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  • ヤンゴンの往来にて

    ヤンゴンの往来にて

    往来にバイクの姿がないヤンゴンの街

    訪れるといつも「通りがずいぶんすっきりしている」と思っていた。渋滞がないわけではないが、アジアの大都市の中ではクルマがかなり少ないほうだ。だが交通の密度ではなく、何かが決定的に違うような気がしていた。

    他の旧英領の国々でよくあるように、路肩がゼブラに塗られていたり、コロニアルな建築物が多かったり、ダウンタウンから北に向かうと道路の両側に緑が多かったりして美しいのだが、マレーシアやシンガポールなどでも、そのあたりは似たような感じだし、それらの国々のほうが、ここよりよっぽどキレイに整備されている。

    夕方、ビールを飲みながらロンリープラネットの最新版ガイドブックのヤンゴンのチャプターを開いていて目に入ったのが「Motorcycle free」という見出しの短い記述。何年か前に、軍の高官を乗せたクルマがバイクに乗った者に攻撃されたのがきっかけにより、市内へのバイクの乗り入れが禁止されたとある。

    ミャンマーに限ったことではないが、言うまでもなくアジアの多くの地域でバイクは実用の足である。この国でも、ヤンゴンから出るとバイクは沢山走っているし、バス以外の公共の交通手段がバイクタクシーしかない土地も多い。

    所得水準が向上するにつれて、乗用車を購入するようになったり、あるいは趣味としてのバイクに乗ったりするようにもなるのだが、やはり自動二輪は市民の貴重な交通手段だ。

    バイクが走ることができない分、市バス網が発達しているという部分で埋め合わせされていると考えることはできるが、田舎町と違って格段に広がりのあるミャンマー最大の都市で、自前の交通手段があるかないかで、日々の利便性は比較にならないくらい違うだろう。

    おそらく行政区分によって「ここからバイク進入禁止」などと定められているのだろうが、その境界のすぐ外に住んでいて、バイクを所有している場合、目の前に広がる都市部に乗り入れることができないことにジレンマを感じずにはいられないだろう。「職場までバイクなら10分なのに、通勤時間帯のバスはひどく込み合っているし、回り道するから30分以上かかってしまう・・・」とかいうこともあるだろうし、禁止区域に入ってすぐのところに暮らしている場合など、それとは反対に自宅までバイクで戻ることができないので所有できないなどということもあるかもしれない。

    歩行者としては、クルマの間を縫うようにして飛び出してくるバイクがいないだけで、大通りはずいぶん渡りやすくなるのだが・・・。

    「通りがすっきりしている」と感じたのは、まさにそれゆえのことであったようだ。

     

  • 再会ならず

    初めてヤンゴンの街を訪れたのは、1988年2月のことであった。

    当時は入国するにあたり、空港で100米ドルの強制両替があった。実勢と大きくかけ離れた馬鹿らしくなるようなレートによる現地通貨チャットと等価ということになっていた外貨兌換券(FEC)への換金である。

    当時、この国では家電製品や贅沢な品々は、闇ルートで細々と入ってくるものが主であった。ダウンタウンのスーレー・パゴダのすぐ北には、国営の外貨デパートがあった。そこでは外貨を持つ人のみが買い物をすることができた。

    そんな具合であったので、ブラック・マーケットで米ドルを地元通貨チャットに替えるよりも、空港の免税店で購入したブランドものの洋酒やタバコを持ち込んで、声をかけてくる商売人たちに売り渡すと割が良かった。私も、バンコクの空港で買ったジョニー・ウォーカーとカートン入りのタバコでチャットを手に入れた記憶がある。

    そんな具合ではあったものの、この街で出会った人々の印象はすこぶる良かった。市内のレストラン等で食事をしていると、隣り合わせてしばらく話をした相手がいつの間にか私の分まで払ってくれていたりすることが何度もあった。

    また、当時同年代であった若者たちと街で知り合い、彼らの家々を訪問させてもらったり、ごちそうになったり、市内を案内してもらったりと、とても楽しく過ごさせてもらった。その頃、みんな地元の大学の学生たちであった。

    その半年後、1988年8月8日に始まった民主化運動が高揚していった末に待ち構えていたクーデターとそれに続く強権による弾圧が伝えられていた中、あの人たちはどうしているのだろうか、と非常に気にかかったものだ。

