
言うまでもなく、オートリクシャーはインドを代表する乗り物のひとつである。だいぶ前に『オートでGO !』というタイトルで取り上げたことがあるが、この自動三輪によるレースがインドを代表するレース?と言えるかどうかはともかく、業務用車両が爆走するということに、興味を抱く人は少なくないだろう。
このレースは、なかなか広がりを見せているようで、インド国内でいくつかの大会が開催されるようになっている。
RICKSHAW CHALLENGEのサイトにその概要が記されている。直近のレースは、MUMBAI XPRESS 2009だ。7月31日から8月13日までの14日間で、チェンナイ出発後、ヴェロール、バンガロール、マンガロール等を経て、パンジム、アリーバグ等を駆け抜けてムンバイーにゴールインする。
その次がTECH RAID 2009というレースで、こちらは10月16日から同22日までの7日間で、チェンナイからバンガロール、アナンタプルなどを経て、ハイデラーバードに至る。
年内最後のスタートは、CLASSIC RUN 2010という大会。こちらもチェンナイを発ってから、マドゥライ、ラーメーシュワラム等を通過して、カニャークマーリーでゴール。12月29日から1月8日まで11日間の行程だ。
それに続いてMALABAR RAMPAGE 2010は、4月2日から同20日までの19日間という長丁場。スタートもゴールもチェンナイだが、タミルナードゥとケーララの両州をぐるりと一周する形になる。
他にもカスタムメイドのYOUR ADVENTUREという企画も可能だそうだ。
インディア・トゥデイ6月17日号でもこれらのレースのことが取り上げられていたが、かなり外国人の出場もあるようだ。同誌記事中には、『参加者の中には、70歳のカナダ人男性以外にも、英国のAV男優、元ミス・ハンガリー、元俳優の日本人男性も含まれている』と書かれている。
RICKSHAW CHALLENGEのウェブサイトには、エントリーに関する情報も載せられている。腕に自信があれば出場して上位入賞を目指してみてはいかが?
参加するには相応の費用がかかるとはいえ、その部分をクリアできるチームであれば広く参加の道が開かれており、敷居の低い国際レースである。
カテゴリー: column
-
RICKSHAW CHALLENGE
-
悪夢は続く?
スリランカ政府軍に追い詰められたタミル人武装グループLTTEのリーダー、プラバーカラン並びに主要幹部が殺害されたことなどによって同組織は事実上壊滅し、長年続いたスリランカの内戦が終結したことが伝えられたのはつい先月のことだった。
近年、組織が分裂して弱体化したことに加え、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きたことにより、国際社会のスタンスの変化が自らの闘争に与える影響をプラバーカランをはじめとする幹部たちが見極め損なったことが、組織壊滅につながる最大の失策であったといわれる。
しかし国外にも広くネットワークを築いてきており、スリランカ政府の力の及ばないところに在住する活動家も少なくないLTTEは、そう簡単に息の根を止められたわけではなかったようだ。
目下、スリランカ国内での武装組織としての存在は滅亡させられたとはいえ、今度は国外で臨時亡命政府を発足させることを宣言。スリランカ政府にとって、かつてLTTEが実効支配していた地域ならびにタミル人問題への今後の対応を間違えば、悪夢はまだ続くことになるのかもしれない。今後の成り行きに注目したい。
‘New government’ for Tamil Tigers (BBC NEWS South Asia)
देश से बाहर सरकार बनाएगा एलटीटीई (BBC HINDI.com)
Breaking the deadlock through transnational governance (Tamilnet) -
バングラデシュフェスティバル2009開催

東京の代々木公園で、バングラデシュフェスティバルが開催されている。この会場での催し物としてはかなり小振りである。本日6月13日(土)は好天に恵まれたにもかかわらず人出はまばら。
そのため毎年恒例のタイフェスティバルその他のような大賑わいのイベントに付き物の『身動きも取れないような凄まじい混雑』『想像するだけで気が遠くなるような長蛇の列』といった疲労要因は不在だ。
緑あふれるこの時期の代々木公園で、ビールと適当なツマミを手にして、友人や家族とのんびり過ごしたいという向きにはちょうどいいかもしれない。
会期は明日6月14日(日)まで。
※午後8時終了

