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カテゴリー: greater india

  • ルンビニー滞在2

    ルンビニー滞在2

    ルンビニーで数多い各国の仏教寺院の中で、とりわけ気入ったものがみっつある。まずは大きな中華寺。私が入るときに、大きな荷物をゴロゴロさせて出てくる若い旅行者がいた。おそらく中国人だろう。こ本堂に向かって右手に宿坊を含むと思われる事務棟らしき建物がある。とてもきれいで、空調の室外機がいくつも見えるため、真夏でも快適に過ごせるにことと思う。

    最近の中国の勢いを示しているかのようであるとともに、中国にとってもこの国で中国の威光を見せつけるために、資金をふんだんに注いでいるのではなかろうか。ここで、中国の宗教団体が政府の意図とは無関係に行動しているとは思えないので、多分に政府の息がかかり、意図に従う組織ではないかとも思ったりする。それにしてもこの中国寺院は飛び抜けて美しく豪華だ。

    大乗仏教で、日本に近いところから来たものなので、やはり私たちに馴染みの深い雰囲気がある。お堂に置かれた木魚も日本のそれとそっくりだ。僧侶に尋ねてみると中国の深圳から来ているとのこと。僧侶は8名いるそうだ。この方といろいろ話をしてみたかったのだが、英語もヒンディーも理解せず、私の片言の中国語ではせいぜいこのくらいが限界であり、ちょっと残念

    大人に引率された袈裟を来た僧籍の子供たちの集団がどやどやと入ってくる。聞けば、ムスタンから来たとのこと。スマホやタブレットを手にした年かさの者もあり、盛んに写真を撮っている。ちょっと質問すると複数の子たちから元気な返事が返ってくる。ムスタンの人と声交わすのは、今回のボドガヤー以来、私にとって2回目だ。よく知らないが案外社交的な気質なのかもしれない。

    ムスタンから来た少年僧たちの集団
    ムスタンのやんちゃな小坊主たち

    もうひとつは、Gedan Internationalという、欧州で活動するチベット仏教団体が建てたもの。スイス、オーストリア、ドイツ、オランダ、フランス、ハンガリー、チェコ等で活動しているらしい。近年、欧州ではチベット経由の仏教徒となる人が少なくないようだが、その背景にはこのように欧州で活動する教団が増えていることがある。

    アメリカでもかつては禅が東洋の仏教の代表格であったが、今はチベット仏教のプレゼンスが高まっているという。ダライラマが長年続けてきた積極的な外遊により、チベットへの関心が高まったことがあると言えるだろう。
    さてこの寺だが、建物が「蔵欧折衷」になっている。「グレコ・チベット建築」とでも形容できるような、不思議なものだ。僧坊も洋館になっているし、ご本尊にあたるところに通常の仏像があるのではなく、まさにキリストの降誕の図を仏教に置き換えた形で、ブッダ誕生のそれをフィギュアで表現したものが祭られている。

    こんな風変りなチベット寺院はこれまで見たことがなかった。敷地内にふたつの大きなチョルテンがあることを除けば、少なくとも外観からはこれがチベット仏教寺院とは気が付かないだろう。

    ゴータマ・シッダールタ誕生の図。クリスチャンの「キリスト生誕」と似た構図になっている。

    そして最後は、ベトナム寺院を訪問。中国風にひねりをふたつもみっつも加えたような意匠が面白い。中国寺院に曲線を多用したような、独自の味わいは、まさにベトナムらしいところだ。家具などでもそういう部分がある。そしてこういう伝統的なものでは漢字が多用されるのも特徴。実際に読むことができる人はほとんどいなくても、元々は漢字の国であるだけに、伝統として大切にしているのだろう。境内にしつらえてある庭園の橋もまた、ずいぶん曲線的に盛り上がるベトナム式のもので、これまた目を楽しませてくれる。

  • ルンビニー滞在1

    ルンビニー滞在1

    ルンビニーで宿に荷物を置いてから、最初に向かったのは敷地内のチベット仏教寺院、そしてその裏手にあるマーヤーデーヴィ―寺院。ここは寺院というよりも、釈尊が生まれた場所の遺構が保存されているところで、こうしたいい状態でちゃんと残っているというのは感動的でさえある。これは、マーヤーデーヴィー寺院の白い壁の建物の中に保存されており、風雨で劣化しないようになっている。

    マーヤーデーヴィー寺院

    遺構もきちんと管理されている。

    日本、中国、東南アジア他の仏教国の古刹、名刹はもとより、文化や伝統、価値観や行動様式など、仏教が発生していなかったら、現在とまったく異なるものとなっていたわけで、まさにここからそれが始まったということになる。実にありがたいものだ。

    世界遺産登録されている遺跡であるが、ここでは2013年には紀元前6世紀のものとみられる建築物の遺構が見つかっており、誕生した時期に様々な説がある釈尊だが、その生誕年について、より古いものであるとする説に有力な手掛かりを与えることになる可能性がある。

    釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見(AFP)
    http://www.afpbb.com/articles/-/3003957

    マーヤーデーヴィー寺院の裏手には、沐浴池とタルチョが沢山はためく木があり、思索にふけるにちょうど良い空間を提供している。池のほとりで、タイの僧侶と信徒たちが読経を上げていたが、同じく巡礼で訪れていたブータン人団体の男性が、何を思ったのかお経を唱える彼らに、うやうやしくお布施を渡していた。

    読経するタイの人たちにお布施を渡すブータン人。でもなぜ??