    中にはタイに逃れた者もあったし、日本に来てそのまま今まで住み続けている人もある。当時の状況下で、しばらくの間は大学そのものが閉鎖されていたため、そのまま学業を放棄したという人は少なくなかったようだ。その中のひとりで、ずいぶん長く東京に暮らしている人と、しばらく前に久々に再会することができた。当時の彼の仲間のうち、一人は病気で亡くなり、もう一人はタイに亡命中に死亡したという話を聞き、とてもショックであった。

    だが、近々ヤンゴンを訪れるのだと言うと、今も同じエリアに住んでいる仲間、F君がいるので会ってみたら?と、住所を教えてくれた。F君とは、1988年にこの街を訪問した際に知り合った当時の大学生たちの中のひとりである。親切でにこやかな好青年の顔が脳裏に蘇ってきた。

    そのヤンゴンに来たので、ぜひとも再会してみようと、当時の写真を手にして彼の家に向かうことにした。平日は忙しいだろうからと思い、日曜の昼過ぎにそのストリートに行ってみた。

    当時の風景についての記憶はあまりないが、たぶんその頃からあまり変わっていないのではないかと思う。河沿いのダウンタウンの整然とした造りの街並みにマッチした古くからある集合住宅が立ち並んでいる。

    「このあたりだろうか?」と見当を付けて、年配男性に声をかけてみた。なんともうまい具合に、彼はF君の兄だという。それにしては年齢が高すぎる気がしたが、ムスリムなので大家族であるとすれば、親子といっていいほど年が離れた兄弟がしてもおかしくはない。

    だがその兄だという人の反応がどうも妙な具合だった。私が見せたF君の写真をまじまじと眺めて、「そう、私の弟だ。ずいぶん昔の写真だね・・・」と言ったきり、口を閉ざしてしまった。そうこうしているうちに、物見高く、しかし親切な人たちが集まってきて、その写真の中にある数人の中から、現在東京に住んでいるS君の姿を見つけた人が、その兄を連れてきてくれた。

    「おぉ、君のことは東京に住んでいる弟から聞いているよ。ウチに寄らないかい?ところで誰を探しているのかな?」

    写真の中のF君を指すと、少々困惑したような表情を見せて「この人については知らないなあ。会ったこともない」と言う。写真の中のS君、F君その他は非常に仲の良い友人たちで、足繁く行き来していたはずだが、S君自身がずいぶん長く国を離れているため、もう忘れてしまったのかと思ったら、どうやらそうではないらしいことが、その後知ることとなった。

    S君に書いてもらった簡単な地図には、F君の家のある建物の一階が帽子屋と書かれており、それらしき店を見つけた。三階がF君の家とは聞いていたものの、確かめもしないでいきなり訪問するのも気が引けるし、まったく見当違いの家であったらなお困るので、この店で尋ねてみることにした。店内の姉妹らしき女性たちはおそらく私と同年代、つまりS君とも同じくらいの年ごろだろう。

    写真を見せると、彼女たちは懐かしそうな面持ちでそれを眺めている。

    「ああ、ずいぶん昔の写真ねえ。みんなこの辺りに住んでいたわよ。引っ越してしまった人たちもいるけど・・・」

    この人は昔からこの通りに住んでいるらしい。

    「F君は今もここに居ますか?」と尋ねると、「彼の家族は住んでいるけれども・・・」と言葉を濁す。「彼はどこか別の街で働いているんですか?」と再び質問すると、今度は返事がなかったが、姉妹の年かさのほうの女性は、ちょっと思い切った様子で口を開いた。

    「彼はお尋ね者になっているの、窃盗を繰り返してね。家族の人たちとの縁も切れているのよ」

    何ということだ。どういう事情があったのか知らないが、この通りではF君は誰もが触れたがらない人物になってしまっているらしいことがわかった。道理で、F君自身の兄だと自称する人物の反応、そしてS君の兄の困った表情も合点がいく。

    余所者が根掘り葉掘り聞きだすわけにはいかないし、F君について質問された相手が迷惑していることも判ったので、ここで切り上げて退散することにした。残念ながらF君との再会はならなかった。