-
Bollywood Beauties ボリウッドファン待望の一冊

5月30日から日本でも公開されているチャーンドニーチョウク・トゥー・チャイナの劇場パンフを執筆したすぎたカズト氏による編集・発行のボリウッド情報誌、Namaste Bollywood増刊号、ムック・スートラ・シリーズ第2弾として、『Bollywood Beauties』が近々刊行される。
これまで日本で幾度かインド映画が注目された際、俳優・女優のディレクトリの類が発売されているが、『ボリウッドのみ』『女優のみ』限定のものは、おそらく初めてではないかと思う。もちろん内容も最新で、今をときめくスターたち、群を抜く美貌の持ち主たち33名が、ヴィジュアルな誌面で取り上げられている。
それぞれの代表作や最新話題作、撮影ウラ話、プライベートやトリビアな話題も含めて情報満載なのだ。書中の『カレーなるボリウッド対談』にあるとおり、フィーチャーされているのは、主に2000年以降にデビューした女優たちだ。
コアなマニアック本というわけではなく、ボリウッドに関心を抱いた人たちが、『この間見た映画に出てた人誰だっけ?』『あの人は他にどういう映画に出てるのかな?』と、知恵袋的な用法も多々あるのではないかと思う。
『美声の歌姫』という項では、ヒロインの吹き替えを担当する女性プレイバックシンガーたちがフィーチャーされている。魂がとろけるような歌声を聴きながら、その主のプロフィールを読もう。
普段のNamaste Bollywood誌同様、流麗なグラフィックが読者を夢の世界へと誘う。32ページでフルカラー、価格は1,000円。ネット販売されるとのことだが、インド雑貨やその他アジア雑貨等を扱うティラキタでも取り扱い予定とか。この機会に、お手元のボリウッド関係のコレクションにぜひ加えられてはいかがだろう。
ちなみにナマステ・ボリウッドのウェブサイトによれば、通常版の次号vol.19は6月21日発送予定だそうで、こちらも手にする日が待ち遠しい。

今年に入ってから、日本国内でボリウッドやそれに関連する作品の公開が相次いでいる。このペースで上陸が続けば、すっかり日本の映画ファンの間でひとつのジャンルとして定着しそうな気配さえある・・・とは言いすぎかもしれないが、定期的にボリウッド作品を扱う映画館も出てくるのではないか?と期待したくなる。
ひとくちに映画といっても、人々が興味を抱く対象が多様化している中、一定のシェアを築くことは間違いないように私は考えている。娯楽映画にせよ、一部で熱い盛り上がりを見せているボリウッド・ダンスにせよ、それをきっかけに華やかなエンタテインメントの背景にあるインドひいてはその文化や社会などにも興味や関心を抱く人たちが増えてくれば、なお幸いである。
日本で、インドが誇る映画の都の熱い今を伝えるナマステ・ボリウッドの今後ますますの発展を期待したい。 -
掌の中でインドのニュース

iPod touchおよびiPhoneで使うことができるテレビ視聴アプリとやらがあることを知り、さっそく試してみた。
netTVというものだが、世界の200以上のストリーミング配信されているテレビ局の番組を見ることができるとある。


インドのチャンネルは、CNBC Awaaz, CNBC TV18、 CNN IBN、IBN 7、 IBN Lokmatにアクセスできる。IBNLiveで配信されているものが、そのまま入ってくるようだ。パーキスターンのものは、Dawn News、Hadi TV、Quran Urdu TV。