    遺跡公園自体はまだ完成しているわけではないようだが、それでもずいぶん大掛かりで立派なものを作ったものだ。2008年だかにネパール訪問した際、中国が大掛かりな整備に乗り出すという記事を読んだことがあるが、これがそうなのだろうか。まさに中国さまさまである。

    ただしいけないのは、自転車で回らないとあまりに広大すぎて大変なのだが、マーヤーデーヴィー寺院がある側から長い通路を渡って、各国の寺院が建ち並ぶエリアへの移動は、徒歩のみで可能であること。自転車の場合は一度敷地の外に出て、別のゲートから入りなおす必要があることだ。まだすっかり完成したわけではないので、今後このあたりは改善されていくことだろう。

    天上天下唯我独尊

    日本人観光客も多いことと思うが、ボードガヤーと違って日本語が上手な怪しい奴がつきまとうようなことはなく、実に快適に周遊することができる。

    各国から出ている寺院見学するのもなかなかいい。ボードガヤーで感じたように、これらはそれぞれ自国の様式を模倣したインド建材によるものでしかないのだが、それでもこうした形でいろいろ工夫して寺院が出されているということは興味深いものである。

    広大な敷地内に、韓国寺院、スリランカ寺院、ミャンマー寺院、ネパール寺院、様々な宗派等のチベット仏教寺院その他が点在しているが、とりわけタイ寺院の洒落たデザインと美しい祭壇が目に鮮やかだ。

    韓国寺院
    ミャンマー寺院
    ネパール寺院
    チベット仏教系の寺院はかなり多い
    これもチベット仏教系の寺院
    チベット仏教系寺院のマニ車
    タイ寺院
    タイ寺院の堂内

    遺跡公園の最も北にある日本山妙法寺の仏塔とお堂。藤井日達という僧侶が始めた教団で、ストイックさで知られるが、日本ではあまりその名を耳にすることはない。やはり海外での存在感は実に大きく、建立する建物も壮大だ。基本的に活動先の国での「独立採算」でやっていると聞くので、僧侶たちは厳格な修行者であるとともに、大変優れた経営者であるという話も耳にする。現地政財界とのパイプも太いというが、いったいどうやって集金調達をしているのか、いつも不思議に思う。

    日本山妙法寺の仏塔

    ここからは湿原の景色が眺められる。仏塔の上から眺めるとさらに良い。「周囲は鶴の保護区となっており、これらを無料で見ることができる」とガイドブックに書かれているが。ちょうどシーズンであるはずだが。私は視力が悪いためよく見えなかった。

    日本山妙法寺のお堂も拝見する。ボードガヤーのそれと違って、こちらはこじんまりしているが、やはり日本の教団のお寺らしく、ずいぶんキレイにしてあるものだ。勤行の時間帯も書かれており、誰でも歓迎とある。

    日本山妙法寺のお堂

    遺跡公園敷地内にはまだ森林が残っている。かつてタライ地域は深い森に包まれており、北インドから人々が大量に移住したことにより、広大な耕作地に変貌したというが、その森林であったころにはこんな風景が続いていたのではないか?と思ったりする。しかしこういう場所なので、冬で気温が低いのに、蚊が非常に多い。アッサムもそうであった。これが気温の高い時期であれば、蚊の大群に大変悩まされることだろう。

    かつてのタライ地域はこんな森が果てしなく続いていたのだろうか。

    この日の「愛車」
    自転車で走り回っての疲れは、Red Bullで癒す。かつてはタイの肉体労働者の「リポビタ」、いまや国際的なエナジードリンクのブランド
    遺跡公園の外にあるが大掛かりな工事が進行中。日本の神社の鳥居みたいな形だが、周囲に尋ねる相手がいなかったため正体不明・・・
  • クリステンさん

    ルンビニーの華人宿での夕食は、青椒牛肉とご飯を注文。外の食堂よりもずっと高いのだが、やはりここの食事は本格中華なので大変美味しい。現在のネパールの状況を反映して、宿泊客は私を含めてふたりだけ。

    もうひとりの宿泊客は年配のアジア系の女性旅行者。今朝がた一度顔を合わせているのだが、そのときはてっきりここの経営者家族のひとりかと思っていたが、夕食の際に同席して話をして、日系アメリカ人であることがわかった。

