1

    オンカデリーという集落で定期市が開かれる日である。

    簡単な朝食を済ませて、昨日約束しておいたクルマに乗り込んで出発したのは午前8時。緑と水に恵まれた美しい丘陵地の中を通る州道をひた走る。途中の町で右折すると、そこから先はクルマ1台が通れるくらいの幅で路面もガタガタの田舎道となる。

    このあたりからは丘陵地というよりも、山道といった感じになってくる。傾斜はさほどでもないが樹木が多い。そうした中にところどころ耕作された土地が見られる。この地域を含むオリッサ州の内陸部は、インド有数のトライバル・エリアとして知られている。

    地形としては「ゆるい山間部」とでも形容しておこうか。他の地域とそれほど隔絶した世界というわけでもなさそうなのに、どうして様々な部族が多く残されているのだろうか。このエリアが発展から取り残された地域であることと、州自体の人口密度が高くないため、人口圧力もあまりないということがあるかもしれない。

    ただしオリッサ州は地下資源が有望な地域でもあり、そうした資源開発と先住民の権利との間に生じる摩擦も絶えない。近年話題になっているものとしては、インド系英国資本(ムンバイーで創立され現在本社をロンドンに置いている)の ヴェーダンタ社によるオリッサ州のニヤームギリーでの操業は、元々ここに暮らしてきたドングリヤー・コンド族に対する『迫害』ということになり、深刻な人権侵害として複数の市民団体等から告発されている。

    The Story of a Sacred Mountain (Tribal International)

    Niyamgiri and Vedanta (Environmental Protection Group, Orissa)

    運転手はオンカデリーに行くのは初めてのようで、このあたりからは途中で人に尋ねながら走っている。そうした相手の中には普通のオリッサ人もあれば、見るからに部族らしき人もある。オンカデリーに着いたのは午前11時くらいであった。コーラープトから3時間ほどかかった。

    普段は静かなごく小さなマーケットであるが、毎週木曜日だけは近隣地域から部族の人たちが大勢集まって交易する場所として知られている。オリッサ西部の部族地域ではこうした場所がいくつもあり、場所により曜日は様々なのだが、こうした形で市場が開かれているらしい。

    オンカデリーの集落の入口あたりでクルマから降りるが、通りにはずいぶん沢山の人々が集まっているのに驚かされる。その中には街中では見かけない格好をした部族の人々の姿がとても多い。ボーンダー、ガダバー、ディダイその他の部族たちである。

    弓矢を持って歩くボーンダー族男性の姿が目立つ。この部族の女性たちはカラフルなビーズをあしらった頭飾りと特徴的な衣装を着ている。皆かなり小柄である。女性たちはマーケットで自家醸造の酒を売っている。大根から造ったものと米から造ったものがある。世の中に大根から出来た酒があるとは今日初めて知った。密造酒ということになるが、少数民族の生活習慣なので、定期市ではお目こぼしなのだろう。

    ボーンダー族の男性たちにしてみれば、弓矢を身につけているということは、ちょうどスィク教徒にとってのキルパーンのように、男性としての象徴的な意味があるのだろうが、武器を手にしている男たちが酒を飲んで酔うという図には穏やかでないものがある。

    ここに来てちょっと驚いたのは、外国人のツアー客らしき人たちの姿がかなりあることだ。最初に見かけたのは5名の西洋人グループ、そして7、8名の日本人グループがいた。オリッサの部族地域についてインターネットで検索してみると、地元オリッサや外国のツアー・オペレーターによる企画ものを紹介するサイトが引っかかったりするが、このようにして訪れる人々は決して少なくないようだ。

    そのためだろう、普通に市場の眺めを撮影している分には問題ないが、特定の人物を近くで撮る(もちろん相手の同意が必要)場合、10ルピーを撮影対象の人物に渡すことが習慣になってしまっている。

    都市部において、社会の周縁部から出てきた部族の人たちは、バーザールで売られているごくありきたりの衣類を着ているものだ。作るのに手間ヒマのかかる民族衣装よりも、バーザールで購入する大量生産された安価な衣類のほうが経済的に楽だろう。

    また民族独自の衣装は、自らのアイデンティティを象徴するものではあるが、そうした『記号』的なものを見に付けることにより、インド人の大海の中では差別ないしは軽視される対象としての目印ともなり得る。