画質や音質はどんなものかといえば、ネット上のストリーム配信特有の滑らかさに欠けるところはあるものの、テロップの文字もちゃんと読むことができるし、この程度の小さな画面に対するものとしては、まあ充分な視認性が確保されているといえる。音については申し分ない。
受信できるインドのプログラムについて、欲を言えばもっとチャンネル数と番組のタイプのバリエーションがあるといいと思うが、どの国のプログラムにしてもそう豊富に提供されているわけではないので仕方ないかもしれない。
インドとパーキスターン以外にも、世界の各主要国の番組に加えて日本のチャンネルもふたつ視聴可能だ。英語放送のNHK WorldとSeebit TV(そんな名前の局はこれまで耳にしたこともなかったが・・・)だ。
著作権法をはじめとする国内法の調整等が必要なことから、ストリーミング配信の進展が遅れている日本だが、やがて海外でもインターネット経由で日本のプログラムにオンタイムで触れることができる時代が、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
実験段階のKeyHoleTV(キーホールTV) iPhoneアプリ版を触りました!
(おすすめiPhoneアプリとiPod touchゲーム-AppBank)
しかしnetTVのおかげで、アゼルバイジャン、ニカラグア、マリその他、これまで訪れたこともない国の番組を眺めることができて、なかなか面白かった。言葉がわからないので、すぐに飽きてしまうのだが。
言うまでもなくWiFi接続環境がなければ受信することができないが、いつもカバンの中に放り込んであるiPodで、様々な国々のテレビ番組を見ることができるのは楽しい。
ストリーミング配信の今後にも期待したい。インターネットに接続できれば、電波と違い地球上のどこからでも受信できる。衛星放送やケーブルテレビでカバーされないスポーツの試合などをパソコンで視聴している人が多いことからも、潜在的に相当な需要があることが想像される。
特別な機器を接続することなく、ネット配信の動画もフツーに視聴できるテレビが、今にどこかから発売されるのではないかと思う。テレビにおいても、私たちの『世界』は確実に小さくなりつつあるようだ。 -
バングラデシュフェスティバル2009
今年も昨年同様、東京の代々木公園でバングラデシュフェスティバルが開催される。料理の出店、歌や音楽などのステージ、観光案内、リユース品の販売などが予定されている。開催日は6月13日(土)および14日(日)で、時間は朝10時から夜8時まで。
『ストップ温暖化』のテーマを掲げるこのイベントでは、各種NGO, NPOも参加して環境問題に関する呼びかけを行なうとのこと。
日本は、ちょうど梅雨に差しかかる時期で、天気の具合が気になるところではあるが、この6月の雨もまた温暖化により集中豪雨が頻発するなど、私たちの身も身をもって考えさせられることが少なくなくなっている。
南アジアのデルタ地帯に位置する国について、海面上昇で深刻な影響が予想されているのはご存知のとおり。この機会にいろいろ考えてみる、何かできることから始めてみるのは決して意味のないことではないだろう。
バングラデシュフェスティバル2009 -
忍び寄るテロの危険?
アメリカ政府による同国市民に対する『インドがテロ攻撃にさらされる高い危険がある』と警戒を呼びかけている。確かに在デリーのアメリカ大使館のサイトも、6月2日付でそうした内容を伝える文章を掲載している。
Recent Warden Messages (駐印アメリカ大使館)
これを受けて、インド中央政府のチダンバラム内務大臣が火消しに回るといった動きがメディアで報じられている。
アメリカ政府が確固たる証拠を得ているのか、それとも他に何か政治的な意図があってこういう情報を流しているのかよくわからない。
昨年11月にムンバイーで起きた大規模なテロのことが脳裏をよぎるが、何も起きることなく平穏に日々が過ぎていくことを願いたい。
US cautions its citizens, India upset (ZEE NEWS.COM)
US issues advisory, MHA assures India safe (Indian Express) -
泰緬鉄道
ミャンマーからバンコクに戻った翌日、旧泰緬鉄道に乗ってみることにした。ご存知のとおり、旧日本軍がビルマ戦線における物資輸送等のため、連合軍捕虜やアジア各地から徴用された人々に大きな犠牲を強いて作らせた鉄路である。
当時のビルマ(現ミャンマー)は、インパール経由でインドに侵入するための、いわばベースキャンプのようなロケーションであったがゆえに、旧日本軍はこの路線の建設を強行させたものである。バンコクから北西に進んでビルマ国境を越え、モールメイン(現モウラミャイン)、マルターバン(現モッタマー)を経て、ヤンゴンへの移動を可能とするものであった。
インド亜大陸に続いてビルマでも鉄道ネットワークを拡大させていたイギリスも統治下にあったビルマからタイへと至るこのルートの構想は抱いていた。しかし土地の起伏が大きく、ジャングルに覆われたこの地域で鉄路の敷設は困難でコストに見合わないとして、これを実行に移すことはなかった。
現在、ミャンマー側ではこの路線は廃線となっている。タイ側は、映画『戦場に架ける橋』のモデルであるとして広く知られるクワイ河鉄橋からしばらく先に進んだナムトーク駅が終点となっている。
思い切り早起きしてタクシーを拾い、ホアランポーン駅へと向かう。土曜日と日曜日にはナムトクまでのツーリスト列車が朝6時半に出ているとのことで、これをアテにしていたのだが、残念なことにすでに満席とのことだ。
再びタクシーに乗り、毎日ナムトクまでのローカル列車が上り下りとも2本ずつ出ているトンブリー駅に行く。出発時間は7時45分とのことで、まだずいぶん時間があるため、駅外に広がるマーケットを物色。ここで朝食用に弁当とスナックを買い、駅のベンチで国鉄労働組合による『民営化反対』というポスターを眺めながら食べる。

週末のためか人が多く混雑しているが、なんとか席を確保することができた。しかし陽が照りつけてくる側の窓際になってしまったので、走り出すなり暑さで消耗する。タイはどこでもそうだが、ヴィックス・インヘラーの安価な類似品をひっきりなしに鼻に当てている人が今多い。確かにクールな刺激で、涼しく感じる効果はあるようだ。
路線は単線だが、そもそも本数がとても少ないので、擦れ違う列車はほとんどない。それでも週末のみのツーリスト列車の運行を最優先にしている(?)のか、特に遅れる理由は見当たらないのに、着く駅ごとに遅れが蓄積していく。

トンブリー駅を出てか市街地を抜けると、水と緑豊かな光景が続く。ときおり町に入るが、やがてまた田畑の続く単調な風景。カンチャナブリーまではこうしたどうということのない眺めが続いた。

途中駅で、バンコクからシンガポールまでマレー半島を縦断して往復する国際列車の車両が停まっており、制服のスタッフらしき人々の姿も見えた。この列車のルート上ではないため、おそらく職員の研修を行なっているのではないだろうか。