    1950年代初頭にハワイで生まれた、クリステンという名前の彼女は、中国人、フィリピン人の血も引いているという。出自がどこであろうと、自由に恋愛して結婚もするのがハワイ流なのだと彼女は笑う。

    もっともハワイで過ごした時間は決して長くなく、ほどなく本土に移住。ここで、第二次世界大戦中に日系人が受けた苦しみを知っている両親は、彼女を徹底的にアメリカ人化することを心に決めたのだとか。家庭の中では英語のみを用い、アジア系コミュニティとも距離を置いて、アメリカ式のライフスタイルを貫いたのだという。

    「まだ戦時中の記憶が生々しくて、日系人への感情も悪かったの。私たちが、独自のカラーで生活していくことができるような雰囲気ではなかったから。」と彼女は言う。

    おそらく本人も努力家であったためだろう。彼女はUCLAバークレー校に入学することで、両親の期待に応えた。当時のアメリカの有名大学では、アジア系はもちろんのこと、黒人系の人さえもほとんど見かけなかったとのことだ。

    クリステンさんは、大学を卒業した後、アメリカと欧州で働き、しばらく前に仕事を引退して、悠々自適の暮らしをしているそうだが、今の時代のアメリカでは、出自が日本の人たちも中国その他の国々から渡ってきた人たちも、それぞれの背景にある言葉や文化をそれなりに守りながら生活していることについて、「いい時代になったものだ」とつくづく感じているとのこと。

    「私の場合は、そういう時代だったから、両親の方針は正しかったと思うし、いい教育を受ける機会を与えてくれたことにとても感謝しているの。おかげで満足のいく暮らしをしてきたし、リタイアした今だって、こうして人生を楽しむことが出来ているわけよね。本当にありがたいことよ。だけども私は日系人だし、中華系でもあるし、フィリピンから来た先祖もあるのに、それらのどこの言葉にも文化にもまったく通じていないことは、やっぱり残念に思うのよねぇ。」

    どこからやってきた人も、世代が違う人も「同じ旅人」。普段まったく接点がなく、旅先のこうした機会にたまたま居場所を同じくしたがゆえに、こうした話を本人から聞くことが出来るのも、自由気ままな一人旅の素敵なところだと私は常々思う。

  • 霧

    窓の外のふんわりした景色を眺めながら、お茶やコーヒーでも楽しむのには、なかなかムードがあって良かったりする。普段の鮮やかな色彩が霧に包み隠されたモノクロームな風景。モワモワした中から、人影や自転車などがジワッと現れてはスッと消えていく様子は幻想的でさえある。

    だが、そんな中で、土地の人たちはのんびり休んでいるわけではなく、慌ただしく仕事に出かけなければならなかったり、運転して移動しなくてはならなかったりする。
    路上の往来といえば、大きな音を立てて走る馬車以外は、私たちが徒歩で進むのと同じ程度のヒューマンなペースであったころには、霧によって視界が遮られることについて、それほど大きな問題はなかったことだろう。

    だが、今の時代は話が違う。霧の中から突然、自家用車やトラックが飛び出してきては、アッという間に姿を消していく。ごく手近にあるものさえも強いソフトフォーカスがかかり、5m先も見えないような日の路上は危険極まりない。外出している限りは、霧が晴れるまでの間、命に関わる一大事がずっと続くことになる。

    濃い霧により、運転者たちは普段よりもかなり速度を抑えているとはいえ、道路では事故が多発する。鉄道のダイヤは乱れ、とりわけ長距離をカバーする列車は、遅れを蓄積しながらノロノロと進んでいく。視界不良から空の便も遅延や欠航が相次ぐ。同じ機体が便名と発着地を変えて全国を飛び回っているので、霧の出る北インド地域外にも、その影響が及んだりする。

    この冬は暖冬とのことで、霧の出る日が例外的に少ないという。こういう天候であることが本当にその地域の環境として良いのか、そうではないのかはよくわからない。だが、旅行している身にとっては、交通の大きな乱れがないことはありがたい。同様にここで暮らす人々にとっても、あまりひどい寒さを感じることなく、霧で不便かつ危険な思いをすることが少ない冬というのは、そう悪いことではないだろう。

  • ルンビニーの華人宿

    ルンビニーの華人宿

    ルンビニーの華人宿「Sunflower Travellers Lodge」

    ルンビニーでの滞在先は、Sunflower Travelers Lodge。安徽省出身のご主人と台湾出身の奥さんと娘、そしてその下で働く中国人の青年が切り盛りする宿である。

    海水の至るところ華僑ありと言うが、海の無いネパールにもこうして華人がいる。開業してから5年とのこと。カトマンズにはすでにかなりの華僑が商売しているが、ルンビニーでもこうやって稼いでいる人たちがいるというのは大したものだ。