    人それぞれに、様々な人生があるものだ。

  • SHOLAYが3Dで蘇る

    1975年に公開されたラメーシュ・スィッピー監督による映画SHOLAYといえば、インド映画史上最大のヒット作のひとつ。今も燦然と輝く金字塔的な存在だ。

    若き日のアミターブ・バッチャン、ダルメーンドラが出演し、この映画の制作を通して、前者とジャヤー・バッチャン、後者とヘーマー・マーリニーというビッグなカップルが二組も誕生した。

    ダルメーンドラについては、当時すでに妻子持ちであったのだが、最初の結婚を解消することなく、ヘーマー・マーリニーを娶るという離れ業?を遂げている。おそらく家庭内では大変な騒動になっていたのではないだろうか。

    ダルメーンドラと同じく俳優のサニー・デーオールとボービー・デーオールは最初の結婚で出来た息子たち。女優として活動しているイーシャー・デーオールは、彼らの異母妹にあたる。

    アミターブ・バッチャンとダルメーンドラという、当時の若きヒーローたちの存在に加えて、SHOLAYを歴史的な大作の地位にまで押し上げたのは、二人が演じる主役との対立軸に、悪役の中でも迫力に抜きんでた名優アムジャド・カーンがいたからだろう。彼が演じた役柄「ガッバル・スィン」は、名前そのものが悪漢、盗賊の代名詞のようになったほどだ。

    SHOLAYのリメークとして、近年はラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のAAGが話題になったが、1991年にはパロディ作品でRamgarh Ke Sholayというコミカルなもの(低予算な映画だが面白かった)もあった。隣国パーキスターンでも、似たような映画が制作されていたようだし、インド国内でも、地方映画でこれに触発された作品があったのではないかと思う。

    今年8月には、本物のSHOLAYが3D化されて公開予定。封切りは、8月15日。インドの独立記念日である。老若男女、誰もがよく知っている映画ではあるが、再度大きなヒットを期待したい。

    Gabbar Singh set to return on screen, this time in 3D (India Today)

     

  • ヤンゴンのジャイナ教寺院

    ヤンゴンのジャイナ教寺院

    

    コロニアルな建物のジャイナ教寺院。

    先日述べたサティヤナーラーヤン寺と同じく29th Streetにジャイナ教寺院もある。こちらは信徒である年配のご兄弟が管理人をしている。一人はこの寺院を管理するトラストのプレジデント、もう一人はセクレタリーという形だが、同時にここのプージャーリーでもある

    お二人の話によると、ヤンゴンにて最盛期にはジャイナ教徒の人口は5千人を数えたという。だが今残っているのは二家族だけで、彼らはそのうちの一つであるとのことだ。寺院はコロニアルな建物に入っており、地上階はトラストの事務所、セカンド・フロアーが寺となっている。ファースト・フロアーも昔は祭壇があったとのことだが、今では使われていない。

    すでにほとんどのジャイナ教徒がこの国を去っているため、参拝客はほとんどいないそうだが、ときおりプージャーに参加するネパール人があり、いたく感激してくれるとのこと。しばらく事務所で話を聞いていたが、「さて、そろそろプージャーの時間ですよ!」と上階にある寺院へと招かれた。

    祭壇

    長い白布を左肩から斜めがけに付けてもらい、神殿正面に立ち、真鍮のお盆に灯明を載せたもの(火の数が多いものと少ないものと二種類あり、プージャーの間の節目ごとにセクレタリー氏が取り替えてくれる)を抱えて時計回り動かす。セクレタリーの人が朗誦するマントラを耳にしながら、感激がこみ上げてくる。これまでインドの寺院ではプージャーを背後から見物したこことは幾多あっても、こうした形で主体的な形で参加させてもらったことはなかった。しかもジャイナ教寺院で!

