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カテゴリー: greater india

  • Markha Valley Trek  The Day 6

    Markha Valley Trek The Day 6

    早朝のニマリン

    カンヤツェ峰の頭の部分が覗いている。

    この日はトレッキング最後の行程となる。

    朝7時に朝食。ここに宿泊の人たちが一堂に集まることになるので壮観だ。当然全員は入りきれないため、時間ずらせて来る人たちも少なくない。ローティー、バターとジャム、チャーイ、ブラックティー以外にポリッジもあり、これがなかなか好評。

    簡単に朝食を済ませてから早々に出発。もし天気が悪かったら、ニマリンでの宿泊者たち全員まとまって行こうということを、各グループのガイドたちの間で相談していたそうだが、晴れ間も見えているまずまずの天気なので、その必要はなさそうだ。よって各自バラバラに出発していく。

    キャンプ場の手前にある川の橋を越えてから上へ上へと斜面を登る。雲で朝日は見えないが、少し登ったあたりから残雪がところどころ見られる。あるいは昨日降った雨はここでは雪だったのかもしれない。最初の登りはけっこう急だが、しばらく登ると少し緩やかになる。そしてコンマル・ラへの最後の斜面はかなり勾配だ。

    コンマル・ラまであと少し

    あとひとガンバリで峠頂上というあたりまで来ると回りは雪だらけになる。今日はカンヤツェも頂上まで顔を出してくれている。天候としてはまずまずである。昨夜の雨がウソのようだ。このあたりはすでに海抜5,200メートル近いので。歩みが遅くなり息が上がる。さりとて苦しいとか大変というほどではないのだが。さきほどの斜面でフランス人の還暦夫婦を追い越したのだが、しばらく峠で写真などを撮影していると、やがて彼らもここにやってきた。

    峠よりも低い周囲の山々からはまるで湯気が立ち上っているかのように雲がかかっている。峠の部分から東側には尾根が伸びていて、その部分はここよりも高くなっており、雪で覆われている。今日のハイライトであり、またこのトレッキングのハイライトでもあるコンマル・ラである。しばらく景色を楽しむ。

    タシはここから携帯で電話をしている。ここまでの村では通じなかったし、昨夜のキャンプ地でも繋がらなかったそうだが、この峠にくると電波が届くらしい。レーに戻るためのクルマの迎えのために連絡している。

    コンマル・ラからのカンヤツェ方面の景色も素晴らしく、心が洗われるようであった。

    カンヤツェ峰

    しばらく写真を撮ったりして過ごしてから、下りに入るが、かなり急な坂を進んでいくことになる。反対側からやってくるトレッカーたちがある。彼らはすべてがマールカーの全行程を行くのかどうかはわからないのだが、おそらくそうなのだろう。私たちが来たルートのほうが少しずつ高度を上げていくことになる分、体力的に楽なはずだ。また、コンマル・ラとニマリンあたりがこのルートのハイライトでもあるため、最初ににここを訪れてしまうと、後が少々退屈なものとなってしまうかもしれない。

    あとはどんどん下るだけと思っていたが、実はこの最後の行程はあまり楽ではなかった。けっこう深い谷間になっている部分も多く、そうしたところでは流れの速い急流を渡渉しなければならないからである。それが連日の雨で増水しているため、膝よりも深かったりする。
    後でレーに戻ってから再会したイギリス人とフィリピン人でキャンプ用品持参でトレックに来ていたカップルによると、彼らはもっと遅い時間帯に通過したようで、腰までの深さのところがあったり、フィリピン人女性のほうは、急流の中で転んでしまったりと、かなり大変だったようだ。

    下りでの小休止
    峠からの細い流れが周囲の湧き水等を集めて、やがて急流となっていく。

    下りの途中、茶屋で休憩
    村々に荷物を運ぶ馬たちもお疲れの様子

    私自身もかなり緊張感を伴うものであった。またその渡渉の回数もこれまでで一番多かった。やっと渡ったと思ったら、またすぐに渡らなくてはならなかったりする。どんどん高度が下がるにつれて、川は周囲の湧き水を加えて大きく、深くなってくるため、さらに厄介になってくる。

    シャン・スムドのあたりまで出た。このあたりは車道が通っているところに近くなるためか、家屋はこれまでよりも立派できれいな感じになる。クルマが入ってくることができるエリアになった。川の左右には広い川床が広がっている。さきほどのような両側を狭い谷に挟まれた中に流れる急流ではなくなるため、渡渉も楽になる。

    このあたりまで下ると川の流れは緩やかになり、身を切るような冷たさではなくなる。

    迎えに来たクルマに乗り込み、一路インダス河沿いの地域に出る。ここまで来るとると、まるですっかり低地に来たかのような気分。またずいぶん景色が開けたところという印象にもなる。これまで歩いて通過したのは、こじんまりした集落ばかりであったので、レーの町など素敵な都会に見えてしまう。

    タシはレーの町の下の端にあたるガソリンスタンドとロータリーがあるエリアで下車。
    これまでの6日間、どんなガイドと過ごすかによって、トレッキングの印象が異なってくるものだが、タシは実に好青年でよく気が付く人でもあり本当に良かった。心から感謝である。

    〈完〉

  • バンコクの爆弾テロに思うこと

    バンコクで、8月17日と18日に発生した爆弾テロ。犯行声明が出ておらず、犯人像も推測の域を出ていないようだが、ウイグル人グループ犯行説に傾きつつあるようだ。
    中国国内で苛烈に弾圧されている彼らの中には、パキスタンで保護を受けて拠点を置いたり訓練を実施したりしているグループもあるという。
    中国は、パキスタンに対して伝統的に「敵国インド」というスタンスからくる共通の利益から様々な援助を与えてきた友好国だ。 近年になってからはアラビア海とインド洋進出の目的からパ国を含めた南アジアのインドを除いた諸国に積極的な働きかけをしている。