カンチャナブリーで大半の乗客が降車。ようやくゆったりと腰掛けることができるようになった。ここからの景色はそれまでとだいぶ様子が変わり、大きな町らしきものはほとんどなく、起伏の多い地形が随所に見られる。

ダイナマイトで爆破したと思われる切通しや崖には、荒々しく掘削した跡も残っており、そういうところに架かる危なっかしい橋梁では、列車は徐行して進む。しかし暑さで感激するココロも緩んでしまっているようで、いまひとつ気が乗らない。


これが遠くビルマまで通じていたころ、モールメインまで何時間かかったのか知らないが、今日トンブリーからナムトークまで7時間かかった。トンブリーに折り返し出発するまでの停車時間に、あたりを多少散歩でもするつもりだったが、駅員によると『かなり遅れたので、今すぐに出ます』とのこと。
その帰りの列車も途中さらに遅れ気味で、蒸し風呂状態の車内で疲れ果ててしまい、カンチャナブリーに着いた時点でリタイヤし、バンコク行きのエアコンバスを捕まえるために、サムローでバスターミナルに向かう。
一部を除いて景色が単調なことに加えて、耐え難いくらい暑い車内には参った。もうちょっと涼しいときにくれば良かったかな?と少々反省である。 -
非喫煙者 でもときどき喫煙
ふと思えば、周囲で喫煙者が減っている。禁煙・分煙化の動きはどこも同じで、国は違えども公共の場で喫煙できる場所はどんどん減っていき、これと歩みを同じくしてタバコを吸う人も減っていった。もちろん自然にこうした流れが出来たわけではない。
非喫煙者による禁煙・分煙化を求める意識の高まりは、タバコの害に関する広範な啓蒙活動の果実であるといえよう。それが市民の紫煙に対するスタンスに変化を生じさせ、行政に対しては、非喫煙者の健康を守るために、様々な対策を取ることを促した。
かつては『禁煙』と表示することにより、そのエリアが限定されたスモークフリー空間となり、非喫煙者が喫煙者に対して『吸わないでくれ』と要求できる根拠ができた。だが時代が下るとともに禁煙指定の場所が拡大し、やがて基本的に公共の場ではタバコを吸うことができなくなり、『喫煙エリア』『喫煙所』と指定された場所でのみ、これが許させるようになった。
その喫煙可能な場所にしてみても、日本では今年4月からJRの駅から取り除かれることとなり、いまや喫煙者に残された『聖域』とは、パチンコのような遊戯施設と酒場くらいのものではないだろうか。
世界的にタバコの価格もずいぶん上がっている。もちろん物価上昇によるものではなく、各国政府が政策的にタバコにかかる増税を実施しているからだ。インドで20本入りパッケージを買うと、日本での一昔前に販売価格と変わらない。市井の人々の収入を考えると、ずいぶんな贅沢かもしれない。
購買力という点から見れば、一箱600円から1000円くらいする欧米に比べてずいぶん安い。日本におけるタバコの値段は300円程度と手頃である。タバコに起因する医療にかかる社会的なコストを勘案したうえで、タバコの価格を大幅に引き上げようという動きは常にあるらしいが、おそらく喫煙者自身とは別のところに強力な抵抗勢力があるようで、なかなか実現しそうにはないようだ。
私自身は『非喫煙者』ということになっている。喫煙者ではない、と言い切れないのは、ときどき吸っているからだ。毎日数本だけ吸うという意味ではない。外に飲みに行ったときに、一箱買って席で吸い、店を出るときに捨てている。また仕事やプライベートな旅行などで、自宅を離れる際も例外的に吸うことを自分自身に許している。その際、自分の生活圏に戻る前にタバコを放棄し、これを日常生活に持ち込まないようにしている。
『また吸い始めたら、やめられなくならないか?』と聞かれることもあるが、案外そうでもないので、『要はケジメなのさ』と答えたりしている。飲み屋や旅行から戻ってから、どうにも吸いたくてたまらなくなることはまずないので、私なりにうまく気持ちを切り替えている・・・と思う。
でもよくよく考えてみると、スパッとやめることができないから、そうした例外規定を設けて、ときどき喫煙しているということにもなるかもしれない。『だから本当はやめてないじゃないか』?と指摘されれば、そうだと認めないわけにはいかない。
前置きが長くなったが、そんなわけで私は非喫煙者の立場と喫煙者の気持ちもわかると思う。喫煙しない日常では、タバコの副流煙は臭くて迷惑だなと思うし、たまに喫煙しているときには、それなりにマナーに気をつけているつもりだ。
たまに喫煙者の視点から眺めてみると、各国の空港も喫煙所スペースが非常に劣悪な環境であったり、そもそもタバコを吸う場所がまったくないところも少なくない。その他交通機関や駅など発着場所においても、こっそり吸っている人はあっても、通常は禁止されている。屋内の飲食店もたいてい禁煙だ。『おお、スモークフリー化が進んだなあ』と感じ入る次第である。これは非喫煙者の視点からはなかなか気が付かない変化だと思う。
そんな中、ネット上でこんな記事が目に付いた。
ここでは堂々と、「喫煙カフェ」盛況 (asahi.com)
『すべて喫煙席』が売りとのことで、他から締め出された肩身の狭い喫煙者たちが、心ゆくまで紫煙を愉しむことができる限られた空間だ。しかし今なお喫煙率が相対的に高い水準にあり、『健康増進法』
における受動喫煙防止の施策も緩い日本
で、喫煙者を囲い込むことがひとつの大きな商機となりえるならば、喫煙者が大手を振ってタバコを吸える『解放区』が、雨後のタケノコのように各地に出現するのではないだろうか。
非喫煙者がそうした場所に足を踏み入れなければ済むこととはいえ、これまで嫌煙権が強化されてきたのに対して、『喫煙権』を保護する形となる。これによって禁煙化の動きが部分的に骨抜きになる可能性もあるのではないかとも思う。『非喫煙者ときどき喫煙』の私はどちらに肩入れするつもりもないのだが。 -
インドの東6 コロニアルな新聞