    信徒が二家族しか残っていないという割には、非常に良い状態で保たれている。

    事務所があるグラウンドフロアーとこの階との中間階、つまりファースト・フロアーもかつて寺であったが、今では使われることもなく、備品はすべて処分してしまったとのことだ。それでも奥の壁のニッチには、マハーヴィールの足跡のイメージがあった。

    この地に残る信徒は二家族のみということからも、まさに風前の灯といった具合のようだ。ご兄弟には複数の子供たちがいるそうだが、特にこの寺に関わりを持ってはいないとのこと。「若い世代は物の考え方など違いますからねぇ・・・」と、少々諦めている様子。だがその割には、ずいぶん綺麗に保持されていることには驚いた。国外からの援助でもあるのだろうか。

    「私どもの寺には150年の歴史があります」というご兄弟の言葉が本当であれば、第二次英緬戦争により、イギリスがヤンゴンを含む下ビルマを占領してから10年ほど後には、この寺院が建立されたことになる。多少の誇張が含まれているであろうことを差し引いても、19世紀末近くにはすでに存在していたことと思われる。この寺院は、ヤンゴンにおける「インド人史」の変遷を、つぶさに目の当りにしてきたことだろう。

  • ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

    ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

    ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

    ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

    植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

    ヒンディーのクラスについての貼紙

    寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

    サティヤナーラーヤン寺

    「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

    ・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

    「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

    今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

    南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。
  • 再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルの墓

    5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

    場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

    ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

    ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

    礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

    また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

    やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

    金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

    1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

    金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

     

  • 電子書籍

    英文出版大国インド。自国インドの様々な分野における興味深い書籍が大変多いのだが、流通面ではいつでもどこでも手軽に何でも手に入るという具合になっているとは言い難い。

    大都市の大きな書店に行けば、いろいろと購入したくなるものがあるとはいえ、やはり特定の対象についてドカッとまとめ買いするには、各出版社のショールームに足を運んで見繕ったり、スタッフにあれこれ尋ねて引っ張り出してもらうのが一番だ。

    とはいえ、自分自身の状況から、随時そうしたところに出向いて購入するわけにもいかず、さりとて自宅のスペースの問題もあり、関心を引かれるが果たしていつ扉を開くかもわからない本を狭い自室にどしどし放り込むわけにもいかない。

    そんなわけで、これまで購入してきた図書類を、自己利用目的で日々少しずつスキャンしてPDF化、いわゆる『自炊』なる行為を続けている。もちろん紙媒体で読むのが一番だとは思うものの、生活との折り合いがあるので、こればかりは仕方ない。他方で、そうした書籍をブックリーダー、タブレットPC、あるいはDropboxにでも保存して、いつでもどこでも時間の空いたときに読みまくるという利便性については私自身非常に重宝している。

    どうせならば、最初から電子書籍版も販売されていればいいのに・・・と思う。だが特定のアウトレットやデバイスに依存するフォーマットではありがたさも半減なので、より汎用性の高いフォーマットだと助かる。取り扱いについてはPDFが楽なのだが、やはり違法コピーや著作権の問題もあるので、なかなかそうはいかないのだろう。

    そうした面で、比較的汎用性の高い形で電子書籍を販売している業者の中で、イギリスのTaylor & Francisがあり、インド関係の書籍もある程度は扱っているようだ。インド国内でも、電子書籍を販売しているサイトはいくつもあるが、今のところ特に興味を引かれるようなところは見当たらない。電子書籍の分野は、まさにこれからという段階にあるので、今後の進展に期待したいと思う。

    ところで著作権といえば、書籍とは関係ないのだが、先日ある方がfacebookで話題にされていた、こんな記事がある。

    音楽は発売後3カ月で使い放題に 中国が著作権法“改正”案検討 (Sankei Digital)

    上記リンク先記事に書かれている『著作権法改正案』が実現すれば、発売から3カ月後には、海賊行為が政府のお墨付きを得ることになる。こんな感覚なので、国内利用のみに限るという前提で日本や欧州から供与された鉄道技術を、いとも簡単に輸出してしまうようなことになるのだろう。

    中国高速鉄道“見切り発車”の初輸出 特許問題で日欧と国際摩擦に発展も(フジサンケイ ビジネスアイ)

    作り手側が叡智を集めて作り上げたものの利用については、まさにその受け手側のモラルが問われる。ゆえにそう易々と再頒布される可能性のある形で供与することができないことについては充分理解できるところだ。

  • The Lady

    The Lady

    The Lady

    今年7月21日(土)から、映画The Ladyがi日本で公開される。

    母国ミャンマー(ビルマ)の民主化を目指して長い闘いを続けているアウンサンスーチー氏とその家族愛を描いた作品だ。

    英語によるインタビュー映像しか見たことがない(私はビルマ語はわからないので・・・)が、上品な物腰とウィットに富んだ受け答えには誰もが魅了される。スレンダーな外見からは想像できない闘志と粘り強さを発揮して民主化運動を率いてきたスーチー氏の努力がようやく報われようという動きになってきている今、ミャンマーが今後本当に良い方向に動いていくことを願わずにはいられない。