    とかく親密な関係にある中パにとっての弱点はまさにこの部分。パ国内に匿われているウイグル人組織の存在。ウイグル人過激派が勢いを得て、中国の不興を買うことになれば、中パ関係に少なからずの影響を及ぼすことになる。

    パキスタンの文民政権にとっても、自らの力の及ばないところで勝手な動きをすることが少なくない軍部とその指揮下にある統合情報部(ISI)には手を焼いていることだろう。また、そう簡単に手出しをすることの出来ない国内の過激な宗教組織やその息がかかった有力政党の存在もある。

    そんな具合で、インドがテロの温床として名指しするパキスタンだが、あながち文民政府の意思とは言えない部分も存在する。パキスタン自身が国内の様々な過激派組織による爆弾テロ、誘拐事件等で振り回されている。そして政府本体と並立する権力としての軍の存在、軍が恣意的に利用する過激派組織。しかしながらも軍部そのものは原理主義とは相容れない組織であることから、軍と過激派が衝突することも多々あるという三つ巴の危うい構造。

    国道上以外にパ国の法律が及ばず、地元の部族の掟が支配する北西部のFATAのようなエリアの存在は、パ国内的には歴史的経緯のある合理性を持つものであっても、国外から見れば外国にも脅威を及ぼしかねない危険な問題だ。

    蛇足ながら、インドとパキスタンの分離は悲劇として形容されるが、この地域を含むアフガニスタン国境エリアを切り離すことが出来たのは結果としてインドにとって良いことであった、かのように見えてしまうのは何と皮肉なことか。

    ウイグル組織犯行説はまだ憶測の域を出ないが、仮にそうであったとすれば、つまり庇護を求めて来タイしたウイグル人たちを中国に追い返した報復のための爆破であったとするならば、ウイグル人過激派に一定の庇護どころか拠点と軍事訓練まで与えているパキスタンをも巻き込んだ問題になっていきそうな気がしてならない。

    Police hunt ‘foreigner’ in deadly bombing of Bangkok shrine (Associated Press)

    ※「Markha Valley Trek The Day 6」は後日掲載します。

  • Markha Valley Trek  The Day 5

    Markha Valley Trek The Day 5

    ハンカルの村のホームステイ先からカンヤツェ(中央の雪山)の眺め

    昼食用の弁当を準備してくれるホームステイ先の女性たち

    ホームステイ先を出発



    午前6時起床。昨夜の雨はすっかり上がった。天気はいまひとつとはいえ、雨ではないのは幸いだ。7時半にハンカルの村を出発して、川沿いを歩いて次第に高度を上げていく。足元に生えている背の低い高山植物を眺めつつ、時にかなり急な勾配があったり、少々緩やかになったりする。マールカー村以降は基本的に登り基調なので、どんどん気温が低くなっていく。



    キャンプを撤収する人たち















    ホームステイ先を出たときにはカンヤツェを仰ぐことができたのだが。それでも谷間の眺めは素晴らしい。これで晴れていたならば、もっと素晴らしい眺めとなるのだろう。
    ニマリンのキャンプサイトに到着

    この日宿泊のテント






    正午前にはニマリンのキャンピングサイトに到着。海抜4,800メートル。私にとって、これまでで最も高地での宿泊となる。テントと寝具は用意されているので、身ひとつで泊まることができる。ここには村はないため、ホームステイできる家はない。キャンピングサイトを運営するのは毎年違う村の人たちが輪番で行なっているとのことで、今年はハンカルの村の住民であるとのこと。

    本日の宿泊先はここしかないため、早めに着いてテントを確保する必要があったのだが、途中の集落にあった茶屋で、ガイドのタシ君が彼のポケットマネーで買ったコーラのペットボトルを他のグループの女性ガイドに渡して何事か頼んでいる。

    先に着いたらテントを確保しておいてね、と頼んだとのこと。翌日、コンマル・ラから下ってからのレーへのクルマに乗ったときもそうだが、タシは運転手と彼と一緒に来ていた娘らしい女の子にファンタを買って渡していた。何かとホームステイ先の子供に小さなお菓子を渡したりしてもいたが、マメな性格なのか、それともラダック人が全般的にそうなのかはよくわからない。

    女性ガイドといえば、ユルツェのような宿泊客の多い家でのホームステイの際には、男性ガイドもいろいろと家の人たちの手伝いをしていたが、女性ガイドや女性ポーターはなおさらのこと、マメにいろいろと手伝いをしている。明るくて溌剌とした性格、大きな荷物を背負って、臆することなく川の急流をジャブジャブと渡っていく行動力と合わせて、お嫁さんにしたいと思う男性は多いのではないだろうか。私がまだ20代かつ未婚であったならば、きっとそう考えることだろう。

    ガイドとしては、女性であるがゆえに月経という、避けては通ることのできない不利な面もある。昨夜のハンカルで同宿であったキューバ人とイタリア人のカップルのガイドは、そのために道中苦しんでいたそうだ。

    午後1時から2時までテント内で昼寝。ぽかぽかと暖かくて気持ちが良かった。
    午後2時過ぎからは、ガイドのタシ君とカンヤツェベースキャンプに行く。斜面を上る途中で雨が降り出したのだが、途中から雪となった。しばらく登ったあたりでは残雪もある。ニマリンから1時間強くらいは上っただろうか。ここだけのことではないが、場所によって足元が泥であったり、岩石の板状のものがゴロゴロしているガレ場だったりする。