ミャンマーは、旧英領とはいえ、現在は英語による出版活動が盛んではないうえに、表現の自由に大きな制限があることもあり、最大の都市のヤンゴンであっても、本漁りはあまり期待できない。
ダウンタウン周辺で、いくつかの書店を覗いてみたが、およそ英語で書かれているものといえば、語学学習書と辞書、あるいはコンピュータ関係書籍くらいのものだろうか。
ビルマ語の書籍にしてみたところで、表紙を眺めてみて想像できる限りでは、当たり障りのない小説、学習参考書、実用書くらいしかないように思われる。
そんなわけで、特にここで本を購入するつもりはなかったのだが、各国の大使館が点在するアーロン・ロード地区の一角に、ミャンマー・ブック・センターという店があり、そこの一角にはミャンマーの歴史や社会について書かれた英文の書籍が置かれているということを聞いた。あまり期待していなかったが、ダウンタウンから遠くないこともあり、ちょっと出かけてみることにした。
タクシーで乗り付けてみたコロニアルな建物は、『書店』というよりも、ヤンゴンにおいては異例なほど大きく、かつ洒落たみやげもの屋といった風情である。そのたたずまいを目にしてガックリきたが、とりあえず建物の上階に書籍があるというので、階段を上ってみる。
3階にある書籍コーナーは、インドの鉄道の一等コンパートメントの3倍くらいのスペースしかなかったが、植民地期の出版物の復刻版が多く、なかなか興味深かった。
また独自の社会主義路線を歩み始めたころに、当時政権を担っていた社会主義計画党関係機関が机上で描いた(?)明るい将来を伝えるプロパガンダ書籍なども書棚で見かけた。
そうした中からいくつかの書籍を購入してみた。それらの中で『The Rangoon Times Christmas Number』なる題で、1912年から1925年までの英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス版をまとめたものは、まさにそれを読んでいた人々の息吹を感じさせてくれるようであった。
この時代のラングーン、つまり現在のヤンゴンは、国そのものが英領インドに属していたことのみならず、人口の面からも『インドの街』であった。1912年においては、ビルマ族とカレン族ならびに地元の他の民族を合計した人口が10万3千であったのに対し、インド人18万8千人と、2倍近い数を占めており、マジョリテイがインド人であったのだ。ちなみに他の民族については、中国人2万3千人、イギリス人を含めた欧州人が3500人余り、アングロ・インディアンおよびアングロ・バーミーズが8300人少々、その他アルメニア人とユダヤ人が少々といった具合だ。
さて、この新聞のクリスマス版は、在住のイギリス人社会における出来事や彼らを中心とするビルマの発展と進化について、その年に起きたことを回顧するものとなっている。デルタ地帯の河下り旅行記、行政や教育に関する話題、狩猟やポロにサッカーといったスポーツ、大きな鉄道事故に洪水といった惨事、政府や軍などの式典、イギリス人富裕層の見事な屋敷の写真その他いろんな記事が掲載されている。
この時代の広告を眺めるのもなかなか面白い。この時代は銃の規制などなかったのだろうか、洋服や靴のものと並んで広告が出ている。今も世界各地で親しまれているホーリックスのアドバタイズメントは掲載されているが、当時も同じ味だったのだろうか。イギリス本国はもちろんのこと、インドを本拠地とする商社や銀行なども紙面各所に広告を出している。アサヒビールの宣伝もあり、現地の取扱代理店は、三井物産ラングーン支店と書かれている。