    しかしながら、これがインド側であったとすると、中国の人がこうやって仕事することができるかどうかはともかく、中国に対する感情が悪いので、時に危険でもあるだろう。中国と関係が良好なネパールならではのことと言える。

    宿の中には中国語による表示や飾りなどがいろいろあるが、門の外にも中文による看板がいくつかある。簡体字と繁体字が混じっているのはご愛敬だ。また手書きの看板なので、なんだか不格好であったりするが、ここの人が手作りしたものなのだろう。今後、他の華人たちもここに進出するのかどうかは知らないが、推移を見守りたい。

    宿泊客は私とアメリカか来た日系人の年配女性のみであった。今のネパールの問題(昨年の大地震と現在も続く憲法問題)が発生するまでは、大勢の中国人客が出入りしていたとのことだ。早く平常に戻るといいのだが。

    宿に到着して、荷物を部屋に置いてから、まずは腹ごしらえと、昼食を注文したのだが、これが大変美味であった。写真は「牛肉麺」で、肉は水牛肉だが、麺もスープも本場そのものの味わいでおいしい。さすが本場の中国人が調理しているだけに、インドやネパールの人たちが作るものとはまったく別物だ。

    大変美味しい牛肉麺

    夕飯は「宮保鶏丁」を注文した。カシューナッツではなくピーナツを使っているけれども、山椒が効いていて、これまたとても旨かった。「料理がとびきり美味しいね。」と褒めると、宿の人は「本当はもっと大きなメニューを用意していて、他にもいろいろあるのですが、インドによる封鎖が始まってからは、満足に物が入らなくなったので、やむなくこの簡略版にしているのですよ。」とのこと。

    宮保鶏丁も大変旨い。

    ここでかいがいしく働き、ネパール語も流暢、お客の世話から調理や雑用までなんでもこなす中国人の青年と話していて判ったのだが、彼は経営者家族の身内ではないが、ご主人の郷里である安徽省から働きに来ているそうだ。両親は農民で、「若いうちに海外で頑張ってみろ」と送り出してくれたとのこと。

    宿のオーナーは、経営者である安徽省出身の男性と台湾人の奥さんとはまた別人であるとのことで、台湾人でここに在住しているわけではないが、年に数回様子を見に来るのだそうだ。経営者家族の身内で赤ん坊のいる女性もいて、お客はほとんどいなくても、なかなか賑やかな様子。ロビーはそのまま彼らの団欒の場となっており、アットホームな感じもなかなかいい。

    どういう経緯があって、ここで商売を始めることになったのか気になるところだが、「ホテル運営とボランティアをしているのです。」と言う。彼らはキリスト教系の団体に所属しており、早朝からロビー経営者家族とスタッフが集まって、中国語で何か暗誦しては、「アーメーン」「アーメーン」と呟いている。

    そして中国語による讃美歌が始まるのだが、手や顔をリズミカルに動かしながら歌っている。ここにしじゅう出入りしているネパール人も1名いるのだが、中国語も出来るようで、彼らとの会話は中国語であったりするし、中国語の讃美歌も歌う。同様に宿側の人たちがネパール語で讃美歌を歌ったりもしていた。

  • ターンセーン滞在1

    ターンセーン滞在1

    こちらは、ターンセーンでの滞在先、マンモーハン・シュレスタ氏のCity View Homestay。外が明るくなってきたので、さっそく町歩きに出ることにする。

    ターンセーンでの滞在先

    昨日夕飯を食べた人気レストラン「Nanglo West」併設のベーカリーで買ったココナツたっぷりのビスケットとマフィンをかじりながら坂道を歩く。

    左手の建物がNanglo West

    Nanglo West併設のベーカリーで買ったココナツクッキー

    ネパールに長くお住まいの日本の方によると、この町の出身で繊維業で財を成した一族の御曹司がアメリカ留学を経て、カトマンズ中心部にレストランとベーカリーをオープンさせたのが、このNangloというチェーン店の始まりであったとのこと。スマートで洗練されたサービス、豊富なメニューと上手な味付け等々、とにかく素晴らしい。飲食業以外にもリゾートも展開しているようだが、このターンセーンには、「Nanglo West」以外にも、「Palpali Chhen」という、このグループが経営するホテルとカフェがある。

    Palpa Chhenのカフェ

    ここで朝食を済ませて外に出ると、上階からカッコいいマウンテンバイクを下ろして来る若者たちのグループがあった。彼らに尋ねてみると、首都カトマンズからやってきたそうだが、本日この町からスタートするレースに参加するのだとのこと。ネパールでも中産階級のこうした年代の人たちは、様々なアクティヴィティーに活発なようである。その他、ネパールの首都圏から普通に観光旅行で来ている人たちも少なくない。