    斜面を登るとしばらく勾配が緩やかになったと思ったら、再び急坂になってくる。そんな状態で幾度も緩急を繰り返す斜面を登っていく。最初は遠くに見えていた、本日のキャンプ地がその段のためにやがて見えなくなってきた。




    カンヤツェの氷河下端。山そのものの姿は雲で覆われて見えない。


    カンヤツェを正面に見る下り斜面までやってきた。標高5,000メートルはあるため、息が切れる。ここにはかなり残雪があり、曇り空から降ってくるのは相変わらず雪だ。周囲の高山の上半分にも雲がかかっているので、同じように降雪が続いているのだろう。カンヤツェも下半分のみが見える。谷間を挟んだ正面には氷河の先端。


    ベースキャンプといっても、現在これからアタックする準備をしている登山隊はないので、特にここには何もないし、誰もいない。それにしてもタシは普通に歩いているように見えても実はかなり速い。ラダック人全般に言えることだが、山道でゆっくり歩いているように見えても無駄のない歩き方?のためか、実際にはかなり速いので、ついていくのは容易ではなかったりする。とりわけ下りが速いようだ。同じようなことをかなり昔にボリビアでも感じたことがある。上るスピードはついていくことができても、下るときの速さは山の民ならではのものなのだろうか。

    これまで村のホームステイだったり、キャンピングサイトに宿泊していたりした人たちは私たちと同じルート上を来ているため、しばしば追い越されたり、追い越したりといったときに顔合わせて話をするようになっている。こうした人々が本日は一堂に集まることになるため、賑やかに会話するようになる。食事のときにはトレッキングルート途中の茶屋に使われているような大テント内のテーブルに料理の大鍋が置かれてセルフサービス。マールカーのトレッキング最終日を目前にして、これまで同じルートを歩いてきた人たちとお別れパーティーみたいな具合だ。楽しさのあまり、うっかり失念していて、その際の写真を撮っていないことに後になってから気が付いた。

    たまたま、ここにやってくるまで顔を合わせることがなかった人たちもいた。ベンガル人の3人連れで、国鉄マン、ソフトウェアエンジニア、民間の会社員の男性たち。彼らは写真仲間で、コールカーターで展覧会を開いたり、年に数回、こうした形で撮影旅行をしたりしているとのこと。撮影対象は自然であったり、祭りであったりと様々らしい。趣味でお金にはならないことに対して情熱を燃やし、費用手間をかけることを惜しまないのは、文化を愛好するベンガル人らしい。

    夜は激しい雨となった。強い雨により、ひとつテントが浸水のためダメになったとのことで、午後9時頃からカヤーの村出身のガイドがひとり、私たちのテントにやってきた。この人はフランスの学生団体の案内をしている。元々は、学生時代にパートタイムでガイドをしていたとのことだが、現在では専業でやっているとのこと。オフシーズンの冬には、スノーレパードを観に行く人たちがいて、私たちが初日に通過したルムバクに行くことがあるとのこと。

    テントを打つ雨音、テントが風でばたばたとはためく音などが煩くてなかなか寝られない。時計を見ると、12時、1時、2時、3時・・・。
    ときおり雨が止んだと思うと、ロバがうるさく鳴き始める。雨をしのぐ屋根もなく、まるで寒さに耐えきれずに泣いているかのように思えたりして不憫である。翌朝起きてロバを見てみると、やはり寒いのには違いないのだろう。身体が震えていて気の毒になる。

    夜中、トイレに行きたくなるが、雨は激しいし風も強い。しかもトイレはラダック式トイレのアウトドア版。この天候ではびしょびしょでもあり、想像するのもおぞましい場所である。ゆえに翌朝まで我慢することにした。ゆえになおさらのこと眠れない。
    それに川の状態も心配である。歩いて渡れるのだろうか、と。

    〈続く〉

  • Markha Valley Trek  The Day 4

    Markha Valley Trek The Day 4

    朝6時過ぎにマールカーのホームステイ先で起床。一昨日宿泊したスキウは高度が低かったのだが、マールカーは少し高いところなるようで、曇ったり、雨が降ったりすると急に寒くなった。

    7時半にマールカーを出発する前にホームステイ先の家の隣にあるゴンパに参拝。ガイドのタシは100ルピーのお布施を置いていた。彼にとっては決して少なくない額だろう。信仰の厚さといったところか。昨日、ここの僧侶がホームステイ先に来ていたため、タシは携帯の充電を依頼していた。今朝方、お寺で充電してくれたその僧侶がタシの携帯を家まで持ってきてくれていたので、そのお礼もあってのことかもしれない。

    晴れるとかなり暑い

    本日、スタートした時には薄曇りで歩くにはちょうどよかったが、途中から晴れてきた。すると非常に暑くなってくる。このところ続いている雨のためとのことだが、川床が広くなっていて、明らかに水が引いたと思われる場所が沢山ある。まだ少し湿った部分もあり、そんなときにここに来ていたら、川が広くて深くて、しかも流れも速いことから、越えることができなかったのではないかと思う。マールカーの村でしばらく足止めになっていた人たちもあったのではないかと思う。

    渡渉するが、昨日同様に膝上くらいまでの深さ。水が氷水のように冷たい。足がシビレてチリチリする。雪解け水や氷河が水源になっているためだ。まさにそれがゆえに、朝はまだこの水量であっても、気温が上がる午後には増水することになるので渡るのは困難となる。