船会社の広告もある。人々が飛行機で移動するようになる前の客船全盛の時代だけに、なかなか興味深い航路がある。ロンドンから地中海、そしてイエメンのアデンを経てコロンボ、さらにはペナン、シンガポール、香港、上海ときて日本にいたる定期便の記述もあるが、どのくらいの時間がかかったのだろうか。
当時のカルカッタ、ボンベイ、カラーチー、マドラス、コロンボ、ラングーンといった地域の主要港から域内を結ぶ便についても書かれている。特に当時のインド西部から今のガルフ諸国の港への便がけっこうあることに加えて、今はほぼ荷物の出入りに限られる港、例えばグジャラートのマンドヴィー、ポールバンダル、あるいは漁港として知られるタミルナードゥのナーガパトナムなどといった港をはじめとする地域の代表的な海港が、当時は外の人々に対する玄関口としての役割を担っていたことを改めて思い起こさせてくれる。

それでも便数は週一便、二週に一便などといった記述が並び、今の主だった国際線・国内線の空港と違い、『主要港』といってもずいぶんのんびりとしたものだったことだろう。
他に購入した本も含めて、いろいろ興味深いことが書かれていたが、また何か機会を見つけて取り上げてみたいと思う。 -
インドの東5 シナゴーグとユダヤ人墓地
ミャンマーでは独立後に教育や行政で用いられる言語におけるビルマ語化を積極的に進めたため、旧英領の割には英語の通用度は著しく低い。英文による出版活動にも非常にさみしいものがあるようで、市中の書店を覗いてみても、新聞や雑誌等に英文のタイトルが付いていても、中身はすべてビルマ語である。
例外的にThe New Light of Myanmarという英字紙が出ているが、ページは少ないし、中身も政府の公式発表ばかりなのでちっとも面白くない。
そんな中で、ヤンゴンのダウンタウンにおいて、特に北インド系の住民が多い地域では、ヒンディー/ウルドゥーを話すことができる人たちが多いだけでなく、そうした人々同士が、これら『父祖のコトバ』で話しているのを耳にする機会は多い。
それでも彼らがこうした言葉で出版活動を行なっているわけではなく、あくまでも日常生活の中での会話でのみ使われているという具合のようだ。独立まもない時代には、インドの各言語、中国語等による新聞なども出ていたそうだが、現在のミャンマーにおいて、これらの言語による出版の自由はない。
幾度かヤンゴンを訪れて散策してみた印象でしかないので確かなものではないが、特にインド系のモスクが存在する地域で、彼ら自身の民族の言葉を使うことができる人の割合が高く、彼ら同士がこれで会話しているのを耳にする頻度が高いように感じられる。もちろんインド系ムスリムとしてのアイデンティティということもあるかと思うが、宗教を通じた言語教育もなされているのではないかと想像される。
そのインド系ムスリム地区の真っ只中にあるのがこのシナゴーグだ。以前も書いたとおり、18世紀初頭から、現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたものの、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降とのことである。
イギリスによる支配とは、つまり当時の英領インドによる軍の遠征と領土の併合であったことから示唆されるとおり、それ以降この地に定住したユダヤ教徒とは、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒がマジョリティを占めるようになり、1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、さらに彼らが勢いを得ることになる。
米、チーク材、綿花などの輸出業をはじめ、この時代に盛んであったアヘン取引はもちろんのこと、軍需にかかわる物資の交易に従事して富を築いた者も多く、行政当局との繋がりが深く利潤の高い取引を通じて、経済的に高い地位を得ることになる。
1937年にインドと分離して英連邦内の自治領となった後、アウンサン率いるビルマ義勇軍とこれに協力した日本軍によるイギリス勢力の駆逐、日本軍がインパール作戦に敗れた後に1945年に連合軍による当時のビルマの奪回、1948年に英連邦を脱して独立国家としてのビルマ連邦の成立といった一連の大きな動きの中で、彼らの多くはインドに戻ることになった。
かつて帝国主義勢力の片棒を担いで繁栄を謳歌していたユダヤ教徒たちにとって、ビルマ人たちが主権を回復しての新生国家は決して居心地の良いものではなかったようだが、彼らのほとんどがこの地を捨てて国外に活路を求めることになった決定的な事件が1962年に起きた軍によるクーデターだ。
ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党による急進的な国粋主義化、とりもなおさずビルマ民族主義化という流れの中で、多民族から成るモザイク国家における総人口の7割近くを占めるビルマ族の民族文化を前面に押し出した政策により、シャン族、カレン族その他の少数民族の不満が高まることになる。
だが主に都市部に集中する外来のユダヤ教徒たちは、もはやイギリスという大きな後ろ盾もなく、存亡の危機を迎えることになった。その結果、今日ヤンゴンに残っているユダヤ人は、わずか8家族に過ぎないとされる。
以前、ヤンゴンのインドなエリア(4)で取り上げたが、2007年にネピドーに遷都されるまでミャンマーの首都であり、今でもこの国最大の都市でもあるヤンゴンには、シナゴーグがある。