    オンカデリーのような集落の外の山々はまるごと部族社会であり、彼らの普段の生活圏内であるためだろう。まだまだ伝統的ないでたちをしている人たちが多い男性たちの間では洋服を着ている人々がかなりあるが、女性は民族衣装を着ている割合がとても高い。部族の人たちにとっては、山あいの村から『町に出る』週に一度のハレの日であるため、こうして着飾りたいということもあるのだろう。

    もちろんそういう格好で各部族の人々が集まってくるがゆえに、そうした定期市を見学するツアーが企画されていたりもするわけである。そうしたツアーでは部族の村などにも訪問するようだ。

    さらに観光化が進めば、こうした場で民族衣装を纏う動機が『観光客に撮影させて報酬を得る』という具合になっていくことも考えられる。ちょうどタイ北部の山岳少数民族でそういうケースが多いように。少なくとも前述の『撮影=10ルピー』という慣習から、これを臨時収入の手段として認識していることは間違いないだろう。

    あるいは各民族の日用品等が『伝統工芸品』として販売されるようになったり、特徴的な衣装(往々にしてオリジナルをかなりアレンジしたもの)が観光客目当てに製造・販売されるようになったりすることもあるかもしれない。

    定期市が開かれるのは、オリッサ人が主体の集落の中にあるマーケットである。そのため建物の中や常設のマーケットのスペースで商うのは、主にオリッサ人たちである。それに対して路上や空きスペースなどで、部族ごとに集まって品物を広げているのは集落の周辺地域(・・・といっても山道を数時間もかけて徒歩でやってくる人々もある)からやってきたマイノリティの人々である。

    部族の人々は、酒以外には主に村で収穫した野菜や果実といった農作物を販売している。定期市は、彼らが現金収入を上げる手段であり、同時に村では手に入れることのできない工業製品を購入する機会でもある。

    ロンリープラネットのガイドブックには『Onkadelli should only be visited with a professional guide』などと書かれていたため、一体どんなところかと思っていたが、案外普通の田舎のマーケットである。

    ただ普遍的なマーケットと視覚的に異なるのは、様々な格好をした部族の人々が大勢来ていることだ。加えて密造酒が堂々と販売され、主に部族の人々がこれをおおっぴらに酌み交わしていることだろうか。

    ただしここに集まっている部族の人々の姿をいろいろ目にしても、彼らの具体的な文化背景等が皆目わからないのはもったいない。そういう意味でやはりこの地域に精通するガイドを雇って訪れたほうがいいだろう。

    少数民族目当てで定期市を訪れる外国人客がチラホラいるため、オンカデリーのマーケットでもガイドを自称する者たちが存在する。だが彼らの知識は非常に限られたものであり、ひどくブロークンな英語(並びにその程度のヒンディー)しか使えない人たちなので、敢えて雇ってみるメリットはあまりないように思う。

    ただしこの地域の住民である彼らは、少数民族の村に囲まれたこの小さな町で生まれ育っているため、幼い頃から公立学校でそうしたマイノリティの子供たちと学校で机を並べ、また現在も日常的にそうした人々と接しているという生活環境下にあるため、近隣の民族の専門的な知識はほとんどなくても、彼らの中に知己が多く生活習慣等日常的なトピックにはけっこう詳しかったりするのだが。

    <続く>

  • コーラープト 1 近郊のコートパドへ

    コーラープト 1 近郊のコートパドへ

     列車内で目が覚めた。窓の外は起伏のある緑豊かな大地。ところどころに川が流れる田園風景が美しい。 

    ダマンジョーリーという駅では沢山のタンク車両が線路上に停車している。どれもNALCOと書かれている。National Aluminium Company Ltd.という政府系企業の略称である。 

    地域で採れるボーキサイトを原料とするアルミの生産を行なう拠点となっており、ここは丸ごと『NALOの町』であるらしい。 

    朝9時半にコーラープット着。町は駅から少し離れており、乗り合いオートを利用する。このあたりは海抜870 m前後。高原というほどでもないが、お茶の栽培ができそうな丘陵地帯である。 

    ここでの宿泊はRaj Residencyという2009年開業のホテル。まだ新しいので部屋等はきれいだが、ちゃんと手入れされているわけではない。そのため順調に『標準化』が進んでいるため、今後ずっと快適であるという保証はない。 