    マールカー川の右岸に開けた渓谷。ここを進むとザンスカールに迷い込んでしまうのだとか。

    しばらく進んでいくと、上流に向かって右手にはガイドのタシが言うには、「間違えてここに入ってしまい、ザンスカール方面に向かってしまう人がいる」という箇所がある。トレッキングのコースがマールカー川沿いであるということを頭に入れていれば間違えることはないのであろうが、川の左岸にあるマールカーの村を出てから一旦渡渉してこちら側を歩くことになる。山々が重なる良い眺めの渓谷が開けていて、ついつい間違えて吸い込まれてしまったとしても不思議はない。
    卒塔婆のような形でちょっと不吉な感じ




    ここの後はしばらく川床の平たくなったところを進むが、山の上にそびえるゴンパがあり、道のところで大きなチョルテンが門構えのようになっているところまで来ると、少し起伏のある地形になってくる。

    しばらく川床の端の部分を歩き続ける。左側は急な斜面である。このあたりで「女性による運営によるカフェ、徒歩1分」という看板があった。実際には歩いて15分くらいかかるハンカルの村の西外れにあり、ここで小休止。アメリカ人女性がボラティアで働いていた。村に着いてから1週間とのことだが、これからひと月半ボランティアをするのだという。

    村に入ると耕作地があり、瑞々しい緑が目に優しい。


    本日のホームステイ先は、村の東外れの丘の上。しばらく斜面を上ったところに小さなゴンパがあり、その少し先にある。

    ラダック式家屋の居間はとても居心地の良い空間

    しばらくするとフランス在住のキューバ人とイタリア人の夫婦がやってきた。キューバ人は国の体制を嫌い、欧州に渡ったとのことだ。しかし祖父と祖母は1930年代に生活苦により、スペインからキューバに移民したとのことである。ちょうど日本人が南米に渡ったのと重なるものがあるといえる。その後、学校の教員をしているというアメリカ人女性と女性ガイドがやってきた。マールカーの村をはじめとするトレッキングで立ち寄る村は、観光シーズンには国際色豊かなものとなる。
    銀色のお椀状のものは太陽熱を利用した調理器具。これでやかんにお湯を沸かしたりできる。

    マールカーのホームステイ先で今朝方用意してくれたランチを食べてから、外を散歩してみようと思いきや、雨が降り出したのでやめる。しばらくすると雨が上がり、雲が切れてきた。カンヤツェの高峰を仰ぎ見ることが出来た。
    カンヤツェの峰(6,400m)

    山の中の小さな村にある家で、輸送手段といえばやはり馬かロバということになるのだが、この家の居間には大きな画面のサムソンのテレビがある。前日のマールカーの家でもそうだったが、夕方特定の時間になると、家の人たちが居間に集まって、ラジオのラダック語のニュースを聞いている。J&K州の公用語であるウルドゥー語放送もあるとのことで、衛星経由なのだそうだ。

    夕食後にしばらくおしゃべりした後、翌日も朝から山を歩くため午後9時くらいになると寝ることになる。外ではまた雨が降り出した。今回のラダックに来てから雨が降らない日はない。異常気象であると人々は言う。年間降水量が平均80ミリほどしかない地域とはまったく思えない状態だ。



    キューバ人男性のレオは雨具を着て、ヘッドランプを装着して外に出ようとしていた。
    「どこに行くんだい?」
    「Toilet Expedition !!」
    そう、屋外にあるトイレは真っ暗で、天井も落ちており、そのままで出るとずぶ濡れになってしまう。土を固めた床に開いている穴に落ちることがあったら、まさに「遭難」である。

    レオ君、それではお気をつけて!幸運を祈る!!

    〈続く〉

  • Markha Valley Trek  The Day 3

    Markha Valley Trek The Day 3



    ルート上にある茶屋

    朝7時半にスキウの村を出発。マールカー村を目指して川沿いに歩いて行く。その日によって楽しむ景色が異なるのがいい。初日は斜面と耕作地、2日目は高い峠と長い下り坂、3日目の本日は、川の流れ沿いに進んでいく。
    浅瀬を選んで渡渉するが、連日の雨で川が増水しているのが少々厄介

    マールカー川に注ぐ支流とマールカー川で、本日は何回かの渡渉があった。マールカー川の水は濁った深い茶色。氷河や雪解け水が水源であるため、まるで氷水のように冷たい。少し浸っているだけでしびれてしまうほどだ。








    途中、競争しているわけではないのだが、他のトレッカーたちに追い付いたり、追い越したり、追い越されたりもする。こうしたことを繰り返しつつ進んでいくにつれて、いつしか顔見知りとなり、次の休憩地や宿泊地で話をしたりするようになってくる。

    テントやら自炊用具やらすべてを背負ってキャンプしながら回っている頑強なイングランド人男性(有り余るパワーがうらやましいほど)とその彼女、NGOのスタディーツァーで来ているフランスの大学生グループ、同じくフランスから来たシニア夫婦、キューバ人男性とイタリア人女性のカップル等々、人気のルートなのでいろんな人たちと知り合うことができるのもまた楽しい。

    村ではペットボトルのコーラその他の清涼飲料水は高値で売られているが、ミネラルウォーターのボトルを見かけない。これは販売が禁止されているからとのこと。その代わりに村々でホームステイを受け入れている家には、UV殺菌機能付きの水のフィルター浄化装置が配布されているとのことである。だが、そのフィルターがどの程度信頼できるものなのかわからないし、山歩きのときに下痢にでもなったらたまらないので、やはり宿泊先で沸騰させたお湯を頼むほうが安心なのではないかと思う。