以前ここに夕方来たときは、中に誰もいないようで見学することができなかった。今回は昼前にやってくると、通りに面した門は鍵を閉ざしているものの、声をかけてみると世話人らしき者が『何か御用で?』と、やや不審そうな面持ちで出てきた。インド系男性で、この人はヒンディー語を話す。
ヤンゴンのユダヤ人コミュニティのことに関心があり、中を見学したい旨伝えると、『さあどうぞ』と、門を開けてくれた。中の建物は普段は施錠してあり、中に入ることはできないとのことだが、朝10時から正午までの責任者が来ている時間帯のみカギが開けてあるので入ることができるとのことだ。

1854年の建設当初は木造であったが、その後1893年から1896年にかけて、現在のレンガ造りのものに建て替えられたものであり、そのことが建物の礎石にも記されている。
あいにく責任者の男性は席を外しているとのことで会うことはできなかったが、名刺だけもらっておいたが、これがその後訪れたユダヤ人墓地で役に立つことになった。
シナゴーグはインド系ムスリム地区の真っ只中にある。敷地内で雇われている使用人たちはすべてムスリムであり、責任者だけがユダヤ教徒なのだそうだ。パレスチナ問題と合わせて、イスラーム教徒とユダヤ教徒が対立する存在であるように描かれることが多い。
だが、それ以前にはアラビア各地で同じ啓典の民としてそれなりの庇護を与えられ、ムスリムたちと共に繁栄してきたことは広く知られているとおり、ここヤンゴンにおいては同じインド系住民として互助的なつながりのもとに共存してきたことをうかがわせる。
今ではほとんど消滅してしまったのも同様のユダヤ教徒コミュニティと記念碑的に存在しており、定期的な礼拝も行なわれていないというシナゴーグだが、毎年イスラエルやアメリカからユダヤ同胞団体がここを訪れ、施設保守等の目的で相当額の寄付を置いていくのだそうだ。
門を開けてくれた男性に、ユダヤ人墓地の場所を尋ねると、ここからそう遠くないところにあることがわかった。Bo Min Yaung RD.とMyanma Gone Yi St.の間にある91st St.という細い道にあるとのことだ。ここも普段は施錠されているが、昼間ならば墓守がいるから、ここで中に入る許可を得たことを伝えてくれと言う。

タクシーで向かうと、そのエリアはタミル系住民が多く住む地域らしく、それらしい人々の姿や南インド式のヒンドゥー寺院などが目に入る。
『ここがそうだと思う』とタクシー運転手が指差した先には、塀の向こうに茂みが広がるのみ。墓地らしき風情は見当たらず、近くの雑貨屋に入って尋ねると、ちょうどそこで買い物をしていた男性が日本語のできる人だった。
『東京、千葉や茨城に住んで仕事をしていたことがあります。もうずいぶん前に帰国したんですが』
チャーリーと名乗る彼はアングロ・バーミーズで、風貌からしてインド系にも見えるとのことで、東京都内のある有名なインド料理店で働いていたこともあるそうだ。
『すぐ近くですから』と彼は墓地まで案内してくれた。彼は墓地のすぐ隣の古めかしいアパートの5階にて、家族5人で暮らしており、いつも家から墓地を眺めていると言う。
彼の父親が子供のころには、墓地は近所の同年代の子たちの遊び場になっていたそうだが、今では高い塀に囲まれ、入口には門番が常駐するようになり、普段入ることができなくなっているそうだ。
ゲートに着くと、案の定施錠されており、管理人らしき初老のヒンドゥー女性とその関係者(?)らしき複数の人物に声をかけると、入場を断られたものの、さきほどシナゴーグでもらっておいた責任者の名刺を見せると、すんなりと中に入れてくれた。ゲートの外からならば構わないが、中に入ってから写真は撮らないでくれとのことだ。

比較的広い敷地の中には、沢山の墓石がある。中にはいくつか英語も併記されているものもあるが、ほとんどヘブライ語で記されているので、何が書いてあるかわからず、どういう人物がここに埋葬されているのか見当もつかないのは残念である。
墓地の中を散策しながら、チャーリーさんの話を聞いているうちに、どうやら在日ミャンマー人の中に共通の知人がいるらしいことに気がついた。世の中とは案外狭いものであることを実感しながら、しばし世間話をしながら午後の暑い時間帯をのんびり過ごした。 -
インドの東4 バガンの宮殿