    私が訪れるよりも前に開催されたものだが、こちらもマウンテンバイクによるレースだ。



    どういう料理に使うのは知らないが、ずいぶんカラフルな麺が売られている。

    こんな色合いの麺もあった。

    インド国境からそれほど遠くはないとはいえ、山地に入ってしばらく進んだところにある斜面の町ターンセーンには、中世を思わせる沢山のネワール建築が良い状態で維持されている。町中がきれいに清掃されているのも良い。インド世界の延長線上にあるタライ地域とは別世界である。16世紀にはカトマンズ盆地を窺うほどの勢いの在地勢力の中心地であったというだけに、なかなか見どころは多そうである。だが、もしここがインドの一部になっていたならば、このあたりにもUPやビハールからの人々が多数移住して、すっかりインドになっていたのだろうか、などということも思ってしまう。



    価格の割に高性能な中華スマホHuaweiはネパールでも人気が高いのだろう。

    宿近くのお寺、ビームセン・マンディルはこじんまりしているが優美な姿。いかにもネパールらしい寺院だ。境内では女性たちが鳩に餌を与えていた。

    ビームセン・マンディル


    坂道を下ったところにあるやや大きな寺院、木造で三層になっているアマルナラヤン・マンディルも見応えがある。

    アマルナラヤン・マンディル




    パールパー・ダルバールはマオイストに破壊されたものを修復したとのことだが、この中には入ることはできない。全国各地で内戦を繰り広げたマオイストとの和解と政府への取り込みについては、人類のひとつの快挙と言ってもよいのではなかろうか。もっとも、その後のネパール政局の迷走ぶりは、広く知られているところではあるのだが。

    パールパー・ダルバール敷地への入口

    パールパー・ダルバール

    パルパー・ダルバールの脇に警察署があり、門の前で歩哨に出ている女性警官が可愛らしかったので声をかけてみた。ヒンディーで話すと、にこやかな表情で、すべてネパール語で返事が返ってくる。こちらが尋ねていないことまでいろいろしゃべるので、なかなかおしゃべりらしい。ネパール語なので、ちょこっとだけわかるような、あまりわからないような・・・。

    羽根飾りが素敵な女性警官

    山あいに広がる斜面の町、暖かい陽射しを浴びながら、今日はのんびりと散歩を楽しむことにする。伝統的で落ち着いた佇まいの町並みが素晴らしい。





    「ターンセーン・ダーント・ウプチャール・ケーンドル」という歯医者さん

  • ターンセーンへ

    ターンセーンへ

    ネパールに入国してからネパールのNcellという通信会社のSIMを購入したが、国境越えてからすぐにインドのボーダフォンから、「ネパールでのローミングにようこそ」というSMSが入った。

    国際ローミング(インドの通信会社のネパールでのローミングは割安ではあるが)では、すぐに残高がなくなってしまうので、ネパールのSIM購入したわけであるが、境目のエリアにいるとインド、ネパールどちらのSIMを利用していても、勝手に国際ローミング扱いになってしまう可能性があるはずだが、この地域に住んでいる人にとって、問題はないのだろうか?

    インドからネパールに入国してから、ルンビニーに行くつもりであったが、客待ちしているタクシーに尋ねても、「行けません」との回答しか返ってこない。ツーリストバスならばその方面に行くことが出来るとのことだが、しばらく待ってもそれらしいものはやってこない。ここで言うツーリストバスとは、観光客相手に地域間を運行しているバスも含むが、ここからルンビニー方面にはツアーバスしかないようなので、要はそうしたクルマに便乗させてもらえということだ。

    国境から東方面あるいは西方面に向かうルートは、地域政党がオーガナイズするバンド(ゼネスト)によるチャッカージャーム(交通封鎖)の対象となっていることから、公共バスを含めたクルマの往来は出来なくなっている。(前述のツーリストバス、スクールバス等を除く)

    ネパール南部の政治問題により、ただでさえ外国人越境者がほとんどいないこの場所、時間がもったいないので、バスでターンセーンに行くことにした。地図などでは「ターンセーン」と書いてあるのだが、一般的には「パールパー」と呼ばれているようだ。

    こちらもかねてより訪れたかった場所である。国境から北に向かうルート(ポーカラー方面)については、燃料不足の問題はあるものの、きちんと運行しているのも幸いだ。

    ターンセーンに直行するバスは見つからなかったが、経由地のブトワルに行くバスに乗車。車内には、山岳地から来たと思われる顔立ちの人々が多く、ゴーラクプルからこちらまでのバス車内とは、かなり違った印象がある。

    山の民と思われる風貌の人たちが多い車内

    1時間強でブトワルに到着。よく整備された印象の大きな街で家もきれいなものが多いようだ。ふと思いだしたのだが、インドとネパールの間には15分の時差がある。この時点で4時20分。ブトワルから北は、「山岳の景色が広がっている」というよりも、「壁として立ちふさがっている」という印象を受ける。

    ブトワルから北側は山地

    ブトワルでバスを待っていると、ターンセーン行きのバスはほどなくやってきた。座席確保できて一安心。国境からターンセーンまでは、「ごく当たり前に」高速通信の4Gレベル。今どきは、どこの国でもそうした通信環境が標準になっている。