    建国の父、アウンサン将軍の娘であることによるカリスマと責任感はもちろんのこと、彼女自身の持つ人間的な魅力とこれまでの行動により示してきたリーダーシップと高潔さについて、誰もが称賛を惜しまない。ミャンマーの人々の間での支持とともに、遠く離れた家族との絆と信頼もまた、彼女を力強く支えてきたのだろう。

    この夏、より多くの方々と感動を分かち合いたい。

  • ミャンマーのE visa

    近ごろ何かとニュースで取り上げられることが多くなったミャンマー。『上からの民主化』の進展により、経済制裁の緩和が近いことが予想されるため、経済面からの注目を浴びるようになっているからであることは言うまでもない。

    国際社会からの孤立が長く続いてきたことによる経済や各方面インフラの立ち遅れの中で、今まさにどん底にあるにもかかわらず、初等・中等教育は広く普及しているため、識字率は約90%と意外なまでに高い。加えて一大農業国であるとともに、地下資源大国としても広く知られている。石油・天然ガスなどに加えて、鉄、錫、銅その他の鉱物資源にも恵まれている。

    それらと合わせて、人口6千万を抱える大国であり、先述のとおり一定水準の教育が行き届いた人材豊富な国家でもあることから、多くの国々にとって将来有望なマーケットであるとともに、製品加工基地としての役割も期待されることになる。

    大きな潜在力を抱えつつも、政治的理由によって、これまで極めて低い水準にあっただけに、経済制裁が緩和ないしは解かれることになれば、今後急激な成長が見込まれるだけでなく、その伸びシロは限りなく大きい。

    従前から、そうした将来性を見込んで同国に投資している企業や個人等はあったものの、長く続いてきた軍事政権による圧政と、これに対する先進諸国等による経済制裁下での先の見えない停滞が続く中、一部のASEAN諸国やインドによる投資や交易、加えて海外進出意欲旺盛な韓国の企業や個人による進出を除けば、同国での外資といえば、ほぼ中国による寡占状態にあった。

    たとえ旅行者として同国を訪れても、アメリカやEUによる経済制裁の影響はごく身近に感じられるものである。古色蒼然とした街並みや市内を走るあまりに旧式の自動車の姿はもとより、ヤンゴン市内の一部の高級ホテル(自前のルートによりシンガポールなど海外で決済)を除いて、トラベラーズチェックもクレジットカードも使用できず、基本的に米ドル現金を持ち込んで使うしかないという状態は、初めて訪れる人の目には、あまりに奇異に映ることだろう。経済制裁により、海外との金融ネットワークから遮断されているがゆえのことである。また同国自身の厳格な外貨管理により、基本的に『普通に店を構えた両替商』は存在しなかった。そのため主に宝石、貴金属類、みやげもの等を扱う店を回り、交渉のうえでミャンマー通貨に両替するのが普通であった。

    そうした状況も近々変わっていくようだ。ヤンゴンの国際空港等にちゃんとした市中レートで両替カウンターが出来ていると聞く。おそらく市内の繁華街や国内のメジャーなスポット等に、今後『ちゃんと店を構えた両替屋』が続々出てくることだろう。

    それにミャンマー国内から正規のルートによる海外送金サービスが開始されるという話も耳にする。商取引はもとより、同国から海外留学を希望している若者たちにはとっては朗報だ。たとえば日本に留学しようとする場合、現在までのところミャンマーから日本へ正式な送金ルートが不在であったため、ミャンマー国外つまり日本ないしは第三国に留学経費を支弁することが可能な立場(経済的に裕福な近親者)がなければ、たとえ若者自身の親がミャンマーでそれなりに高い経済力を持っていても門前払いであったからだ。