    客室内の照明が明るいのは助かる。日記を書く習慣があるため、机があるとないとでは効率も疲労度もずいぶん違う。だがエコノミーな宿で、室内に机があるところは案外少ないものだ。何かしら書く習慣のある人以外にはほとんど無用のものであるからだろう。 

    昼からクルマでコーターパドという町に行く。ここの町外れにある職人たちが暮らしている一角では、多くの家庭で手作りの布地を作っている。糸をつむぐところから仕事が始まり、染色から機織まですべての工程が手作業である。 

    多くは綿地だが、タサルつまり野蚕を紡いだ糸で織ったショールもあった。タサルといえば、ビハールやジャールカンドで採れるものがよく知られているが、ここオリッサでも産出しており、アーディワースィーの人たちが収穫してくるとのことだ。 

    コーラープトからジャイプルを経由して行ったが、ところどころ道がかなり悪い部分がある。ジャイプルはローマ字では新聞等でしばしばJaipurと書かれることがあるものの、概ねJeyporeと植民地時代風の綴りで書かれる、 

    <続く>

  • プリー 4   ラグラージプルへ

    プリー 4   ラグラージプルへ

     プリーからブバネーシュワル方面に向かって15キロくらいのところにあるラグラージプルという村へ。元々手工芸が盛んであったところだが、Dedicated to PeopleというNGOが活動を始めてからはその度合いがさらに高くなっているらしい。 

    アジトという30代の男性の運営による村の女性たちの地位と経済力向上を目指す団体である。彼自身はこの村の出身でプリーで大学を出た後、しばらくデリーで会計士の仕事をしていたのだという。 彼にとって都会での生活も悪くなかったが、思うところあって里帰りして2004年から開始したのがこのNGOである。

    この団体が運営するワークショップで地元の女性たちに手工芸製作技術を教えるとともに、彼女たちが生産したものを買い取っているという。運営資金の大半は、女性たちから購入した手工芸品を大口の契約先へ納入することによって得ているという。 

    同時にエコツーリズム振興のための構想も練っており、文化遺産等とはまた違った村の人々の生活を理解するためのスタディーツアーのようなもの、また環境と両立するツーリズムの創出を構想しているところだと語っていた。 

    しかしながらそうしてみると、結局普通のビジネスとしての手工芸生産と観光業といったものと何が違うのかよくわからないのだが。このラグラージプルでは似たような形で手工芸品を生産して各地に卸している業者はいくつもあるようで、実際のところ同じようなことをしているようだ。 

    ともあれ村にとっても、そこで生きる女性たちにしてみても、就労機会と現金収入の手段が増えるのは喜ばしいことであることは間違いないだろう。 

    ただしこうした「手工芸生産」基地はこの地域にとても多い。もともとそんなに良い収入になるものではなかろうし、それらの生産が増えたところで需要がそれに比例して増えていくとも思えないため、これでもって村おこしというのならば、今後かなり軌道修正が求められるのではないかと思う。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 4

    コールカーターのダヴィデの星 4

     

    ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

    元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

    内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

    ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

    ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 3

    コールカーターのダヴィデの星 3

     

    先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

    同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

    実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

    そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

    そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

    Nahoom & Sons Private Limited

    Shop No. F20, New Market 

    リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

    『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

    そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

    私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

    ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

    ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

    それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

    外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

    <続く>

  • 禁煙先進国

    世界のたいていの国で喫煙者は肩身の狭い思いをするようになっている昨今。日本の首都圏ではこんな本が売れているらしい。

    最新版 東京 喫煙所マップ  東京喫煙愛好会著 (PHP研究所)

    ISBN-10: 4569793258

    ISBN-13: 978-4569793252

    著者が『東京喫煙愛好会」となっているのも面白い。もはや喫煙という行為は、かつてのように大人の嗜みではなく、一部の好事家の変わった趣味といった具合だろうか。

    それでもまだまだ喫煙者に対して甘いという声も聞こえてくるようだ。それにタバコの価格だって他の先進国に較べてまだまだ安いではないかとも。世界で最も喫煙者に対して厳しい国はと言えば、欧米ではなく南アジアのある国のこと。ブータンでは法律上では『麻薬並み』に厳しい扱いになっている。 