    ターンセーンを出て山岳地に入ると、かなり電波が切れてネットは使えないものの、微小な電波でGPSは動作するようで、現在位置は逐一確認できる。周囲の山間の景色を眺めながら、バスは進んでいく。眼下はるか下の川に目をやりながら過ごす。日は暮れなずみも車内は家路を急ぐ人々。もはや車内に会話は私が知らない言葉になっている。遠くに来たな、という感じがする。

    間もなく日が暮れる。山道をガタゴト走るバス車内にて。

    ターンセーン到着は午後7時過ぎ。国境からバスで出る際に、今晩の宿の主人、マンモーハン・シュレスターさんに電話しておいたのだが、ここで彼から電話が入った。さきほども一度かかってきたのだが、電波の具合で話すことができなかった。

    バススタンドから徒歩でバンクロードのほうに上がっていく。坂道の町である。かなり古いものが良い状態で残されている町らしく、明日の町歩きが楽しみだ。坂道ではまだ店はいくつも開いており、歩いている人々の姿もある。

    坂道を上がり、右手に折れて、ナングロ・ウエストというレストランが見えたあたりで声をかけてきたやや年配の男性が宿泊先のシュレスタさんであった。良かった。宿はここからすぐ。シュレスタさんは、自宅の一部に旅行者を宿泊させるとともに、彼自身もボランティアの観光案内書を運営されている。

    宿に来る手前で見かけたレストラン「ナングロ・ウエスト」でダルバートの夕食。
    宿の窓から眺めるすっかり静まり返った町。ネパールらしい建物がいくつも見える。
  • ネパール国境へ

    ネパール国境へ

    昨夜(というより今朝がた)寝たのは午前4時くらいであったが、もう7時半過ぎには起きてしまった。昨日は窮屈ながらも列車内で少し寝たこと、このホテルの外が騒々しいことなども理由だが、それ以上に本日の予定があるので、のんびりしていられないということが大きい。
    昨日はほぼ絶食状態であったので、宿の並びにある食堂にて、本日の朝食、トースト、オムレツ、チャーイが、ことさらおいしく感じられる。出来立ての温かい食事はいいな、と思う。

    Gorakhpur Junction駅前の食堂
    朝食

    宿に戻り、荷物を持ってチェックアウト。駅前から出発の国境行きのバスに乗る。ここからネパールとの国境、スナウリーは3時間ほど。

    隣の席の青年は、ムンバイーに働きに出て、ホテルのエレベーターボーイをしていたそうで、久々に帰郷するのだという。こういう人たちが多くこの国境を出入りしているのだろう。同様にネパールからインドへの人身売買もここを通してなされているという黒い話もよくメディアで報じられている。

    車窓左側はインドによる封鎖により留め置かれた輸送車両の長い行列

    国境までまだ10数キロはありそうなところで、道路左側に長い車列が止まっている。これらはすべてインドによる封鎖により留め置かれているものだという。昨年の夏あたりに、ネパールで制定しようとしていた新憲法の内容が、マデースィーの人たちに対して不利な内容となっていることが明らかになったことにより、彼らが暮らすタライ平原部では、地元政党による抗議活動が盛んになっていた。これが現在も続いているのだが、インドもまたこうした状況に鑑み、ネパールに対して独自に制裁を加えることとなったのは昨年9月に新憲法が制定されて以降。ずいぶん長く続いている。

    これにより、ネパールでの燃料や生活物資の不足などが伝えられているとともに、昨年4月と5月に起きた大地震からの復興に影を落としているというが、あまりに強大なインドという隣国との関係で悩まされるのは今に始まったことではなく、同じく国境を接する中国との関係を強化するのは無理もないことだろう。

    これは、南アジアへの影響力強化とインド周辺の国々の囲い込みを着々と進めている中国にとっても好都合なことであり、ネパールに対して様々な経済援助を惜しみなく与える関係となっており、大型の案件のひとつとしてルンビニーの遺跡公園の整備が進められるとともに、運輸関係でも西蔵鉄道をネパール国境まで延伸させるプランや、さらにはカトマンズまで鉄路を伸ばしてリンクさせる計画まである。

    こうした状況はインドにとって看過出来るものではない。新憲法を制定したネパール政府と、これに反対するマデースィー(北インドのビハールやUPの人たちと民族的・文化的背景が共通する人たち)の政党との間の軋轢は、インドにとって自らの影響力を行使する良い機会ということにもなる。

    ネパールへは、モーティハーリーから近いビールガンジから入ることを考えていたのだが、その地域での反政府活動がまだかなり激しいようであるため、予定を変更してこちら側の国境から入ってみることにした次第。