    インドでは、経済政策の大きな転換により、1990年代から2000年代にかけて、とりわけ都市部が大きく様変わりし、その動きは衰えることなく続いているが、自国内での規制その他のみならず、経済制裁という大きな足枷をはめられてきたミャンマーにおいてはおそらくそれ以上の速度で多くの物事が変化していくことだろう。もちろん人口がインドの足元にも及ばない程度のものであり、人口密度もあまり高くない。『スピード感』ではこちらのほうが勝ることになると思われる。またASEANというひとつの大きな経済圏の枠組みの中にあることも有利に働くことだろう。あくまでも経済制裁の大幅な緩和あっての話ではあるが。

    前置きが長くなったが、ミャンマーで観光客向けにE visaというシステムが月内にも導入されるという。事前にインターネット上で所定の手続きとクレジットカードによる査証代金の支払いを行ない、それと引き換えに数日以内にメールで送られてくるレターをプリントアウトして、入国時にパスポートとともにイミグレーションに提示し、その場でヴィザを発行してもらうというシステムだ。

    MYANMAR E Visa “How To Apply” (myanmarevisa.gov.mm)

    本日4月10日現在、まだ運用は開始されていないようだが、申請手続きはこちらの画面で行なうことになるらしい。証明写真のデータをアップロードするかカメラ付きのPCあるいはウェブカメラにてその場で撮影することもできるのだろう。

    現在、東南アジアの中で私たちが観光による査証取得必要なラオス、カンボジア等で国境到着時に簡単なフォームを記入して現金で代金を支払えば即座にヴィザが発行されるような具合になると良いのだが、まだまだ『敵が多い』国であるだけに、このあたりが最大限の譲歩なのだろう。それでもこうした動きは大いに歓迎したい。

    今後10年、15年の間に、ずいぶん旅行しやすい国になっていくことだろう。道路その他交通網の整備に多額の投資がなされるはずだし、観光という分野も主要な産業の柱のひとつとして位置づけられることは間違いないので、宿泊施設その他の面でも大きく改善されていくことと思われる。

    そうした中で、まだわずかに残っている、かつて『英領インド』の一部であったことの面影や残り香も急速に失われていくことも必至だ。人々の暮らしが向上し、今よりも自由に物を言える社会になること、民意が反映される国になっていくことについて、諸手を挙げて応援したいことは言うまでもないが、他のどこにもないこの国であるからこその味わいに関心がある向きには、まさに今が旬なのかもしれない。

    もうひとつ期待したいことがある。各地で民族運動が盛んであることから、まだまだ外国人が入域できなかったり、自由に立ち入ることができなかったりする地域が多いミャンマーだが、このところ各反政府勢力との和解が進んできているため、陸路で入国して他の地点から陸路にて出国という旅行も、やがて容易にできるようになってくるのではないだろうか。

    とりわけインドとの間については、インドのナガランド州のMorehからミャンマーのチン州のTamuのルートが外国人に対して開放されるようになるとありがたい。現在、インドのナガランドは私たち外国人がパーミット無しで入域できるようになっているが、ミャンマー側はそうではないようだ。

    南アジアと東南アジアの境目の地域が広く自由に旅行できるようになれば、いろいろ新たな発見があることと思われる。また、これまで隅に置かれてきたエリアの文化・伝統の価値やこれまで影で果たしてきた歴史的な役割が人々に再認識されることにもなるのではないかと思っている。

  • 先入観を疑うべし

    バーングラーデーシュでのグラーミーン・バンクによる取り組みから世界的に注目されるようになったマイクロ・クレジット。通常、商業銀行から融資の利用ができず担保も持たない人々のグループに対する少額融資であり、返済についてはそのグループ全体が責任を負うという仕組みだ。経済的に困窮している層、とりわけ女性たちの経済・社会的地位向上のための役割が評価されている。

    マイクロ・クレジットの代表格と言えるグラーミーン・バンクがアメリカに進出し、グラーミーン・アメリカを設立したのは2008年。当初はいろいろ不利な予想もあったが、現在までの4年間で着実に実績を上げているようだ。

    Grameen America

    滝川クリステル×ムハマド・ユヌス(ウェブゲーテ)

    米国市民の間での経済格差について、よく「米国の黒人の寿命はスリランカと同程度である」ということが言われる。国民皆保険制度がなく、医療費が私たちから見れば法外なまでに高額なものとなりがちなことから、定収入のある勤め人でも大病を患った結果、自己破産という例はよくあるようだ。ましてや経済的に不利な境遇下にあるマイノリティの人たちともなれば、必要なときに充分な診療を受ける機会を逃してしまうということは決して想像に難くない。