    マールカー村に到着

    瑞々しい畑の眺めが美しい

    幾度か、マールカー川のこちらから向こうへ、あちらからこちらへと渡渉しつつ歩いて来たら、やがてマールカーの村にやってきた。マールカーの村は川の北岸にある。宿泊したのは村の東の外れに近い部分。少し先には川があり、そこから先にも数軒の家がある。
    マールカーのゴンパ

    ゴンパの裏手

    宿泊先はマールカー・ゴンパの隣の家。ゴンパは改装中で、村人たちがボランティアで材木を切ったり、壁にペンキを塗ったりといった大工仕事をしていた。このゴンパは、マールカー川沿いではなかなか由緒あるものらしい。

    風が強くなると、続いて雲が押し寄せてきて間もなく雨となる。まさに「風雲急を告げる」といった感じだ。山の天気は変わりやすい。

    この晩の食事はスキウという料理。日本のすいとんのようで好きだが、ラダックの料理は総じて非常に薄味だ。

    午後7時くらいに食事を出していただき、8時半には就寝した。

    〈続く〉

  • Markha Valley Trek  The Day 2

    Markha Valley Trek The Day 2




    屋上に設置されている太陽電池。これが日没後の居間の照明を灯す電源となる。

    ユルツェのホームステイ先で、朝の6時くらいに目が覚めた。昨夜寝たのはずいぶん早かったので、ゆうに9時間半は寝たことになる。実にすっきりとした爽快な気分だ。午前7時に宿泊者たち全員が居間に集合して朝食、そして7時半過ぎに出発。
    ホームステイ先を出発

    ガンダ・ラ・ベースキャンプまで1時間くらい、そしてガンダ・ラという峠までそこから1時間半程度の道のり。雪を被った峰を仰ぎながら、少々急な斜面で息を弾ませながら登っていく。
    キャンプサイト

    この地域の運搬手段は馬とロバ

    川沿いに進んでいく

    しばらく登ると、川の流れはこんなに細くなってきた。

    ここから先の登りは少々きつい

    こちらは水をがぶ飲みしながら肩で息をしているのだが、ガイドのタシ君は呼吸が荒くなることもないようで、涼しげな表情で歩いている。彼の出身のアリアン・バレーの地域はラダックの中でも標高は高くなく、彼自身はずいぶん長いことジャンムーの学校に通っているのだが、ラダック生まれだけあって呼吸器の造りが違うのだろうか?と思ってしまう。

    地表から湧き出る清水

    冷たい清水をふんだんに吸って育つ高山植物

    あと少しでガンダ・ラに着く


    ところどころで地表から澄んだ清水が湧き出ており、こうした細い流れの筋がユルツェの村の前を流れる川に注いでいる。
    ガンダ・ラ

    来た道を振り返ってみる。

    ガンダ・ラという峠に来た。標高は4,980mとのことだが、周囲に残雪もなく殺風景なので、そんな高地にいる気はしない。
    ガンダ・ラから下るときに出会った馬とロバのキャラバン

    羊の放牧

    ガンダ・ラからは長く緩い下りとなる。峠が分水嶺となるため、これまで来た道筋とは反対の方向に水が流れている。息を切らせて登っているときにはあまり気が付かなかったマーモットの姿を楽しむ気持ちの余裕が出てきた。ここから先、シンゴの村までは緩い下り坂が続いている。いくつものマーモットの巣があり、ガイドのタシが口笛を吹くと背を伸ばしてこちらを見ている。ところどころ集合しており、まるでみんなで会話をしているかのようで可愛い。
    巣穴から出てきたマーモットたち



    シンゴの村まであとわずか

    シンゴから先は傾斜が急になる。いくつかの川を越える。越えるといってもここでは流れの中で石伝いに渡るだけである。あるいは川岸にふんだんにある大きな石を川の中に投げて踏み台にしたりする。ところどころで清水が湧いており、いかにも「川のはじまり」といった感じがする。
    2010年にラダックを襲った洪水の際には、このあたりでトレッカーたちが流されたとのこと。

    しばらく進むと谷が細く深くなっている。このあたりでは、ラダックを襲った2010年の洪水の際には土石流の被害があったとのことで、キャンプしていた人たちが流されたりもしたそうだ。確かに今でもその土石流の後らしきものが確認できる。そうした荒天の際には、逃げ場がないだけに危険である。
    岩に含まれるミネラル分の違いからか、ずいぶん色合いの異なる山肌

    美しい花が咲いている。


    狭小な渓谷を過ぎると景色が急に開けた。スキウの村まであと少し。

    深く狭い谷を通過して、少し開けた谷に出た。ここからの斜面は緩く、ダラダラと下っていくとスキウに到着する。午前7時40分に出発して、午後3時半に到着したので、8時間ほどかかったことになる。宿泊先はスキウの村の東の端。明日の行程が少し短くなるから、とのことである。
    スキウの村に到着

    翌日からはマールカー渓谷沿いを歩く

    この日のホームステイ先の家の切り盛りするのはジグメットさんという男性。父母と兄弟合わせて5人、そして9歳と3歳半の子供とのこと。9歳の子はレーの学校に通っており、寮生活をしているとのことだ。夏休みは15日、冬休みは2か月半から3か月くらいとのことだが天候によるらしい。ラダックの冬は寒い、そして厳しい。こうした休みの時期にだけ学齢期の子供たちが帰宅するのだそうだ。
    クルマが行き来できるチリンからここスキウの村までは近いため、まだいいかもしれないが、それでも小学校に入ったばかりの子供がひとりでレーに出たり、帰ってきたりというのはかなり大変だろう。村の子供たちと一緒に移動するにしても、さらに遠い村では途中で宿泊する必要があるし、大変厳しいものがある。もしかしたら携帯電話も持たせているのかもしれないが、山の中では通じないだろう。そんな環境のもとで、自立心が養われることは間違いないにしても、これまた厳しいものがある。