昨年1月に落成したという宮殿に行く。もともとバガンにあったものを再建したものだという。木造である。しかしながらあまりに新しいということもあり、映画のセットみたいな感じだった。ここも入場料5ドル。地元の人は500チャットだ。博物館入場料も同様だが、展示物等の内容に比してずいぶん高いな・・・と感じずにはいられない。
旅行に関して、この国のシステムは特殊であるといえる。まず外国人に対して、米ドル現金払いが求められるケースが多いこと。代表的なもの一例としては、以下の事柄が挙げられる。
・ホテルの宿泊費
・メジャーな観光地の入場料
・出国の際の空港税
また両替について、基本的に市中で行なうことになる。銀行などの金融機関や両替商として店を構えたものではなく、一般の商店とりわけ貴金属商、みやげもの屋、ホテルなどで、市中の実勢レートで交換するものである。
ヤンゴン市内のごくごく一部を除き、現地通貨チャットに交換できるのは、米ドル現金のみとなる。国際キャッシュカードで現金を引き出せるATMなど存在しないし、買い物その他の支払いについて、ごく一部の外資系ホテルを除き、クレジットカードやトラベラーズチェックは利用できないため非現実的だ。また5%程度の手数料がかかる。
米ドル現金しか使えないことについては、まずはチャット換算の際のレートについて、公定レートと実勢レートの間にあまりに大きな乖離があることもあるが、アメリカによる経済制裁もその理由として挙げられる。
国際的な金融システムから切り離された形になっているため、普段私たちが旅行の際に利用する金融商品を用いることができないのである。この点については北朝鮮やキューバと事情は共通している。
限られた期間のみ、旅行で訪れる私たちは特にこれでも構わないのだが、例えばこの国から外国に留学しようという場合、とても厄介なことになる。
ミャンマー政府が市民に対して国外への外貨送金を認めていないこと、チャットという通貨が国外で通用しないため、これによる国内での預金が外国でそれ相応の資産と認められない。もちろんミャンマーにも経済的に豊かな層は一部存在するのだが、受け入れ側の国に対して、学生が経済的な支弁能力を立証する術がない。
例えば日本に留学したいという場合、ミャンマー国内在住者による私費での支弁という形はまずあり得ない。支弁する人がミャンマー国外で収入を上げて貯蓄しているのでないと門前払いとなる。
もちろんミャンマーから国外に送金するルートがないわけではない。インドやパーキスターンの闇送金と同じシステムがあるが、『闇で貯め込んだ米ドルをハワーラー送金により学費・生活費を支弁します』などという理屈が通るはずはない。
ミャンマー人が日本で暮らす際、東京のミャンマー大使館に月の収入の10%を『税金として納める』という奇妙な決まりもある。国外で発生した収入に対して、同国政府が課税する権利はないはずなのだが、同国政府の貴重な外貨獲得手段のひとつとなっている。
政府が発行するパスポートの有効期限が2年間と短いこともあり、うっかりしているとすぐに失効してしまう。在留中、もし税金とやらを支払わないと、どういうことになるのかは火を見るより明らかだろう。
ただし留学生についてはこれを免除するということになっていることから、ミャンマー人留学生が来日して学校に通うようになってから、まず最初にしなくてはならないことが、在学証明書を取得して、大使館に提出することである。
かなり脱線してしまったが、話はバガンに戻る。遺跡巡りをしている際、物売りの子供たちがあちこちから出てきて、あれやこれやと売ろうとするのだが、彼らが手にしていた品物の中で、唯一私の興味を引くものがあった。

小説家ジョージ・オーウェルの処女作、BURMESE DAYS(邦題:ビルマの日々)である。
こんなところで売られているものなので、バガンの空港の入域料徴収担当者が販売していたのと同じ海賊版である。イギリス版のPenguin Booksのコピーだが、夕方以降出かけるところもなく、読めそうな印刷物も見当たらないバガンの夜は退屈だ。ガイドブック以外に本や雑誌類を持ってきていない私にとって大変ありがたい。
ジョージ・オーウェルは、1903年に現在のビハール州のモーティハリ生まれのイギリス人。少年時代をイギリスで過ごして教育を受けたが、もともと彼の親族が当時の英領インドに多く暮らしていたこともあってか、長じて彼が赴いた先は当時インドの一部となっていた現在のミャンマー。インド帝国警察のオフィサーとしてしばらく過ごした経験がある。おそらくそこで彼が見聞したことが下敷きになっていると思われるこの小説の舞台は、植民地経営にたずさわる役人や事業家などが暮らす、マンダレーの近くの田舎町。
イギリス人たちのクラブを中心とする狭い社会の中で、そこに出入りする人々、英緬混血児、新天地に移住してきたインド人たち、彼らに様々な形でかかわる地元民たちの人間模様が闊達に描き出されている。植民地における在住イギリス人たちの暮らし、彼らと地元の人々等とのかかわりを考えるうえで興味深い作品のひとつである。
夕方、宿に戻ってシャワーを浴びてからゆっくりとページをめくる。あたりを見回してみると、国が独立したこと、電気が通じた(といっても、自家発電機がなければ、送電は夜間に数時間しかないようだ)ことと、水道が引かれたことを除いては、この小説の舞台となっている1920年代に比べて、ミャンマーの田舎の人々の暮らしのありかたはあまり大きく変わっていないのではないかと思われる。そんなことに妙な臨場感を感じたりもするのははなはだ残念なことであるのだが。