    もう何年も前にヒマラヤの禁煙国として、ブータンの禁煙化について書いてみたが、それから6年以上経った今、同国で人々から尊敬される存在である僧侶が、タバコに関わる罪状で5年の実刑判決を受けたことがニュースになっている。 

    国境の町プンツォリンと接するインド側のジャイガオンで購入した噛みタバコ72パケットを密輸したというのが罪状だが、タバコで『5年間の服役』とは厳しい。 その商品とは、インドのどこの街でよく見かけるBABAブランドのものようだ。 

    Charged for handling tobacco (KUENSEL ONLINE) 

    Enforcing the ban (KUENSEL ONLINE) 

    同国ではすでにタバコの販売が禁じられており、個人的な消費目的である場合のみ外国から関税を支払い持ち込むことができるようになっている。ただし関税の支払いのレシートを保管しておかないと、タバコが見つかった場合密輸と判断されるとのこと。 

    また地域によっては条例等により、屋外や公共の場での喫煙行為自体が違法となっている場所もある。アッサム国境の町ゲレチューでは、今年1月1日から自室のみOKということだ。罰金は500 Nu(ブータン通貨ニュルタム、インドルピーと等価)だ。アッサム側の町と接しているため、市内に流通するタバコが後を絶たないため、思い切った策に出たものと思われる。 

    闇で出回るタバコといえば隣国インドから入ってくるものが大半だが、値段のほうは例えばWILLSがインドで40 Rsであるとして、ブータンにおいては首都で流通の中心地でもあるティンプーでは60~80 Nu、インド国境から遠い地域に行くと100 Nuあるいは150 NUという価格にもなるというから、喫煙者の経済的な負担も大きい。とても喫煙という行為を楽しむ環境ではない。 

    是非はともかく、禁煙環境という意味ではブータンは世界最先端にある。

    ※コールカーターのダヴィデの星 3は後日掲載します。

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>

  • コールカーターのダヴィデの星 1

    コールカーターのダヴィデの星 1

     

    先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

    どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

    もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

    そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

    この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

    インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

    『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

    先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

    他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

    <続く>

  • コールカーター チョウリンギーの放牧

    コールカーター チョウリンギーの放牧

     

    朝方、チョウリンギー通りを散歩していると、ちょうどヤギの大群を連れた人たちがチョウリンギー通りを南下してくるところであった。ヤギとヤギ飼いたちは悠々と大通りを進み、パークストリートの交差点手前あたりで道路を横断して広々としたマイダーンに行く。毎日決まった時間にこうして「放牧」に出かけているようだ。 

    マイダーンは植民地期に造られたものだが、その目的は単に市民の憩いの場ということのみならず、カルカッタを帝都としていた頃のイギリス当局にとっては、有事の際の最終的な防衛の拠点としてのフォート・ウィリアムを市街地から隔てたところに保つ目的があった。 

    デリーに遷都されてからも、また独立以降もマイダーンはそのまま残されたため、とりわけアジア諸国の中では稀有な桁外れに大きな公園が大都会の真ん中に存在し続けている。「市民のための広々とした公園」でありながらも、実はこの広大な土地を所有しているのは軍であるという意外な一面もある。人々にとっては夕方や休日の憩いの場、ヤギたちにとっては豊かな牧草地となる。 

    昔、初めてインドに来たときもびっくりした。てっきり遠く郊外から連れてきているのだろうと思ったヤギたちの棲家は都心であったからだ。路地裏の古ぼけた建物の今にも壊れそうな扉がガタンと開くと、その中にはヤギたちがワンサカ。棒を手にした男たちが「さあ出かけるぞ!」と追い立てていたのだから。今も彼らは都市の中心部に住んでいるのかどうかは知らないが。 

    着々と近代化が進みつつあるインドの他の大都市と比較して、コールカーターはその歩みがかなり遅く感じられる。その反面、長らく英領インドの首都であったことがあるゆえに、植民地期に建設されたインフラがあまりに偉大で、今の時代にまで残された街区、建築物等はことさら時代がかって見える。まさに「古色蒼然」という言葉がぴったりだ。 

    そんな環境のためか、世界有数の高い人口密度を有する大都会でありながらも、意外に顧みられることなく放置されている空きスペースが都心にけっこうあったりする。有効活用すれば高い需要と相当な収入を見込めるロケーションであっても。もちろん地権その他の問題等あってのことに違いないだろうが。 