    だが、具体的な数字を提示することなく「スリランカ並み」という表現には、かなり恣意的なものを感じずにはいられない。このあたりの事情をあまり知らない人がそれを耳にすると、『とんでもなく短命』であるような印象を受けることを画策しているはずだからである。国連の統計によると、2005年から2010年の間のスリランカの平均寿命(74.25歳)は突出して高く、南アジア地域の平均の64.48歳を10歳近く上回る。ちなみにインド(64.19歳)は、ちょうどその平均値あたりにいる。

    世界の平均寿命 (United Nations Population Division)

    平均寿命73~74歳程度の国々はといえば、中東やアジアでは、サウジアラビア(73.13歳)、バハレーン(74.60歳)、タイ(73.56歳)、欧州ではルーマニア(73.16歳)、ハンガリー(73.64歳)、エストニア(73.91歳)あたりが挙げられる。日本では何故か長寿のイメージがあるブルガリア(72.71歳)、経済成長著しい中国(72.71歳)と比較しても、実はスリランカの数字はなかなか立派だ。豊かな産油国、東ヨーロッパと同水準なのだ。

    予備知識無しで、「アメリカの黒人の寿命はスリランカ並みだ」と言われると、いささかショックを受けるかもしれないが、これを「金満の産油国並みだ」と言い換えたら、どんな印象を受けるだろうか。

    国情の異なる国々の寿命を平たく慣らした世界平均(67.88歳)はあまり意味のないものかもしれない。だが、あらゆる面においてはるか前を邁進しているはずのアメリカ(77.97歳)の平均寿命が、自分たちの国との間のあまりに大きな経済格差のあるアメリカの平均寿命が、自分たちのそれとの差が3歳強しかないことについて、スリランカの人たちは不思議に思うだろう。

    アメリカにおけるバーングラーデーシュ発のマイクロクレジットの成功、アメリカの黒人がとりわけ短命であるという一種の都市伝説の類など、先進国と途上国という色分けを取り払って社会を眺めてみると、世の中でいろいろ興味深いものが見えてきそうだ。

  • サッカーボール Made in Pakistan

    サッカーボール Made in Pakistan

    ADIDAS、DIADORA、PUMA、NIKE等々、ブランドを問わず、サッカーボールに表示されている生産地は、パーキスターンとなっていることが多い。世界に出回っているこれらのボールのおよそ8割は同国で製造されているという。もちろんサッカー以外の種目においても、とりわけ縫いボールの場合はたいていそんな具合らしい。

    だがパーキスターン各地で広くこれらが生産されているわけではなく、パンジャーブ州のスィヤールコートに集中しているのは興味深い。縫いボールの工程が機械化されているところもあるらしいが、やはり主流は手縫いであるため、極めて労働集約的であることから、低賃金で作業する労働力が豊富にあるところということになる。するとパーキスターン全土はもとより、南アジア地域で普遍的にこの産業が盛んであってもいいように気がするのだが、そうではなく、一極集中しているのには何か理由があるに違いない。

    パーキスターン以外にも、サッカーボールを大量に生産している国は他にもいろいろある。中国製のボール、南米で作られたボールもあるし、価格帯は非常に高かったがかつては日本製も公式試合球(市場はほぼ日本国内に限られていたようだが)として販売されていた。

    パーキスターンでサッカーボールの生産が飛び抜けて多いことについて、歴史的な経緯という観点からは、サッカーの母国であるイギリスの海外領であり、家畜の屠殺が盛んであったということがある。ボールの外皮として使われる牛皮はもちろんのこと、現在使われているゴムチューブが普及する前までは、牛の膀胱が使用されていたため、ボール製造の材料の有力な供給地であった。

    牛皮といえば、今では本革のサッカーボールはほとんど見かけなくなった。かつてはサッカーボールといえば、当然のごとく革製品であった。皮革という性質上、同じメーカーの同一品番の製品であっても、かなりバラつきがあった。同じように使用していても、かなり寿命が異なった。動物の皮である以上、部位により厚みや硬軟にどうしても差異が出てくるため、ボールに空気が充満して表面が緊張した状態で放置すると、ゆがみが生じてくる。そのため、練習や試合で使う際にポンプで空気を入れて、使い終わったら空気を抜いて保存するというのが常識であった。これを怠ると、とりわけ安価なボールの場合、楕円形になってしまったり、縫い目が広がってチューブが外にはみ出してきたりすることがよくあった。