    〈続く〉

  • Markha Valley Trek  The Day 1

    Markha Valley Trek The Day 1

    前日夕方にレーの旅行代理店で顔合わせをしていたガイドのタシ君と朝8時半にクルマでレーを出発。

    彼はジャンムーの大学で修士号まで取得しており、まだ大学に籍があり勉強を続けながらJ&K州の政府の仕事を求職活動中。出身は「Aryan Valley」の俗称で知られる地域のガルクンという村に実家があるとのこと。複雑な山岳地には、しばしば周囲と隔絶した独特の伝統と性格を持つコミュニティが存在することがある。

    モンゴロイド系の人々が暮らすラダック地域の中で、総じて小柄ながらも、アーリア系の特徴を持ち、元々は独自の信仰や習慣を持っていたが、時代が下ってからチベット仏教化した人々(主にインド側)、更にはムスリム化した人たち(主にパキスタン側)が暮らす地域である。このあたりへは、一昨年クルマで訪れたことがある。

    タシ君もやはりアーリア系の風貌をしている。故郷がチベット仏教徒化した時代以降も、代々、コミュニティ内での結婚がなされているとのこと。そうした伝統があるがゆえに、アーリア系の外観が受け継がれていくこととなったのだろう。彼が在籍するジャンムーの大学には、このアリアンバレー出身の同郷会があるそうだ。ラダック人であるという大まかなアイデンティティのさらに深いところには、モンゴロイド系が主体のラダック人の中での明らかなマイノリティであるアーリア系コミュニティ(ドロクパと呼ばれる)への帰属意識があるようだ。

    Facebook等のSNS普及により、彼らと同じルーツを持ち、ラダック語ではない彼ら自身の母語を話すパキスタン側の人たちとのネット上での交流も始まっているそうだ。印パ分離以前には普通に行き来があったものの、現在ではそれがままならなくなっている。
    「それがネットの普及によってコンタクトが可能になったわけですから、世界が小さくなったことを感じます」とタシ君は言うが、村ではネット環境がないため、彼のようにインドの大きな街に出ている人たちの間でのみ可能という限定付きのものではあるが。

    彼同様に、地域外の大学に在籍するラダック人学生で、夏休みの時期に帰郷してトレッキングガイドをしているという若者は多い。彼は毎年6月と7月にはラダックに戻り、こうしてガイドをしているとのこと。

    ズィンチェンから出発!



    クルマはズィンチェンに到着し、トレッキングがスタートする。連日の雨により、ルート沿いの川はかなり増水しているようで、音を立てて斜面を流れ落ちていく。

    しばらく登っていくとやがてルムバクに到着。冬季にはスノーレパードを見ることができる名所となっている。ルート沿いにある茶屋でお茶を飲みながら小休止。背後には村の家屋が点在しており、ゴンパもある。このあたりまでは車道に近い村であるためか佇まいはレーの郊外の民家と大差ないように感じられる。

    川の水は氷水のように冷たく、渡る際にしばらく足を浸していると痺れてくるようだ。

    しばらく進んだところの開けた景色の中で昼食。女性の4人連れのトレッカーたちが通過していくのが見えた。凛々しい感じの女性が先頭を歩いており、欧州から来たトレッカーかと思ったが、実は3人連れのスペイン人女性たちの女性ガイドであった。ユルツェの宿泊先に彼らも宿泊していたので判ったのだが、彼女もまたガルクンの出身で、私のガイドのタシ君の縁戚であるそうだ。

    女性の単独トレッカー、女性だけのグループ、もしくはカップルには女性ガイドを付けることができる。レーの町には女性客だけを対象とする女性スタッフによる旅行代理店もあり、なかなか好評のようだ。


    本日の滞在先、ユルツェの村に到着したのは午後2時あたり。この「村」には一軒しかないので、ユルツェに滞在するということは、全員ここの家に泊まることになる。しばらく同宿の人たちと話をしたり、周辺の眺めを楽しんだりする。畑はよく手入れされており、麦以外にいろいろな野菜などが栽培されている。目の前の谷には川が流れているが、その対岸には雪が一部残っている。ちょうど斜面の窪地となっており、そこに残雪があるのだ。谷間を吹き降ろす風が冷たい。

    峠から吹き降ろす風が冷たい


    すこぶる快適なラダックの居間空間

    ラダック式のキッチンは素敵だ

    〈続く〉

  • Sia-La Guest House

    Sia-La Guest House

    Sia-La Guest House

    「Assalaam Aleikum…」
    またこの宿の門をくぐると、スタッフのスディール君が迎てくれて母屋に声をかけると、出てきてくれたおかみのザリーナーさんのはじけるような笑顔が眩しい。居間に通されて、ご主人のグラームさんを交えてしばし雑談。

    ここ数年、夏にはラダックを訪問している。レーで常宿となっているのはSia-La Guest HouseというFort Roadから少し脇に入ったところにある宿泊施設。静かな立地ながらも、レーの町の中心部まで徒歩わずか5分程度。

    西部のカールギルあたりを除けば、仏教徒が大半のラダックにあって、レーには歴史的経緯からムスリムの人たちも多い。ラダック王国時代にカシミール王国から輿入れした花嫁があった際に、王宮が町を見下ろす丘のふもとのエリアにムスリムの人々を住まわせたのが始まりと聞いている。現在もそのあたりはムスリム地区となっており、なんとなく中央アジア的な雰囲気が感じられるエリアとなっている。