    先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げてみた中華朝市が開かれるところのすぐ東には、コールカーターの伝説的な中華レストラン、1924年創業のNanking Restaurantの建物が、同店閉業後も40年ほど放置されていた。元々は駐車場であったと思われる敷地を含めて、ゴミ捨て場兼廃品回収分別場並びに不法占拠者たちの住居といった具合になっていた。それも最近になってようやく取り壊されて、今は新しい建物が出来ている。そんな具合なので、今でもひょっとすると「羊の群れと羊飼いたち」が都心で生き延びる余地はあるのかもしれない。 

    近年はずいぶんクルマも増えたし、運転する人たちもせっかちになった。羊たちも彼らを追う羊飼いの男たちも、どうか事故に遭ったりすることなく日々過ごしてもらいたい。 

    もちろんこれほど沢山のヤギたちを飼育する目的は食肉(および皮革?)としての用途であるはずなのだが、こんな大都会の真ん中で飼育することでコストは見合うか?という疑問が頭の中をよぎる。だが、これが生業として成り立っている以上、我々のものとは尺度の違う経済学が背景にあるのだろう。まことに懐の深い街・・・と私は思う。

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

     コールカーターの朝市に行くたびにお邪魔させていただいててる年配の華人Cさんに今回もまたお会いした。私がコールカーターの華人社会に少なからず関心を抱いていることを知っている彼女が今回こんな本を勧めてくれた。 

    書名:Chinatown Kolkata

    著者:Rafeeq Ellias

    出版社:Gallerie Publishers

    ISBN: 81-9019999-5-1 

    ムンバイー在住のフォトグラファー・ビデオ制作者による写真集である。書籍に同梱のDVDには彼自身が制作してBBCで放送されたコールカーターのチャイナタウンに関する番組が収録されており興味深かった。 

    番組の動画は、テーングラーの華人コミュニティが運営するDhapaのサイト経由にて、Youtubeにアップロードされている内容を参照することができる。 

    旧正月には、獅子舞いその他の催しが実施されるとのことなので、その時期にコールカーターに滞在される方はちょっと覗いてみるといいかもしれない。 

    <完>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

     

    情勢としては大量流出が続くコールカーターの華人社会。最盛期には1万5千人とも2万人とも言われた人口は今や5千人を割り込んでいるということだが、ごくわずかながら現在もごく少数の大陸からの「流入者」があるのだという。 

    もちろんその中には今の中国の強大な資本力を引っ提げてインドにやってくる大陸のビジネスマンは含まず、この土地に根を下ろして長らく暮らしてきた「加城華人」コミュニティに加わる人々のことだ。 

    それらの人々は具体的には客家系、広東系を中心とする、コールカーター華人たちの父祖の故郷との縁が関係しているのだという。もちろんあまり一般的ではなく、ごく少数の例に限られるが、そんな遠い繋がりを頼りに中国の田舎からインドのコールカーターまで嫁入りしにくる女性たちがいるだという。すでに長きに渡って華人社会が確立されてきた街ではあるものの、出身地の環境とのあまりの違いに馴染めず実家に逃げ帰ってそれっきり、という例も少なくないと聞くのだが。 

    いっぽう、北米、オセアニア、欧州、東南アジア等へと流出した人々の中で、圧倒的に多い移民先がカナダである。なぜカナダか?という点についてはまだよく知らないのだが、資産や生産手段を持つ人の移住に対して寛容で、すでに出来上がった華人社会があり、かつ生活水準や期待できる収入レベルなど、好条件が揃っているのだろう。加えて、先行して移民していった人々の中に、移民ネットワークを取りまとめる成功者や有力者などが複数あることなどが推測できるが、後に機会があればこれについても調べてみたい。 

    そんなわけで、多くのコールカーター華僑にとってカナダといえば「身内や知人」がいるという身近な国ということになるらしいが、いっぽうコールカーター等からカナダに移民した人々にとってコールカーターひいてはインドへの「故郷」としての意識も強いようで、「インド華人」のコミュニティ内での様々な活動がなされているようだ。 