    話は戻る。留め置かれた無数のトラックやトレーラーの長い長い車列。荷主も受け取り手も非常に困っていることだろう。運転手たちに至っては、身動き取れず、さりとて日銭も入らないとあれば、一体どうやって過ごしているのだろうか。彼らが養う家族もいるわけなので、あまりに気の毒というしかない。

    スナウリーに到着。ごみごみした粗末な商店が軒を連ねる中にあるインドのイミグレーションへ。出国印をもらってから、ネパール側に越える。インド人とネパール人はチェックがないので、国境両側は、事実上ひとつの街である。

    だがネパール側に入ると違うのは、インドでは見かけない会社の広告があったり、デーヴァナーガリーで書かれた看板が、ヒンディーではなくネパーリーであったりすることだ。デーヴァナーガリーによる外来語の表記も異なり、例えばVに対してVではなく、BHを当てることなどがある。すると外来語について、Vの字はどう使用しているのか?ということになるが、私はネパール語のことはよく知らない。

    ネパール側でヴィザ代25ドル支払う。Guidebookでは米ドルのみと書かれているのだが、タイ人のグループを率いるインド人ガイドがパスポートをまとめてイミグレーションに持参していたのだが、その会話からインドルピーでも支払いできるらしいことが判った。もっともいつもそうなのかどうかは知らない。

    昨年の大地震とともに、現在進行中のタライ地域の政治問題等により、外国人観光客が非常に少ないため、国境両側のどちらの国のイミグレーションも待ち時間ゼロであった。

    ネパールでは、物資不足により、インドルピーの需要が高まっているという。地元通貨では購入できない燃料等がインドルピーならば買えるという話をネパール側で耳にした。インドルピーのことをネパールでは俗にIC(Indian Currencyの略)と呼ぶようだ。前述のとおり、国境を挟んだ両側は事実上ひとつの町であり、両国の人々は出入国手続き無しで自由に往来できるため、利ザヤの大きい燃料類をインド側で購入して、ネパール側で売りさばくという商売が盛況とのこと。こうした商売に従事する人たちにとっては稼ぎ時ということになるのだろう。

    取り急ぎドルからネパールルピーに両替、そしてネパールのNcellのSIMを購入。インドの場合と異なり、購入してスマホに挿入すると、即座に通話もネットも利用できるのがいい。インドの場合は、それほど迅速ではないのは、セキュリティの関係でそういう措置になっているのではないかと思う。

  • VIPの皆さま、12月14日から1月8日まではミゾラム州訪問はお控えください

    ミゾラム州政府が中央政府、各州政府等関係各署に、VIP、政府高官等要人の訪問を自粛するよう要請したとのこと。
    12月25日は中央政府が定めた祝日(これらに加えて各州政府が決めた祝日がある)ではあるものの、この時期に子供たちが冬休みに入ることに合わせて、休暇を取る人々が多いことを除けば、「ごく普通のカレンダー通りの時期」であるのだが、クリスチャンがマジョリティを占める同州では、祝祭ならびに休暇の時期に当たることから、「充分な対応を出来ない可能性が高い」ためであるとしている。

    ちなみにミゾラム州の祝日を見てみると、確かに公休日となっている日付がこの時期にかなり多く、有給休暇と合わせて連休が取りやすい時期になっているのだろう。

    民族が違えば、文化や習慣も異なる共和国、インドにおいては、こうした部分についても注意を払う必要があるのだが、とりわけマイノリティーの人々から成る最果ての地においては、政府自らがこうして発言しておく必要があるのだろう。これは他地域に対するアピールであるとともに、「中央その他にこのように主張していますよ」と、政府の「働きかけ」を州内の人々に対して示すポーズであるとも言えるだろう。

    Don’t Visit Mizoram During Christmas, New Year (Northeast Today)

    ※ビカネール7は後日掲載します。

  • 映画「ルンタ」

    池谷薫監督による映画作品「ルンタ」が東京都中野区東中野のポレポレ東中野にて、11月13日まで公開されている。

    朝鮮戦争とほぼ同じ時期に始まる中国によるチベット侵攻以降、現在に至るまで続く占領下にあるチベットでは抵抗の歴史が続き、2000年代に入ってから市民や僧侶による焼身抗議がメディアで報じられることが多いが、そうした行為の背景にあるものを探っているのがこの作品。

    インドのダラムサラで、チベットにおける苛烈な弾圧から逃れてきた人々を支援する活動をしている中原一博氏に密着する形でストーリーが進んでいく。

    チベットにおける焼身抗議とは、中国による圧政に対して中国人を殺める暴力に訴えるものではなく、自らの身体を灯明として国や民族に捧げて覚醒を促す自己犠牲の行為であるとのこと。

    かつて、イギリスが植民地支配していたインドにおいて、ガーンディーが率いた活動もまた、大変な自己犠牲を要する実に「過激な」行動であったが、チベットにおいても展開される非暴力不服従の活動もまた、なんと激しいものだろうか。