    さて、このゲストハウスは、そうした歴史背景を持つ敬虔なムスリム家族による経営。ここしばらくは毎年、夏季にラマザーンの時期がやってきているので、自らの生活のペース(日の出から日没までの断食)と滞在客の食事その他の用事等々)とうまく折り合いを付けながら、ホスピタリティに満ちた応対をしてくれている。

    オーナー夫妻はとかく話好き。家族連れや友人同士のグループから一人旅のお客まで、いろいろまんべんなく声をかけて気を使ってくれる。楽しい会話とともに、彼らの暮らしぶりを垣間見ることができて興味深い。曽祖父がラダックで初めて英文で本を著した人物でもあるオーナー氏は、レーの町の歴史的な経緯等について、かなりの事情通でもある。

    清潔で快適な部屋が用意されており、NGO関係者を含めた滞在客にはリピーターが多いようだ。宿泊料金についてはこちらをご参照願いたい。

    宿の中庭は菜園になっており、畑と建物の間にはいくつかのテーブルとチェアがしつらえてあり、WIFIを利用することができる。座っているとスタッフたちがすぐにお茶を勧めてくれる。これは宿泊費に含まれている。自室以外に自由に使えるこうしたスペースがあることによって、他の宿泊客たちと知り合って、おしゃべりをしたり、あるいはトレッキングに同行したり、クルマをシェアして何泊かで出かけたりといった楽しみの幅が広がるものだ。こういうスペースの有無によって、宿の快適度が大きく左右される部分もある。

    夏のシーズン中はかなり込み合うため、早めにメールや電話により予約しておいたほうがいいだろう。通常、メールによる問い合わせについては迅速に回答をもらうことができるのだが、ラダックにおいてはインターネットが数日間、いや数週間に渡ってダウンしてしまうという頼りないこともしばしば起きるため、「あれ?どうしたのかな?」と思ったら、インド国内においては電話、国外からの場合はスカイプ等で電話をかけてみたほうがいいかもしれない。

    家族経営の宿について、アットホームな雰囲気で楽しい会話等が楽しめる反面、往々にしてルーズなマイナス面もあったりするものだが、このゲストハウスにおいてはそうした弱点は見当たらない。

    ラダック人ムスリムのオーナー夫妻の元で働くジャールカンド州から来た出稼ぎスタッフたちが、かなり長い期間に渡って毎年夏にはここに来て働いている。そうした彼らとオーナー夫妻との間で築かれている信頼関係もまた大変好ましく感じられるところだ。

    このゲストハウスの施設ではないのだが、隣にパドマゲストハウスという、ここよりも少々アップマーケットな宿がある。そこの屋上にあるレストランは、私の知る限りではレーにおいて最も見晴しの良い食事どころであり、ストックカングリー峰を含めたレーの南側に位置する山脈を眺めながら食事を楽しむことが出来る。とりわけ日没の眺めは最高だ。

    先述のとおり、静かなロケーションながらも町中心にごく近いこと、清潔で居心地が良いこと、暖かくフレンドリーな家族経営であることに加えて、こうした周囲のロケーションも併せて、レーにおける私の常宿となっている。

    普段は宿についてこだわりは何もないので、特に宿泊先について記すことはほとんどない私だが、ラダックの中心地レーの町において、ここはとてもお勧めの一軒である。

    Sia-La Guest Houseホームページ

  • ミゾラム州 総人口中に占めるST(指定部族)の割合98.79%

    2011年に実施された国勢調査のデータに依拠するものだそうだが、全インドで総人口中、SCが18.46%、STが10.97%とのことで、合計29.43%がSC(指定カースト)ないしはST(指定部族)ということになるとのことだ。もちろんこれは地域によってかなり様相が異なるものとなることは言うまでもない。

    SCとSTともに高等教育への進学や公部門への就職の際、また議席においても留保の対象となっているが、おおまかに言ってこれらの区別は以下のとおりとなる。
    SCとは、アンタッチャブルとして差別の対象となってきたカーストに所属する人たちであり、言ってみればヒンドゥー教徒やスィク教徒等(改宗してキリスト教徒や仏教徒等になった人々も含む)のメインストリームの社会の中に存在してきた被差別階級だ。

    これに対してSTとは、そうした社会の枠組みの外に存在してきた少数民族で、時代が下るとともにヒンドゥー教やキリスト教等に改修した例も多いが、元々はメインストリームの社会とあまり接点を持つことなく、独自の起源や歴史を持つとともに生活文化を維持してきたコミュニティということになる。これらはマハーラーシュトラ、ビハール、オリッサのように、大きな街からそう遠くないところにポケットのように存在してきたコミュニティもあれば、インド亜大陸の周縁部に当たるインド文化圏外といっても差支えないような地域の民族も多く含まれる。

    州人口中にSCの占める割合が最も高いのはパンジャーブ州で36.74%、続いて西ベンガル州が28.45%、さらにタミルナードゥ州が25.55%とのことだ。しかしながら、STの割合となると、ミゾラム州が98.79%、ラクシャドウィープ(州ではなく連邦直轄地)が96.59%、ナガランド州が93.91%、メガーラヤ州が90.36%ということになり、やはりほぼ「インド文化圏外」の地域ということになる。もはや「STにあらずは人にあらず」といった状況のようだ。これらの地域は、インナーライン・パーミットの適用地(ミゾラム州、ナガランド州)で外部の人間の移入が制限されていたり、環礁から成り雇用等の機会が少なかったり(ラクシャドウィープ)などといった背景もあり、地域の独自性が高いエリアということにもなる。