    主流であった本革から人工皮革へと素材が切り替わる大きな転換期は、1986年メキシコで開催されたワールドカップであった。サッカー選手としてピークにあったマラドーナが大活躍して母国アルゼンチンを優勝に導いた「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」として広く記憶されている大会だ。彼の「神の手」によるゴール、伝説の5人抜きなど、後々に語り継がれるプレーを連発した大会だった。この大会で公式球として採用されたのは、ADIDAS社のAZTECAというモデル。ワールドカップ初の人工皮革製のボールだった。

    人工皮革のボールが普及し始めた当初、高級品を除けばまだまだ本革製品と質感が異なり、あまり積極的に手を出す気にはならなかったものの、クオリティの向上には目覚ましいものがあり、耐久性の面はもちろんのこと、サッカーの全天候型競技という性格からも、雨天でも水を吸収して重くなって反発性が失われるという本革特有の欠点とは無縁で、濡れた後の手入れの面倒もなく、素材の普及とともに高級品が低価格化していくという非常に喜ばしい展開が進んでいく。その結果、本革製品を市場からほぼ駆逐することになった。

    サッカーボールの人工皮革化は、テニスコートほどの広さのコート(体育館あるいは人工芝)で行う5人制の競技、フットサルの普及にもつながっている。もともと「サロンフットボール」ないしは「インドアサッカー」として知られていたものだ。これのラテン式名称の略語フットサルが定着した結果、競技の正式名称として採用されるようになった。このスポーツで使用されるボールのサイズは、成人のサッカーで使用される五号球であるのに対して、四号球とひと回り小さいだけでなく、外皮には低反発素材を含む人工皮革が使用されており、狭い場所での競技に適した反発性に仕上げてある。人工皮革素材の発展と普及なくして、この競技が現在のように広まることはなかっただろう。

    話はスィヤールコートのボール生産に戻る。3月24日(土)と25日(日)に東京渋谷区の代々木公園で開催された「パキスタン・バザール」に、日本の外務省招聘により、スィヤールコートの工場関係者たちが出展していた。ブースには工場の経営者とともに工員2名が詰めており、サッカーボールの手縫い作業を実演していた。初めて外国を訪れたという工員たちとも少し話をしたのだが、作業はなかなか時間がかかるもののようで、一個縫い上げるのに2時間くらいかかるとのこと。そのため1人が丸1日かけても、せいぜい4個か5個程度しか作ることができないらしい。世界の生産量の8割を担うというスィヤールコートで、どのくらいの人々がこうした作業に従事しているのか、ちょっと想像できない。

    一針一針丁寧に縫い上げていく慣れた手さばきはお見事!

    スィヤールコートという街自体は、人々の平均年収が1,370米ドルと高く、パーキスターン全土の平均値の倍ほどの収入を上げていることから、地域経済におけるボール生産業の貢献度は非常に高いものと思われる。

    とはいえ、こうした製品はMade in Pakistanとして消費者からの需要があるわけではなく、あくまでも生産委託元の外国ブランドの名前で輸出されるがゆえのことであり、内外の市場で通用する地場ブランドが存在していないことについては憂慮すべきものがある。同様に、スィヤールコートなくしてサッカーという世界的な競技が成り立たなくなっている現状にもかかわらず、相も変わらずパーキスターンはサッカー不毛の地であることについても、なんだかお寒い限り・・・としか言いようがない。

  • さくらフェスティバル 2012

    今年も東京都千代田区九段にあるインド大使館にて、さくらフェスティバルが開催される。

    さくらフェスティバル2012 (インド大使館)

    会期は3月31日(土)から4月8日(日)までと長いが、日によって開催時間が異なる。詳細については、上記リンク先のPDF文書をご参照願いたい。

    なお、先日『春の足音』と題して取り上げてみたとおり、今週末の3月24日(土)と25日(日)には、東京都渋谷区の代々木公園にて、『パキスタン・バザール2012』『ソンクランフェスティバル2012』が場所を分け合っての開催となる。

    今年もいよいよ屋外イベントの季節が始まろうとしている。