    ネット上にもこうしたコールカーター華人の移民たちによる印華文化發展協會 (The Indian Chinese Association)というものがある。過去の記事に遡って読んでいくと、ところどころにインドやコールカーターにまつわる記事が散見される。「インド出身客家人」「コールカーター生まれの広東人」などといった、グローバルな華人社会の中ではちょっと異色なアイデンティティを維持していることがうかがわれるようだ。 

    <続く>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

     

    話は「魯迅路」と「中山路」に戻る。このふたつの通りを結ぶ、いくつかある路地の中のひとつで毎日朝市が開かれている。「魯迅路」ことNew CIT Rd.とLower Chitpur Rd.の交差点のから東側ひとつ目の路地である。コールカーター警察の本部もちょうどそのあたりにある。 

    かつて、ここは文字通りの「チャイナタウン」であったエリアだ。1959年に発生した中印紛争が1962年の大規模な武力衝突に至るにあたり、それまで近隣の人々と共存してきた華人たちだが、突如として「敵国人」としての扱いを受けるようになる。

     深夜、自宅に警官たちが突然押しかけてきて、有無を言わせずに連行してしまう。彼らは往々にしてラージャスターンのデーウリーにあった強制収容所に送り込まれてしまった。第二次大戦時に英領であった各地、主にマレーシアやシンガポールといった地域に暮らしていた日本人たちが収容されていたあの場所である。 

    カルカッタ以外にも現在のインド北東州の都市(アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メガーラヤ)にも相当数の華人たちが暮らしていたようだが、このあたりは中国との国境近い地域ということもあり、同様に厳しい取り締まりがなされたようだ。 

    もちろん現金等を巻き上げる目的で華人たちを相手に荒らしまわった警官たちもあっただろうし、華人の商売敵を陥れる目的で警察に接触した個人もあったことだろう。戦争を機に官民挙げての「反中国」感情の嵐が吹き荒れた時代だ。たとえインド国籍をすでに取得していようが中国系という血筋自体によって、北京の回し者と疑われるのが当然であったという。 

    幸いにして具体的なトラブルに巻き込まれずに済んだ人たちも、いつ自分たちの身にも降りかかってくるかもしれない「深夜のノック」を恐れつつ生きていかなくてはならなかった。 

    屈辱と収容所の劣悪な環境の中で耐えて、ようやく釈放されて元々の居住地に戻ると、家、店舗、工場といった資産は知らぬ間に政府に取り上げられて競売にかけられていた、といったケースも多かったという。こうした華人に対する猜疑と弾圧の時代以降、華人たちが一気に国外へ出て行ったのは自然な流れである。 

    中国大陸での国共内戦以降、他国の中国人居住地で往々にしてそうであったように、コールカーターの中国人コミュニティの中で「どちらの祖国」を支持するかで、いろいろあったようではある。だが政府をアテにすることなく、自らの才覚、勇気と勤勉さをもって外国で道を切り拓いてきた多くの華人たちにとって、祖国の戦争にしろ政治にしろ、彼らが直接関わりを持つ類のものではない。 

    居住国であるインドに対して仕掛けた戦争に対する祖国の責任を負わされ、華人であるがゆえに商売がうまくいかなくなるどころか、警察に連行されて強制収容所送りで生命の危険もあれば、財産まで取り上げられてしまう・・・ともなれば、より安全で公正な土地を目指していくしかない。 

    これらの極端に行き過ぎた「華人排斥」時代はそう長くは継続しなかったものの、戦争をきっかけとする「中国の衝撃」のインパクトが強かったこと、中国がパーキスターンと親密な関係になっていったことなどから、華人たちに対する猜疑心、不信感や行政等による嫌がらせは続いた。

    中印紛争をきっかけとする弾圧以降は華人人口が大きく減っており、とりわけ財力や能力があり、社会・経済的な影響力の大きい層によるインドからの脱出が多かったこともあり、中華街の活力やコミュニティの経済力を大幅に削ぐことになったようだ。当時から現在に至るまで、特に若い世代ほど海外移住志向が強いとされる。 

    コールカーターのもうひとつの中華街、市の東南部のテーングラー地区には培梅中学という中文系の学校があるが、この「魯迅路」「中山路」を中心とする旧中華街にも、かつては華語で教える学校があったという。華人人口の大幅な減少とともに、英語を身に付けないと仕事ができないということから入学を希望する生徒が少なくなったことから消滅したという。 

    <続く>