    作品中でカメラが追っていく中原一博氏がチベットにおける人々の抵抗運動を伝えるブログ「チベットNOW@ルンタ」では、チベットの情勢、中国当局による様々な弾圧、焼身抗議を実行するに至った人々の背景、占領下チベットから逃れてきた人たちへのインタビュー記事などが刻々と綴られている。

    同ブログでは僧侶が町中で「一人デモ」を実行して公安に取り押さえられる現場の動画なども取り上げられており、その後本人が受けたであろう苛酷な拷問、長期に渡る獄中生活などを思うと、非暴力不服従運動という活動は大変大きな自己犠牲を必要とするものであることがひしひしと伝わってくる。

    私たちがごく当たり前のこととして享受しており、その大切ささえもすっかり忘れ去られているが如き自由と民主主義だが、これがいかに尊いものであるかを思い知らされるようだ。

    チベットは決して中国の一部ではない。焼身抗議を実行する人々が、自らを灯明として差し出して覚醒を促している相手は、中国当局やチベットの同胞だけではなく、中国による占領の継続を黙認している国際社会に向けられたものであることについて、私たちは自覚しなくてはならない。

  • ムシャッラフ元大統領の生家

    ムシャッラフ元大統領の生家

    デリーのダリヤガンジでよく書籍類を購入する。パーキスターンの元大統領パルヴェーズ・ムシャッラフ氏が生まれた地域であり、2005年に彼が大統領在職時に訪印した際に訪れている。

    ダリヤガンジのGolcha Cinemaからデリーゲートに向かって少し歩いた先の右手にある左側の「MEHTA’S」というスナック屋のところで路地を少し入ったところにある。

    Golcha Cinema

    ここで画面左手にある小路へ

    道なりに進んでいくとすぐに袋小路に突き当たる。

    袋小路突き当りに向かって右側がその場所

    現在は新しい建物に建て替わっており、細部の仕上げが進行していた。近年までは荒れ果てたオリジナルの家屋があったらしい。その様子はYoutubeに動画でアップされている。父親はAligarh Muslim University卒業で、当時としてはエリートの部類に入る人物であったが、住まいは簡素であったようだ。

    Pak Prez Parvez Musharraf’s Chilhood Home – Nahar Wali Haveli (Youtube)

    おそらくムシャッラフの幼少時代には、ここの路地で近隣の子供たちと遊んでいたのだろう。界隈はヒンドゥーの人たちやヒンドゥー寺院が多い。印パ分離時に大勢のムスリムたちがパーキスターンに移住するまでは、ずいぶん異なった雰囲気であったことだろう。

  • ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダックの中心地レーのメインバーザール

    このところ4年続けて7月にラダックを訪れている。この時期はシーズン真っ盛りで、レーの中心部には各国からやってきた外国人観光客、国内各地からやってきたインド人観光客でごった返し、彼ら相手の仕事、土木工事、農繁期の作業のために来ているインド人出稼ぎ人やネパール人もまた大勢来ており、まったくもってどこの土地にいるのだか判らなくなりそうな多国籍空間・・・というのが例年のこの時期であったが、今年はだいぶ様相が違った。

    とにかく外国人旅行者が少なく、同様にインド人訪問客も多くない。「天候の不順により雨が多いこともあるかと思うが、やはりネパールで4月と5月に発生した大地震の影響だろう、それ以外に考えられない」というのが地元で暮らす人たちの大方の意見だ。

    ラダックのシーズンといえば、およそ6月から9月までの短い期間ということが、インドの他の観光地と大きく異なる。5月や10月あたりならばラダックへの陸路は開いているし、その他の時期でも飛行機で訪れることはできるのだが、ラダック地域でアクセス可能なエリアや楽しむことのできるアクティヴィティは限られるため、夏の季節の人気ぶりとは裏腹に閑散とした状態で商売にならないため、店や宿も閉めてしまうところが多い。ゆえに今シーズンの不振はとても痛いという話をよく耳にした。

    観光業は水物だ。現地の状況は決して悪くなくても、政治や経済の動向、隣接する地域(ラダックからネパールまでは1,000kmほどあるのだが、外国から来る人たちにとっては「同じヒマラヤ山脈」ということになるのだろう)での災害などが、如実に影響を及ぼしてしまうという不安定さがある。

    人気の宿はそれでも込み合っていたりはするものの、それ以外では閑古鳥が鳴いているし、とりわけ内外からのツアー客をまとめて受け入れていたような規模の大きな宿泊施設においては、例年の強気な料金設定とは打って変わって、かなり大胆なディスカウントを提供しているところも少なくないようであった。

    トレッキングに出かけてみても、やはりトレッカーの少なさには驚かされた。おそらくヌブラやパンゴンレイクその他、クルマをチャーターして訪問するような場所でもそんな感じだろう。

    インドにあっては西端にあたるラダックでさえもこのような有様なので、今年はヒマラヤ沿いの他の地域でもかなり厳しいものがあると思われる。