    さて、このようにSTが人口のほとんどを占める地域では、せっかくの留保もあってないようなものということにもなってしまうことから、自州内ではあまりそのメリットを感じないのではなかろうか。

    もともとこれらの地域では自州内での雇用機会は多くないため、州外に流出する若者たちは少なくないのだが、こうしたエリアを出て都会に出る際に、留保制度を利用するメリットが生きてくる。

    留保制度は逆差別的な優遇制度で、社会的に恵まれないとされるコミュニティの救済を図るものであるが、世の中は必ずしも「カーストが低いから貧しい」「部族出身だから恵まれていない」などという単純なものではない。単純に言えば「最上位クラスのカーストだがその日の糧にも困窮している」「商人カーストだが日雇いの仕事で家もない」あるいは「アウトカースト出身だが父親は高級官僚として指導的立場にある」「部族出身だが商売に成功して企業グループを持つにいたり、近々選挙にも出馬予定」といったことはごく当たり前にある。

    留保制度はその個人なり世帯なりが置かれている経済的状況を反映するものではなく、指定されたコミュニティ全体が享受するものである。そのため生まれがそうであれば、実家が比較的裕福であってもその恩恵を受けることが出来る反面、極貧状態にあっても留保対象ではないコミュニティの出の人は大きな不利を抱え込むことになる。留保制度については他にも様々な観点から批判等があり、長年様々な議論がなされているところだ。

    しかしながらインド文化圏外、ないしはインドのメイントスリームの外にある人々に対しては、こうした留保制度による恩恵の措置がなされているということは、それぞれの地域のいろいろなコミュニティの貢献であるとともに、それらの人々の間にインド共和国への帰属意識を醸成するものであると仮定するならば、その部分について大変肯定的に評価できるように思われる。

    29.43 % Households Belong to SC/ST Category in India, Mizoram Tops List (Northeast Today)

  • スリランカのドリアン

    東南アジアでの人気ぶりとは裏腹に、南アジアでは一般的に食物として認識されていないドリアン。自生している固有種がないわけではなく、多雨多湿の南インド沿岸部やスリランカでは、自生している木は存在している。
    私にとって、久しく訪れていないスリランカだが、かつて訪れた際に、山間部の道路脇ではごくわずかにドリアンを販売する露店を見かけたことがあったが、町中に入ると皆無。
    なんともったいない・・・と思っていたが、ついにスリランカでも商業作物として扱われるようになってきているとのこと。主に輸出用の目的と思われるが、今後は国内でも人気が高まってきても不思議ではないだろう。
    また、東南アジアでスリランカ産のドリアンへの需要が高まるというようなことがあれば、南インドでも同様の動きが出てくるかもしれない。

    A Durian Village In Sri Lanka (Global Voices)

  • トリプラ州都アガルタラの空港「国際化」へ

    東南アジアとの接続ということで、やがてバンコク便就航となるのだろう。アガルタラ空港の「国際化」のプロジェクトが完了する時期は示されておらず、北東インド・東南アジア間の行き来への需要がどれほどあるのかまだ判らないが、これまで世界の果てといった行き詰まり感のあった北東地域が東南アジアへの玄関口になることから、新たな時代の幕開けが期待される。また、これまで漠然と「北東地域」「North East」と一括りに呼ばれていながらも、その実この地域間での協調や連携には欠けていた部分についても、今後修正が求められることになるだろう。

    すでにマニプル州のインパール空港は「国際空港」のステータスにアップグレードされており、今後の進展が注目される。マニプル州においては、ミャンマーとの国境のモレー(Moreh)を経由する陸路の輸送ルートによる人やモノの行き来の今後ますますの活発化が予想されるとともに、このモレー経由でインドからミャンマーへの鉄道接続の計画もある。
    1990年代以降、減速した時期もいくつかあったが、基本的に順調な経済成長を続けてきたことによる変化の波が、ようやく北東地域にも及ぼうとしているかのようだ。

    近年は、隣国ミャンマーの民主化による欧米先進国を中心とした経済制裁が解除されたことも有利に作用している。これはインドの北東地域だけではなく、ミャンマー西部にとっても同様で、これらふたつの地域は互恵関係にあるといってもよい。

    ただし不安材料も決して小さくない。現在においてとりわけ不安定なナガランド州においては、先行きを見通すことは困難だろう。

    Will Nagaland Ever Have Peace? (Diplomat)

  • チェラプンジーの雨

    チェラプンジーの雨

    インド各地から猛烈な熱波のニュースが伝えられるこのごろだが、北東インドではすでにプレ・モンスーンの雨が降りはじめているとのことだ。その中でも「世界で最も多雨な場所」とされるチェラプンジーの降雨量には圧倒的なものがある。下記リンク先記事をご参照願いたい。

    Pre-Monsoon: Heavy rain continues over Northeast India (skymet)

    ベンガル湾から吹き上がって来る風が、ちょうど入江に集まる波のような具合に、北のヒマラヤ山脈と東のアラカン山脈に挟まれた行き止まりに衝突するのがインド北東部。当然、非常に多雨なエリアであるのだが、とりわけチェラプンジーにおいては、ちょっと想像もできないような豪雨となる。

    印の付いている地点がチェラプンジー

    モンスーンの時期の北東インド観光地は閑散としてしまうのだが、例外的にチェラプンジーにおいては、「世界一の物凄い雨を体験するために」訪れる人たちが多いと聞く。

    それでも、乾季には生活用水が不足して、給水タンカー車が行き来する、ちょっと皮肉な部分もある。つまり雨期にそれほど集中して降るということの裏返しでもある。